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6.


ロザリアとアンジェリークが話していた頃。
オリヴィエは久しぶりに酒を飲んでいた。
封を切ったまま、ほとんど減っていなかったスコッチはとっくに空になり、テーブルの下に転がっている。
いっそ何もかも忘れるほど酔えたなら。
新しく開けようと手にしたスピリッツのボトルにオリヴィエは手を止めた。
サファイアブルーのボトルは、彼女の瞳と同じ。
「偶然?」
ボトルを手にしたまま、オリヴィエはソファにあおむけに寝転がった。
シャンデリアの光に揺れる、ブルー。
この色を見た時、真っ先に浮かんだのは、ロザリアの顔だった。

嫉妬。
ロザリアが湖に現れた時、彼女の手を掴んでいたオスカーに湧いた醜いほどの感情。
彼女は自分のモノだと、オスカーに言ってやりたくなったのを、ぐっとこらえたのは、そこにルヴァとアンジェリークがいたからだ。
自分に気がついて、慌てた様子のロザリアは、どう思っていたのだろう。
声をかけることもできなかった自分の醜さに呆れ、恐れただろうか。
嫌われたかもしれない、と思うだけで喉元に何かがせり上がってくる。
あの場所に一緒に行くたびに、ロザリアの清らかさに惹かれていた。
気位が高く、高飛車な態度で他人を寄せつけようとしないくせに、純粋で、疑うことを知らない。
女王候補としての姿と、一人の少女としての姿がまるで別人のように見えるのは、どちらも同じくらい真実だからだ。
いつの間にかそのどちらをも、愛おしく思っている。
認めたくなかったのは、ただ。
ロザリアがどことなく似ているせいだ。…リアーヌに。





お針子として働いていたオリヴィエの店に、少女が現れたのは、それから3カ月ほど後のことだった。
シャリエにそれとなく聞いてみても、少女のことはほとんど教えてもらえなかった。
名前はリアーヌ。ベイル男爵家の一人娘。
少し前まではお得意様だったこと。
目が回るほどの忙しさのせいもあったけれど、シャリエは職人として、顧客のことをベラベラ語るような人物ではなかった。
お針子の仲間に聞いてみても、リアーヌのことを知る者はほとんどいない。
もう少し上の職人に聞けばわかったかもしれないが、とにかくそんな時間はない。
仕事とアパートを往復するだけの日々が続いていた。

「いらっしゃいませ。」
カラン、とドアのベルが鳴った。
お針子部屋にも来客のベルは聞こえるが、どんな客が来たのかは一切わからない。
仮縫いや針合わせの時に呼ばれるくらいしか、客との接点がないのが、この仕事だ。
オリヴィエも一心に針を動かしていた。
シャリエの店は大店ではないが、ファッションというものを理解している上質の客ばかりだ。
シーズンごとに何十着ものドレスをオーダーする家をいくつも抱えている。
今までの店とは違う充実感がオリヴィエには誇らしく、真剣に仕事をしていた。
「オリヴィエ、お客様だ。」
珍しくシャリエが直々に呼びにきた。
なにごとか、と仕事道具を手に慌ててフロアへ降ると、そこに、彼女がいたのだ。

「オリヴィエ、まじめにやってる?」
少し古い型のドレス。この間もそう思ったが、今ははっきりといえる。
この店で、この型のドレスを今注文する客は少数だ。
「はい、紹介していただいてありがとうございました。」
出会いはどうあれ今は客と店員。そつの無い返事を返したオリヴィエにリアーヌは微笑んだ。
「本当にオリヴィエは良く働いています。朝一番から遅くまでここにいては、デザインの練習もしていますよ。目を見張るセンスがあります。」
シャリエも同意してくれたので、オリヴィエは驚いた。
見られていないと思っていたのに、デザインをしていることまで知っていたのだ。
ぎゅっと拳を握りしめたオリヴィエにシャリエがポンと肩を叩いた。

「今日は新しいドレスを作りに来ましたの。茶会にふさわしいドレスをお願いするわ。」
令嬢らしい鷹揚さでリアーヌが言った。
「では、このオリヴィエのドレスはいかがですか?お嬢様もお知り合いであれば、心安いでしょう。」
「そうね。」
リアーヌはオリヴィエをちらりと見ると、頷いた。
「シャリエさんのお勧めなら、間違いないでしょう。彼でお願いするわ。」
「はい。」
いつの間にか決まっていく流れに、オリヴィエは半ば茫然としていた。
自分が彼女のドレスを作る。
お針子として仕上げたことは何着もあるが、デザインから起こすのは本当に初めてだ。
「練習の通り、やってみなさい。」
シャリエを見ると、その言葉が気まぐれではないとわかった。
彼はオリヴィエを信じて、仕事を任せてくれたのだ。

それからオリヴィエはリアーヌのドレス作りにかかりきりになった。
けれど、通常の仕事もゼロになったわけではなく、作業は深夜までかかる。
身体は疲れたが、どこか心地よいのは、やりたいことができているから。
リアーヌもデザインの確認や針合わせなどで店に通うようになった。
言葉を交わすうちに、想い合うようになったのはむしろ自然な成り行きだったのかもしれない。

「ねえ、リアーヌは何の花が好き?」
「薔薇!とくに白薔薇が好き。もしかして、プレゼントしてくれるの?」
「薔薇なんて買えるわけないでしょ。は~、今週はパンしか食べられないよ。」
「ふふ。私もだわ。オリヴィエ。」
ドレスが出来上がる頃、二人は互いを名前で呼び合うようになっていた。

「よくできているね。」
シャリエに褒められて自信をもったオリヴィエは、リアーヌの目の前にドレスを広げた。
彼女の青い瞳と黒髪が引き立つような白のドレス。
ふんわりした袖が少女らしく愛らしい。そして花びらのように幾重にも布を重ねたスカートは、まるで薔薇のように見えた。

「綺麗だわ。」
胸元を飾る小さなリボンに触れながらリアーヌが感嘆のため息を漏らした。
オリヴィエの想いの詰まったドレス。
「あんたのために作ったんだ。」
新しいドレスを身にまとったリアーヌは天使のように愛らしかった。
思わず抱きしめて、口づける。
誰もいない試着室は二人きりで会える、わずかな空間だ。
その一秒を惜しむように、二人は唇を重ね合った。

「本当にいい出来だった。リアーヌ様の美しさをよく引き出していたよ。きっとすぐにまた注文が入るね。」
満足そうなシャリエに、オリヴィエも嬉しかった。
きちんと仕事で認められたのだ。
「でも、すぐに注文が入るとは思えませんが…。ベイル家はあまり裕福ではないと聞いています。」
リアーヌから聞いた話では、ベイル家が裕福だったのは祖父の代まで。
祖父が生きていた頃は、羽振りも良く、この店にも季節ごとにオーダーを入れていたが、今はそんな余裕はないらしい。
それどころか十年も前のドレスを交互に着て、なんとか母と二人で過ごしているというのだ。
古臭いドレスなのも当然だった。
シャリエはそれには答えず微笑んだ後、オリヴィエに新しいドレスの注文を託してくれた。
「今度は素敵なマダムのドレスだよ。いい経験になる。」
大きく頷いたオリヴィエは、仕事に没頭していった。


相変わらず仕事は忙しかったが、時々は休む余裕もできた。
夕方、リアーヌと待ち合わせて話をしたり、お茶を飲んだり。
夕陽に隠れるように口づけを交わした。

「好きよ。オリヴィエ。あなただけ。」
青い瞳にオレンジの光が輝く。
口づけの前、彼女は必ずそう言った。
「私もだよ。リアーヌだけ。」
だからオリヴィエも必ずそう答えた。

いつか店を持ちたい。そう願って、故郷を飛び出したけれど、今はもっと大きな目標がある。
店を持って、リアーヌと。
男爵家の一人娘である彼女と結ばれることは困難だろう。
けれど不可能ではないはずだ。シャリエほどの店のオーナーになれれば、世間の目も違う。
唇を重ねるだけの口づけが、深いものに変わった頃。
リアーヌが再び店を訪れた。


「ドレスをお願いしたいんです。」
リアーヌの青い瞳がいつになく陰っているように見えた。
サロンにいる二人にお茶をサーブしながら、オリヴィエはリアーヌを見た。
店の外で会っていることをシャリエは知らない。
勿論二人が特別な関係だなんて思ってもいないだろう。
テーブルにカップを置き、シュガーポットをトレーから移そうとした時、シャリエの口が開いた。

「おめでとうございます。ご結婚がお決まりになったんですね。私どもも精いっぱいのご用意をさせていただきます。…オリヴィエでよろしいですか?」

ごろり、と鈍い音がした。
オリヴィエの手からシュガーポットが転がり落ち、緋色の絨毯に砂糖の粒が広がる。
さらさらと零れる砂の城。
オリヴィエは拾い集めることも忘れて、茫然と立ちすくんだ。
「ええ…。数点、お願いしたいの。向こうから、恥ずかしくない支度を、と言われていますから。」
「かしこまりました。本当におめでたいことです。」
「ありがとう。」

リアーヌの声に、オリヴィエは足元にしゃがみこんだ。
零れた砂糖を手ですくおうとして、その意味のない動作に気づく。
手でなど取れるはずがない。
自分のばかばかしさにあきれた。手に入るはずのないものを、手に入れられると思っていたことに。
それでもなんとか手で取れるだけ取って、トレーに集めていると、リアーヌが立ち上がった。
「今日は失礼しますわ。」
うずくまるオリヴィエの背中に、リアーヌの瞳が揺れる。
シャリエは彼女の手をとると、店の外まで、見送りに出ていった。

しばらくぼんやりとしていたオリヴィエの目の前に影が落ちる。
小さな箒と塵取りを持ち、砂糖を集め始めたのはシャリエだった。
「ご存じだったんですね。」
今日に限って、お茶のサーブにオリヴィエを呼びだした。
「この仕事をしていれば、社交界の噂はいやでも耳に入る。リアーヌ様が嫁がれる先は大貴族だ。
 お人柄なら私も知っているが、とてもまじめで立派な人物だよ。…心配することはない。それが貴族の幸せだ。」

幸せ。
リアーヌの瞳は本当に幸せだっただろうか?
「今日はもう帰りなさい。明日から、リアーヌ様のドレスを作ってもらうよ。」
シャリエの優しさが胸に痛い。
彼は知っていて、何も言わなかったのだ。
お茶の片付けを終わらせたオリヴィエは、静かに店を出た。


眩しいほどに目を刺す夕焼け。
彼女と出会ったのも、こんなオレンジ色の光の中だった。
いつもの待ち合わせ場所に、リアーヌが立っている。
引き返そうか迷って、オリヴィエはそのまま通り過ぎようとした。
話をしたいと思いながら、話したくないとも思う。
黙って通り過ぎようとしたオリヴィエをリアーヌの腕が引きとめた。

「待って。」
「…わかってる。あんたは結婚するんだろう? もう会わないよ。」
振りほどこうとすれば、彼女の腕など簡単に振りほどける。
けれど、リアーヌの手の暖かさを離したくなくて、そのままにしていた。

「私、オリヴィエが好き。未来はあげられないわ。でも、今は。」
リアーヌの青い瞳にオレンジ色の夕陽が弾く。
凛とした彼女の決意がその瞳に映っている気がした。
「今、この時だけは、あなたにあげられるわ。」
物らしい物もほとんどない狭いアパートメントで、オリヴィエはリアーヌを抱きしめた。
今、この時だけは。
深い口づけから、甘い吐息へ。
二人は結ばれた時から、別れが待っていた。


「祖父の代から決まっていたの。娘と息子にはもう許婚がいるから、その子供。つまり孫の代で婚姻を結ぶ約束。」
貴族同士の婚姻は家同士の結びつきだ。
祖父同士が親しくしていた関係で、リアーヌには生まれた時から結婚が決まっていた。
「でも、うちはおじい様がなくなって、正直没落してしまったから、もうこの話は無くなったと思っていたの。
 私と結婚するメリットが、あちらには全くないもの。」
けれど、あのオリヴィエとリアーヌが初めて会った日。
向こうの家から正式に使者が来て、婚姻の約束が交わされた。
「死んでみようかと思ったの。見たこともない、10も年上の人と結婚するなんて、イヤだったから。」
明るく言いながら、リアーヌはオリヴィエにしがみついてきた。
素肌が触れ合い、お互いの暖かさが伝わる。
一枚きりしかない薄い毛布の中で、二人は生まれたままの姿で寄り添っていた。

「あなたに会って、人助けして、少しいいことをした気もしたし、死ぬのは明日でもいいかなって思ったの。
 でも、家に帰って、お母様を見たら、できなくなっちゃった。
 すごく嬉しそうだったの。これであなたはお金の心配をしなくていいのね。よかった、って。」
ぶるっと身体を震わせたリアーヌを抱きしめる。
「お母様、苦労しているの。持っていた宝石もみんな売ってしまったし。
 お父様はいい人だけど、お金のことは全然なんだもの。…私が結婚したら、向こうの家から援助が受けられるわ。」
「だから、我慢して結婚するの?」
もう少し待ってくれれば、自分だって、大きな店を持って、彼女の両親ごと世話ができるかもしれない。
オリヴィエの言いたいことがわかったのだろう。
リアーヌは大きく首を振った。

「違うわ。私が決めたの。我慢なんかじゃないわ。 
 この家に生まれたことが、私の運命なら、全てを受け入れて、そこで幸せになるの。」
リアーヌの心はきっと変わらない。
オリヴィエへの想いを抱えていても、彼女は運命を受け入れている。
それもまた強さだ。
そのひたむきな強さに眩しいほど惹きつけられた。

「オリヴィエが好き。あなただけよ。」
「私もだよ。」

それから、会う時間を作ってはリアーヌと抱き合った。
アパートでは目立ち過ぎるから、試着室でもどこでも、二人になれる場所であれば、貪るように彼女を求めた。
リアーヌも何度も屋敷を抜け出した。
彼女の身体の隅々までを知るほど。
限られた時間の中で、燃え尽きるように二人は愛しあった。


そんなとき、3着目のドレスが出来上がり、オリヴィエの元に久しぶりに聖地からの使者が現れた。
「これ以上はお待ちできません。どうか聖地へ。」
以前、この男がオリヴィエの前に現れた時、オリヴィエはその申し出を鼻で笑い、姿を消した。
夢を手に入れようと主星に来たばかりの頃。
名前以外の全てを捨てて、逃げ出した。
守護聖がなんなのか。もちろんオリヴィエも知っている。
聖地で暮らす、神のような存在。冗談じゃない。そんなものにはなりたくない。
そんなところでは、夢はかなえられない。
上手く逃げたと思っていたのに、ただ彼らに泳がされていただけだったのだと初めて分かった。

「聖地へいらしてください。これは宇宙の意志。すべてが定められた理なのです。」
これが運命なのか、と、オリヴィエは残り一着になったドレスの布を握りしめた。
たとえリアーヌが結婚しなくても、自分と彼女とは結ばれない運命だったのだ。
ならば、せめて彼女が幸せになれると知っていてよかったのかもしれないと思う。
身を切られるようなあの別れの慟哭を、リアーヌは知らずに済むのだから。

「待ってほしいんだ。…今度は、このドレスが仕上がるまででいいから。」
使者はオリヴィエの言葉を受け入れてくれた。
リアーヌの式の前には、ドレスは仕上がるだろう。
彼女に別れを告げることもできる。

「私さ、守護聖なんだって。」
まだオリヴィエの熱を身体に残したまま、リアーヌが微笑んだ。
「やっぱり、あなたは特別な人だったのね。私、すごい人を好きになったわ。」
「本当に会えなくなるよ。」
「そのほうがよかった。…だって、きっと会いたくなってしまうもの。」
聖地とは時の流れさえも違う。オリヴィエが守護聖になったなら、もう二度と会うこともできないだろう。
「もう一度、抱いて。」
リアーヌが唇を寄せる。

抱きしめた彼女の首に、オリヴィエはペンダントをかけた。
「こんなものでごめん。これでも私が持ってる全財産なんだ。」
リアーヌの瞳と同じ色をした小さなサファイアのペンダント。
覚えていて欲しいと願ったわけではない。
それならば、守護聖になることを伝えたりはしなかった。
『捨てたオトコ』でいたほうが、きっとリアーヌは忘れられないはずだから。
ただ、なにか形にして伝えておきたいと思ったのだ。

「幸せになるわ。私。」
リアーヌならきっとなれるだろう。
いつでも前を向いて、歩いて行ける人だから。
そんな彼女を…好きなのだから。


最後の逢瀬のあと、オリヴィエは聖地に向かった。
シャリエの元に残した最後のドレスは、鮮やかなブルー。
そのドレスを見せた時、シャリエは大きく頷き、目を細めた。
「君には目をかけていたのだよ。私のあとを継げると思っていたんだ。」
別れ際、彼の目の端がきらりと光る。
オリヴィエは大きく頭を下げ、二度と振り返らないように、ぐっと前を向いた。
なにもかもがすぐに遠くなる。
時の流れは残酷なほど、あっという間に全てを変えてしまった。
今はもう、あの場所に彼の店は無い。そして彼女も。





もう恋などしないと思っていたのに。
オリヴィエは手にしたサファイアブルーのボトルの封を勢いよく切った。
瞬間、溢れてくる、むせる様な強いアルコールの香り。
寒い故郷では身体を温めるための強いスピリッツが水のように飲まれていた。
自分に故郷の名残があるとすれば、この身体だろう。
いくら飲んでも芯から酔うことがないのだから。
明日は日曜日。
ロザリアは待っているだろうか。それとも。
オリヴィエが一気に酒をあおり、テーブルにグラスを叩きつけるように置くと、サファイアブルーのボトルがこきざみに揺れていた。


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