epilogue
うららかな午後の日差し。
年月を経た大きな木の下、時折葉が揺れるたびに透けた光がそれぞれの髪に輪をつくる。
木陰にセッティングした大きなテーブルに真っ白なクロスをかけ、お菓子の乗ったお皿をいくつか並べると、素敵なガーデンカフェの出来上がりだ。
「そちらの裾が曲がっていますわ。」
ロザリアにじろりと睨まれて、リモージュは慌ててずれたクロスを引っ張った。
「まあ、これくらいならよろしいわね。」
ぴしっと伸ばされたクロスが風にはためいている。ロザリアは満足そうに微笑むと、コースターとグラスを並べ始めた。
かなり暖かい気温に合わせて、今日はアイスティー。
まだ少し約束の時間には早いから、みんなが揃ってから冷蔵庫から持ってくるつもりだった。
「ね、ロザリア。」
振り返れば、リモージュはもう椅子に座っていて、隣に座るように、とロザリアを手招きしている。
首をかしげながらそこに座ると、コワイくらいの笑顔を浮かべたリモージュが頬杖をつきながら、顔を近づけてきた。
「フランシスとはどこまでいったの?みんなに聞かれる前に、リハーサルだと思ってわたしに教えてよ。」
一時はどうなるかと思っていた二人だったが、いつの間にか仲直りしていたらしい。
地獄の底にいてもこんな顔はしないだろうというほど落ち込んでいたロザリアがすっかり明るくなり、またお茶会のたびに現れるようになったフランシスにとろけるような笑みを浮かべるのだ。
二人で連れだって出掛けていく姿も、以前よりもずっと親密さを増している。
今まで聞き役ばかりだったロザリアに、みんなの質問が集中するのは当たり前だろう。
なによりもリモージュ自身が知りたくてたまらないのだ。
「どこまで、と言われても…。とくになにも進んでいませんわ。変わりませんの。」
「変わらないー?!」
キスまでは進んでいるということは先週聞きだした。
けれど、相手はあのフランシスなのだ。ロザリアがいないお茶会で、少女たちの想像はほとんど妄想になっている。
「本当ですわ。それ以上のことはなにも。」
見ればロザリアは耳まで真っ赤にして、恥ずかしそうにうつむいていた。
その様子からみれば、たしかにウソではなさそうだが。
半信半疑のリモージュはさらに畳みかける。
「ホントに?キスだけ?ホントに、ホントなの?」
首を縦に振ったロザリアに、リモージュはため息をついた。
「信じられない!そんなのフランシスじゃないわ!」
「そんなの、とは、どういう意味でしょうね…。」
背後から聞こえた声に、二人は同時に振り返った。
一人は喜びに瞳を輝かせて、もう一人はしまった、と顔をしかめながら。
「いつの間にいらしたんですの?少しも気がつきませんでしたわ。今、お茶をお持ちしますわね。」
いそいそと奥へ消えたロザリアの椅子に今度はフランシスが腰を下ろした。
優しい風が灰青色の髪をなでるように吹いていく。
涼しげなその姿を、リモージュが上目遣いで覗き見ると、視線に気がついたフランシスがにっこりと微笑みかけた。
きっと天使の皮をかぶった悪魔というのはこんな顔をしているだろう、とリモージュに良くない想像が浮かぶ。
「ずいぶんと気にかけてくださっているのですね…。私とロザリア様の事を。」
フランシスに見つめられて、リモージュは頬が赤くなるのを感じた。
余計な御世話だと思われても、こうなれば負けてはいられない。
「気になるわ。だって、わたしの親友ですもの。悪い虫だったら、追い払わなくちゃね。」
満面の笑みで切り返したリモージュ。
微妙に緊張した空気で二人が見つめあっているところに、3つのグラスをトレーに乗せたロザリアが戻ってきた。
透明なグラスには、ウイスキーのロックに使うような大きな氷が一つづつ浮かんでいて、グラスが動くたびにヴィブラフォンのような澄んだ音を立てている。
「どうなさったの?」
微妙な空気を察したのか、ロザリアがその場に立ったまま首をかしげると、優しい瞳をしたフランシスがロザリアの手を取った。
「陛下。さきほどの質問に、私から答えさせていただいても?」
聞き返す間もなく、立ち上がったフランシスはロザリアを腕の中に閉じ込めると、不意に唇を奪った。
目を丸くしたリモージュの前で、優しく触れるだけの口付けが角度を変え、何度も繰り替えされている。
ついばむように上下の唇を食むようなキス。
初めは驚いて抱きしめているフランシスの胸を叩いていたロザリアも、口づけの甘さに溶けるように、次第に抵抗を辞めていった。
長い口づけに風さえも止まる時間。
ふとフランシスの唇が離れ、ほっとしたロザリアが吐息を漏らすと、その開いた隙間から舌先が入りこんだ。
思わずリモージュの喉がごくりと鳴る。
極上のベルベットを思わせるような艶やかな舌はロザリアの唇を滑るように這いまわり、そのなまめかしさに見ているだけで目眩がしそうになる。
わざと音を立て、見せつけるように、何度もフランシスは出し入れを繰り返した。
明るい日差しの下だということが信じられないような、淫靡なキス。
見ているだけで、これほど官能的なのだから、されている方はどれほどだろう。
案の定、フランシスの腕の中でロザリアは睫毛を震わせて、力を奪われてでもいるように身体を預け切っていた。
「このキスは、今日が初めてです…。信じていただけますよね?陛下…。」
茫然としていたリモージュが我に返ったのは、長いキスが終わって、フランシスが言葉を発した時だった。
完全に足の力が抜けたロザリアを抱きかかえながら、フランシスは静かに微笑んでいる。
菫青色の瞳には、少しの動揺もない。
彼にとっては、あのくらいのキスは当たり前なのだろう。
けれど。
真っ赤な顔をして、フランシスの胸にすがりついているロザリアはどう見ても、初めてにしか見えない。
リモージュはため息をついた。
「信じるわ。今はそこまでって、ことなのね。」
自分の頬も知らずに熱くなっている。
リモージュは手で顔をあおぎながら、フランシスを軽く睨んだ。
やがてフランシスに抱かれていたロザリアが小さく身じろぎした。
ゆっくりと彼を見上げた青い瞳は蕩けるように潤み、熱に浮かされたように頬が真っ赤に染まっている。
フランシスも蕩けるような優しい瞳でロザリアを見つめ返すと、少し乱れた彼女の巻き髪に指をかけ、元通りに直した。
そして、まだ足元のおぼつかないロザリアをもう一度抱きしめる。
テラスに咲き乱れる花の中、見たこともないような美しい絵に、リモージュもなにも言えずに二人の姿を眺めていた。
「陛下。」
フランシスが困ったように呼ぶ声に、「はい!なあに?」とリモージュはなぜか大きな声で返事をした。
「大変です…。」
「え?どうしたの?」
眉間を寄せたフランシスがため息交じりに言った。
「ロザリア様の体がとても熱いのです…。風邪をひいたのではないでしょうか…。早く休ませてさしあげたいのですが、家に連れて帰ってもよろしいですか?」
「え?風邪?え?」
「見てください…。こんなに顔も赤いですし、手も。2,3日は休息が必要ですね…。これでも私は元医者ですから。」
間違いはない、と、フランシスは断言した。
たしかに顔は赤いし、ロザリアの手はフランシスが触れるたびにびくびくと電流が走ったように震えている。
けれど。
「ちょっと待って。それは風邪じゃないんじゃ…。」
リモージュが抗議しようとした時。
「私も看病して差し上げたいので、2,3日お休みをいただいても?」
木の影から覗くピンクのスカートの裾に向かって、フランシスが声をかけた。
おずおずと木から出てきたのは、コレットとレイチェル。少し遅れてエンジュまでがいる。
3人とも頬を赤くしてもじもじしているところから推測すると、あのキスのところから見ていたのではないか、と、リモージュは思った。
「え、でも…。」
コレットが困惑してレイチェルを見ると、レイチェルはどうしようもない、と言いたげに肩をすくめた。
「わかりました。お休みしてもいいです。・・・そのかわり、お休みした分はあとで、ちゃんとやってくださいね。」
「ああ、なんと慈悲深いお言葉でしょう…!ええ、必ず。私の全力で執務にあたらせていただきますとも…。」
フランシスは喜びを隠そうともせずに、満面の笑みを浮かべている。
そして、すぐにロザリアを包み込むように背中に手を回すと、支えながら、歩いて行ってしまった。
もちろん、風邪をひいているらしいロザリアが早足になれるはずもなく、それはそれはゆっくりと、そして優雅な歩みではあったけれど。
4人は声をかけることもできずに、半ば茫然と恋人たちを見送ったのだった。
ゆっくりと歩いたフランシスは、ようやくみんなの姿が見えなくなる場所まで来ると、足をとめた。
合わせて、ロザリアも足を止めると、フランシスの菫青色の瞳がじっと自分を見つめているのに気づく。
優しい腕の中で身体の向きを変えると、ロザリアは瞳を閉じた。
とたんに触れる、柔らかな唇。
さっきの激しいキスを思い出して、つい身体を震わせると、フランシスはそっと唇を離し、二人に距離を開けた。
離れた唇が今度は耳元に近づく。
「今日から3日間、貴女と過ごすことができると思うと、私の胸は張り裂けそうなほど、鼓動を打ち鳴らしています…。」
甘い囁きに、ロザリアの鼓動も彼に聞こえてしまうのではないかと思えるほど高くなる。
なにも言えずにいると、フランシスが再び囁いた。
「もし、お厭でしたら、どうかこのまま、皆様のところにお戻りください…。今なら、まだ、私も…。」
フランシスの言葉の意味を理解するのに、少し、時間がかかった。
やっと思い当って、さらに体温が上がると、ロザリアは飛び出しそうになる心臓を押さえるように、フランシスの胸元のシャツを握りしめた。
柔らかく、なめらかな布地のシャツはロザリアの手の中で簡単にまるまっていく。
「もう、手遅れですわ。だって、熱が下がりませんの。…あなたという熱が。」
恥ずかしさにロザリアが彼の胸に顔をうずめると、髪に指が触れる。
細い指が髪をすくうたびに、風が通り抜けていった。
「愛しい貴女…。私が自ら欲しいと思うのは、貴女だけです…。今までも、これからも…。」
『貴女だけを、愛しています…。』
風に乗って聞こえたかすかな言葉に、ロザリアはかかとを上げて、返事に変えたのだった。
Fin