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7.


いつもの時間になっても、オリヴィエは現れない。
窓の外を何度も見たロザリアは、暗い気持ちのまま、ため息をついた。
軽薄で気ままに見えても、オリヴィエが約束に遅れたことは今までに一度もなかったのだ。
やはり昨日の出来事が尾を引いているとしか思えない。
何となく予想はしていたものの、いざ現実に起こってみると、その事実は耐えがたかった。

ふと腕に痛みを感じてロザリアは顔をしかめた。
冗談とはいえ、オスカーに強く掴まれた腕は、今でも痛みを感じる。
なぜオスカーは手を離してくれなかったのだろう。
ロザリアが嫌がっていたことをわかっていたはずなのに。
それに、あんなふうな態度では、オリヴィエに誤解してくれと言っているようなものだ。

誤解?
そう考えてため息の代わりにロザリアは肩を落とした。
オリヴィエが誤解したと思うことはうぬぼれのような気がする。
彼にとっては別に自分がオスカーと親しくしていたところで、何の興味もないだろうから。
あの時すぐに逸らされた瞳を思い出すだけで辛くなる。

考えていても暗いことばかりで嫌になったロザリアはいつもどおり、水筒とランチボックスを抱え、森へと向かった。
ランチを用意してしまった手前、今さら約束がないと、ばあやにも言いにくかったのだ、
一人きりでも、あの場所には辿りつけるだろうか。
うろ覚えの道に不安がよぎる。
けれどオリヴィエと過ごしたあの場所に、どうしても行きたかった。


フラフラと彷徨ったせいか、いつもの倍の疲れを感じたものの、なんとかたどり着いたロザリアは、荷物を木の下に置き、崖の縁まで歩いてみた。
穏やかな風。
そして、無限につながる空と重なり合う雲。遠くに見える大陸の姿。
見事な景色は変わらないのに、まるで胸にぽっかりと穴があいたようだ。
一人では怖くて近づけないと思っていたのに、ロザリアはいつの間にか、崖のギリギリに立っていた。
引き寄せられたのかもしれない。
強い風が下から煽るように吹くたびに、身体が揺れる。
目を閉じて風に身体をゆだねていると、まるで空に浮かんでいるような気持になった。
緩く束ねた髪がふわりと空へと広がる。
もう少し風が吹けば、本当に空を飛べるかもしれない。
ロザリアはさらに足を前に踏み出した。

「死にたいの?」
不意に強く腕を掴まれた。
そして、聞きなれた、待ち望んだ声。
「オリヴィエ様?!」
勢いよく振り返ると、身体のバランスが崩れ、感覚がなくなる。
空に落ちると思った時、ロザリアの身体はオリヴィエの腕の中に包まれていた。


「ここは女王陛下のお力に守られた土地だからね、死ぬことはないと思うけど、落ちたらそれなりに怪我するよ。」
ロザリアの頭の上で声がする。
怪我をする寸前だったという恐怖よりも、ココにオリヴィエが来てくれた喜びの方がはるかに大きかった。
包み込まれた腕の中は、信じられないほど暖かくて、居心地がいい。
たとえ偶然の出来事であったとしても、今感じているぬくもりを離したくないと思ってしまう。
ロザリアはオリヴィエの胸にすがりつくようにしがみついた。

「あんた、聞いてんの?」
少し苛立ちを含んだ声に、ロザリアが顔を上げた。
青い澄んだ瞳がオリヴィエを見つめている。
オリヴィエはロザリアにまわした腕にほんの少し力を込めた。
抱きしめたいという、心の声に素直に従えば、愛おしさがあふれてくる。

「オリヴィエ様…?」
耳元の彼女の声が震えている。
離してほしいのかもしれない。でも、それならもっと拒んで欲しい。そうでなければ、許されたと思ってしまうから。
風さえも見惚れたように、吹きやんでいる。
しばらくそのままでいると、突然、ロザリアが咳きこみ始めた。
「ごめんなさい。喉が…。」
真赤になったロザリアが瞳を潤ませている。
オリヴィエは腕を緩めると、彼女の手を引き、木の下へと連れて行った。

「お茶飲んで。…まったく、あんたは、どんだけあそこにいたの?風邪でも引いたらどうすんのさ。…ま、遅れた私が悪いんだけど。」
「いらしてくださいましたの?」
コップに注いだ水筒の紅茶を一口飲んだロザリアは、目を丸くした。
てっきりわざと来ないのだとばかり思っていたのに。

「ちょっと昨日飲みすぎちゃってね。寝坊。実はまだ頭が痛いんだ。」
「まあ。」
自嘲気味に言うオリヴィエにロザリアは噴き出してしまった。
「わたくしはお酒は飲めませんけれど、そんなに美味しいモノなんですの?」
「ん~~~、昨日のお酒は苦かったかな?…あんたのせいだよ。」
「わたくしの?」
葉の隙間から零れる光がロザリアの青紫の髪に天使の輪を作る。
オリヴィエは思わず見惚れていた。
不思議そうなサファイヤブルーの瞳もスピリッツのボトルに似ていると思ったことが申し訳ないほどに美しい。
吸い込まれそうになって、笑みを漏らすと、ロザリアは真剣な瞳でこちらを見返していた。

「わからない?」
「ええ。わかりませんわ。」
オリヴィエの手がロザリアの腕を掴んだ。
「こんなのさ、なんてことないと思うよ。実際、ルヴァとアンジェリークが手を繋いできた時なんか、ほほえましくて笑っちゃたし。」
掴まれた部分が熱い。
ロザリアは振り払うとこもできず、オリヴィエをじっと見つめた。
彼は何を言いたいのだろう。
とりとめのない思考ばかりが浮かんできて、息もできない。

「だけど、あんたとオスカーがこうして出てきた時はダメだった。笑うどころか、頭が変になりそうだったよ。どうしてかわかる?」
首を振るロザリアに、にっと笑う彼の瞳。
いたずらなように見えて、どこか真剣で。
やはり彼がたまらなく好きなのだと、ロザリアは認めるしかなかった。

「オスカーに嫉妬したんだ。 私らしくもなくね。」
「え?」
「あんたが好きだから。」

耳を通り過ぎた言葉がとても信じられない。
ロザリアはポカンとしたまま、オリヴィエを見つめ続けた。
マスカラとアイシャドウに飾られた彼の瞳の奥にある真実を読み取りたい。
…できることならもう一度、聞かせてほしい。
ロザリアの願いを感じ取ったのか、再びオリヴィエが口を開いた。

「好きになっちゃたんだ。あんたのこと。…もう誰のことも好きにならないと思ってたのに。」
ダークブルーの瞳の奥に見える小さな影。
この場所で最初にオリヴィエを見つけた時、彼の全身を覆っていた影が瞳の奥で揺れている。
なぜだろう。
この影がロザリアを惹きつけて離さないのだ。
魂の奥が揺さぶられるような、感情。
「わたくしも、オリヴィエ様が好き…。初めてこの場所でお会いした時から、好きでしたわ。」
言葉にして、初めて分かった。
この場所で初めて会った時から、すでに恋に落ちていた。


オリヴィエの腕が改めてロザリアを包み込む。
急に強く吹いた風から、ロザリアを守るように。あらゆる何かからもロザリアを守っているように。
「あんたが女王候補だってわかってる。女王になるのが、あんたの夢だってことも。」
再び運命は自分を裏切るかもしれない。ロザリアを女王という場所に追いやるかもしれない。
オリヴィエに深く刻まれた別れの傷跡が疼いてくる。

「女王になっても心は変わりませんわ。わたくしはあなたのものです。」
ロザリアの手がオリヴィエの背中を抱きしめる。
打ち鳴らす鼓動が混ざり合い、どちらの音なのかもわからない。
けれどあの時とは違う。
リアーヌは別れを選んだ。運命に従い、生きるといった。
もしロザリアが運命に抗って想いを貫いてくれるなら。

「好きだよ…。」
ロザリアの頬に指を伸ばし、顔を上げさせると、青い瞳が一瞬オリヴィエを映し、すぐに伏せられる。
震える青紫の睫毛。
重ねた唇の暖かさに、ようやく古い痛みが消えていくのを、オリヴィエは感じていた。



月の曜日の朝。
聖殿の門柱に寄り掛かり、オスカーは行き過ぎる人を眺めていた。
待ち人の姿はなかなか現れない。
いつもなら女性へのあいさつを欠かさないオスカーだったが、今日は別だ。
すぐ目の前を女官たちが通り過ぎても、まるで目に入らなかった。
どうしてもロザリアに確かめたいことがある。けれど、彼女にどう聞けばいいのか、わからない。
プレイボーイを自負し、口説き文句なら星の数ほど口にしてきた。
なのに、たった一つの真実の言葉が出てこない。
「重症だな、俺は。」
ぽつりとこぼした時、候補寮からの馬車が滑り込んだ。

ドアが開き、金の髪がふわりと飛び降りてくる。
たしかにいつもよりも少し遅い時間だから、慌てるのも無理はない。
普段なら、アンジェリークの後で、「あなたのせいですわ。」と愚痴をこぼしながら、ロザリアが降りてくるのだが。
今日はすぐにドアが閉じると、馬車は戻っていってしまった。

「あ、オスカー様!おはようございます!」
元気のいい声が響いてくる。
オスカーは軽く笑みを浮かべると、アンジェリークの背後に目を向けた。
やはりロザリアはいない。
そのオスカーの視線に気がついたのか、アンジェリークがものすごい勢いで走り寄って来た。

「ちょっと、オスカー様。」
アンジェリークはオスカーの袖を掴むと、聖殿の中庭の隅へと連れ込んだ。
このあたりは普段から人が少ない。秘密の話をするにはうってつけの場所だろう。
「朝から密会とは、お嬢ちゃんはなかなかに積極的だな。」
オスカーの言葉に耳を向ける様子もなく、アンジェリークはさらに、あたりをきょろきょろ気にした後、思い切ったように言った。

「オスカー様、ごめんなさい。」
頭が膝にくっつくほど身体を折り曲げたアンジェリークは、そのまま微動だにしない。
あっけにとられたオスカーに「どうしたんだ?俺はお嬢ちゃんに謝られるような覚えはないが。」と、言われた後も、まだアンジェリークは起き上がらなかった。
「ごめんなさい。わたし、もう、オスカー様に協力できません。」
「…どういうことだ?」
頭を下げていたアンジェリークが、いきなり顔を上げた。
あまりの勢いに血が下がったのか、一瞬ふらついている。

「ロザリア、風邪を引いたみたいで、今日はお休みです。」
「そうなのか?」
いきなり話が飛んだことにも驚いたが、それよりもロザリアの風邪のほうが気にかかる。
見舞いという口実もロザリアを訪ねるのにちょうどいい。二人きりで話したいこともあるのだから。

「それじゃあ、見舞いにでも行ってこよう。ロザリアの好きなものはなんだ?」
果物にしようか、花にしようか。
赤いバラは意識過剰に思えるし、彼女のイメージは、そう。どちらかといえば白い薔薇だ。
すでに身体を動かしかけたオスカーだったが。
「あの、オスカー様。行かなくていいです。」
再びオスカーの袖を掴んだアンジェリークが緑の瞳でじっとりと見上げてくる。
「どうしてなんだ?」
「だって、もう、オリヴィエ様がいらっしゃるから。」
言葉の意味が理解できるまで、多分ほんの一瞬だっただろう。
愕然とした様子のオスカーにアンジェリークがまくしたてた。

「びっくりしました? そうなんですよ~。 いつの間にか、ロザリアとオリヴィエ様、仲良くなっていたみたいで。
 昨日も一緒に帰って来たかと思ったら、ロザリアが熱があるとかで騒ぎになるし。
 今朝なんて、オリヴィエ様、何時に来たと思いますう? 6時ですよ! ばあやさんもびっくりですよ!」
一回話してしまって楽になったのか、アンジェリークは頬を紅潮させながら、話を止める気配がない。
「ちょっと覗いたんですけど、ビックリするくらいラブラブで!
 …オスカー様、がっかりしました? でも、オスカー様ならモテモテだし、ちょっと気になるくらいの女の子、いっぱいいらっしゃるんでしょ?
 ロザリアのことは諦めて、次に行ってください!」
それでは、と、でも言いたげに両手を振ったアンジェリークは、一目散に中庭から聖殿に飛び込んでいった。
赤いスカートが翻る。
小さな野兎のような素早さに、オスカーは言い返す間もなかった。

ロザリアとオリヴィエが。
土の曜日に漠然と感じた予感が正しかったのだと思い知った。
今朝まで待つべきではなかった。昨日の朝、ロザリアを訪れていれば、何かが変わったかもしれない。
余裕を見せすぎたことを後悔したが、もう遅い。
「たしかにちょっと気になるだけだったがな。」
アンジェリークと協力を約束し合った頃、ロザリアに対する想いはまだ遊びに近かった。
自分の名前を呼ばない彼女の強情さと気位の高さを楽しんでいたのだ。
けれど、今は。恋としか呼べないほど、深く彼女を求めている。
オスカーは踵を返すと、候補寮へと馬を走らせた。


ドア越しにオリヴィエの笑い声が聞こえる。
オスカーはノックしようとして振り上げたこぶしを一旦グッと握った後、ドアを叩いた。
「入るぜ。」
中に目をやれば、ロザリアのベッドの隣に座りこんでいるオリヴィエがいる。
執務服を着ているから、聖殿に行くつもりはあったのだろう。
まあ、それもロザリアに対するポーズだけかもしれないが。
サボったことを悪びれる様子もなく、オリヴィエはオスカーに軽く目を向けた。

「お嬢ちゃんが病気だと聞いて、差し入れを持って来たんだが…。お邪魔だったようだな。」
「あ、ありがとうございます。」
カッとロザリアの頬が赤くなる。
熱のせいか少し潤んだ瞳やきっちりと巻かずに緩く背を流れている青紫の髪も美しい。
見惚れていると、オスカーの視界を遮るようにオリヴィエが顔を寄せた。

「どーもご親切に。ありがたくもらっとくよ。」
「お前に持って来たんじゃない。お嬢ちゃんへの見舞いだ。」
フルーツと小さなブーケを受け取ろうとしたオリヴィエをオスカーが手で追い払う。
すると、オリヴィエもしぶしぶベッドのそばから離れ、ソファへ移った。
オスカーはロザリアのベッドの端に膝をつくと、彼女の手をとった。

「熱いな…。それとも俺に触れられて、ますます熱が上がったのか?」
「な…!」
絶句するロザリアは囚われた手を振り払うと、オスカーを睨みつけた。
「ご心配なく。炎の守護聖様とはいえ、身体が燃えているわけではございませんでしょう? なんともありませんわ。」
「俺ならなんともないか。オリヴィエだったら熱が上がるとでも?」
「えっ。そんな…。」
再びロザリアの頬がカーッと赤くなっていく。
まるで、オリヴィエに触れられた時のことを想像でもしてるように、耳まで染まっている。
オスカーの胸が疼いた。

「ちょっと、風邪ならまだしもバカがうつったら困るじゃないか! 」
困ったロザリアを見かねて、オリヴィエが口をはさんでくる。
オスカーはやれやれといった調子で肩をすくめると、立ち上がった。
「男の嫉妬は醜いぜ。お嬢ちゃん、知ってるか?オリヴィエはこう見えて、すごく嫉妬深いんだ。気をつけろ。」
「なんであんたがそんなこと知ってんのさ!」
「お前を見てればわかる。」
軽口を叩きながら、オスカーはロザリアを盗み見た。
花のように可愛らしい笑顔は、オスカーの前では決して見せてくれなかったものだ。
胸の疼きが痛みに変わっていくのが、はっきりとわかる。

「せいぜい看病でもしてやれ。今日のお前の執務は俺がやっておく。…明日はお前が俺の分をやっとけよ。わかったな。」
「…あんたもほどほどにしときなよ。」
今夜は下界で遊ぶ、と濁した言葉をオリヴィエは理解したらしい。
不思議そうに首をかしげたロザリアの頭をオリヴィエが柔らかく撫でている。
触れた場所から、甘い香りが漂うように。
ロザリアが微笑んだ。

これ以上はここにいられない、とオスカーが立ち上がった時。
「オスカー様。ありがとうございました。」
ロザリアの言葉に、オスカーはふっと笑みをこぼした。
彼女の口から名前を呼ばれるのが、今となっては切ない。
「ああ、早く治せよ。…お嬢ちゃん。」


帰り道、一人、馬を駆ったオスカーは速度を上げて、風景を通り過ぎた。
一つ一つの物の形が曖昧になるほどの速度。
馬の心拍数が上がるのをダイレクトに感じる。
もしもオリヴィエが本気でなければ、まだロザリアに近付こうとしていたかもしれない。
けれど、一緒にいる二人を見た時、もう入りこむことができないと思ってしまった。
オリヴィエを見つめるロザリアの瞳があまりにも綺麗で。
ロザリアを見つめるオリヴィエの瞳があまりにも優しくて。
本当の想いが、そこにはあって。

オスカーは今まで、自分がフラれたと思ったことは一度もなかった。
お互いが快楽だけを求めていた恋愛のような遊戯は、燃え上がるほどの熱情がない代わりに、苦しさもなかった。
だから恋を失うことがこんなにも苦しいことだなんて、今まで知らずに過ごしてきた。
「この俺が?」
なにもせずに引き下がろうとしている自分が信じられなかった。
オリヴィエが近い友人だからではなく、彼女が。
本当に幸せそうだから、なんて、そんな理由で。
諦めるなんてことができる時が、本当に来るのだろうか。この苦しみから解放される時が。
風に乱れた髪を直すこともせずに、オスカーは馬を走らせていった。


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