7-b
ちらりと時計を見たロザリアはシャワーで濡れた髪をタオルで乾かした。
薄いブルーのパジャマは胸元にリボンのついたチュニック丈の可愛らしいデザインでロザリアのお気に入りだった。
オリヴィエがプレゼントしてくれたこのパジャマを見たときに、なんとなく可愛らしすぎるような気がしたけれど。
実は同じブルーのメンズをこっそり買ってきてしまったことをオリヴィエも気づいていないはず。
いつか、『帰らない』とオリヴィエが言ったなら、それを出すつもりだった。
そのときオリヴィエはどんな顔をするだろう。
鏡の前に座って、ふと笑みが漏れた。
普段はオリヴィエが帰ってからシャワーを浴びてベッドに入るのが、今日はもう９時を回っていた。
ロザリアはカモミールティを淹れると、ダイニングの椅子に座った。
優しい香りのハーブが眠りに誘ってくれるかと期待したが、その願いはかないそうもない。
連絡もなしに来ない日は今まで一度もなかったのに。
今日はもう会えないかもしれない。
目を閉じてカップを両手で包むと、あふれかえる薔薇の香りがした。
オスカーからプレゼントされた薔薇は捨てるには忍びなく部屋に飾ってはいる。
けれど、心にあるのはいつでもオリヴィエのくれたピンクの薔薇。
オリヴィエとの思い出はいつでもそこからはじまっていた。
薔薇は好きだけれど、誰からでも欲しい花ではない。
ドアを叩く音がして、ロザリアは玄関に走った。
「オリヴィエ！」
嬉しそうに瞳を輝かせたロザリアをオリヴィエは黙って抱きしめた。
長い長い抱擁。
「遅くなってごめん。」
「いいんですの。・・・・わざわざ来て下さったのでしょう？お夕食は？」
「ごめん、今日はいいよ。」
じっと、抱きしめられた胸から伝わるオリヴィエのぬくもり。
薄いパジャマ一枚の自分が急に恥ずかしくなって、ロザリアは身を硬くした。
それでも、オリヴィエは抱きしめる腕を緩めない。
息が止まりそうな熱い腕にロザリアは足の力が抜けて、倒れそうになった。
そのままオリヴィエの腕に抱きとめられたロザリアの視界にさらさらと金の髪が落ちる。
その耳元でオリヴィエが囁いた。
「今日、帰らないけど、いい？」
ロザリアの心臓がぎゅっと掴まれたように大きく波打った。
唇を開けようとして、声が出なくなる。
優しいキス。背に回された手は華奢に見えても確かに男性の熱さを持っている。
かすかに頷いたロザリアをオリヴィエは抱きあげた。
サイドテーブルのランプの明かりをつけると、暖色の灯りが照らした。
オリヴィエのブルーグレーの瞳に鈍く映るオレンジの光。ロザリアを見つめる瞳にのぞく初めて見る色。
オリヴィエはベッドに横たえたロザリアに静かに口づける。
やららかな唇を味わうように舌でなぞると、変わらない青紫の睫毛が揺れて、少し唇が開いた。
オリヴィエがロザリアの舌をからめ取ると、初めて交わす激しいキスにロザリアはこわばったように動けなくなる。
全てを奪い尽くすようなキスはもちろん初めてで。
たどたどしく応えようとする唇から首筋へキスを這わせると、ロザリアの体がピクリと動いた。
片手で丁寧にボタンをはずしていくと、外気に触れたことに驚いたのかロザリアが目を開けた。
不安そうな瞳が愛おしくて、オリヴィエはもう一度、唇を重ねた。
「愛してるよ・・・。」
言葉でなんて、伝えられない。
ロザリアの耳元に唇を寄せると、オリヴィエはじっと抱きしめた。
体の熱さが伝わる長い抱擁に、ロザリアの体は呪縛が解けたように和らいでいく。
オリヴィエが左手を服の下から差し入れると、ロザリアから甘い声が漏れる。
手が背中から胸に滑っていくとき、ロザリアの体にザワリとした感触が走った。
オリヴィエの手がふと止まる。
『胸の下から右わきにかけて大きな傷が・・・。』
手を払いのけようとしたロザリアを再び抱きしめた。
傷跡に唇を寄せると、なぞるように口づけていく。体をよじって逃れようとするロザリアを力づくで押し付けた。
「オリヴィエ、見ないで。・・・醜いでしょう？」
震える声でいうロザリアを見つめる。
青い瞳に浮かぶ不安の色をオリヴィエはキスで受け止めた。
「あんたに醜いところなんて一つもない。きれいだよ。」
もし何事もなく過ぎていれば、こうして愛されることもなかった。
だからこの傷跡は私にとって、特別な証し。
何度も繰り返す愛の言葉はきっと愚かだと思われるほどで。
それでも、それを彼女に伝えられる自分がたまらなく幸せだった。
ベッドの上でロザリアの瞳からこぼれた涙を唇で拭いた。
「悲しい？」
腕の中の彼女は小さく首を横に振る。
「幸せなのですわ。わたくしはあなたに会うために生まれてきたのですね・・・。」
彼女の黒い髪がオリヴィエの腕に流れる。
白いシーツに広がる髪は深い深い罪の色。
「私を愛してくれて、ありがとう。」
あのとき、ロジーと呼んだことを罪だと思っても後悔はしない。
「愛していますわ・・・。」
オリヴィエは返事の代わりにロザリアを抱き寄せる。
何度愛しても足りないと思えるくらい、時だけが過ぎていく。
いつの間にか眠ってしまった二人の横顔をテーブルランプの明かりが照らしていた。
翌朝、二人で家を出ると、隣の子供たちとすれ違った。
「あ～、一緒に住んでる！結婚したの？」
女の子が目をキラキラさせて尋ねてきた。
手招きしたオリヴィエが女の子に囁く。
「そうだよ。もうお姉ちゃんは私のお嫁さんになったんだよ。ね？」
その驚くほど優しい表情にロザリアは体が熱くなってしまう。
ブルーグレーの瞳はロザリアが答えるのを待っているように見えた。
「ええ。・・・結婚しましたわ。」
真っ赤なロザリアと嬉しそうなオリヴィエを交互に眺めて、女の子は手をたたいた。
「今度、お祝い持ってくるね！」
先に歩き出した男の子を追いかけて走りながら女の子は大声で叫んでいる。
二人はそっと手をつなぐと、分かれ道までゆっくりと歩いた。
「今日、迎えに行くから。」
別れ際、オリヴィエが言った。
楽しみにしてて、と手を振ったオリヴィエが振り返りながら歩いていく。
店が開くとすぐに注文の電話が鳴った。
今日は客が多い、と思っていたらアレンジを注文に来た客の一人がその理由を教えてくれた。
「今夜は花火大会があるのよ。」
ひまわりのアレンジを頼んだ客はロザリアのセンスに満足そうに頷いた。
大きくて黄色い夏の花は力強く空を向いている。
「女王陛下の催しなの。・・・今日で補佐官様が行方不明になって一年でしょう？」
女王という言葉を聞いたとき、胸が痛くなった。
目の前に泣いている金色の髪の少女が浮かぶ。
ロザリアは落ち着かない気持ちを抱えながら、いつも通りの仕事を終えると、オリヴィエが来るのを待った。
ざわざわした町の人混みを通り抜けると、静かな道が広がった。
ぽつぽつと灯る明かりが少し寂しげで、ロザリアはオリヴィエの手を少し強く握った。
すると、オリヴィエも少し力を入れて握り返してくる。
見上げると、必ず見つめ返してくれるブルーグレーの瞳。
少しでもそばにいたくて、腕につかまった。
「甘えん坊なお姫様だね。」
そう言ったオリヴィエはロザリアを抱きあげる。
きゃっ、とロザリアが首にしがみつくとオリヴィエはそのまま歩きだした。
門をくぐると長い石畳が続いていて、オリヴィエは建物の裏に歩を進めていく。
胸に顔をうずめるとほのかに香るオリヴィエの香り。
目を閉じたロザリアはオリヴィエの腕の中で子供のようにゆられていた。
広い庭の真ん中にベンチが置かれていて、明かり一つない庭は薄い月明かりが滲んでいる。
「もうすぐ始まるよ。」
並んで座ったオリヴィエの肩にロザリアは頭をもたれさせた。
オリヴィエの腕がロザリアの肩を抱くと、夜の香りが辺りを包む。
「ここは、どこですの？」
広いけれど、手入れの生き届いた庭は美しい薔薇が咲いていた。
「私の家。前にも来たことあるんだよ？」
薔薇の中で女王の夢に破れたことを泣いたロザリア。
いつでも近くて遠くにいた彼女が、こうして今はそばにいる。
地面を揺らすような轟音が響いて、夜空に花が咲いた。
色とりどりの花が目の前で開いては散っていく。
オリヴィエはロザリアの白い横顔に浮かぶ花と、笑顔を眺めていた。
不意にロザリアの体が傾いて、隣に座るオリヴィエの膝に倒れ込んだ。
伏せられた青紫の睫毛は人形のように動かない。
頬を軽く叩いてもまるで反応がなく、オリヴィエは胸に耳を当てて鼓動を確かめた。
呼吸を確認すると、ロザリアを寝室のベッドへと連れて行く。
空にはまだ、いくつもの花がまたたいては消えていた。
顔にあたる陽ざしの暖かさにロザリアは瞳を開いた。
見馴れない天井の色とベッドの感触にあわてて身を起こすと、立ち上がる。
辺りをうかがうように首をめぐらせると、見たこともない部屋の様子とパジャマに戸惑いながら、ドアの方へと移動していった。
ドアを開けてとたんに感じる眩しい日差しに思わず目を閉じる。
「目が覚めたの？」
聞いたことのある声がして、声のした方へと振り向いた。
「昨日、急に倒れたから心配したんだよ？もう、大丈夫なの？」
オリヴィエの優しい声がして、ロザリアはゆっくりと目を開けた。
「ここは、どこなんですの？なぜ、あなたが？宇宙船はどうなったのですか？」
矢継ぎ早に飛び出した言葉にオリヴィエは立ちすくんだ。
「早く陛下に知らせなくては。・・・オスカーにも。」
青い瞳はかわらない。言葉を紡ぐ声も。
ただ一つ、変わったものは私を見るまなざし。
まるでいつかのような。
「あんた、ロザリアなの？」
聞きたくない、と思ってしまった。たとえ答えがわかっていても、聞かずにはいられなかった。
ロザリアと呼ばれた彼女はゆっくりと瞬きをしてうなづいた。
「ええ。わたくし、どこか変わっていまして？オリヴィエ、陛下に知らせていただけるかしら？きっと心配していると思いますの。」
少しきついと思われてしまう以前のままの口調で彼女はそう言った。
「オリヴィエ？」
ここにいるのは、ロザリア。私のロジーじゃない。
オリヴィエは大きく息を吸い込んだ。
嘘をつかなくてはいけない。今まで一番上手な嘘を。
「ちょっと待って。あのね、実はあんたがいなくなってから、一年経ってるんだ。すぐに陛下に連絡するけど、その前に髪を直した方がいい。」
「髪？」
オリヴィエはロザリアに手鏡を渡した。
鏡をのぞいたロザリアが息をのむ。
「髪の色が・・・。なぜこんなことに？」
ロザリアが落とした鏡を拾い上げると、オリヴィエは言った。
「染めてあるだけならすぐに戻せるから。戻した後、みんなに知らせるよ。あんまり変わってたんじゃ、みんな驚いちゃうからね。」
ロザリアはオリヴィエに微笑むと、
「戻せるのでしたら、戻してほしいですわ。これでは気づいてもらえませんもの・・・。」
誰を思い浮かべているのか、はにかむように言った。
「じゃ、準備するから待ってて。」
頷いたロザリアを部屋に残して、オリヴィエはバスルームに向かった。
バスルームのドアを開けると、激しいめまいが襲ってくる。
たとえようのない喪失感。
壁に両手をついて、倒れるのだけは避けられた。
けれど、波のように次々と襲ってくる疲労感に、オリヴィエはずるずると座り込んでしまう。
「そうか、そうなんだね・・・。」
記憶はレールのようなもの。
退院の時、ドクターが言った。
「今の彼女は今まで記憶のレールが外れて、別のレールを走り始めた状態です。だから、このまま伸びていくことはできます。けれど。」
「けれど？」
よくないことを言う前の人間のくせなのか。喉を少し鳴らしてドクターは続けた。
「もし、あるきっかけでポイントが元の記憶に戻ると、今の線路はもう使われなくなるんです。
すなわち、今からそのポイントまでの記憶がなくなって、以前のレールにつながってしまうわけですよ。線路は２本である必要がないからです。」
ドクターは理解できますか？という顔でオリヴィエを見ている。
「ようするに、記憶を失っていた期間のことを忘れてしまう、ということ？」
オリヴィエの言葉にドクターは頷いた。
「１００％ではないですけどね。そういうことが多い、ということです。」
記憶が戻るかどうか、その間のことを忘れてしまうか。
全ては確率論だとも言った。
一生、思い出さないかもしれない。明日、思い出すかもしれない。
それでも嘘をついた。ただ、愛されることを願って。
願った夢は叶った。彼女が欲しいと、ずっと願ってきたから。
あと少しでいい。そばにいたい。彼女を守れる嘘をつけるように。
今の彼女のレールの先に私の姿がないとしても。
オリヴィエはロザリアの髪を元の青紫に戻した。
黒髪のロジーが消えて、ロザリアに戻る瞬間。
オリヴィエの手が震えて、黒髪を愛しむようになでたことにロザリアは気付かない。
そして、以前に比べれば短い髪をロザリアは丁寧にカールした。
少し癖のある髪をそのままに流していたロジー。
オリヴィエがプレゼントしたピンクのリボンは青紫の髪には似合わない。
振り向いた彼女はもう、ロザリアに戻っていた。
Myosotis alpestris
