1.
足が勝手に早くなるのだから仕方がないだろう。
自分を見る人々の目が驚きに満ちているのに気がついて、オスカーは小さく舌打ちをした。
夕刻の聖地は暖かな夕焼けに染まり、オスカーの足元にも長い影が伸びている。
まさに家路を急ぐ、という自分の姿がどれほど滑稽に見えるのか、自身でも十分理解しているつもりだ。
大男の急ぎ足に、幼い子供の顔が引きつるのが無理はないことも。
実際、気持ち的には空でも飛びたいくらいだ。
愛しいロザリアが家で待っているのだから。
あの事件から2か月。
ようやく傷の癒えてきたロザリアは、まだオスカーの屋敷で暮らしていた。
最近では、自分のこともほとんどできるようになったし、こまごまとした家事をするようにもなっている。
つきっきりでかいがいしく世話を焼いていたオスカーだったが、彼女が治ってくるにつれ、やることがなくなっていった。
それでも心配で、いろいろと理由をつけては、聖殿に行くのを渋っていたのだが。
ある日とうとう、言い渡された。
「あなたが行かないのなら、わたくしが行きますわ。」、と。
生真面目な彼女にしてみれば、自分のためにオスカーがサボっていることが許せないらしい。
たしかに家でできることには限界があり、そのしわ寄せは全て他の守護聖達に回っている。
いつだったか、オリヴィエと女王が直訴に来たことも記憶に新しい。
ロザリアの瞳は真剣だった。
オスカーが拒めば、彼女は間違いなく出勤するだろう。
そして、今までの分も執務に励んでしまうはずだ。
けれど、医師の許可が出ていないロザリアに、執務をさせるわけにはいかない。
おかげでオスカーはいやいやながらも聖殿へ行かなければならなくなっていた。
門をくぐると、美味しそうな匂いがしてきて、オスカーは足の速度を緩めた。
ゆっくりと呼吸を整え、屋敷を見つめる。
自宅はプライベートな空間だから、誰も入れたくないと思っていた過去が嘘のようだ。
肉の焼ける香ばしい匂いと、窓にともる暖かな光。
大切な人が待っている、大切な空間。
胸に湧き上がる穏やかな感情を抱え、オスカーはドアを開けた。
「おかえりなさい。オスカー。」
キッチンから顔を出してきたロザリアが、優しくほほ笑んでいる。
「今日は鴨を焼いていますのよ。 すぐに持っていきますわね。」
「鴨か。 ずいぶんごちそうなんだな。 なにかいいことでもあったのか?」
オスカーのつぶやきはロザリアには聞こえなかったらしい。
彼女は軽やかな足取りで、ダイニングとキッチンを行き来している。
鼻歌交じりの上機嫌だから、本当になにかいいことがあったのかもしれない。
女王陛下が訪ねてきて、おしゃべりを楽しんだのか。
それともオリヴィエが新しいドレスでも持ってきたのか。
着替えを済ませてダイニングに戻ると、ロザリアはオスカーを待っていたように、ワインの栓を開けた。
「うまかった。 君の料理は本当に最高だな。」
「まあ、お上手ですこと。 いったい、何人の女性に同じことをおっしゃったのかしら?」
くすくすと笑うロザリアは本当に機嫌がいい。
オスカーの些細なジョークにも屈託のない笑顔を浮かべている。
和やかなムードで食事が終わると、オスカーが流しに皿を運び、ロザリアはバスルームに向かった。
豪華な食器はそれなりに重さがある。
力仕事にもなる片付けをオスカーは頑として譲らなかったのだ。
皿洗いなどの細かな後片付けは明日、使用人がしてくれるから、そこは任せておくことにしている。
この流れも、もう習慣と言ってもいいだろう。
オスカーの帰りを待って、食事を共にし、互いにバスを使い、あとはベッドでゆっくりと時間を過ごすのだ。
話をしたり、ただ触れ合って、お互いに別の本を読んでいたり。
二人でいる、ということがなによりも代え難い時間。
ダイニングから飲みかけのグラスとボトルをもって、オスカーはベッドルームに移動した。
もとはリビングとして使っていた部屋だが、ロザリアのために大きなベッドをいれたから、今はこの部屋がベッドルームだ。
奥の簡潔な寝室はすでに物置と化している。
ベッドの脇のチェアに腰を下ろし、オスカーはグラスを空けた。
きっと今日は、昼間訪ねてきたであろう誰かとの話を聞かせてくれるはずだ。
ささいな出来事でも、彼女の話なら全て聞きたいと思ってしまうことが不思議でたまらない。
以前の自分ならば、きっと、こんな時間を無駄だと思っただろう。
入れ違いに、バスを使ったオスカーが髪にタオルを当てながら戻ると、すでに夜着に着替えたロザリアが空になっていたオスカーのグラスにワインを注いだ。
飲酒はケガによくないと医者に止められているから、飲むのはオスカーだけだ。
ロザリアの酌に勧められるまま、立て続けに3杯。
オスカーにとって多くはないが、寝酒にしては少なくもない。
ふと彼女を見れば、どこか上の空で、それでいて、なにやらそわそわしている。
不審に思ったオスカーは、グラスを空けると、ロザリアの瞳を覗き込んだ。
「言いたいことがあるなら言ってくれ。」
別れ話以外なら、ロザリアの願いは全て聞き入れるつもりだ。
オスカーは指を組み、彼女の言葉を待った。
「今日、お医者様がいらっしゃいましたの。」
初めのうちは毎日訪れていた医者も、次第に間隔があき、しばらく来ていなかったはずだ。
言いよどむロザリアの様子に、オスカーは焦った。
まさかと思うが、悪化しているのだろうか。
「来週から、執務を始めてもいいと許可をいただきましたのよ。」
嬉しそうに言うロザリアに、オスカーの体から力が抜けた。
「無理はいけないと釘は刺されましたけれど、ほぼ完治しているって。」
「そうか…。 おめでとう。」
オスカーは喜んでいるロザリアに微笑みかけた。
「ありがとう。 こんなに早く良くなれたのも、あなたのおかげですわ。 本当に感謝しています。」
あの時、命は捨てたつもりだった。
それがこうして生きながらえることができて、想いを通じ合うこともできた。
いくら礼を言っても言い切れない。
ロザリアは改めて、深々と頭を下げた。
「感謝するのは俺の方さ。 君が生きていてくれて、よかった…。」
オスカーはロザリアの手を取ると、そのままその手の甲に唇を寄せた。
柔らかな白い手。
たしかに彼女がここに存在していることを、オスカーに教えてくれる。
しばらくそうしていたオスカーは、彼女がじっと自分を見つめていることに気が付いて顔を上げた。
まだ、何か言いたそうにしているロザリアを強い視線で見つめ返す。
ほんのりと染まった頬。
潤んだ瞳はどこか熱っぽい。
どきり、とオスカーの胸に衝動が疼く。
彼女が欲しいと思いながら、完治するまでは、と、我慢していたのだ。
来週から執務に出ていい、という許可は、すなわち、そういう意味ではないのか。
オスカーは立ち上がると、いきなり彼女の体を抱き上げた。
「きゃっ!」
驚いたロザリアから、非難めいた口調の声が漏れる。
けれど、オスカーはその声を意に介さず、彼女の身体をベッドの上に優しく押し付けた。
「医者はなんと?」
一瞬、見開いたロザリアの瞳が恥ずかしそうに伏せられる。
「…もう心配いらない、と…。」
最後の方の言葉はオスカーの唇に塞がれて掻き消えてしまった。
重ね合わせた唇の角度を変え、舌先で彼女の唇をつつく。
おずおずと開いた中に、オスカーは舌を滑り込ませた。
この2か月余り、毎日飽きるほどキスを繰り返したのに、まだロザリアは自分からは求めてこない。
オスカーが差し入れた舌に、ほんの少し絡ませてくるだけだ。
恥ずかしさゆえなのだろうが、そんな様子が、ますますオスカーをあおってしまうことに、彼女自身は気がついてもいないだろう。
今までなら、そんなロザリアにオスカーも優しく返すだけだったが、今日は違う。
さらに深くロザリアの息さえもからめとるように、オスカーは舌を差し込んだ。
ゆっくりと上顎をなぞると、ロザリアの体がピクリと震える。
歯の裏までも、一本一本を舐めあげ、離れようとする彼女の頭を抑えつけた。
唾液の混ざり合う水音。
時間さえ忘れたように、オスカーはロザリアの唇をむさぼっている。
いつまで続くのかと思われたキスに、さすがに苦しくなったのか、ロザリアが眉を寄せた。
「ん…。」
ようやく唇を離したオスカーは、両腕を彼女の横につくと、青い瞳を見下ろした。
あの日。
彼女の瞳はどこか憂いに満ちていた。
今思えば、それは、オスカーの心がロザリアには無いと思っていたからだろう。
自分を愛していない男に抱かれることへの不安が、影になって表れていたのだ。
なぜ気づかなかったのか。
今、見下ろす彼女の瞳は、不安に満ちていても影はない。
オスカーは万感の思いを込めて、ロザリアを見つめた。
「君が欲しい。…もしも、嫌なら言ってくれ。」
今ならばまだ間に合う。
すでに体は昂っているが、一人でも鎮められるだろう。
ロザリアはまっすぐにオスカーを見ると、ゆっくりと手を伸ばした。
彼の肩に指先が触れる。
「わたくしも…あなたが…。」
その先を言うことは恥ずかしいのか、口ごもったロザリアにオスカーは再び、唇を重ねた。
唇を重ねながら、オスカーは両手でロザリアの頬を包み込んだ。
形の良い耳たぶを摘まみ、首筋を撫で上げる。
オスカーの手が動きを変えるたびに、ロザリアから漏れるわずかな喘ぎ声。
くっと寄せられた眉でさえも官能的で。
口中を思う様に蹂躙した後、ふと唇を離すと、二人の間に銀の糸がつながっている。
オスカーは薄く笑い、その糸を舌でなめとった。
すでに慣れ親しんでいる、彼女の味。
甘い風味に、体が熱くなってくる。
ロザリアはすでに口づけだけで、ぼうっとしているらしく、とろけたような瞳で、ぼんやりとオスカーを見上げている。
唇を首筋にあてたオスカーは、彼女の夜着のボタンをゆっくりとはずしていった。
首筋から肩へ。
舌を這わせながら、オスカーは彼女の肩から夜着を滑らせた。
ふるり、と揺れながら、二つのふくらみがオスカーの目の前にさらけ出される。
きめの細かな陶磁のような肌は、このところ外に出ていなかったせいもあるのか、目を射るほどに白い。
あまりの美しさに、オスカーが凝視していると、その肌がだんだんと薄紅に染まっていった。
「そんなに見ないでくださいませ…。」
隠そうとするロザリアの腕を、オスカーはベッドに縫いとめた。
彼女が動くたびに、ふくらみが大きく揺れ、艶めかしくオスカーを誘うようだ。
手を押さえつけたまま、オスカーは胸の蕾を口に含んだ。
まだ柔らかだった蕾がオスカーの唇で摘ままれ、舌先で転がされているうちに、ピンと固くなってくる。
右の蕾の後は、左の蕾を。
オスカーは両方を丹念に愛撫した。
豊かなふくらみを掌で持ち上げると、ロザリアがわずかに顔をしかめた。
力を入れ過ぎたか、と、動きを止めたオスカーは、触れた個所が赤く色づいていることに気が付いた。
ほんの数センチの傷跡。
幸いなことに、彼女の体を貫いた刃は筋に沿っていたこともあって、大きな跡を残さずに済んだ。
時間が経てば傷跡は完全に消える、と医者も太鼓判を押している。
けれど、その傷跡を改めて目にすると、オスカーの中にふつふつとあの時の怒りがよみがえってきた。
「…殺しておけばよかったな。」
オスカーは赤くなった肌にそっと指を添わせた。
その凍るような声に、ロザリアの体がこわばる。
「追放なんて生ぬるい。 君を傷つけたんだ。 …殺しても足りない。」
オスカーの瞳の中に暗い影がよぎる。
オスカーが許せないのはたぶんあの王子ではないのだ。
それがわかっているロザリアは緋色の髪の中に指を入れると、優しく掻き上げた。
幼子をあやすようなロザリアの手にオスカーの影が少しづつ弱まっていく。
「オスカー…。
わたくし、生きていますわ。 それに、こうしてあなたと心が通じ合えたのも、あのことがあったおかげですわ。
だから、誰のことも恨んではいませんの。 かえってすべての出来事に感謝したいくらいですのよ。
それとも、こんな傷のあるわたくしは…いや?」
無言のままのオスカーの唇が、傷跡に降りてくる。
きゅうときつく吸い上げられ、ロザリアが思わず声を漏らすと、オスカーは薄氷の瞳をふっと柔らかく細めた。
「これで俺のつけた痕になったな。」
赤い傷跡の周囲に愛の証の朱が散っている。
「君の体に跡を残すのは俺だけだ…。」
オスカーの唇が体中を這い、掌がふくらみを包み込むたびにロザリアは体を震わせた。
舌先がほんの少し触れただけでも、ロザリアの全身には絡みつくような甘いしびれが走る。
あまりにも長い間続く刺激に、抗議の声を上げようとしても、口から出るのは、吐息だけ。
しかもどこか、彼を誘うような声であることをロザリア自身も自覚してしまった。
身体をよじることで、せめてもの抗議を試みても、彼には伝わらない。
この前のときとは、明らかに彼の手が違う。
わけもわからなまま、一瞬のうちに終わった快感が、今日はいつまでも続いている。
今まで味わったことのないような不思議な感覚が、さざ波のように、時には大きな波のように、絶え間なくロザリアを襲ってくるのだ。
じわりと体の奥が熱くなる。
「ん…。」
胸の蕾を舐めあげられ、ロザリアは思わず声を上げた。