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3.


候補寮の朝食は二人が揃ってから。
なのに、いつもならとっくに席についているはずのロザリアの姿が見えない。
アンジェリークは自分の前におかれたパンにかじりついた。
ふわふわの柔らかなパンが口いっぱいに広がって、思わずにんまりと笑みが浮かんでしまう。
「ずっとこうやって食べたかったのよ~!こんなふわふわのパン、家では食べられなかったもん~。
 いつもはロザリアが怖い顔して見張ってるから、お上品にちぎって食べてたけど。」
アンジェリークが目をつぶってパンのもふもふ感を堪能していると。
「誰が怖い顔ですって?」
べしん、と掌を叩かれた。

「ロザリア!」
「遅れてごめんなさい。」
すっと背筋を伸ばし、引かれた椅子に腰を下ろしたロザリアは、ナプキンを膝に置いた。
優雅な仕草で食事をするロザリアは、アンジェリークも見惚れてしまう。
間違いなく、上流階級で生まれ育ったゆえに培われた所作。
「珍しいね、ロザリアのほうが遅いなんて。寝坊?」
ロザリアはぐっと息を飲みこむと、ナプキンで口をぬぐった。
「少し支度に手間取っただけですわ。」
考えると顔が熱くなる。

昨夜は目を閉じても閉じても、勝手に頭の中にオリヴィエの姿が浮かんできて、寝つけなかった。
風に流れる金の髪。遠くを見つめていたダークブルーの瞳。
今まで濃いメイクに隠れていて見ることのできなかった素顔のオリヴィエを、ほんの少し垣間見たような気がした。
そしてその素顔に強烈に惹きつけられている。

「ロザリア?どうしたの?」
アンジェリークに声をかけられてはっとした。
手の中には食べかけのパン。
「な、なんでもありませんわ。」
つい声が上ずったのに、アンジェリークも気づいたようだ。
「なんかあやしい~。」
「なんでもありませんわ!」

遮るようにぴしゃりと言い放つと、アンジェリークも黙るしかない。
ロザリアは良くも悪くもとても頑固だから、こうと決めたら絶対に教えてはくれないだろう。
ブツブツ考えているうちに、ロザリアのほうが先に食事を終えていた。
「おいていきますわよ。」
ドアの手前で振り向いたロザリアにさらっと言われて、アンジェリークは最後のフルーツを飲み込んだ。



日の曜日までの数日がとてつもなく長く感じる。
まだ午前中が過ぎただけだというのに、ロザリアは夢の執務室のことばかりが気になっていた。
育成をお願いする、と言えば、いつでも行けるはずなのに、なぜか行くのは躊躇われてしまう。
そのくせ、オリヴィエが執務室から出てこないかと、意味もなく廊下をうろうろしたりして。
昨日まではどうだっただろう。
オリヴィエのことを自分はまだ、何も知らない。


「よう、お嬢ちゃん。」
ふいに背後からかけられた声にドキッとした。
「なにか気になることでもあるのか? 憂い顔は美しいが、俺の前では笑顔を見せてほしいものだぜ。」
「そんな…。なにもありませんわ。」
眉を寄せたロザリアをオスカーが柔らかく見つめている。
さっきから廊下を行ったり来たりしてたのだから、何もないはずはないのだろうが、プライドの高い彼女にむやみな詮索は禁物だ。
「そうか。…もし、時間があるなら、カフェにでも行かないか? お嬢ちゃんと俺には、まだまだお互いに知らないところが多いだろう?」
オスカーはロザリアの抱えていたノートや本の束を軽く奪い取ると、先に立って歩き始めた。
こうでもしなければ、ロザリアが付き合ってはくれないことは百も承知だ。

「お付き合いいたしますわ。」
控え目に、でもすぐ後ろについてくるロザリアに驚いた。
ノート類を奪ったのだから結局はついてくるしかないのだが、その前に嫌味の10くらいは言われるだろうと覚悟していたのに。
「素直なお嬢ちゃんはかわいいぜ。」
つい出てしまった軽口にロザリアが盛大にしかめ面をした。
さて、せっかくの二人きりの時間をどう過ごすべきか。
追いかけてくるロザリアの気配にオスカーは笑みがこぼれるのを押さえきれなかった。


「たまには俺も紅茶を飲んでみるか。…同じものを。」
いつもならウェイトレスに欠かさず賛美の言葉を贈るのに、今日のオスカーは違うらしい。
オーダーだけをさらりと告げると、すぐにロザリアに向き合った。
あまりにもじっと見つめられて、ロザリアは逆に居心地が悪いくらいだ。
たしかにスマートなオスカーはロザリアを楽しませてくれる。
けれど、こうしてオスカーに付き合う気になったのは、別の下心があったから。

「あの、少しお伺いしたいことがありますの。」
些細なことでも知りたかった。
好きなものや、嫌いなもの。聖地で起きたたわいもない出来事。
ロザリアの知らないオリヴィエ。
「俺もほとんど素顔を見たことがないんだ。寝込みを襲うくらいしかチャンスがないかもしれんな。」
寂しげなダークブルーの瞳は華やかなメイクでさえ隠し切れていなかった。
親しげに見えるオスカーですら見たことがないとしたら、彼にとってメイクは鎧に似ているのかもしれないと思う。
鎧の下に隠れた彼の素顔に、どうしたら近付くことができるだろう。

「オリヴィエ様は聖地にいらっしゃる前は、なにを?」
「いろいろ、としか聞いたことがないな。あまり過去を話したがらないヤツなんだ。…まあ、思いだしたところでどうしようもないことだ。」
オスカーの瞳にもふと影がよぎった。
守護聖は聖地に上がる前に、全てを捨てている。
いずれは女王になる自分にも起こることだが、今まで深く考えたこともなかった。
オリヴィエはどんな人生を過ごしてきたのだろう。
…誰かを愛したことがあったのだろうか。

「…お嬢ちゃんはオリヴィエに興味があるのか?」
さすがに質問攻めにし過ぎてしまったと後悔した。
「オリヴィエ様とはほとんどお話したことがありませんの。女王になるのですから、守護聖全員についてきちんと理解しておかなくてはいけませんでしょう。」
動揺を悟られないように、ロザリアはにっこりと笑顔を浮かべた。
オスカーが眩しげに瞳を細める。
「では、俺のことも、もっと理解してほしいぜ。」


「そろそろ俺のことをオスカーと呼んでくれないか?」
夕刻の庭園は噴水の水音だけがこだまする静かな場所だ。
遊んでいた子供たちも、その親もいつの間にか姿を消している。
オスカーの声が急に艶めいて、瞳に真摯な熱がともった。
彼をよく知る人物ならば、その瞳の奥に隠された苦悩の揺らめきに気づいたかもしれない。
「では、わたくしのこともお嬢ちゃんと呼ぶのは止めてくださいませ。」
もともとオスカーに売られたケンカだとロザリアは思っている。
『お嬢ちゃん』と呼ばれる間は『炎の守護聖様』と呼び返す。
そう宣戦布告して以来、一度も彼の名を呼んだことはない。
「お嬢ちゃんはなかなか頑固だな。」
「そういう炎の守護聖様もですわ。」
見下すようにオスカーを睨みつける青い瞳。ぞくぞくするほど美しい。

「いいのか?…俺が名を呼んだ瞬間、お嬢ちゃんは俺の前で一人の女になるんだぜ。」
「? どういう意味ですの?」
「子供扱いできなくなるが、構わないのか?」
うつむいたままロザリアはじっと何かを堪えているように見える。
彼女が自分の名を呼んだ時、想いをこめて彼女の名を呼ぼう。
初めは驚くかもしれないが、この想いのありかを知ってもらえば、きっとロザリアも心動かされるはずだ。
オスカーは彼女の声が自分の名を紡ぐのを待った。
噴水の水音が急にとまり、辺りが静けさに包まれた時。
ロザリアの青い瞳がカッと燃え上がったかと思うと、急に立ち上がった。
「もう結構ですわ! やっぱり子供扱いなさっているんですのね。 先に失礼させていただきます。炎の守護聖様。」
怒りに震えた声をしつつも、優雅な淑女の礼は忘れない。
置き去りにされたオスカーはロザリアの小さくなっていく背中を苦笑しながら見送った。



カレンダーにバツ印をつけたくなる気持ちがわかる。
ロザリアはカレンダーを見つめながら、大きく深呼吸をした。
待ちに待った日の曜日。
今度は時計とにらめっこを繰り返し、何度も何度も鏡の前を行ったり来たり。
昨夜はなかなか服が決まらなくて、深夜まで悩み続け、実は今もまだ悩んでいる。
オリヴィエのファッションは個性的だ。
その彼と並んで恥ずかしくないセンスでいたい。
普段とは違う自分を見せようと、少しだけ背伸びをした黒のワンピースを選んだ。
派手すぎない程度のアクセサリーも付けてみた。ほんの少しのメイクも。
そのせいだろうか。
時間どおりに現れたオリヴィエはロザリアを見て、目を細めた。

思ったよりもこの間の場所は遠かったらしい。
あっという間に思えた帰り道も、浮足立っていて時間の感覚がわからなかっただけなのか。
庭園を過ぎ、外れの森の方へと二人は進んでいった。
森と言っても、湖のある方とは方角が違う。人の多い場所から離れているせいか、誰ひとりすれ違う人もいなかった。
道も次第に狭くなり、生い茂る木々の影が重なって、足元はどことなく薄暗い。
前を黙々と歩くオリヴィエを見失わないように、ロザリアは彼の後姿を追いかけた。
丈の長い白いシャツと細身のカーキのパンツにさりげなく巻かれたシルクのスカーフ。
派手なメイクは変わっていないけれど、ファッションはずっと男性的だ。
どうしても意識してしまって、ロザリアは会った時から彼を直視できない状態が続いている。
多分話しかけられてもまともな返答はできなかっただろうから、黙って歩く方が無難だ。
歩き続けていると、突然、視界が開けた。


この間よりも雲が薄い。
足元に広がる空に、まるで自分が宙に浮いているような錯覚を覚えてしまう。
遠く向こうの惑星も、今日は海までが輝いて見えた。
「綺麗…。」
やはり言葉が出ない。
緩く編んだ長い青紫の髪が崖下の風に煽られるのを軽く手で押さえ、ロザリアはその圧倒されるような景色を見つめ続けた。

「ね、今日のあんた、いつもよりずっとキレイだよ。私のためにおしゃれしてくれたのかな?」
ふいにオリヴィエに声をかけられた。
言い返すことができなくて、ただカッと頬が染まる。
もし他の誰かとのデートだったら。たしかにあんなに悩むことはなかったかもしれない。
「でもさ。ちょっと寒いでしょ?ここ、風が強いから。」
ふわり、と肩にかけられたストールは、さっきまでオリヴィエの肩に巻かれていたものだ。
「申し訳ありません。」
少しでも大人に見せたくて、肩を出したワンピースは正直肌寒かった。
思わず腕を抱いたロザリアに、気がついてくれたことが嬉しい。
風が吹くたびに、ストールからオリヴィエの香りがして、鼓動が高くなった。

気がつけば、また沈黙が訪れている。
不思議とロザリアはその沈黙が不快ではなかった。
同じものを見ている。それだけで、なにかが繋がっているような気がする。
ただオリヴィエが退屈しているのではないかと気になって、ふと少し離れて立っている彼の方に目を向けた。
普段の彼は饒舌で、沈黙が似合う人ではないから。
オリヴィエはダークブルーの瞳をじっと、大陸に向けていた。
けれど、その瞳に大陸は映っていない。
遠い何か。決して見えることのないものを追いかけているような瞳。
なにかが心の琴線に触れる。
ロザリアは胸がざわざわと不思議に揺らめくのを感じた。


草の上に座り、しばらく話をした。
話題は女王試験や聖地のことばかりだったが、時間はあっという間に過ぎる。
名残惜しいと思いながらも、ロザリアは促されて腰を上げた。
たしかに喉が渇いたし、お腹もすいている。
何か持ってくればよかったと、後悔した。
「よろしければ、次の日曜日もご一緒していただけませんか?」
帰り道、再びそう言ったロザリアに、オリヴィエはクスッと笑った。

「あんた、全然、道、覚えられないんでしょ。ひょっとしてかなりの方向音痴?」
「そ、そんなことありませんわ。ただもう少し確認が必要なだけです。」
「ふーん。」
言ったかと思うとオリヴィエが走り出した。
ロザリアがあっけにとられているうちに、木の影にでも隠れたのか、オリヴィエの姿は全く見えなくなってしまう。
このあたりはまだ木々が生い茂り薄暗い。しかも生き物の気配がまったくないのだ。
静まり返った森は、どちらを向いても同じようにしか見えない。

置き去りにされたのだろうか。
ロザリアは怖くなって、きょろきょろとあたりを見回した。
とりあえず、今、前を向いている方へ進んでみよう。
そう考えて足を踏み出すと、すぐに木の生え方が変わっていて、まっすぐには進めなくなった。
くるりと後ろを振り返っても、そこにはただ木があるだけ。
足跡の付かない乾いた土のせいで、今、通って来たはずのところまでわからない。
木の葉が風でこすれ合う音が、すすり泣きのように聞こえて、怖さが喉元までせりあがってくる。
「オリヴィエ様…。どこですの?」
勘だけで、足を進めること数歩。けれど、不安でその場に立ちすくんでしまった。

「迷子の子猫ちゃん、こっちだよ。」
にやりと笑ったオリヴィエが斜め向こうで手を振っている。
ロザリアは勢いよく走りだすと、オリヴィエに飛びついた。
「オリヴィエ様!」
他に何も言えない様子で胸に飛び込んできたロザリアの背中を、オリヴィエはぽんぽんとあやすように叩いた。
ちょっと悪ふざけが過ぎたかもしれない。
いつも気位が高く強気なロザリアを、ほんの少し困らせてみたいと思っただけなのに。

腕の中で小さくなっているロザリアが落ち着くまで、オリヴィエは黙って、彼女の背中を撫でた。
「ごめん。私が悪かった。」
ようやく落ち着いたロザリアは、自分がオリヴィエに抱きついていることに気がついて、ぎょっと身体を引き剥がし、飛び退った。
「わ、わたくし…。」
顔から火が出そうとはまさにこのことだ。
「方向音痴のせいですわ。 つい間違えたんですの。あの、オリヴィエ様と木を。」
しどろもどろな言葉。
つい面白くて、オリヴィエは大げさに頷いた。

「そうなんだ。私と木を間違えるなんて、相当なうっかりさんだね。 仕方ないから、来週も一緒に来てあげるよ。」
初めに頼まれた時から、断るつもりはなかった。
ロザリアのキラキラとした青い瞳を見ていると、時々辛くはなるけれど、彼女と過ごす時間は、一人よりも楽しかったのだから。
「ありがとうございます。では、来週、もう一度、お願いいたしますわ。」
さっきまでの怖さは、もうどこかへ飛んでいた。
今まで見たこともないような笑顔のロザリアに、オリヴィエも微笑み返していたのだった。


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