静かに中庭から離れ、ロザリアは庭園へ向かった。
なんとなく、聖殿にはいたくなくて、かといって、どこか行きたいところがあるわけでも無い。
狭い聖地では、一人になれる場所などそうそう思いつかなかったのだ。
庭園のカフェは、空いている時間が幸いして、ほとんどが空席で人気がない。
ロザリアはあえて、外からよく見えるオープンな席に腰を下ろした。
どうせサボりなのだから、隠れているよりは堂々としているほうがいい。
常春のオープンカフェは、庇の下の柔らかな日差しが心地がよく、花壇からの花の香りが、席まで漂ってきている。
紅茶をオーダーして、ぼんやりと外を眺めていると、猫の親子が噴水の下でくつろいでいるのが見えた。
親猫がぺろりと子猫を舐め、毛繕いをしている。
なんだかわからない感情がこみ上げて、ロザリアの目頭がぐっと熱くなった。
「こんなところでサボりか?まじめな補佐官殿にしては珍しいな」
突然上から振ってきた軽口に、ロザリアは慌てて、目尻をぬぐい、その姿を見上げた。
立派な体躯に緋色の髪。
一瞬、驚いたように持ち上がった片眉は、すぐに女性を虜にする微笑みに変わる。
「俺にもカプチーノをもらおうか」
近づきかけたウェイトレスを手で制し、オスカーがほほえみかけると、ウェイトレスは顔を真っ赤にして、奥へと駆けていった。
「・・・相変わらずですのね」
呆れた様子を隠さずに言うと、
「俺は常にこのスタンスさ。君はもっと化粧くさいヤツがお好みのようだが」
普段なら軽く聞き流せるオスカーらしいジョークも、今のロザリアにはキツい。
言い返すこともできずに目を伏せたロザリアに、オスカーは向かいの席に腰を下ろすと足を組んだ。
「ここのカプチーノは美味いな」
運ばれてきたカップに口をつけ、一言呟いたきり、どちらもなにも話さない。
ロザリアの前の紅茶から、どんどん湯気が逃げていき、沈黙が過ぎていく。
けれどその沈黙は気まずいものでは無く、むしろ何か話せば泣いてしまいそうな今のロザリアには、とてもありがたかった。
オスカーはカップを手にしたまま、あの猫の親子を見ているようだ。
端正な横顔が、猫の動きに合わせて目を細めたり、すこし微笑みが浮かんだり。
うっかり見惚れてしまいそうになるほどカッコいい。
「・・・本当に顔だけはいいですわね」
ぽろりと口からこぼれた言葉に、オスカーが振り向き、にやりと笑った。
「それは素晴らしい褒め言葉だな」
「褒めているつもりはありませんわ」
「褒め言葉にしか聞えないさ。今は顔だけでも、親しくなれば、それ以上に君を虜にするところもあるつもりだぜ」
意味ありげにアイスブルーの瞳が細められる。
さすが百戦錬磨のプレイボーイだけのことはあって、もしも恋人がいなければ、あっさりとオスカーに落ちてしまいそうな瞳だ。
「そうかしら?わたくしには考えられませんわ」
わざと嫌みっぽくツンと顎を上げると、オスカーはカップをソーサーに戻し、ロザリアを見つめた。
「ああ。少なくとも俺なら君を泣かせるようなことはしない」
今度は真剣な瞳がロザリアを射貫く。
ほんの少しの涙を、彼は見逃していなかったらしい。
バレていたなら仕方がない、とロザリアは首を振った。
「違いますわ。ちょっと・・・」
「ちょっと?」
なんと言えばいいのか。
オスカーに見つめられて、どうにも居心地が悪い。
まだ誰にも言えないのに、全部を話してしまいたい気持ち。
それにロザリアはわかってしまった。
ふざけた様子でいるけれど、オスカーは本当にロザリアを心配してくれているのだ。
それがたとえ同僚に対する感情だとしても、女性になら誰にでも同じ事をするのだとしても。
「・・・オスカーは失恋をどうやって忘れましたの?」
「なに?」
「フラれたとき、どうやって立ち直ったのかを教えてくださいませ」
ロザリアの突然の態度の変わりように、オスカーは面食らって目を丸くしている。
「オスカーほどの経験豊富な方なら、良くおわかりでしょう?どんな方法が一番が知りたいんですの」
「いや、俺はフラれたことが無いからな」
「うそでしょう?そんな事は絶対にありませんわよ」
「本当だ。この俺がフラれるなどない」
「大丈夫ですわ。誰にも言いませんから」
「いや、本当にだな」
「信じませんわよ」
クスッとロザリアが笑うと、
「笑顔は二割増しなんだぜ」
「え?」
「君のような美女なら、十割増しだ」
笑うオスカーの顔もたしかに二割増しなのかもしれない。
ウェイトレス達が色めきたったのがわかる。
「そんな甘い言葉ばかりおっしゃるから、女性が集まってきますのよ」
「本当のことしか言っていないんだがな。まあ、集まられて困ることも無いし、全ての女性は俺の恋人だ」
「困ったことはありませんの?本当に?」
「いや・・・たしかに追いかけ回されて困ったこともあったな。風呂場やトイレまでついてこようとするお嬢ちゃんには俺も参ったさ」
遠い目をしたオスカーの脳裏には、きっとアンジェリークの姿が浮かんでいるのだろう。
あの頃のアンジェリークは、本当にオスカーの行くところを全て網羅していたから。
「あのバイタリティーは女王向きだな」
「ええ、そう思いますわ」
思わずお互いに顔を見合わせて、笑ってしまった。
紅茶はすっかり冷め切ったけれど、ロザリアの気持ちは少し浮上していた。
聖地は優しい人ばかりだ。
だからロザリアも優しい人でいたいと思うし、それが大好きな人達のためならなおさらだ。
かなり胸は痛むけれど、痛みを隠して笑う術なら、つい最近覚えたばかりだから。
なんとなくオスカーと一緒に聖殿に戻ると、ロザリアは補佐官室へ急いだ。
サボってしまった分を取り返さなくては、定時に終われない。
頭の中でやることをリストアップしながら、足早に廊下を歩いていると、不意に後ろから手を引かれ、部屋の中に連れ込まれた。
「きゃ・・・」
飛び出した叫び声を、大きな手が塞ぐ。
ふわりと鼻先を掠めた香りに、ロザリアの胸がドキリと音を立てた。
「どこ行ってたの?」
聞きなれたオリヴィエの声だけれど、少し硬い。
背後から抱きしめる腕の力も強く、痛みを感じるほどだ。
「庭園のカフェですわ。少し息抜きをしたくて」
隠すこともないので正直に告げると、少し腕の力は緩んだけれど、離してくれる気配はない。
「……オスカーと?一緒に歩いてたけど」
「カフェでたまたま一緒になったんですの。少しお話しもしましたわ」
「ふーん」
感情のこもらない声が彼らしくなく恐ろしい。
ふと、彼の唇がロザリアの髪に触れ、耳を軽く食んだ。
抱きしめる手も身体のラインを這うようなアヤシイ動きに変わっている。
「私とは会ってくれないのに、オスカーとお茶する時間はあるんだ」
腿を撫でる手のひらに気をとられていると、ぺろりと耳の中を舐められる。
「そういうわけではありませんわ。たまたまカフェにいただけで」
「なんでカフェに行く前に私に声をかけてくれなかったのさ。あんたのお誘いなら絶対に一緒に行くのに」
嘘。
叫びだしそうになって、ロザリアはぐっとオリヴィエをにらみ付けた。
アンジェリークと一緒にいたくせに。
本当にロザリアと一緒にいたいなら、オリヴィエの方から誘いに来たっていいはずなのに。
「・・・なぜあなたを誘わなければいけませんの?」
「なんでって・・・。今更そんなこと言う?」
オリヴィエはクスッと笑うと、肩の羽根飾りでロザリアの頬をふわふわと撫でた。
彼にしてみれば、ちょっとしたおふざけのつもりなのだろうが、それがどうにもロザリアのカンに触る。
「オリヴィエだって、わたくし以外の女性とお茶をすることだってありますでしょう?」
「ないよ。あんた以外とわざわざお茶するほど暇じゃないしね」
また嘘。
正確にはお茶をしていたわけじゃないから、嘘とは言えないのかもしれない。
でも、二人きりで東屋にいたことは間違いない。
お茶があるかどうかなんて、そんなことは些細な違いだ。
「わたくしが知らないと思ってらっしゃるの?さっきだって…」
言いかけて、ふと考えた。
彼のことを嘘つきと責めるのは簡単なことだ。
けれど、本当に大事なことは『なぜオリヴィエが嘘をつかなければならないのか』ということ。
アンジェリークと会っていたことを言えない理由。
もしも、それがロザリアを傷つけないためのオリヴィエの優しさだとしたら。
「そんな束縛、迷惑ですわ」
びっくりするほど冷たい声が出て、オリヴィエが怯んだ気配がわかる。
身体をなで回していた手もぴたりと動きを止め、密着していた熱が引いて距離が開いた。
「ほかの男性ともお話ししたり、お付き合いだってしてみたいですし、もっと楽しみたいと思っていますわ。
あなたと何度か寝たことは事実ですけれど、それだけであなたの女扱いをされたくはありませんの」
だから、オリヴィエも縛られることはないのだ。
もっと好きな人ができたなら、ロザリアに気を使わないで、その人と幸せになってほしい。
オリヴィエは抱きしめていたロザリアから手を離すと、小さく肩をすくめた。
「オッケー。お互いもっと自由にやろうってことなんだね。……あんたがそういう考えだとは思ってなかったけど」
ふ、とため息のように微笑んだオリヴィエは羽飾りをひらりとはためかせた。
「まあ、でも、私を誘いたくなったら、いつでも来てよ。…待ってるからさ」
ロザリアは黙って、夢の執務室を飛び出した。
オリヴィエはいつだって笑顔で、本心が見えないと思っていたときもあった。
けれど、さっきの顔は少し傷ついていたようで、ロザリアの胸は罪悪感でいっぱいになっていた。
ロザリアの足音が完全に聞えなくなって、オリヴィエはひらひらさせていた羽飾りを肩に巻き直してため息をついた。
彼女はなにをあんなに恐れているのだろう。
『他の男性とも付き合いたい』
そんなことを言いながら、ロザリアの視線は宙を泳いでいたし、胸の前で組まれた手は震えていた。
嘘をついているのが丸わかり。
けれど、なぜそんな嘘を。
どうして。
わからないことだらけで、オリヴィエは頭をガシガシと掻きむしると、とりあえず思いついたところに行ってみた。
「ロザリアと庭園のカフェに行ったらしいじゃない?」
机の上におしりを軽く乗せて、羽飾りをひらひらさせてみる。
すると、オスカーはそれをうるさそうに払い除けて、ニヤリと笑った。
「なるほど。急に来て何かと思ったらそれか。彼女にだって俺とお茶を飲む自由くらいはあるはずだぜ」
「ってことはホントにお茶したんだ」
「まあな」
オスカーはギシリと椅子をきしませながら、背中を伸ばした。
「偶然、庭園のカフェを通りかかったら、彼女がいたんだ。涙が見えたような気がして声をかけたんだが」
「涙?泣いてたってこと?」
「ああ。見せないようにしていたが、おそらくそうだろうな」
オリヴィエは少なからずショックを受けていた。
様子がおかしいとは思っていたが、こっそり泣くほどだったとは。
「表情も暗かったし……お前ら、なにかあったのか?」
不意に真面目な様子で尋ねてきたオスカーに、オリヴィエは肩を竦めた。
「いたって順調だね」
「だが、執務でもミスはないし、陛下とケンカしている様子もないぞ」
陛下、と言われて、オリヴィエの頭にピンときたことがあった。
そういえば、ロザリアの様子がおかしくなったのは、あの頃からではないだろうか。
「……目にゴミでも入ったんじゃないの?全く、あんたって男は油断も隙もないんだから。今後は私のいない所で、あの子に話しかけるんじゃないよ」
うっすら本気を乗せてオスカーを睨むと、今度はオスカーが大袈裟に肩を竦めて見せた。
「ロザリアも大変だな。早くお前の本性がバレてフラれた方が彼女のためだ」
「うるさい」
オリヴィエは自分の執務室に戻ると、ソファに寝転んだ。
窓から差し込む光で細かなホコリがキラキラとした光の粒のように見える。
ため息で、ふーっと光が逃げていくのが面白くて、何度か息を吐いた。
ロザリアの異変に思い当たることが無くは無いが、陛下から聞いた話と食い違っている。
彼女も陛下を応援していて、喜んで譲ってくれたり、いろんな協力してくれていると聞いていたのだが。
「なんでさ」
泣くほど辛いことがあるなら、オリヴィエに一言言って欲しかった。
意地っ張りで強がりなロザリアの性格はよく知っているけれど、少し寂しい気がする。
オリヴィエは大きくため息をつくと、そのまま目を閉じて、サボりを決め込んだのだった。