3.
さらさらと紙を滑るペンの音。
ルヴァの書庫の奥で、ロザリアは一人、本を読みながら資料をまとめていた。
もうすでに、試験の結果は見えている。
それでも最後まで、フェリシアのためにできるだけのことをしたかった。
「あ~、ロザリア。そろそろお昼ごはんにしませんか?」
声をかけられて顔を上げると、穏やかな笑みを浮かべたルヴァが立っている。
ルヴァがいると、そこだけ空気が優しく変わるような気がしてしまう。
ロザリアの身体がさっと熱くなった。
「お気づかいいただいて、申し訳ありません。午前の執務は終了ですのね。すぐに出ていきます。」
あたふたと本を閉じ、荷物をまとめようとしたロザリアをルヴァが優しく制止した。
「あの~、よろしければ、お昼をご一緒にいかがですか?」
初めてのルヴァからの誘い。
ロザリアは夢心地で小さく頷いた。
「いいお天気ですね~。」
「本当ですわね。」
たわいもない天気の話から、気象予報のメカニズムについて話しが移って行く。
ロザリアはルヴァの知識の深さに、改めて尊敬の思いを深くした。
彼の声はおしつけがましいところがなく、知識をひけらかすような態度がみじんもない。
多少難解な言い回しは慣れなくても、ロザリアが質問すれば、丁寧に答えを返してくれる。
ルヴァと話していると、ロザリアはもっともっと勉強したいと思う気持ちが強くなるのだ。
「ああ、すみませんね~。私はつい、つまらない話ばかりしてしまって。」
「いいえ!とても興味深いですわ。」
「退屈でしょう~?」
「いいえ!」
これははっきりと否定したい、とロザリアは思った。
「わたくしはルヴァ様とお話している時間、とても楽しいと思いますわ。もっと、いろいろとお伺いしたいことが、たくさんありますの。」
照れたのか、ルヴァは急に話をやめてしまった。
ロザリアも上手く会話が出てこずに、結局二人で黙ってカフェまで歩くことになった。
沈黙に緊張しているのか、ロザリアの心臓がドキドキと音を立てる。
これがアンジェリークの言っていた、心で感じるということなのかもしれない。
ロザリアはますます顔が赤くなるような気がした。
今日も聖地は晴れわたり、緩やかに雲が流れている。
ルヴァとロザリアは大混雑のカフェを避けて、中庭でランチをとることにした。
お互い、人ごみのなかよりも、ゆっくりとできる場所のほうが向いている。
テイクアウトのメニューはサンドイッチと飲み物くらいだったが、ロザリアは安心していた。
食べにくいものでは、みっともない。ただでさえ手が震えそうなのだから。
食べ始めてすぐ。
「あの、アンジェリークはどうしていますかね~?」
「ええ。オリヴィエ様のところへ伺うと言っていましたわ。」
「そうですか~。」
今までとは少し違うルヴァの反応に、ロザリアは気づいた。
いつものルヴァなら、もっとアンジェリークのことを聞いてくるはずだ。
それに今、二人が並んでいる微妙な距離感も、今までと違うと言えば違う気がする。
この間デートをした時は、向かい合って座ったのに、今日は隣に並んでいるのだ。
二人掛けのベンチは思いのほか距離が近くなって、ロザリアはさっきから緊張していた。
「ルヴァ様、アンジェリークと何か?」
他の守護聖ほどあからさまではないにしろ、ルヴァも心の中ではアンジェリークを推しているのかもしれない。
それならばそれで仕方がない、と、ロザリアは落胆しながらも、受け入れるしかないと思っていた。
ルヴァはロザリアの言葉に明らかに動揺し、顔を赤くしながら口をぱくぱくさせている。
きっと、自分からは言いにくいのだろうが、ロザリアに執務室に来てほしくないと思っているのだろう。
じわりと目頭が熱くなったロザリアは、口の中にサンドイッチをいっぱいに詰め込んで、早口で飲み込むと、席を立とうとした。
「待ってください。」
ルヴァがロザリアをじっと見つめている。
「すみませんね。言葉がうまく見つからなくて…。あ~、私はいつもこうなんですが…。」
ロザリアもじっと見つめ返していた。
風が木々の匂いを運んできて、ロザリアの長い髪をなびかせる。
ドキドキという鼓動が秒針を刻むように、耳にうるさく感じた。
「ああ、そのですね、私は貴女の勉強の協力をしたいと思っています。あ~、その~。」
結局、数分間唸った後、ルヴァは「すみません。」と頭を下げた。
「もう少し、考えさせてください。貴女のことを。」
ロザリアを見つめるグレイの瞳は複雑な色をしていて、彼の考えを読み取ることはできなかった。
けれど、ロザリアのことを考えてくれる、と言ったのは間違いない。
「はい…。」
ドキドキして、心臓が壊れそうだ。
いつの間にか、ルヴァへ想いが伝わるような態度をとっていたのだろうか。
淑女のたしなみを忘れて、近付きすぎていたのだろうか。
いくら考えても、思い当るようなことはなく、頭は混乱するばかりだ。
ロザリアは飲み物の入った紙コップを強く握りしめた。
とてもその場にいられなくなって、ロザリアは軽く礼をすると、一目散に駈け出していた。
ロザリアの姿が見えなくなると、ルヴァは長いため息を吐き出した。
緊張しすぎて、ロザリアが本当に自分に好意をもってくれているのか、よくわからないままだ。
少し前、アンジェリークが突然本を借りたいとやってきた。
初めのころ、足しげく執務室に通ってくれたアンジェリークだったが、試験が上手く行き始めるとぱったりと姿を見せなくなっていた。
一時は、彼女が自分に好意を寄せてくれているのではないか、とさえ思っていたほど、通ってくれていたのだ。
アンジェリークの小鳥のような笑い声、はにかむような笑顔。
女性とほとんど接したことのないルヴァにとって、それは初めての体験で。
彼女に対する好意は、ほとんど特別なものになりかけていた。
だから、アンジェリークがやってきた時、ルヴァはすぐに喜んで迎え入れたのだ。
「ルヴァ様、恋をしたことはありますか?」
たくさんの本を持って帰ろうとしたアンジェリークが、ルヴァに尋ねてきた。
ルヴァはかぶりを振り、「いいえ。そのような機会もありませんでしたからねぇ~。」と苦笑いを浮かべるしかない。
まさか、アンジェリーク自身に淡い気持ちを抱いている、とは言いにくい。
適当にごまかすつもりだった。
「そうですか…。ルヴァ様、素敵だから、きっと、下界におりたらモテモテになりますよ。」
アンジェリークは、ちょこっと小首をかしげて、微笑んだ。
天使を絵に描いたら、きっとこんな表情になるだろう。
ルヴァの胸が激しく鼓動を刻む。やはりアンジェリークは自分に好意を持っているのかもしれない。
そう思ったのだ。
「そんなことないと思いますよ~。私はこの通り、ぼんやりしていますからね~。」
それは本心だった。モテた記憶など、今まで一度もない。
聖地にはもっと魅力的な男性が数多くいるし、自分でもそれは良くわかっている。
「いいえ!モテますよ!だって、ロザリアだって、ルヴァ様のこと…。」
「え?」
アンジェリークと入れ替わるように、執務室に訪れるようになったロザリア。
初めはアンジェリークと比較して、とっつきにくい少女だと思っていたが、親しくなってみると、頭の回転も速く知識欲も旺盛だ。
彼女と話していると、時々、自分が教えられているような錯覚も感じる。
けれどまるで教師と生徒のような関係。それくらいにしか思っていなかった。
「デートに誘ったら、きっとロザリア、喜びますよ?」
「そうでしょうか…。」
ルヴァは困惑していた。
自分に好意を寄せているかもしれないと思っていたアンジェリークから別の女性、ロザリアとのデートを勧められたのだ。
すぐに受け入れることも、かといって上手く断ることもできそうもない。
「ロザリアには幸せになってほしいから。」
緑の瞳をキラキラとさせて、アンジェリークが笑う。
「ルヴァ様、がんばってくださいね。わたし、応援しています。」
アンジェリークが帰った後も、ルヴァは茫然としていた。
本を読もうと開いてみても、活字は目の前を素通りしてくだけだ。
ロザリアが自分をに想いを寄せている。
そう考えることはくすぐったいようなそれでいて暖かいような不思議な気持ちがする。
それからルヴァはロザリアを急に意識し始めた。
女性として、彼女は美しく、まさしく薔薇のような高貴な輝きを放っている。
それに会話の端々に感じる知性も好ましい。
気がつけば、目で追うようになっていた。
「ロザリア、今日もルヴァ様のお話をしていましたよ。」
アンジェリークは本を借りに来ては、ルヴァにアドバイスを与えてくれた。
そのせいか、まるでルヴァはずいぶん以前からロザリアを意識してきたような気になっている。
今ははっきりと、ロザリアに好意を持っているということができた。
初めての恋人。
それだけで、いつも思慮深いルヴァが浮かれてしまっていた。
先日もアンジェリークにせっつかれて、ようやくランチに誘うことができた。
ロザリアの恥ずかしそうな表情を好意から来るものだと言われて、そうかもしれないとも思う。
報告したルヴァにアンジェリークは微笑んだ。
「次はデートですね。最初のデートが大切なんですよ。」
アンジェリークの言うとおりにしていて、ロザリアと両想いになることができた、と、ルヴァは信じていた。
もし、ロザリアの想いを聞いていなければ、自分は全く気がつかなかっただろう。
恋の機会を自ら逃していたと思えば、今、アンジェリークの言うことは絶対だった。
「あ~、ありがとうございます~。デートだなんて、緊張しますねぇ。」
「わたしに任せてください。」
アンジェリークはルヴァの手をとると、天使のような頬笑みを向けたのだった。
数日後、ロザリアはオリヴィエの執務室で紅茶を飲んでいた。
この前断られてから、どうも行きにくい気がしていて避けていたのだが、どうしてもオリヴィエと話がしたかったのだ。
香りのよい紅茶がロザリアの心を和ませる。
ふっと表情が緩んだロザリアを、オリヴィエが優しく見つめていた。
「こないだはごめん。で、お姫様のお怒りは解けたのかな?」
おどけて言うオリヴィエにロザリアはくすりと笑みをこぼした。
「怒ってなんかいませんわ。」
確かにあの時、怒りは感じなかった。ちくりと胸を刺した痛みは怒りとは別のもの。
それがなんだったのか、今もよくはわからない。
「実は、ルヴァ様にデートに誘われましたの。」
相談に来た、と言われれば、オリヴィエは話を聞くしかなかった。
突然、ランチに誘われるようになったこと。
ロザリアのことをもっと知りたいと言われたこと。
聞けば聞くほど、淀んだ気分になってくる。
「よかったね。」
ルヴァが好きなのはアンジェリークだとばかり思っていた。
でも、今のロザリアの話を聞く限りでは、ルヴァの気持ちはロザリアに向いているようだ。
そうなれば、二人は晴れて両思いの恋人同士になる。
ロザリアも聖地にくるだろう。
望んでいた結末のはずなのに、やはりオリヴィエの心は晴れなかった。
「もうすぐ試験も終わりになりますわね。わたくし、まだまだフェリシアの育成を続けたかったですわ。」
この頃、オリヴィエはとてもつらそうな表情を見せることがある。
試験の終わりを寂しいと思っているからかもしれない、とロザリアは考えた。
ロザリア自身にも寂しさがある。
この今の生活を変えたくないと思っている自分がどこかにいることに気づいていた。
「フェリシア、綺麗に整ってきたところだもんね。たしかにもうちょっと見ていたいよ。」
アンジェリークの大陸が中の島に建物を立てるまで、あと十数日だろう。
それは試験の終わりを意味している。
試験が終われば、アンジェリークとの愛のない関係も終了だ。
最後の追い込みで忙しいのか、アンジェリークはここ数日オリヴィエのもとを訪れていなかった。
「わたくしは、補佐官になろうと思っていますわ。…アンジェリークもぜひに、と望んでくれていますの。」
すでにロザリアは敗北を受け入れている。
寂しそうに微笑む彼女を見ると胸が痛かった。
「オリヴィエ様には感謝していますわ。オリヴィエ様の存在がどれほど、わたくしの助けになったことか…。」
「そんなことないよ。あんたのがんばりはみんな知ってるんだから。胸を張って、補佐官におなり。」
ロザリアが補佐官になって聖地に来ることを決心してくれた。
本当の願いとは違っていても、傍にいられるならば構わない。
オリヴィエは自分のしたことが、間違いではなかったと、素直にそう思えた。
おしゃべりを楽しんでいると、執務終了のチャイムが聞こえた。
お茶の時間だけと思っていたはずなのに、オリヴィエと過ごす時間はあっという間に空に星を連れてくる。
名残惜しいと思ったが、ロザリアは席を立った。
「またおいで。」
オリヴィエのブルーグレーの瞳がロザリアを映している。
瞳の中に映る自分を意識した途端、ロザリアの心臓が大きく鼓動を鳴らした。
感じたことのない苦しさに息をのんだ瞬間、足がもつれて、ロザリアは前に倒れ込んだ。
「あぶない!」
声と同時に、オリヴィエがロザリアの体をしっかりと抱きとめる。
衝撃が来ると思って目を閉じたロザリアは、身体を包み込んだ力強い腕にしがみついていた。
細身に見えて、男性らしいオリヴィエの腕。
暖かなオリヴィエの腕の中は、いつもの彼の香りがして、まるで守られているようだ。
顔を上げると、オリヴィエの端正な顔が目に入り、ロザリアは全身が熱くなるのを感じた。
頬を彼の体に寄せたまま、固まったように動けない。
オリヴィエも、初めて感じたロザリアの柔らかさに、咄嗟に身動きができなくなっていた。
抱きしめたぬくもりを、このまま離したくない。
そんな思いに囚われてしまう。
思わず、力を込めてしまっても、ロザリアは動かなかった。
青紫の髪に唇を寄せ、彼女の香りを確かめる。
ドアをノックする音がして、ロザリアは弾かれたようにオリヴィエの胸を押した。
「も、申し訳ありません!」
何を言っているのか分からなかったけれど、なぜか後ろめたい気がした。
礼も忘れて、ドアを勢いよく開けると、アンジェリークが目を丸くしている。
「どうしたの?」
アンジェリークが尋ねる声が背中に聞こえてくる。
けれど、ロザリアは振り返ることができなかった。
顔を見られたら、恥ずかしいほど熱をもっている。自分でもそう分かっていたから。
「なにかしちゃったんですか?」
アンジェリークが後ろ手にドアを閉め、オリヴィエに近付いてくる。
「我慢の限界で押し倒しちゃったとか?」
「そんなことするわけないでしょ。」
思わず声を荒げたオリヴィエの前で、アンジェリークはソファに腰を下ろした。
さっきまでロザリアが座っていた場所だ。
苦々しい思いでオリヴィエはわざと顔をそむけ、彼女から離れるように執務机に身体を預けた。
「そうですよね。オリヴィエ様がロザリアに嫌われるようなことをするはずないですよね。
それに、ロザリアはルヴァ様と上手くいってるわけだし。」
緑の瞳が面白そうに歪む。
「なにかやったのかい?」
ルヴァの急変も彼女のたくらみだとしたら。
「面白いですよね。最初、ルヴァ様も味方にするつもりだったから、ちょっとだけ気がある風にしたんです。
ルヴァ様も免疫がないから、すぐにその気になってくれたんですよ?なのに、ロザリアの気持ちを教えたら、すぐにロザリアの方へ行っちゃって。
誰だって、好きになってくれる人を好きになっちゃうんですね。ルヴァ様みたいに賢い人でも同じなんて。」
まるでコメディ映画でも見ているような、けたけたという笑い声。
実際、楽しくて仕方がないのだろう。
あれほど知識の深いルヴァが、アンジェリークの掌で踊らされているのだから。
「これでロザリアも絶対に補佐官になってくれるわ。大好きなルヴァ様と両想いになって、聖地で暮らせるんだもの。」
時々オリヴィエには不思議にさえ思えた。
アンジェリークはロザリアに、執着に近い感情を抱いている。
「あとは、放っておいても、わたしが女王になりますね。最後にみなさんと上手にお別れしておかなくちゃ。」
せいぜい、泣いてみせたり、悲しいそぶりをみせて、『女王になるから別れる』状況を演出するのだろう。
女王になった後も、利用できるように。
彼女の手管に、いまだに守護聖の誰も気づいていないのだから。
「あんたは男が嫌いなのかい?」
ふと口をついたオリヴィエの言葉に、アンジェリークは今までで一番不快そうな表情をした。
「嫌いじゃありません。セックスさえさせてあげれば、なんでも言うことを聞いてくれるんだもの。かわいいくらいです。」
言葉と裏腹に、口調に込められた憎しみを、オリヴィエは感じ取った。
きっと、アンジェリークにも、さまざまな苦しみがあるのだろう。
家に戻りたくない、と言った時の暗い瞳。
女王になりたい理由も、今の場所を嫌悪しているからのようにも思える。
「もしかして、女の子が好きだなんて思ってないですよね?」
人の心を察する能力でもあるのか。
考えを読み取られてオリヴィエは肩をすくめた。
「…ロザリアはわたしの理想の女の子だから。汚い感情を持ってほしくないんです。ずっと綺麗で純粋なままでいてほしい。それだけです。」