2.
「ロザリア!」
呼びとめられて振り向くと、手に本をたくさん抱えたアンジェリークの姿が目に入った。
高く積みあがった本のせいで、アンジェリークの顔は全く見えず、ふわふわと金の髪だけが揺れている。
「まあ、落としたら大変ですわ。半分よこしなさいな。」
積み上がった本の半分より多くをロザリアは自分の腕に取った。
アンジェリークの方が背が小さい。たくさん持つとしたら自分の方だと思ったのだ。
「ありがとう、ロザリア。優しいのね。」
アンジェリークはにっこりと笑って、ロザリアの横に並んだ。
女王試験の結果は、近頃目に見えて差がついてきている。
まじめにコツコツと育成をこなしているはずのロザリアよりも、アンジェリークのほうが爆発的に伸びていた。
なんと言っても贈り物の数が違いすぎる。
育成で1つ建物が建つ間に、贈り物で5つも6つも建ってしまうのだ。
差ができるのも当然だろう。
けれどロザリアはそのことを素直に受け入れていた。
「アンジェ、今日はどちらへ行くのかしら?」
いつの間にか、彼女を『アンジェ』と呼ぶようになっている。
自分のような頑なな人間の心でも、優しく溶かしてしまうアンジェリーク。
守護聖たちが彼女を好ましく思い、贈り物をするのは当然だと、ロザリアは認めていたのだ。
「う~ん、オリヴィエ様のところかな?オリヴィエ様ってすごく大人で落ち着くのよね~。」
ロザリアの胸がきゅんと痛んだ。
あれからもロザリアはオリヴィエの執務室に通っている。
アンジェリークを支持している他の守護聖たちは、明らかにロザリアに無関心になったが、オリヴィエは変わらなかった。
ロザリアのことを心から気にかけてくれているように思えるのだ。
そのせいか、つい居心地がよくて、オリヴィエのもとへ行ってしまう。
楽しいおしゃべりの時間は、ロザリアにとって、もう欠かせないひと時になっているのだ。
それでも、なんとなくアンジェリークのことは聞けずにいた。
もし、二人が想い合っていたとしたら。
大好きな二人が恋人同士なら、喜ばしいことのはずなのに。
こうしてアンジェリークの口からオリヴィエの名前を聞くと、なぜか少しだけ胸が痛い。
「わたくしは・・・ルヴァ様のところへ。」
本当はジュリアスのところへ行かなければならないが、この気持ちで行けばさらに落ち込むとことがわかっている。
アンジェリークびいきのジュリアスは、ロザリアに対して特に厳しいのだ。
ロザリアはなぜ、今、落ち込んだ気持ちになっているのか、わからないまま、アンジェリークと並んで歩いた。
アンジェリークは楽しそうに昨日のランディとのデートを話している。
犬に追いかけられた話で、ロザリアも一緒に大笑いした。
このところ、ロザリアはほとんどデートをしていない。
少しでも親密度を上げたくて、約束をしようとしたこともあったが、オスカーにすげなく断られてからというもの、誘うこと自体をやめてしまっていた。
誘ってくれるのも、オリヴィエくらいしかいない。
「ルヴァ様かあ~。ロザリアったら、ラブラブなんだから!」
「もう、やめて頂戴。」
さあっと頬が赤らむロザリアをアンジェリークが楽しげに見つめている。
そのあとも、話をしながら、のんびりと歩いて行った。
聖殿につくとアンジェリークが、腕の中の本をロザリアに乗せてくる。
古臭い匂いと目の前に現れた本の壁にロザリアはよろめいてしまった。
「ルヴァ様と仲良くね!」
鼻歌交じりに去って行くアンジェリークの背中に絶句して、ため息をついた。
アンジェリークと恋の話をするようになって、ロザリアはからかわれてばかりだ。
「ルヴァ様のどこが好きなの?」
二人だけのお茶会の時に尋ねられた時、「知識の豊富なところかしら。」と答えて、やっぱり笑われた。
理由を考えるのは、頭でっかちすぎる、と言うのだ。
「もっと、心で感じなきゃ。ドキドキとかきゅーんとか。どうしてもこの人しか見えない、とか。」
ロザリアは初めてルヴァと話した時のことを思い出した。
穏やかな話し方とあふれる知性。
今までロザリアの周りにいた社交界の男性は、いかに自分を大きく見せるかとか、女性にモテるかとか、そんなことにしか興味がないように見えた。
けれどルヴァは違う。
控え目で謙虚な姿に、一目で心惹かれてしまったのだ。
突然本の壁がなくなり、目の前が明るくなると、聞きなれた声が下りてくる。
「そんなに持ってちゃ転ぶよ。かしてごらん。」
顔を上げるとオリヴィエがいて、ロザリアの手から本の山を奪い取っている。
「・・・ルヴァのとこでしょ?私も部屋に戻るから。一緒に行こう。」
先に歩き出したオリヴィエを追いかけて、ロザリアが走る。
横に並ぼうとして、ほんの少し、後ろに下がった。
「さっき、アンジェがオリヴィエ様のところに伺うと言っていましたわ。」
ロザリアの言葉に、オリヴィエは聞こえないほど小さくため息をついた。
アンジェリークが執務室に来る用事はわかっている。
昨夜、ランディからの贈り物は建物6つ分に相当していたから、かなり疲れたのだろう。
睡眠と快楽。
オリヴィエのところでアンジェリークが求めるのは、その二つだけだ。
「わたくしも、あとで伺ってよろしいでしょうか。…少し相談したいことがありますの。」
「ダメだよ。」
思わず強い口調で、ロザリアをさえぎってしまった。
アンジェリークを抱いた後、平気な顔をしてロザリアに会うのは苦しい。
それに、いくらロザリアが鈍いとはいえ、情事の気配を感じ取られないとも限らない。
ロザリアには絶対に知られたくなかった。
「…申し訳ありません。」
驚いた顔をしたロザリアがうつむいた。
しまった、とオリヴィエは顔をしかめたが、もう遅い。
「あ、今日はちょっと、ってことだからさ。明日、おいでよ、ね?」
ロザリアは小さく頷いたが、返事がない。
そのまま黙って、ルヴァの部屋までたどり着いた。
「ありがとうございました。」
キチンと礼をして本を受取ったロザリアは、聞きなれた規則正しいノックの音を響かせて、部屋の中へと消えていった。
繰り返す荒い呼吸。
背中に絡みついた足が、びくりと大きく震えると、同時にオリヴィエも欲望を吐き出した。
「ちょっと寝ますね。」
情事の余韻もなく、アンジェリークは背を向けると、すぐに寝息を立て始めた。
執務室の奥の私室におかれたソファベッドは、二人で寝るには狭過ぎる。
それにアンジェリークと並んで眠るつもりは全くない。
オリヴィエは吐き出した欲望の分だけ溜まる気持ちの澱を抱えたまま、身支度を整えた。
足音を殺し、執務室へ戻ると、机に足を乗せ、大きくため息を吐き出す。
もう試験の結果は見えている。
ここからの逆転はないとロザリア自身も思っているはずだ。
それでも、けなげな彼女は、勉強を続けている。
自分のやっていることは一体何なのだろう。
アンジェリークがルヴァに手を出さないように、牽制するだけのつもりだった。
湖で抱いたのも、証拠を押さえるためにすぎない。
それなのに、今はかえってそのことがオリヴィエの弱みになってしまっている。
ロザリアは純粋な少女だ。
いくら理由があったとしても、愛のない関係を結んだオリヴィエをきっと認めないだろう。
もし、アンジェリークと守護聖の関係を周知の事実としていれば。
今の試験の結果も違ったものになっていたはずだ。
結局のところ、オリヴィエのしたことはアンジェリークの試験を優位にしただけだったような気がする。
そして、ロザリアの一番の願いだった女王の座を遠ざける結果になってしまった。
「勝手なもんだね…。」
ロザリアの悲しむ顔は見たくないと思うのに、たとえ女王でなくても、聖地に来てさえくれればいいと思ってしまう。
ルヴァと幸せになってほしいと思うのに、今、彼女がルヴァと一緒にいると思うだけで、胸がかきむしられるように苦しい。
混乱しているのは、本心とは違う行動をしているからだ。
本当の願いはただ。
ロザリアが欲しい。それだけ。
大きな音がして、奥のドアが開いた。
ぼんやりしているうちに、ずいぶんと時間が流れていたらしい。
すっかりいつも通りのアンジェリークが、「喉が渇きましたね。」と、言いながら、奥の部屋からお茶の支度を運んできた。
ソファに座り、紅茶を注いでいる。
自分のカップだけを満たして、アンジェリークは紅茶を口に含んだ。
「なんで、そんなに女王になりたいんだい?」
カップを持って来ようかと思ったオリヴィエだったが、もう飲む気にはならなかった。
2杯目をそそいだポットが空になったのが見えたからだ。
しかも向かい合ってお茶を飲むような、甘い空気もない。
「なんで?そんなの当たり前じゃないですか。」
両手でカップを持ち、にっこりとほほ笑むアンジェリーク。
「わたしみたいな一般人が女王様になれるなんて、この先絶対にないチャンスですよ? 誰だって、逃したくないはずです。
使用人もいて、食事もドレスもなんだって、好きなだけ贅沢してもいい。夢みたいじゃないですか?
わたし、ここへきてから、こんなに素敵な暮らしがあるんだ、って目が覚めたんです。もう、元の家になんて戻りたくない。」
反論の余地もなかった。
彼女の理由は至極当然のことに思える。
「女王には責任や義務もあるんだよ。…自由ばかりじゃない。」
やっとの思いでオリヴィエが吐き出した言葉をアンジェリークは一蹴した。
「そんな苦労は平気です。みんなに傅かれる喜びに比べたら、全然だわ。女王になりたいの、わたし。」
どんな理由にせよ、女王になりたいという気持ちは、アンジェリークのほうが強いのかもしれない。
紅茶を飲み終えたアンジェリークは、カップを置くと、オリヴィエに声をかけることもなく、部屋を出て行った。
オリヴィエが片付けるのが当然だと言わんばかりに、カップもポットもそのままを残して。
汗のひいた冷めた身体を、風が吹き抜ける。
ぶるっと身体を震わせたオリヴィエは、大きなため息をまたひとつ、吐き出した。