4.
それからの日の曜日、二人はそろってあの場所へ出かけた。
もちろん、飲み物と軽食も揃えて。
4度目になった時。
「あんた、ホントに方向音痴だね。一人にしといたら遭難するよ、まったく。」
オリヴィエがため息交じりで手を差し出してくれた。
その手にそっと自分の手を乗せたロザリアは、自分の方向音痴に初めて感謝した。
もし、あの時に「もう一度。」と言わずにいたら。
きっと彼とここまで親しくなることはなかった。
苦手だと思うまま、試験が終わっていただろう。
隣に座るオリヴィエの横顔を見るたびに、ロザリアは不思議な気持ちになってくる。
嬉しさと息苦しさが、同時に訪れる感覚。
複雑に絡み合う感情は今までに感じたことがないものだ。
そして、オリヴィエが自分をどう思っているのかも気になって仕方がない。
今までは自分の正しいと思う道をまっすぐに進んできた。
誰にどう思われようと、構わないと思ってきた。
それなのに。
オリヴィエによく思われたいと思っている自分がいる。
帰り道、ロザリアは、もう来週のことを気にしていた。
来週は会ってくれるだろうか。
「また来週だね。」
候補寮の前で、オリヴィエはそう言って、軽く手を振った。
ロザリアは大きく頷くと、オリヴィエの姿が見えなくなるまで、後ろ姿を見送ったのだった。
その夜、心地よい疲れを感じて、オリヴィエはベッドに寝転び目を閉じた。
日の曜日をロザリアと過ごすのも、もう何度目になっただろう。
飛空都市の外れまでゆっくりと歩き、そこで彼女の持ってきたランチを食べる。
ささやかなピクニックのようなもの。
女王候補とはいえ、女性とこんなふうに穏やかな関わりを持つことは久しぶりだ。
多分、あの時から、一度もなかった。
夕陽が傾くと薄灰の空が、藍に変わる。
異次元にまぎれたように人通りの途切れた橋の上で、しばらく、時が止まったようにオリヴィエも少女も動かなかった。
オリヴィエはしっかりと少女の腕を掴むと、自分の方へと引き寄せた。
引っ張られた勢いで欄干から手を離した少女が道路に崩れ落ちると、張り詰めていた気配が消え、かわりに疲れが押し寄せてきたようだ。
少女は座り込んだままオリヴィエを見上げると、小さくため息をついた。
「はあ、とんだ邪魔が入ったわ。」
「それは悪かったね。」
どうやら少女は死ぬ気で橋を越えようとしたらしい。
バカバカしい会話だと思いながら、オリヴィエはそう返事をした。
金持ちの令嬢の悩みなんて、いずれにせよ、死ぬほどのことではないだろう。
明日の食事にも困っている自分に比べれば。
少女を起こそうと手を差し伸べた時、オリヴィエの腹の虫がぐうっと音を立てた。
女のような顔立ちの割に、背ばかり伸びた身体はまだまだ食べざかりだ。
バイトを首になったせいで、今日はまだ何も食べていない。
ムカつくことの多かった職場だったが、まかないが付いていたことだけは、素直にありがたかったのだ。
「ねえ、あなた、お腹空いてるの?」
少女の問いに、オリヴィエは唇をかんだ。
腹の虫の音が聞かれてしまっていのだから、今さら隠しても無駄なのに、プライドが素直にそれを許さない。
「仕事がないからね。」
つまらなそうに答えれば、少女は急にオリヴィエの手を掴み、その掌をじっと見た。
「この手。針痕がいっぱい。ひょっとしてお針子さんなの?」
「ま、ね。正確にはお針子だった、かな。今朝、お店を首になったから。」
引受人もなく飛び込みで雇われた店では、なにかあるごとにオリヴィエが疑われた。
針一本、糸巻き一つ。無くなるたびにこそこそと影で噂をされたのだ。
綺麗過ぎる顔立ちも、確かな腕も嫉妬の対象にしかならない。
そして今朝。
会計が合わない、と告げられて、いきなり首になった。
なんとなくそんなことまで話してしまったのは、誰かに聞いてほしいと心のどこかで思っていたからかもしれない。
「ちょっと来て。」
オリヴィエの手を掴んだまま、少女は立ち上がり、すたすたと歩き始めた。
引きずられるように、少女の後をついて行く。
曲がりなりにも高級ブティックが立ち並ぶこの通りは、上流階級御用達だ。
確かに少女の着ているドレスは少し古い型ではあるが、上質な生地のものだし、慣れた様子で歩くということは、この辺りに詳しいに違いない。
少女が足を止めたのは、大通りから一歩入った、歴史を感じさせる店構えのオートクチュールだった。
「待って。」
少女は乱れていた髪を撫でつけ、「おかしくない?」とオリヴィエに尋ねた。
上流な店は客を選ぶから、少女の配慮は当たり前だ。
さっきまで道路に座りこんでいたことを考えれば、ドレスの汚れは奇跡的と言ってもいいくらい少ない。
どうみても、御令嬢だ。
オリヴィエが頷くと、ようやく少女はドアを開けた。
「これは、ベイル様。」
奥に座っていた店長らしき初老の男性が立ち上がり、恭しく頭を下げた。
「こんにちは。お久しぶりですわ。シャリエさん。」
少女が淑女の礼を返している。
上流階級にありがちな世辞のやり取りが続いたが、オリヴィエの耳には入ってこなかった。
店の壁一面に吊るされたドレス、スーツ。そして宝飾品。
素晴らしい服の数々にオリヴィエは圧倒され、魅了されていたのだ。
見事なフォーマルドレスに見惚れていると、突然。
「彼をこちらで使って欲しいの。きっと腕は良いと思うわ。」
オリヴィエはギョッとして少女を見つめた。
さっき出会ったばかりの人間に仕事を世話になるつもりはない。
「私は…。」
言いかけたオリヴィエの掌をシャリエが掴んだ。
品定めするように数回裏返してみた後、彼は満足そうに頷いた。
「わかりました。ベイル様のご紹介なら間違いもありませんでしょうから。」
「お願いするわ。…近々またドレスを作る予定なの。その時にはぜひ、彼を指名させていただくわね。」
少女はシャリエに大人びた笑みを浮かべ、オリヴィエをちらりと見た。
「君、名前は?」
シャリエに聞かれ、「オリヴィエです。」と慌てて答えた。
少女にもまだ告げていなかったはずだ。
「では、オリヴィエさん。また。」
「お車はどうなさいますか?」
「少し先で待たせてあるの。見送りは結構ですわ。彼をよろしくお願いします。」
車なんて無いはずだ。
それなのに少女は、二人に軽く一礼すると、シャリエが開けたドアをくぐり、外へ出て行った。
「オリヴィエ君。ちょうど一人、辞めたばかりなんだ。うちは厳しいが、ついてくる気はあるかね?」
「はい。よろしくお願いします。」
オリヴィエにとっても、願ってもないことだった。
もし仕事がなくなれば、即、生活できなくなるところだったのだから。
店は確かに厳しく、毎日が仕事漬けになったせいか、少女のことを気にする時間も次第に減っていった時。
少女が店に現れたのだ。
窓から忍び込んでくる夜の風に、オリヴィエはまどろみから目を覚ました。
もうずっと少女のことを思い出すことなど無かったのに、飛空都市に来てから頻繁に夢に見る。
ロザリアに出会ってから。
ロザリアの青い瞳が、少女と同じだから。
ロザリアに見つめられるたびに、胸が苦しくなる。
とっくに忘れたと思っていた思い出が、今でも心に残っていることをまざまざと思い知らされるのだ。
窓を閉め、再びベッドに転がったオリヴィエの脳裏に、青い瞳が浮かんだ。
ただその瞳が、一体どちらの物なのか。
オリヴィエにもよくわからないまま、意識は再び眠りに落ちていった。
ある日のこと。
寝る前、鏡の前で髪をとかしていたロザリアは、ドアをノックする音で考えを中断させられた。
この叩き方は、アンジェリークだ。
立ち上がり、ドアを開けると、やはりパジャマ姿のアンジェリークがひょっこりと顔をのぞかせている。
「ね、ロザリア。今度の日の曜日、ヒマ?」
日の曜日。ドキン、と胸が高鳴る。
「ごめんなさい。…先約がありますの。」
「そっか。どなたかとデート?」
微妙に答えに詰まってしまった。
デート、と言えるのだろうか。
ただ、あの場所に連れていてもらって、話しをして帰るだけ。
このごろ水筒とランチを持っていくようにはなったが、それ以外のことはなにもない。
もちろん、自分の心は誤魔化せないから、もう引き返せないところまで来てしまっていることはわかっている。
ただ、それは誰にも、アンジェリークにさえも言えない、かすかな想いではあったけれど。
「そうかもしれませんわね。」
曖昧な答えをアンジェリークは不審に思わなかったようだ。
ただ「うーん。」と少し考えるように首をかしげている。
「じゃあ、土の曜日は?」
「土の曜日?」
「うん、視察が終わった後なら、問題無いよね?」
たしかに、視察の後は予定がない。
たまにディアのお茶会があることもあるが、今週は招待されていないし、アンジェリークと一緒に占いの館に行くのも今は気まずいのだ。
「ええ。構いませんわ。」
「よかった!」
心から安心した、という風に胸をなでおろしたアンジェリークが、ロザリアに恥ずかしそうにほほ笑んだ。
「実は、ピクニックにでも行こうって誘われたんだけど、二人きりじゃ恥ずかしいでしょ?
だからロザリアも一緒に行ってくれないかな~って思ってたの!」
「まあ。」
二人きりもなにも、女王候補としていくらでもデートしているではないか。
おそらくロザリアの言いたいことがアンジェリークにも伝わったのだろう。
「だって、試験のためじゃないデートがしたいの。庭園とかお部屋とかじゃなくて、もっといろんなところに行きたいし。」
ようするに、いつもとは違う、ということが言いたいらしい。
頬を赤くしたアンジェリークをロザリアは可愛いと思ってしまった。
「わかりましたわ。…どなたがいらっしゃるの?」
「オスカー様と・・・・ルヴァ様。」
「ルヴァ様ね。」
「だからオスカー様もだって!」
「はいはい、ルヴァ様ね。」
アンジェリークがルヴァに特別な好意を寄せていることをロザリアも気づいている。
おそらくルヴァも同じ気持ちを持っているとは思うのだが、そこは年の功と言うべきか、単なる意気地なしと言うべきか。
あと一歩を踏み出してこないから、本心がわからないのだ。
「二人で行ったらいいじゃないの。」
ついお節介からそう口にしてしまったロザリアに、アンジェリークがぶんぶんと首を振る。
「だめ!…ロザリアが一緒じゃないと、作戦が…。」
「なんですの?」
「とにかくよろしくね!」
バタバタと出ていったアンジェリークに、ロザリアは眉を寄せながらも微笑んでいた。
アンジェリークの恋が成就したら、自分も勇気が出せるかもしれない。
日曜日のピクニックをデートと言えるようになるかもしれない。
ロザリアもドキドキしながら、土の曜日を迎えた。
文句なしの晴天。
候補寮を出た4人は湖に向かって、歩いていた。
アンジェリークに気を使って、わざと遅く歩みを進めるロザリアに付き添うようにしてオスカーも並んでいる。
朝一番に、ロザリアはオスカーに伝えておいたのだ。
「なるべく、二人を一緒にさせてあげるようにお願いしますわ。…お気づきでしょう?」
「ああ。わかってるさ。」
オスカーのウインクに、ロザリアも安心していた。
恋愛に詳しい…というのも妙だが、機微を心得たオスカーなら、二人の邪魔をするようなことはないだろう。
「あ!」
声をあげそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。
アンジェリークの荷物をさりげなく持とうとするルヴァと手が触れたのか、真赤になる二人。
見ていられないほど、甘い雰囲気だ。
ここまでお互いの気持ちが漏れているのに、当の本人たちは気がついていないのだろうか。
「じれったいくらいですわね。」
つい呟いたロザリアにオスカーが笑った。
「意外に本人は気がつかないもんさ。」
「そうかしら?」
「…お嬢ちゃんだって人のことは言えないはずだがな。」
意味ありげに見つめるオスカー。
「そんなこと…。」
否定しようとして、考えこんでしまった。
自分では上手く隠しているつもりだったが、ひょっとして、オリヴィエへの想いを知られてしまっているのかもしれない。
カッと体温が上がった気がして、ロザリアは足を速めた。
急に早足になったロザリアを追いかけたオスカーは、今にもアンジェリークとルヴァを追い越しそうな勢いの彼女の手を掴んだ。
はっと我に返ったように立ち止まったロザリアが、気まずそうにオスカーを振り返る。
なんとか先を行く二人には気づかれなかったらしい。
キラキラした顔でルヴァの話を聞いているアンジェリークに、他のことは見えないのだろう。
「どうした? 気を使えと言ったのは、お嬢ちゃんの方だろう?」
意地悪く笑みを浮かべたオスカーに、返す言葉がない。
それにこのオスカーの様子では、さっきの考えは取り越し苦労にすぎなかったようだ。
慣れない想いは、平常心を奪ってしまう。
ロザリアは自分の頬が赤くなっていることに気がついて、呼吸を整えようと息を深く吸い込んだ。
「あーっ!」
なぜかアンジェリークの大きな声が聞こえて、ロザリアはギョッと顔を向けた。
アンジェリークの緑の瞳がまんまるく見開かれて、なぜかとても嬉しそうに見える。
その隣にいるルヴァも顔が赤い。
「なんですの? なにかありまして?」
大きな声で問いかけても、アンジェリークは笑っているばかりで何も答えてくれない。
イラっとしたロザリアがアンジェリークに近づこうとした時、ルヴァの手が動いた。
荷物を反対の手に持ち替え、アンジェリークの手に触れたのだ。
まんまるの緑の瞳をルヴァに移し替えたアンジェリークの手が、はにかみながらその手に繋がれている。
恋する二人が醸し出す甘い雰囲気。
手をつないだ二人は、もうロザリアとオスカーを見ることもなく、先へと歩いて行ってしまった。
「いい見本になったみたいだな。」
「え?」
恋人たちに見とれていたロザリアは、オスカーの言葉の意味が咄嗟にわからなかった。
ふっと零れた笑みと共に、オスカーが腕を振る。
掴まれたままのロザリアの手。
ぼんやりしていて気がつかなかったが、遠くから見ればまるで手を繋いでいるように見えるだろう。
「お放しくださいませ!」
ロザリアが語気を強めると、オスカーは面白そうに、
「せっかくあっちもその気になってるんだ。ここでもう少し盛り上げてやるのが、友情ってヤツじゃないのか。」と、離す気配がない。
そのまま、ぐいっと前へ手を引かれてしまった。
「ほら、見てるぞ。」
たしかにルヴァが振りかえって、こっちを気にしている。
アンジェリークと繋いだ手がそわそわと落ち着かないようだ。
もしロザリア達を見て、勇気を出したのだとしたら。
「…掴むだけですわよ。」
ロザリアの呟きを聞いたオスカーは、彼女の細い手首を握り直した。
伝わってくる鼓動の早さは、ロザリアのものだろうか。それとも自分だろうか。
オスカーはゆっくりと彼女の手を引いて、アンジェリークたちのあとを追いかけた。