3月の雪

2.


「君に頼んだのは食事の介助だけのはずだが。」
ベッドの上で体を起こしたオスカーは、その背中に添えられた手にため息をついた。
「ええ。わかっておりますわ。」
すました顔でほほ笑むロザリアに、オスカーは苦笑いするしかない。
正直、彼女がここまで甲斐甲斐しく世話を焼いてくるとは予想していなかった。
嬉しくないわけではないが、困る、という気持ちが一番近い。

「嫌ならとっとと治すんだね。」
オリヴィエのからかいにオスカーはますます眉を寄せる。
オスカーの病室で当たり前になりつつある光景。
飲み物を取りにロザリアが席を立つと、オスカーはオリヴィエにこぼしはじめた。

「なんとかしてくれ。 ほかのレディたちの見舞いも全部門前払い、酒も飲めない。
 これじゃ入院というよりも収監だぜ。」
ため息をつくオスカーは、ケガとは別の意味ですっかりまいっているらしい。
まるで猛獣が檻に入れられているかのような様に、オリヴィエはくっと吹き出した。
たしかにこの状態は。オリヴィエでも同情する。

「まあ、しょうがないよ。 今のロザリアはあんたが完治するのだけが目標みたいなもんだからさ。」
彼女自身のケガはもう時間が治癒してくれる状態だ。
10日ほど前に退院して、執務も徐々に再開している。
幸いなことに今現在、神鳥、聖獣ともに宇宙は驚くほど平穏で、執務も定時で帰るのが当たり前。
ロザリアが執務の合間、毎日オスカーを見舞っていると聞き、今日はオリヴィエも一緒に来たところだった。


「今日は連れて帰ってくれよな。 …約束がある。」
オスカーがにやりと笑みを浮かべる。
『約束』が、よからぬことだとわかってはいたが、オリヴィエは頷いた。
そこは男同士の呼吸とでもいおうか。
入院生活も1か月となれば、そろそろ羽目を外したくもなるのもわかる。

オスカーも足の包帯が取れ、あとは左肩の固定が外れれば、リハビリが始まる。
そうなれば無事に退院だ。
予想以上の早い回復に医師だけでなく、ロザリアが一番安堵しているはずだ。
そばで見ていたオリヴィエは、オスカーの病状の回復と共にロザリアも明るくなってきたことを知っている。
オスカーの退院は彼女としても一つの区切りにはなるだろう。

戻ってきたロザリアは、明日の朝の分までの飲み物を備え付けの冷蔵庫へ入れた。
洗濯物をオスカーの私邸まで持ち帰ったり、本を差し入れたり。
こまごまとした心遣いを、ロザリアは実によくやっている。
けれど。
「なにかフルーツでも召し上がる?」
ニッコリとした微笑みは清らかすぎて、男の気持ちなど到底わかってくれるようには思えない。
とたんにオスカーがオリヴィエに目くばせしてみせる。
無言の圧力を感じ取ったオリヴィエは、ロザリアにウインクをした。


「ね、今日は二人で食事しない?」
「いけませんわ。今からオスカーの食事がありますもの。
 わたくしがお手伝いする約束ですから。」
生真面目なロザリアは、あの日から一日も欠かさずオスカーの手伝いを続けている。
食事だけ、どころか、入院中はほとんど付き添いのようにしていたのだ。
オスカーでなければ、彼女の好意を勘違いしてしまったかもしれない。
オリヴィエだとて、本当のところは穏やかではいられなかったからこそ、付いてきてしまったのだから。

「あんたの退院祝い、まだだったでしょ? 一日くらいならオスカーだってなんとかなるって。」
オリヴィエはダークブルーの瞳で優しくロザリアを見つめた。
それでも、まだロザリアは首を縦には振らない。
「ああ。 俺のことなら気にしないでくれ。 二人で行ってくるといい。」
『二人で』という部分を若干強調すると、ロザリアがほんのりと頬を赤らめた。
オスカーはふっと笑みを浮かべ、ちくりと心に刺さる棘をやり過ごす。
このくらいの痛みはなんてこともない。…すっかり慣れたものだ。

「本当によろしいんですの…?」
「今日だけだぜ。」
わざとそういえば、ロザリアは迷いながらも、かなり心が傾いているようだ。
「この男のことだから、ここの美人ナースをとっくに口説いてんじゃないの? 手伝ってもらえるから心配いらないよ。」
「おいおい、 口説かれたのは俺の方だぜ。」
「やっぱり…。手、出してんじゃないの。」

軽口の応酬の合間に、オリヴィエはロザリアの肩に手を乗せると、徐々に部屋の外へと連れ出していく。
始めこそ渋っていたロザリアも、オリヴィエの上手い誘導に乗せられて、すっかりその気になったらしい。
ためらいながらも、足は外に向いている。
気が付けば、ドアの向こうにロザリアは押し出されていて、オリヴィエが、肩ごしにオスカーにウインクを投げていた。



一人になって、オスカーは大きなため息をついた。
慣れたはずの胸の痛み。
けれど、それは決して消えることなく、降り積もるように溜まっていく。
やがて、コンコンと軽い調子でドアがノックされ、女が顔をのぞかせた。
長い黒髪のエキゾチックな美女で、スレンダーなドレスがよく似合っている。

「オスカー様? いいかしら?」
「ああ。」
にやりといつもの笑みを浮かべて、オスカーが手招きすると、女はするりと滑るようにドアを抜け、ベッドの片隅に腰を下ろした。
「寂しかったわ。」
女の手がオスカーの胸を滑る。
「俺もさ。 君が恋しかった。」
オスカーが女の腰を抱き、胸の中へと引き寄せた。
久しぶりに触れた女の感触に身体が昂ってくるのがわかる。

「まだ痛むの?」
「いや。もう痛みはない。…来いよ。」
見下ろした女の瞳はすでに情欲に濡れている。
慣れた手つきでオスカーの夜着の隙間から素肌に触れると、女の方から唇を奪う。
舌を絡ませあう水音が、静かな病室で淫靡に響いた。
まだ左肩の固定は外れていないが、お決まりの情事なら片手で十分だ。

オスカーは自分を跨いで喘ぐ女の喉を見つめながら、長い髪に指をからめる。
ふと、女が目を開けて、オスカーを見た。
「長い髪が好きなのね。」
「ああ、女性の長い髪にはそそられる。」
手にした髪に唇を寄せたオスカーに女がクスリと笑う。
「あら、そんな噂が立ったら、聖地中の女性が髪を伸ばしますわよ。
 オスカー様の恋人になるには髪を伸ばさなくちゃ、なんてね。」
「それはいい。 髪の長い女性だけを口説けばよくなる。」

そうなっても、彼女は髪を伸ばしていてくれるだろうか。
豊かな巻き髪に口づける想像をしながら、オスカーはわざと軽口を返した。
長い髪が好きなのか。
長い髪の彼女が好きなのか。 …そんなことは考えるだけ無駄だ。
女は、それ以上は何も言わず、ただ快楽に身を委ねている。
オスカーは女を激しく突き上げると、溜まっていた熱を吐き出した。



セレスティアで食事をして、オリヴィエはロザリアを私邸まで送り届けた。
急きょ選んだ店だったが、申し分のない味とサービスは、二人を十分満足させてくれた。
とくにイチゴを使ったデセールがロザリアは気に入ったらしい。
最後の一口まで幸せそうな顔をして頬ばっていた。

「もう少し、お話していかれませんか…?」
少しだけ口にしたアルコールのせいなのか、ロザリアの頬はほんのりと染まっている。
本人に自覚はないのだろうが、とても艶めかしい。
吐息に混じるイチゴの香りも甘く、理性を奪われてしまいそうだ。
こんな顔で誘われてお茶だけ飲んで帰るほど、オリヴィエは紳士でいられる自信がなかった。

「ごめん。 今日は帰るよ。 もう遅いし、明日も執務だし。」
「そう…ですわよね。 ごめんなさい。」
俯いてしまったロザリアに、オリヴィエはポケットから小さな箱を取り出すと、彼女の手に握らせた。
「これは…?」

ビックリして顔を上げたロザリアに、オリヴィエは口の端を上げるだけの笑みを浮かべる。
その瞳の優しさに、ロザリアの胸が小さく音を立てた。
皮肉めいた笑みも彼らしいが、こんな優しい瞳は、本当に困ってしまう。
自分が彼の特別な存在ではないかと、思ってしまうから。

「約束のお土産。 …今まで渡しそびれてたからさ。 開けてみて。」
リボンをもどかしい思いで外し、ロザリアは箱を開けた。

「…綺麗。」
深いブルーの大きな石のネックレスが箱の真ん中に置かれている。
石の美しさを引き出すためなのか、あえてシンプルなフレームがセンスの良さを感じさせるデザインだ。
絡み合うゴールドとシルバーのチェーンに、オリヴィエらしい華やかさがある。
「この石を見た時、絶対にあんたにあげようって思ったんだ。」
わずかな滞在時間の中、たまたま目にした原石。
言われるままの値段で買い取って、すぐに加工に出したのだ。
本当はずいぶん前に出来上がっていたのだが、あの騒ぎのせいで渡しそびれていた。

「ありがとう。オリヴィエ。」
嬉しそうに瞳を輝かせたロザリアは、箱からネックレスを取り出し、目の前に掲げて見つめている。
彼女の瞳のような蒼だと思った石なのに、実際の彼女の瞳に比べれば、チリのような輝きだ。
魅入られてしまいそうなほど美しい、その青に自分の姿だけを映したくなる。
邪な考えを振り払うように、オリヴィエは彼女の手からネックレスを取り、背中に回った。
青紫の長い髪を前へ流し、首筋をあらわにすると、ネックレスをつけてやる。
オリヴィエの手が触れた首筋がほんのりと染まっていくのは、酔いのせいなのか、それとも。

「似合うよ。」
改めて前に向き直り、ロザリアの姿を確かめる。
まるで彼女自身から生まれたような蒼にオリヴィエは満足して目を細めた。
綺麗なロザリアを見るのは好きだ。
ましてやそれが自分の手で整えられたことなら、尚更。
嬉しそうなオリヴィエに、ロザリアはますます頬を赤らめている。
気丈な補佐官のときとはまるで別人のような彼女の様子に、オリヴィエはつい抱きしめたくて、手を伸ばしかけた。

「本当にありがとう。」
はにかみながらオリヴィエを見つめる無垢な瞳に、オリヴィエは伸ばしかけた手で彼女の髪に触れた。
「お礼はまた今度。 そうだね、ゆっくりエステに行けるように2、3日のお休みってのはどう?」
「まあ! …今はオスカーがいらっしゃらないから、難しいですけれど、ええ、そのうちに。
 でも、他の方には秘密ですわよ。補佐官が買収された、なんて噂、困りますもの。」
ロザリアがくすっと笑う。
「楽しみにしてるよ。じゃあ、おやすみ。」
背中越しにひらひらと手を振って、オリヴィエは家路を歩きだした。


こぼれるほどの月明かりの下。
オリヴィエはポケットに残っていた、もう一つの箱を探り当てた。
さっきロザリアに渡したものと全く同じ、大きさ、色、形。
中身も同じ、あの星の青い石。
唯一違うのは、指輪に加工してあること。

今日、どちらを彼女に渡すか、オリヴィエは自分で賭けをしていたのだ。
同じポケットに入れた二つの箱の中から、もしも指輪を選んだなら、想いを打ち明けるつもりだった。
けれど、自分の手が選んだのは、ネックレス。
「まだ早いってことなのかね。」
ポケットの中で箱を弄びながら、オリヴィエは独り言ちる。
この時はまだ、運命がなにを選んだのかは気づいてはいなかった。



オスカーの肩の固定が外れる日、ロザリアは病室を訪れていた。
なんの問題もなければ、そのまま退院する予定で、もろもろの雑事を補佐官としてこなさなければならない。
本来ならオスカーの秘書官あたりの仕事なのだが、ロザリアは頑として自分でやることを譲らなかった。
事故自体は偶然でも、オスカーに助けられたことは変わりない。
無事に退院するのを見届けたかったのだ。

「ゆっくり動かしてみてください。」
医師の言葉にオスカーはゆっくりと肩を回した。
関節が重く、まるで自分の体ではないようだが、なんとか回すことができるようだ。
わずかに筋肉の衰えがあるのものの、痛みはない。
我ながら頑丈だと感心する。

そんなオスカーの様子を見ていた医師は、ロザリアに向かって笑顔を見せた。
「痛みはないようですし、あとはリハビリで回復していけると思います。
 とりあえず退院という形でよろしいですね?」
「はい、ありがとうございました。」
深々と頭を下げ、ロザリアはほほ笑んだ。

医師が去った後も、オスカーはまだ肩や腕を少しづつ動かしている。
少しでも早く回復したいという気持ちはわかるのだが。
ロザリアはオスカーの腕を押しとどめた。
「無理をしてはいけないと、今、言われたばかりではありませんの。
 きちんとこの計画通りにリハビリを進めてくださいませ。」

懇願するようなロザリアの瞳にまっすぐに見つめられ、オスカーはため息をついた。
早く回復したいのは、自分のためでもあるし…彼女のためでもある。
退院で毎日の見舞いがなくなれば体の負担はとりあえずなくなるだろうが、精神的に重荷を背負ったままであるのは間違いない。
明るく振る舞いながらも、ふとした時に疲れた顔をするロザリアに、オスカーは気付いていた。
だが、「気にするな。」と言っても、素直に受け入れるようなロザリアでないこともわかっている。
見た目は華やかで厳しくとも、誰よりも繊細で、他人の痛みを放っておけないのが、彼女の良さなのだから。

オスカーはにやりと笑みを浮かべた。
「そんなふうに抱きしめられていたんじゃ、たしかに何もできないな。」
「なっ!」
ロザリアはあわてて、オスカーの腕を抑えていた手を離した。
そんなつもりはなくても、結果として、両手で彼の腕を抑えていたのだから…きわどい姿勢であったのは本当だ。
少しでもよろけていれば、オスカーの胸の中に納まってしまっていただろう。

「バカなことをおっしゃらないで!」
「嘘じゃないだろう?」
「嘘とかそういう問題ではありませんわ! もう、それだけお元気でしたら、ご自分で荷物もお持ちになってくださいね。」
「もちろんだ。…俺が君にそんなことをさせるとでも?」
アイスブルーの瞳がロザリアを見つめている。
多くの女性を虜にしたその瞳に、ロザリアは大きなため息を返した。

「では、ご自分でどうぞ。 わたくしは手続きをしてまいりますわ。」
さっさと病室を出ていくロザリアの背中を、オスカーは苦笑いを浮かべて見送った。
見つめればどんな女性でも頬を赤らめると豪語しているが、彼女には全く通じない。

改めて、彼女を追いかけようと、スーツケースを手にした時、持ち手を握ろうとした掌がぶつかり、ケースがどさりと倒れた。
不思議な感覚。
一瞬、顔をしかめたオスカーは、かがみ込み、スーツケースを持ちあげた。
重い、と感じるのは、筋肉の衰えのせいだろう。
もちろん痛みもなく、さっきの違和感も消えている。
オスカーは今度はしっかりケースの持ち手を握ると、ロザリアを追いかけて、病室を後にしたのだった。


Page Top