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2.


カフェでアンジェリークと別れたロザリアは、残りの午後の時間をどう過ごそうかと考えながら、飛空都市のはずれへと向かって歩いていた。
方向音痴、とまではいかないが、幼いころからどうも道を覚えるのは苦手だ。
子供の頃、広い墓地で迷子になったことを思い出す。
大騒ぎになって、父にこっぴどく叱られた。
温厚な父があれほど怒ったのは、後にも先にもあの一度きり。
あれ以来、どこへ行くにも人がつくようになって、一人で出かけることができなくなってしまった。
もう一度会えるかもしれないと思いながら、近付くこともできなくて。
いつしか埋もれてしまった小さな思い出。



飛空都市の気候は穏やかで、時折耳を過ぎる風の音が心地よい。
上空に浮かんでいるというこの場所は、風の色も透明だ。
よく道を確かめないまま、ロザリアはさっきのアンジェリークの言葉を反芻していた。

「ね、最近、オスカー様、よくいらっしゃると思わない?」
「…そうだったかしら?」
「そうよ!それに、前はわたし達がお茶してるのを見ても、『よう、お嬢ちゃんたち。今日も元気そうだな。』なーんて言って、どっか行っちゃってたじゃない?」
手振りも交えたオスカーの真似が、そっくりで笑える。
「それが、一緒にテーブル囲んだりするし、今日はオリヴィエ様に呼ばれたけど、聖殿までエスコートするって言ったり。
 なーんかね。ホラ。わたしはアレじゃないかと思うのよ。」
「アレ?」
「もう、ロザリアって、本当に鈍感なんだから。」
深い深いため息は、誰に対する同情なのだろう。

確かにこのところ、オスカーとはよく出くわすような気がする。
育成の帰りに聖殿の門の前でばったり会って寮まで送ってもらったり、お茶をの時間になるとどこからともなく現れたり。
オスカーの試験に対する姿勢も最初の頃よりはずっと真剣だと感じるし、意外に奥の深い人物なのだ、とも思う。
ただあの軽薄な態度だけは、どうしても理解できなかった。
時々思わせぶりに瞳を覗きこんできたり、甘い言葉で誘ってきたり。
こちらが真剣に返せば返すほど、からかうようにするりとかわしてみせる。
何を考えてそんなことをするのかと疑問に思ったが、考えてみれば、オスカーという人物は全ての女性に対してそういう態度なのだ。
呼吸をするように自然に、女性が喜ぶ所作が出てくる。

ついおとといも、アンジェリークと二人で会っているところを見てしまった。
道の反対側から歩いてくる二人。
ど真ん中で出会った時、なぜか二人とも少しばつの悪そうな顔をした。
「ごきげんよう。デートですの?」
そう尋ねたロザリアの前で、アンジェリークがちぎれそうなほど首を横に振る。
「違うわ! ちょっとしたお話があって…。ね?オスカー様!」
焦った様子のアンジェリークとは対照的に、オスカーはゆうゆうとロザリアの手をとり、その甲に口づけそうなほど唇を寄せた。
「俺につれない女性をどうしたら振り向かせられるか、と金の髪のお嬢ちゃんに相談していたのさ。
 お嬢ちゃんだったら、その気のない女性にどう接したら、振り向いてもらえると思う?」
上目づかいで見つめるアイスブルーの瞳。
全ての女性が自分に振り向く、と思っているのかもしれないが、それも間違いではないかもしれない。
吸い込まれそうなほど魅力的な瞳だ。

「まあ! 炎の守護聖様でも手を焼く女性がいらっしゃいますのね。
 でも、誠実に向き合えば、心を動かされない女性はいないと思いますわ。守護聖様はもう少し、自分の生活を改められるべきですわね。」
そう答えたロザリアにアンジェリークが渋い顔をしている。
真面目な返答すぎただろうか。それでもロザリアはつんとした態度を崩さなかった。
「たしかに、大変ですね。」
「そうなんだ。」
こそこそ話す二人に首をかしげ、ロザリアは会釈を返すと、さっさと別れてきてしまった。

オスカーの女性好きは間違いない。
たくさんの恋の中から真実の愛を見つけることもあるかもしれない、とは思う。
けれど自分はそういう恋を選ばないだろうという気がしていた。
たった一つでいい。
たった一つ、永遠とも思える恋があれば、それで。
            

どれくらい歩いただろう。
ロザリアは自分が見たこともない場所に来てしまったことに、やっと気がついた。
実のところずいぶん前から寂しい景色になってきたとは思っていたのだが、まさかこの飛空都市で道に迷うなんて、とタカをくくっていたのだ。
それなのに。
一本道を歩いてきたと思っていたこと自体が間違いで、振り向いた先に見える道がもう二つに分かれている。
すでにどちらから来たのかさえも思い出せなかった。
どうしよう、と一瞬考えこんだロザリアは足の向くままに進んでみることにした。
なんといってもここは飛空都市だ。
危険なことがあるとは思えない。
しばらく歩き続けて、道らしい道がなくなったかと思うと、突然視界が開けた。

『飛空都市』
そう呼ばれてはいたけれど、意識したことはなかった。
けれど、今、目の前に広がる景色は、まさに一面の空。
海のように広がる空と、遠くに煙るような白い雲。
この都市が確かに空に浮かんでいるのだと、実感せざるおえなかった。

あまりの景色に声も出ない。
誘われるように木々を抜け、草が覆い尽くす崖の縁へ足を伸ばそうとした時。
ロザリアは少し離れた崖の先に人影を見つけた。
突き上げるような風に金の髪が舞い、ストールがオディールのフェッテのように羽ばたいている。
薄い空色の中に鮮やかに浮かぶ姿。
その人影が夢の守護聖オリヴィエだということに、ロザリアはすぐに気がついた。

声をかけるべきかためらったのは、彼の様子がいつもと違うような気がしたから。
陽気で華やかで、享楽的な考えを常に口にして、女王候補である自分達をからかってばかりいるオリヴィエ。
ロザリアは彼を決して好ましいとは思っていなかった。
気まじめな自分とは相いれないだろう、とも。
けれど今のオリヴィエは。
空をまっすぐに見つめるダークブルーの瞳から、今にも涙が零れおちそうだ。
ロザリアの胸にわずかなさざ波が起きた。
あの瞳には今、一体何が映っているのだろう。
感じたことがないほど鼓動が激しくなると、目の前の景色のすべてが消え、彼だけしか見えなくなる。
ココがどこなのかも。自分が誰なのかも。どうでもよくなってしまうほど。
ロザリアはオリヴィエの横顔に惹きつけられていた。

オリヴィエは少しずつ前へ動いていたらしい。
つま先が崖の縁まで数10cmまで近付いている。
もし、彼が足を踏み外したら。
ひときわ強く崖下から風が吹きあがって、オリヴィエのストールが舞い上がった。
「いけませんわ!」
ロザリアは叫びながら、オリヴィエの背後に飛び出していた。


「ロザリア?」
勢い余って這いつくばってしまったロザリアを、ポカンとしたオリヴィエが見下ろしている。
見つめ合うこと数秒。
先に笑いだしたのはオリヴィエで、いつものようにからかうような笑みを浮かべ、ロザリアに手を差し出した。
「どうしたの?そんなとこで犬のモノマネ?」
「犬…。」
絶句したロザリアはオリヴィエの手を横目に、自力ですっくと立ち上がった。
膝のあたりについた土を優雅に払い服を整え、前に降りていた巻き髪を手で背中へと払う。
そんなロザリアをオリヴィエが楽しそうに見ているのが、なんとなく腹立たしい。

「犬ではありませんわ。猫です。」
悔し紛れにそう言い放つと、オリヴィエは顔を上に向けて大声で笑い出した。
「猫ね。猫だったんだ。そういえば、背中も丸まってたよね。」
爆笑しているオリヴィエをロザリアはじっと睨みつけた。
さっきまであんな顔をしていたのに。
でもなぜかそれは言わない方がいいような気がして、ロザリアはじっと黙ってその場に立っていた。
「あ、ごめん。」
オリヴィエはまだひいひいと息を吐き出しながら、綺麗にネイルをされた指で目じりの涙を拭いている。
それでも、笑ってしまったことに罪悪感を持ったのか、オリヴィエはロザリアに手招きすると、さっきまで自分が立っていた場所へと連れて行った。

「ここからさ、見えるんだ。」
すぐ先は空だ。
高所恐怖症ではないけれど、腰が引けてしまうロザリアの背後をオリヴィエが支えている。
ロザリアは恐る恐る目を空の中へ向けた。
「あ…。」
空の隙間から、小さく見える緑の大地。
勿論住んでいる人間や町が見えるわけではない。
ただ、小さく、小さく、島のようなものが見えるだけだ。
それでも、ロザリアは感動していた。
自分たちの生まれ育った宇宙が、こうして本当に存在しているということに。
「あの中にさ、生きてる人がいっぱいいるんだって、思ったら、ちょっと感動するよね。」
おどけたような言葉の中に影を感じて、ロザリアはちらりと視線を向けた。
ダークブルーの瞳によぎる何かはオリヴィエにとって、とても大切な何かに違いない。
ロザリアはまた、さっきと同じような息苦しさを感じた。
すぐ後ろにいるオリヴィエばかりが気になって、大陸の姿が見えなくなってしまう。


「誰にも言っちゃダメだよ。二人だけの秘密、ね。」
帰り道、オリヴィエにそう念を押された。
言われるまでもなく、誰にも話すつもりなどない。
「あの、オリヴィエ様。また、今度の日の曜日、あそこへ連れて行っていただけませんか?」
「いいけど…。」
さっき行ったばかりのところに?
そんな疑問を感じ取って、ロザリアはうつむいた。
「道がわかりませんの。…今度は目印に小石でも並べて行きますから。」
どうしてもあの景色をもう一度見たかった。
自分が女王になり、愛するだろう世界。

方向音痴だなんて思ったことは無かったし、それがよかったと思ったこともない。
けれど。
「ん。わかんないんじゃしょうがないね。…じゃ、今度の日の曜日。約束だよ。」
「はい、ありがとうございます。」
顔が熱いのは、道の一つも覚えられないと、思われたことへの恥ずかしさだろうか。
それとも。
心に浮かんだ答えを、ロザリアはそっとしまい込んだ。
まだ、それを認めてしまうのには早すぎる。
日の曜日までを、指折り数えてしまうことがわかっていたとしても。



『オリヴィエ。』
呼ばれた気がして飛び起きると、そこはいつものベッドの上だった。
聖地とほとんど同じものが飛空都市にも準備されている。それはベッドの一つも例外ではなく。
このところ見ていなかった、あの頃の夢を見たのは、昼間の出来事のせいだろう。
オリヴィエはベッドから抜け出し、サイドボードからスコッチを取り出した。
強い酒は好みではないが、睡眠薬代わりにはちょうどいい。
一口飲み干せば、焼け付くような熱が喉から臓腑へと落ちていく。
崖の向こうへ行こうと思っていたわけではない。
あの時ほど絶望していたわけでも、助けが欲しかったわけでもない。
なのに、ロザリアにはそう見えたのだろうか。





故郷の凍るような景色に見切りをつけて、主星へ飛び出したのは15の時。
ルックスには自信があった。才能にも希望があった。
なにも無くても、なんとかなると思っていた。
それがたんなる子供の夢だとわかったのは、主星に来てから半年がたったころ。
引受人もいないとバイト探しすら難しく、やっと見つかったと思っても、不要になれば一番に切り捨てられた。
まっとうな生活をしようとすれば、夢は追いかけられない。
生きていくためには、あのけばけばしいネオンの中へ身を沈めるしかないのだろうか。
けれど、そんなことをすれば、夢は遠ざかってしまう。
明日を生きる気力もなく、オリヴィエはぼんやりと人気のない橋の上から川を見下ろしていた。
しばらく流れを見つめた後、ポケットの中にあったコインを取り出して、橋の右へ行くか左へ行くかを占おうとした時、強い風が吹きつけてきた。
手の中のコインが、あおられた拍子で落ちそうになる。
たった数枚しか無い貴重なコイン。
落したくない、と、とっさに欄干の向こうに手を伸ばした。

「ダメよ!」
後ろから女の声がして、オリヴィエの身体は勢いよく後ろに引き倒された。
背中に固い道路がガツンとあたり、あおむけに倒れたが、幸い頭は打たなかったようだ。
オリヴィエの視界に宵の薄闇の空の色がいっぱいに広がった。
「この川は結構流れが速いのよ。死にたいの?」
ひょっこりとオリヴィエの顔を覗きこんできたのは、同じくらいの年の少女。
空の色よりも青い、サファイアのような瞳がじっとオリヴィエを見下ろしている。

「死にたくないし。」
近過ぎる距離にオリヴィエがまばたきを繰り返すと、少女は長い黒髪を揺らして笑った。
「死にたくなかったんだ。ごめんなさい。勘違いだったみたいね。」
オリヴィエはぶすっとして立ち上がった。
見れば少女の身なりは一昔前のようでもどこか上等で、上流階級の娘なのだろうとわかる。
気まぐれでやってみた人助け。簡単な自己満足。
金持ちの考えは大体決まっている。
オリヴィエはそのまま彼女の横を通り過ぎようとした。

「同じ場所で死のうとしている人が私以外にもいたのかと思って驚いたわ。よかった。」
少女の小さな声が耳に入ってきた。
驚いて振り向くと、少女が靴を脱いでいる。
オリヴィエはその脱ぎ捨てられた上等なブーツを手にして、少女の腕を引いた。
力いっぱい引き寄せると、欄干から乗り出していた少女の身体がオリヴィエの胸の中に収まる。
「ダメだよ。この川はさ、結構流れが早いらしいし。死にたいの?」
振り返った少女は青い瞳を潤ませて、小さく笑った。





目を閉じれば、今でもはっきりと思い出せる。
あの時の彼女の冷たい手さえも。

「それにしても、意外と面白いね。」
飛空都市の端から見えた大陸。
あの場所から見えると知った時から、何度も出かけていた。
死にたいと思っていたわけではないし、その下に見えていた大地にたどり着いたとしても、願うものはもう、手に入らないとわかっていたけれど。
風が吹けば、落ちていたかもしれない。
それを遮ったロザリア。
四つん這いになった彼女をついからかったのは、少しの焦りもあった。
あそこにいた自分を誰にも見られたくないと思っていたから。
なのに、怒りだすと思ったロザリアの切り返しがあまりにも鮮やかで、つい笑ってしまった。
なにもかも忘れて、大声で。
気取ってばかりでつまらない少女だと思っていたが、もう少し近付いてみるのも楽しいかもしれない。
いや、近付きたい、と、思っている。
一口の酒で眠れるなんて久しぶりだ。
オリヴィエはスコッチのボトルを元に戻すと、ベッドにごろりと横たわった。


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