1.
鐘の音が澄んだ空に吸い込まれていく。
流れる雲の隙間を鳥が渡るように、鐘の音は緑の丘一面に広がっていった。
母の後ろを歩きながら、幼いロザリアは長い髪を束ねているリボンを何度も直していた。
まだプレスクールに通い始めたばかりで、自分ではリボンも結べない。
けれど、いつもと違うリボンは、風に揺れるたびにロザリアの思う方とは逆に流れてくるのだ。
額に触れるリボンの先が煩わしくて、とうとうロザリアは立ち止まった。
「お母様、リボンが…。」
つい強く引っ張り過ぎたのか、髪のリボンがほどけて手の中に広がった。
結び直して欲しい、と母を見たけれど、母は背中を向けているせいか、ロザリアの願いには気がついてくれない。
それに後から後から押し寄せるようにやってくる黒い服の人々に圧倒されて、ロザリアはそれ以上大きな声を出すことができなかった。
仕方なく、ロザリアは手の中のリボンを丸めてスカートのポケットに押し込むと、小走りに母の背中を追いかけた。
「このたびはご愁傷さまでした…。」
「大往生ですわね。もう100を過ぎていらしたのでしょう?」
頭の上を通り過ぎる声にロザリアはきょろきょろとあたりを見渡した。
白薔薇の敷き詰められた大きな祭壇に、微笑む老女の写真。
くっきりと光を宿す青い瞳と年老いても整った顔立ちで、若いころはさぞかし美しい女性だったことがしのばれる。
「大おばあさま…。」
ロザリアは写真をじっと見つめた後、無垢の白木の棺を覗きこんだ。
写真よりも一回り小さな白い顔が手を重ね合わせ横たわっている。
ついこの間まで、ロザリアを膝に抱いて、楽しい話を聞かせてくれていた大おばあさま。
「お前は私によく似ているね。」
そう言いながら、ロザリアの髪を撫でてくれた。
髪の色こそ違うけれど、青い瞳は本当によく似ていたし、優しい大おばあさまがロザリアは大好きだった。
昔話をしてくれる時、「これはあなたと私の秘密よ。」と、必ず言う。
レディになりたい子供にとって、その秘密という言葉は魅力的で。
ロザリアは暇さえあれば、大おばあさまの元に通っていた。
もしかすると、母よりも言葉を交わす時間は多かったかもしれない。
『死』というのもがまだ実感できないロザリアは、老女の身体に触れてみた。
いつものように、優しい声が聞けると思って。
けれど言葉もなく、ひやり、と手に冷たい感触だけが残り、ロザリアはあわてて手を引っ込めた。
再び鐘の音が鳴り響くと、墓標の前での最後の別れが終わった。
参列者達が潮が引くように消えていく。
名家といわれるカタルヘナ家が執り行う葬儀だけあって、規模も大きく、参列者の数も多い。
ロザリアは両親と並び、小さな頭を下げながら足元を過ぎる靴を眺めていた。
退屈で眠ってしまいそうだ。
ようやく最後の靴が遠ざかり、両親は教会へ引き返し始めた。
まだ、最後に神父の話が残っている。
教会のドアの前まで歩いたロザリアは、ポケットに入れておいたリボンがなくなっていることに気がついた。
別になくても困らないが、教会で話を聞くのには、正直飽き飽きしている。
「お母様、リボンを落としてしまいましたの。探してまいりますわ。」
言葉は丁寧に、けれど母の了承を聞く前にロザリアは走りだしていた。
普段なら一人で行動するなどなかなか許されないが、ここが教会の敷地で、さらにカタルヘナ家の領地の中だということもあっただろう。
両親も追いかけてはこない。
開放感で、ロザリアは一気に丘を駆け下りた。
静まり返った墓地は、昼間であってもどこか異世界のように重い空気をしている。
ロザリアはリボンを目で探しながら、大おばあさまの墓標まで歩いて行った。
ひときわ新しい墓標は、すぐに目につく。
ロザリアはその墓標の前に人影がいることに気がついて、思わず近くの木の影に身をひそめた。
柔らかな金の髪を一つに束ねた、まだ未成年のような長身の男性。
驚くほど整った顔立ちをしたその男性の瞳から、すっと流れるように零れおちた雫。
声を上げるわけでもなく、肩を震わせるわけでもなく。
その人はじっと墓標に刻まれた名前を見つめ、ただ涙だけが零れおちている。
黒があまりにも似合っていて、ロザリアはふと、その人が死神なのではないかと思った。
もしかすると、悪魔なのかも、とも。
けれど、その悲しみに満ちた姿に、ロザリアは魅入られてしまった。
目を離すことができない。
彼は抱えていた白薔薇の小さなブーケを、墓標にささげた。
葬儀のためというよりは、結婚式に使われるような丸いブーケだ。
本来ならふさわしくないはずなのに、ロザリアは不思議とそのブーケを非難する気持ちにはなれなかった。
彼と大おばあさまはどういう関係なのだろう。
大おばあさまは芸術に造詣が深く、才能ある若者たちを支援することを惜しまない人物だった。
今、世界で名をあげている多くのクリエーター達にも援助をしてきている。
彼らは奇妙なこだわりを持って、大おばあさまの屋敷を徘徊し、時にはロザリアを驚かせたり楽しませたりもしてくれた。
その中に、この人の姿はなかったような気もする。
けれど、彼の美しい横顔は、舞台俳優だとしても十分過ぎた。
幼いロザリアには心を奪われるということが、わからなかったけれど。
ロザリアが見つめているのに気付かないまま、彼は静かに立ち去って行ったのだった。
「ロザリア。ロザリアったら!」
はっと気がついて顔を上げると、少し唇を尖らせたアンジェリークがロザリアの顔を覗きこんでいる。
「あら、なんのお話だったかしら?」
本当に意識が飛んでいたらしい。アンジェリークの言葉が一つも記憶になかった。
「もう!やっぱり聞いてない!」
ぷうっと頬を膨らませたアンジェリークを、オスカーが引き受ける。
「そんな顔をしたら可愛い顔が台無しだぜ。お嬢ちゃんの話は俺が聞いていたさ。それとも、この俺じゃ不満なのか?」
透き通るようなアイスブルーの瞳に見つめられ、ふくれていた頬を慌てて戻したアンジェリークは、すとん、と椅子に腰を下ろした。
緑が豊かなカフェテラスで過ごすお茶の時間。
もともとはアンジェリークとロザリアがいたところに、偶然オスカーが通りかかり、合流したのだ。
いささか強引なやり方も、オスカーがやれば、少しも嫌味には思われない。
むしろアンジェリークなどは大歓迎で、彼のためにわざわざ椅子を持ってきたほどだ。
それを知っているからこその、強引さなのかもしれないが。
ロザリアはアンジェリークの様子に、微笑みを浮かべながら紅茶を含んだ。
涼やかな風の中、青空の下で飲むお茶は、いく倍にも美味しく感じられる。
やっと空気が落ち着いたところで、アンジェリークのグラスの氷がカランと音を立てた。
「次はロザリアの番!」
びし、っと人差し指をつきつけられて、ロザリアは眉を寄せた。
「お行儀が悪いですわよ?…一体何の番かしら。」
「もう!!!…初恋の話よ!わたしがしたら、ロザリアもするって約束したでしょ? 聞いてなかったとしても約束は約束なんだからね!」
緑の瞳はキラキラと、なにか素敵なものでも見つけたかのように輝いている。
ロザリアは二人に聞こえない程度に口の中でため息をついた。
良家の子女が集まるはずのスモルニイでも、クラスメイトの話題はもっぱら異性のことで。
全く興味の無かったロザリアは、しばしば蚊帳の外にいた。
そのことに不満を感じたことは無かったけれど。
「ありませんわ。」
「へ?!」
素っ頓狂な声を上げて、アンジェリークの動きが止まる。
「初恋なんて、していませんわ。」
「ええ?!」
緑の瞳が面白いくらいまんまるになって、ついロザリアは笑い出してしまった。
「ホントに?! 一回も?! ちょっとでもいいな、って思った人もいないの?!」
「いませんわ。 そうね、ハリーくらいかしら。」
「ほう、お嬢ちゃんにそんな男がいたとはな。そいつはこの俺よりもイイ男なのか?」
足を組みかえるようにして、身を乗り出してきたオスカーの瞳がきらりと光る。
「ええ。とてもわたくしに忠実で。」
「レディへの忠節なら、俺も負けないつもりだが。」
「それにとても頭がよくて。」
「へー!ロザリアって、やっぱり頭のいい人が好きなのね。…まさかルヴァ様とか…。」
微妙な顔をしたアンジェリークにくすっと微笑みかけると、オスカーはつまらなそうにカプチーノをすすっていた。
「とてもフサフサで傍にいると癒されますの。」
「ふーん。・・・・・・フサフサ?!」
アンジェリークが声を上げる。
「ええ。屋敷にいたゴールデンレトリーバーですわ。お父様が狩猟の時に連れていましたの。
とても好きでしたわ。彼のこと。」
ふっとオスカーが笑みを浮かべ、アンジェリークがうなだれた。
「犬なんだ…。」
「ええ。わたくしにもよく懐いていましたの。」
「できたら犬じゃない話しが聞きたいんだけどな…。」
一瞬、ロザリアの脳裏に黒服の青年の姿が浮かんだ。
あれがときめきと言えるのかは、今でもよくわからない。もうあの人の顔も忘れてしまった。
ただ、唯一、惹きつけられたという記憶。
ふくれたアンジェリークに、「ハリーがいけないのでしたら、ポールはどうかしら? とても素敵な山猫で…。」
ロザリアが答えると、「もういいわ!」とアンジェリークがあからさまに肩を落とす。
二人の間で、オスカーが大声で笑った。
「ちょっと!オスカー、こんなとこにいたの? ジュリアスが探してたよ!」
カフェをぐるりと取り囲む生け垣の上から、ひょいと顔をのぞかせたのはオリヴィエだ。
派手なメイクと鮮やかなメッシュの入った髪。
こうしていると、女性か男性かも判然としないあでやかさだ。
「見つかったか。」
オスカーはカプチーノを飲み干すと、立ち上がった。
「悪い奴に見つかったみたいだ。今日のところは失礼するぜ。お嬢ちゃんたち。…今度は二人きりで来たいもんだな。」
ちらっとロザリアを見やったアイスブルーの瞳。
全く気がついた様子の無いロザリアの代わりに、アンジェリークがクスッと笑った。
ようやくカフェから姿を現したオスカーを、オリヴィエが足早に追いかける。
「ちょっと!教えてやったっていうのに、お礼もないわけ? ジュリアス、私のとこまできたんだよ! は~、めんどくさいったら!!」
「それはすまなかったな。」
そっけなくかわされて、オリヴィエは巻いていたストールの羽でオスカーの首筋をくすぐった。
「やめろ。…まったく、お前は馬にでも蹴られちまえ。」
「は?何言ってんの? 私は乗馬なんてしないよ。」
オスカーに並んだオリヴィエは、彼の微妙な表情に気がついた。
いつも完全ポーカーフェイスの男にしては珍しい。
「やだ、マジであんたってば、邪魔されたの怒ってんの?」
「当たり前だ。」
「あーんなお嬢ちゃん達でも、お茶してたら楽しいわけ?あんた、見境なさすぎ。」
「お嬢ちゃんか。」
ふと、オスカーの顔がゆるんで、なにかを思い出すような色が浮かんだ。
「本当だな。まさか、この俺が…。」
くっと喉の奥を絞るような笑い声を出した後、オスカーは急に早足になった。
同じ速度にしなければ、到底ついて行けない早さだ。
けれど、ついていったところで、どうせジュリアスのところだ、と、オリヴィエはその後を追おうとはしなかった。
そして足を止め、さっきのオスカーの顔を思い出してみる。
「なーに。まさかあの子たちに本気になったわけじゃあ、ないよね?」
すでに見えなくなった背中に、オリヴィエはひとりごちた。