1.
彼女を助ける男は自分でありたかった。
目を開けたロザリアは、最初にこう言った。
「オスカーは…? 彼にお礼を言わなくては…。」
包帯の巻かれた痛々しい手が、ぎゅっとオリヴィエの手を握りしめる。
青い瞳の中に映る人影は確かにオリヴィエ自身なのに、彼女が見ているのはオリヴィエではなくて。
強い力で彼女の手を握り返したオリヴィエは、小さく首を横に振った。
「オスカーなら、奥にいるよ。」
「怪我は? 彼は無事ですの?」
「まあ、しばらくは動けないだろうけど、大丈夫。 頑丈なのが取り柄みたいな奴だから。」
「そう、ですの…。」
言葉を出すたびに、ロザリアは眉を少し寄せている。
ケガが痛むのだろう。
事故の規模の割にはケガは大きくなかったが、肋骨にいくつかヒビが入っているらしい、というのが医者の見立てだった。
らしい、というのは、今まで正確な検査ができる状態ではなかったからだ。
強引に起き上ろうとするロザリアを、オリヴィエは軽く押しとどめた。
「もうちょっと、横になってた方がいい。 頭を打ってるかもしれないから、意識が戻ったら検査をするって言ってたからね。」
「…わたくし、気を失っていましたの?」
「そうだよ。 なかなか目を覚まさないから、キスでもしようかと思ってたところだったよ。」
少しおどけて言うと、初めてロザリアがほほ笑んだ。
「ごめんなさい。 そういえば、オリヴィエがここにいるんですもの。 ずいぶん時間が経っているのでしょうね。」
彼女の意識がはっきりしていることに、オリヴィエは事故の知らせ以来、初めて、心から笑った。
オリヴィエが辺境の惑星に視察に出たのが5日前。
星の小道の整備がなされていないほどの文化的に未開の惑星だった。
いまだに惑星内のあちこちで戦火があり、少数の国以外は治安という文字すら皆無の状態。
オリヴィエが派遣されたのは、夢のサクリアが求められていたことも要因の一つだが、なによりも自分の身は自分で守れる程度の力を持っていないと危険だったからだ。
護衛はつくけれど、あまり大勢でぞろぞろと動くのは不自然でもある。
それに、裕福だと思われれば、狙われる確率も増える。
女王がオリヴィエに白羽の矢を立てたことは、当然とも言えた。
惑星まではシャトルでも丸一日半の距離。
目的の視察が終わるまで、おそらく聖地の時間でも一週間程度はかかると予想されていた。
「お土産はなにがいい? 結構いい鉱石が採れるらしいんだけど。」
「まあ、オリヴィエったら。 あの星はとても危険ですのよ。
そんな寄り道はなるべくお止しになって。
…あなたのことですから、言っても無駄だとは思いますけれど。」
珍しい宝石が採れると聞いて通り過ぎることなどできないオリヴィエの性格はよく知っている。
それでも、ロザリアはため息をつき、軽くオリヴィエをにらんだ。
「バレた?」
「もうたくさんお持ちでしょう? そんなにつけきれませんわよ。」
ほんの少し呆れた気配をにじませてロザリアが言うと、オリヴィエは
「たった一つの宝石を手に入れたら、他の物はいらなくなるのかもしれないね。」
と肩をすくめた。
ポロリとこぼした本音。
いつからか、オリヴィエにとって、本当に欲しいものは一つだけだ。
どんな宝石よりも美しい、薔薇の名を持つ女性。
手を伸ばせば届くかもしれない。 でも、永遠に失うことになるかもしれない。
狭間で漂う想いに、答えが出せないまま、時間だけが過ぎていく。
女王試験のころから、何一つ変わることのない曖昧な関係。
「いってくるね。 お土産、楽しみにしてて。」
シャトルのタラップから手を振ったオリヴィエに、ロザリアはいつも通りの笑顔を返してくれた。
聖殿の広間のシャンデリアが落下した、という事故の知らせを聞いたのは、視察の予定をあと一日残した朝だった。
端末に入った一報は、信じられないくらい簡潔な一文で、何一つ詳細は分からない。
焦ったオリヴィエは、あとの調査を同行者に一任すると、シャトルに飛び乗った。
『ロザリアが巻き込まれた』
それだけで、帰還するには十分すぎる理由だったのだ。
いつもの落ち着いた雰囲気はかけらもなく、聖殿中が騒然としている。
オリヴィエが聖地に戻った時、すでに問題のシャンデリアは片づけられ、床に残る大きな陥没跡だけが事故の名残を伝えていた。
単なる事故なのか謀略なのか。
様々な情報が飛び交っている中、オリヴィエはロザリアの安否だけを拾い歩いた。
聞けば聞くほどひどい事故の詳細に、心臓がつぶれそうなほどの焦燥感が湧く。
ロザリアが手当のために運び込まれた病院を聞きあてると、オリヴィエは一直線にそこへ向かった。
案内されたのは、奥から2つ目の個室。
もちろん特別室に違いないが、一番ものものしく警備されているのは、さらに奥の部屋だ。
白衣の人間が大勢出入りし、警備兵がドアを固めている。
一方、隣のロザリアの部屋の前には誰の姿も見えず、中にも、ルヴァが一人、座っているだけだった。
「ああ~~、オリヴィエ。 大変なことに…。」
オリヴィエの姿を見るなり、立ち上がったルヴァを手で制して、ベッドのそばに駆け寄った。
頭に包帯を巻き、目を閉じているロザリアが、静かに横たわっている。
オリヴィエは跪くと、彼女の手を握った。
「なにがあったの? 」
ロザリアの手のぬくもりに触れて、ようやくオリヴィエは生きた心地を取り戻した。
この何時間、まるで石を飲み込んだような閉塞感で気が狂いそうだったのだ。
どれほどのケガかはわからないけれど、彼女がこうして無事でいる。
…生きて、いる。
それだけでなにもかもが救われたような気持になった。
「いえ、本当に突然だったんですよ。 私はその場に居合わせなかったのですが、あっという間もなかったと、ランディが言っていました。」
彼もずっと緊張していたのだろう。
ルヴァはふうと、息をこぼすと、堰を切ったように話し始めた。
「ちょうど真下にいたロザリアに、ジュリアスが叫んだ時、オスカーが…。」
「オスカーが?」
「彼女を助けるために飛び込んだんです。」
ランディから聞いた、というルヴァの話で、オリヴィエの脳裏に、その瞬間が映像のように浮かんできた。
事故が起きた時、部屋にいたのは、ロザリアのほか、ランディ、ジュリアス、オスカーと数人の職員。
ロザリアは職員と打ち合わせをしていて、部屋のほぼ中央に立っていた。
そして、広間の隅にあったソファでジュリアスとランディが話をしていて、オスカーはちょうどその対角線上の片隅で一人、お茶を飲んでいた。
いつも通りの平穏な聖地の午後の光景。
それが、ガタッと音がした、と思った瞬間、巨大なシャンデリアが落下してきたのだ。
「危ない!」
気付いたジュリアスがロザリアに向かって叫んだが、彼女は何のことか瞬時に理解できなかったらしい。
ランディも呆然として、何もできずにいた。
「逃げろ!」
オスカーの声がして、そばにいた職員が蜘蛛の子を散らすように逃げていても、ロザリアだけが真下に残ったまま。
その時、一番遠くにいたはずのオスカーがシャンデリアの下に飛び込んだ。
ロザリアを体全体でかばうように。
瞬間、砕け散ったシャンデリアの欠片がキラキラとあたりに撒き散らされた。
壊れた大理石の破片がわっと床から立ち込めて、視界が白く染まる。
静寂の後、すぐに上がった悲鳴。
がれきをかき分けて救出されたオスカーは、鎧を着ていたおかげで衝撃を吸収されてはいたが、一番重いケガを負ってしまったのだ。
「じゃあ、隣の部屋は…。」
「オスカーがいます。 彼はもう意識を取り戻していますよ。さすがですね。
ただ、背中のケガがひどいようで…。 しばらくはベッドで療養になるでしょう。」
「そっか…。」
ロザリアの無事はオスカーのおかげなのか。
二人きりになって、改めてロザリアの手をぎゅっと握ると、反射的に彼女の手にも力がこもる。
まだ意識を取り戻してはいないから、、それは本当にただの反射的な動きに過ぎないけれど。
オリヴィエは柔らかい手に思わず唇を寄せた。
腕には包帯が巻かれているものの、目立った傷はない。
感謝してもしきれない、と心の中でオスカーに何度も礼を告げた。
目が覚めた彼女の、最初の言葉を聞くまでは。
「目が覚めた、って、医者に言ってくるよ。ちょっと待ってて。」
検査の結果、ロザリアのケガは肋骨のヒビと数か所の打撲で、生活には支障がない程度で済んだようだ。
心配した脳震盪の影響もなく、次の日には、ベッドから出ることを許可された。
シャンデリアの破片であちこちに負った傷には、まだ変わらず包帯が巻かれている。
けれど傷が残るようなことはないだろう、と医者も安心したように教えてくれた。
「オスカーのところへ行きたいんですの。」
起き上ったロザリアの言葉にオリヴィエは頷いた。
目が覚めた時から、彼女の望みは一つ。
まだふらつくロザリアの体を支えるように、オリヴィエは隣の病室へと彼女を連れて行った。
オスカーの状態をオリヴィエは知っている。
ちょくちょく部屋をのぞいているし、オスカーと二人で話もしたからだ。
「…無事でよかったよ。」
それはオリヴィエの本心だった。
オスカーは仲間であり、かけがえのない友人でもある。
「ホントに頑丈だね、あんた。」
オリヴィエが冗談めかして鼻を鳴らすと、オスカーもふん、と斜に構えて腕を組んでいる。
ふと、沈黙がおちた。
オリヴィエの言葉に今までのオスカーならウィットに富んだ答えを返してきたはずだ。
そのオスカーが憂鬱な表情で黙り込んでいる。
あんな事故があった後では気分が上がらないのも無理はない。
楽しい話題を探していたオリヴィエに、オスカーのアイスブルーの瞳が注がれている。
その瞳の中に、ある種の影を感じ取ったオリヴィエは、オスカーの瞳をじっと見つめ返した。
なぜか湧き上がる悪い予感。
この手の予感が当たることを、オリヴィエは経験上、良く知っている。
「あんた…。」
オリヴィエが口を開きかけた時、医者が部屋の中に入ってきて、それ以上オスカーとは話せなかった。
オスカーの部屋の前に、もう警備はついていなかった。
ロザリアよりも早く意識を取り戻していたオスカーは、すぐに警備兵や見舞いの人間たちを追い払ったのだ。
それはそれでオスカーらしいが、女性たちの見舞いもすべて断っているというのはらしくない。
今までなら、ここぞとばかりに、ベッドに連れ込んでいただろうに。
「誰だ? 見舞いなら後にしてくれないか。」
ハッキリしたオスカーの声に、ロザリアが来訪を告げると、急に中からドアが開く。
いつもと全く変わらない様子のオスカーが、二人を見て、にやりと笑みを浮かべていた。
「シャンデリアの落下は事故、ということで落ち着きそうだ。」
さっき、調査の結果を受け取った、と、オスカーは二人に書類の束を渡した。
細かな文字によれば、鎖の老朽化が著しく、さびた部分から腐食が起きていたらしい。
すでに切れていた鎖が4本。
落下したのは5本目の鎖が切れたことが原因だ、と、報告書はまとめている。
ざっと目を通して、オリヴィエは肩をすくめた。
「全く気が付かなかったってさ。…宮殿の総点検をしたほうがよさそうだね。 あちこちでありそうじゃないか。」
「手配は済ませたさ。…もうこんな事故はごめんだ。」
忌々しげにつぶやいたオスカーに、二人の話を黙って聞いていたロザリアが目を伏せた。
「補佐官であるわたくしにも、当然責任がありますわ。…本当に申し訳ありません。」
今にも泣きだしそうに眉を寄せ、ロザリアは深々と頭を下げた。
その拍子に大きく体が傾き、前につんのめってしまったのを、慌ててオリヴィエが支える。
抱きかかえた彼女の体は小刻みに震えていた。
「いや、君の責任じゃない。 単なる老朽化の事故、だ。」
オスカーがそう言っても、ロザリアは頭を下げたまま、譲る気配がない。
オリヴィエはオスカーに向かって小さく首を振ってみせた。
ロザリアはもともと正義感が強く、責任感も人一倍だ。
『何でもない』という言葉だけですべてをなかったことにするなどできないだろう。
まして、目の前に自分のためにケガを負ったオスカーがいるとなれば。
オリヴィエの無言の頼みを聞き入れたのか、オスカーは困ったように小さく息を吐き出した。
「…事故は君の責任じゃないが、俺のケガを気にしてくれているなら、そうだな、退院するまででいい。
俺を手伝ってくれないか。」
ぱっと顔を上げたロザリアに、オスカーは続ける。
「見ての通り、肩がやられて片手が使えない。
食事一つにも不便だが、誰かに頼むのも面倒だと思っていたところなんだ。
君が手伝ってくれるなら助かる。」
背中からシャンデリアを受け止めたというオスカーは、左半身に特にダメージを受けたらしい。
とっさに利き手でロザリアを抱え込んだせいだろう。
それでも左肩が固定されているのと、左足全体に包帯が巻かれている以外は目立った外傷がないのはさすがというべきか。
本当にオスカーでなければ、二人とも命を落としていたかもしれない。
「そんなこと! 当然ですわ。 わたくしにできることなら、何でもさせてくださいませ。」
ロザリアの体の震えがようやく収まって、オスカーを見つめている。
どうせしばらくは入院させられるのだ。
何もせずに考えてばかりいるよりは、何かさせたほうがいい。
やっと少しいつもの雰囲気を取り戻したロザリアに、オリヴィエもほっと安堵の息をこぼした。