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5.


湖に近づくと、急に風が涼しくなる。
滝の水音が柔らかく耳を撫で、感覚から身体を冷やしてくれるようだ。
長い距離を歩いてきたせいでほてった体に、その涼やかな風は心地よい。
オスカーに手を引かれたまま、湖にたどり着いたロザリアは、先に着いた二人の向こうにいる人影に気づいて足を止めた。
ルヴァの肩越しにのぞく鮮やかなピンクのメッシュとすらりとした姿。聞きなれた声。
こんなにも会いたいと思っていたことに、少しの戸惑いを感じながらも、つい心が躍ってしまう。
思わず、駆け寄ろうとした瞬間。

「あ~、遅かったですねぇ。私たちの方が早いなんて珍しいですよ~。」
ルヴァの声と同時に、オリヴィエがこちらに目を向けた。
一瞬視線が絡み合い、ロザリアの胸が高鳴る。
いつものようにダークブルーの瞳を細め、優しく微笑みかけてくれるはず。
そう思ったロザリアは頬を染めながら、オリヴィエに微笑みかけた。
なのにオリヴィエはすぐに視線をルヴァに戻し、ロザリアに声をかけることもない。
むしろ不愉快そうに美しい眉をひそめた。
なぜ、とロザリアが息苦しさを覚えたのも束の間。

「オリヴィエ。一人なのか?」
オスカーの声。そして、手首にグッと込められた力。
振りほどこうとしても容易に外れないほど、オスカーはロザリアの手首を握りしめている。

足の止まったロザリアの手を引き、オスカーはオリヴィエに近付いていった。
オリヴィエを見た瞬間、明らかにロザリアの空気が変わった。
薔薇色に染まった頬と輝いた青い瞳は、まるで春を知ったばかりの花の精のよう。
甘い香りにオスカーでさえ引き寄せられるような。
そしてオリヴィエも違っていた。
ロザリアに見せた優しい瞳は、今までオスカーの見たことのない色をしていた。
どこか冷めた男だと思っていたオリヴィエの心が動いたとすれば、その理由は。
信じがたいが、オスカーの心の奥が警鐘を鳴らしている。

「俺たちはデート中だ。Wデートだなんて、とんだお子様だがな。」
掴んだ手を見せつけるように持ち上げると、ロザリアの顔が歪んだ。
オリヴィエを見つめる切ない瞳。
一瞬の間の後、
「ふうん。仲良さそうでいいんじゃない? ま、邪魔しないようにするよ。」
肩をすくめて、すたすたと歩いていくオリヴィエの背中が、見る見るうちに小さくなっていく。
らしくない。
いつものオリヴィエなら、軽口の一つも叩いて、この後を一緒に過ごしてもおかしくないのに。
ダークブルーの瞳に浮かんだ感情は、明らかな負の色。
まさか、とオスカーは逃げようとするロザリアの手をさらに強く握りしめた。
痛みを感じたのか、ロザリアが唇を噛んでいる。


「ね、どうかしたの? オリヴィエ様、一緒にお弁当食べるって言ってたのに、帰っちゃったの?」
少し離れたところでお弁当の準備をしていたアンジェリークが駆け寄ってきた。
全てが見えてはいなかったけれど、なにかただならない空気だったような気がする。
実際、ロザリアの様子がおかしい。
オスカーがふと力を緩めると、ロザリアは振り払うように手を離し、木々の奥へと走っていった。

「オスカー様、どうしたんですか? ロザリア、様子が変ですよ。」
「ああ…。」
はっきりしないオスカーを睨みつけ、アンジェリークはロザリアを追って森へ入った。
向こうで二人の話し声がしているが、滝の音のせいで、はっきりとは聞き取れない。
オスカーはまだロザリアのぬくもりが残る掌を見つめ、握りしめた。
気づかないうちに、ロザリアはオリヴィエに想いを寄せていたのだ。
自分ではなく、彼に。
感じたことのない、どす黒い感情が津波のように押し寄せてくる。
「オスカー? どうかしましたか~?」
怪訝そうなルヴァの声にはっと我に返ったが、上手くかわす言葉を出すことすらできなかった。

やがて木立から出てきたアンジェリークがお弁当をルヴァに手渡して、頭を下げている。
「ごめんなさい。ロザリア、気分が悪くなったみたいで、わたし、一緒に帰ります。
 お弁当はお渡ししますから、お二人で食べてください。」
「ああ~、アンジェリーク。私も帰りますよ~。もしロザリアが歩けなくなったりしたら、あなた一人では困るでしょう?
 私のような者でもいれば、助けを呼んだりできますからね~。」
「ルヴァ様…。ありがとうございます!」

アンジェリークがオスカーをちらりと見た。
二人で考えた、それぞれのお目当ての相手と親しくなるためのピクニック。
アンジェリークはちょっぴり進展があったが、オスカーはどうだったのだろう。
少し暗いアイスブルーの瞳の理由を、今は聞いている余裕がない。
うつむきがちにロザリアが歩き出すと、アンジェリークとルヴァがそのそばに付き添った。
見失わない程度の後ろから、オスカーも付いていく。
空までが曇りがちになり、空気が重い。
オスカーはロザリアの背中をじっと追いかけていた。



候補寮に着くと、すぐにロザリアはベッドに横になった。
目を閉じてはみたものの、オリヴィエの顔が浮かんできて、涙が出そうだ。
オスカーと手を繋いでいたと思われてしまった。
一瞬不快そうにして、すぐにいつも通りの顔をしたオリヴィエ。
誰にでも愛想のいい女だと軽蔑されたかもしれない。…嫌われてしまったかもしれない。
本当に気分が悪くてめまいがする。
明日の日の曜日、どんな顔をして会えばいいのかも分からない。
それよりも、会いに来てさえもくれなかったら。
考えれば考えるほど、苦しくて胸が張り裂けそうだ。
夕食の時間になってもダイニングに現れないロザリアを心配してアンジェリークが訪ねてきた。

「ね、ロザリア、隠さないでね。…オリヴィエ様が好きなの?」
全てを見ていたわけではないけれど、アンジェリークも考えていた。
オリヴィエが現れて、あの場の空気が変わったこと。オスカーの不審な態度。
普段のオスカーなら、あんなふうに手を繋いでいることを見せつけたりしないし、オリヴィエの方から突っ込むように軽口を叩いたりするはずだ。
二人の関係は、そういうもののように見えていた。
けれど、アンジェリークはオスカーの想いを知っている。
もしオリヴィエをライバルだと思ったとしたら。
オスカーの態度も納得できる。

「好き…ですわ。 好きになってしまいましたの。」
もう隠すことはできない。
オリヴィエに誤解されたと思った時のあの気持ちを、恋以外の言葉で説明できるはずがない。
「そうなんだ…。ロザリアがオリヴィエ様と親しくしてたなんて全然知らなかったわ。いつの間にそんなことになってたの?」
「それは…。」

あの場所での出来事はたとえアンジェリークにも教えたくなかった。
二人だけの秘密。
オリヴィエもそう言っていた。
「オリヴィエ様の心の中をほんの少し、覗いたような気がしましたの。華やかで美しいのに、どこか寂しそうでしたわ。
 わたくしが満たしてあげたいだなんて、おこがましいとはわかっていますけれど、そばにいたいんですの。」

アンジェリークの目に映るオリヴィエは、いつも享楽的で華やかな守護聖だった。
寂しさを感じたことなど一度もない。
けれど彼のなにかが、ロザリアをこんなにも惹きつけているのだ。
本当に恋は不思議。
アンジェリークはロザリアの両手をそっと包み込むように握りしめた。

「わたしの理想はランディ様みたいな人だったの。」
「え?!」
唐突なアンジェリークの話しに面喰らう。
「だって、ランディ様って、明るくて、優しくて、話しやすくて、素敵な先輩みたいな方じゃない?」
「そうね。」
「でもね~。」
ペロッと舌を出してアンジェリークが笑った。
「なんだかルヴァ様ばっかり気になっちゃうの。どこにいても、なにしてても。わたし、ルヴァ様が好きなんだわ。」
「知ってるわよ。」
「だから、ロザリアがオリヴィエ様を好きだとしても、全然不思議じゃない。…わたしには見えないなにかがロザリアには見えるのね。」
励まされているのだ、と、ようやくわかった。

恋をしていると認めることが不安だった。
毎週の日の曜日に会っていても、自分はオリヴィエのことを何も知らない。
なのに好きになることがあるのかと、ずっと思っていた。…だからこそ、アンジェリークにも言えなくて。
「ありがとう。アンジェ。」
心からの笑顔でアンジェリークに微笑みかけた。
「でもよかった!」
「なにがかしら?」
「もし、ロザリアもルヴァ様を好きになっちゃったりしたら、わたし、自信ないもの~~。
 そーんな可愛い笑顔で見られたら、わたしだってドキッとしちゃうんだから!」
「そんな心配はなくてよ。ルヴァ様は、とてもいい方だとは思うけど。」
「オリヴィエ様って、ちょっと変わってない?」
「変わってますわね。たしかに。でも、それを言うならルヴァ様もですわ。」
同時に笑いだして、そのまま涙が出るまで笑い転げた。


お休みの言葉を告げて、部屋に戻ったアンジェリークはイチゴのクッションを抱え込んでため息をついた。
お互いに応援し合うというオスカーとの約束はもう守れない。
親友として、ロザリアに想いを叶えてもらいたいのだから。
「なんて言おうかな~。」
今日の雰囲気でロザリアの気持ちはわかってしまっただろう。
オスカーはなんといっても聖地一のプレイボーイ。
恋愛の機微については、アンジェリークなんかよりもずっと聡いはずだ。
オスカーなら、そこで諦めるかもしれない。
でも。
ロザリアのことを話すオスカーは、どこか真摯な気がしていたのも本当だ。

「どうしよう~~。」
ルヴァに相談したいところだが、恋愛に関しては全く疎い彼では、相談にならないだろう。
かえって無駄に悩ませるコトになってしまう。
考えても答えが出ない難問に早々に見切りをつけたアンジェリークは、明日、ルヴァのところに持っていく本をそろえ始めたのだった。


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