3.
聖殿の総点検も無事に終わり、危険な個所は全て修復が完了した。
大きな仕事が一つ片付き、ようやく時間の空いたロザリアは、オリヴィエの執務室で午後のお茶を楽しんでいた。
「美味しいわ。やっぱりオリヴィエはお茶を淹れるのがとても上手ですのね。」
「そう? …じっくり愛情込めてるからじゃない?」
オリヴィエは目を細めて、綺麗に描いた眉をあげてみせる。
思わせぶりなウインクと、意味ありげな微笑み。
普通の女の子なら、少しは胸をときめかせてくれるはずなのに。
「わかりますわ。 ポットもカップもきちんと温めてありますもの。
こういう細やかな気配りが大切なんですのね。」
無邪気にニッコリと笑うロザリアにオリヴィエは人知れず肩を落とした。
どうも彼女は恋愛という部分において、とても鈍いらしい。
その他のことに関しては、気にしすぎなほど気が回るというのに、遠回しな愛情表現にたいして、ほとんど気づかないのだ。
たとえば、オリヴィエが彼女の好きな紅茶を用意していることも。
出張のたびにお土産を買ってくることも。
ただの『好意』としか受け取られていないらしい。
もしかすると、ロザリアはハッキリ言わなければわからないのかもしれないと、最近になってようやくオリヴィエも考え始めた。
だからこその賭けだったのだが、それも玉砕。
あの指輪は引き出しの奥にしまい込まれたままになっている。
それに目の前のロザリアを見ていれば、このままでもいいという気がしてしまうのも事実で。
気が付いたら結婚してて、子供なんかもいたりして。
お互い年を取って、「あのころは・・・」なんて話しながら紅茶を飲んでいたりして。
そんな関係もロザリアとならいい。
あの惑星で一人になった時は、この曖昧な関係にケリをつけようと決心していた。
きちんと想いを告げて、結果はどうあれ、彼女の気持ちを聞いて。
それなのに、こうして二人で過ごす時間が当たり前であればあるほど、決心がぐらついてしまう。
たった一言のハナシ。
それがあってもなくても、今更何も変わらないはず。
お茶の時間をたわいもないおしゃべりで終えたオリヴィエは、ロザリアの出ていったドアに、小さなため息をこぼした。
その日の帰り際、ロザリアは補佐官室にやって来たランディに秘密の相談をされてしまった。
ランディがオスカーと日の曜日に剣の稽古をしていることは周知の事実だ。
稽古とはいえ、オスカーも楽しんでいるからこそ続いていることなのだろう。
二人の関係は、兄弟のようで見ていてほほえましいものだ。
ランディの剣の腕もこのところ見違えるほど上がっていると評判だった。
それがあの事故以来、一度も稽古をしてくれない。
私邸を訪ねても、居留守を使われている、というのだから穏やかではない。
「オスカー様のケガ、どうなってるんだい? …まだ治ってないのかな?」
「そんなことはないと思いますけれど…。 お医者様ももう大丈夫だとおっしゃっていましたし…。
もしかしてリハビリをさぼっているのかしら?」
「いや、オスカー様に限ってそれはないと思うんだけどなあ。」
ランディは首をかしげている。
「すごく自分に厳しい人だからさ。 やらなきゃいけない事を後回しにすることはないはずだよ。」
「…そう…。」
たしかにランディの言うことにも一理ある。
軽薄で女好きなところのあるオスカーだが、執務をないがしろにしたことは一度もないのだ。
約束を破るようなことも絶対にしないだろう。
そういう意味では信頼できる人物といえる。
「ケガは完治しているのですもの。 きっと、入院生活で窮屈だったから、羽を伸ばしていらっしゃるのよ。
あまりいいこととは思えませんけれど、許して差し上げていただけないかしら。
…わたくしの責任でもあるのですもの。」
「そんな! あの事故はロザリアのせいじゃないんだから、気にしないでほしいな。
そうだよな。 あのオスカー様だもんな。
俺もオスカー様から声をかけてもらうまで、自分で頑張ってみるよ。」
「ごめんなさい。」
少しまつ毛を伏せたロザリアに、ランディはあわてて「おかしなこと言ってごめん!」と部屋を飛び出していった。
残されたロザリアは、そのまま考え込んだ。
ランディにはああ言ったが、実際、遊び歩いているなら問題だ。
医者もきちんとリハビリをするようにと言っていたし、なにより酒類はあまりよくない気がする。
退院したオスカーは以前と変わらない様子で、とても元気そうに見えたから、ロザリアもすっかり安心していたのだ。
事故自体はロザリアに責任がないかもしれないが、自分自身の気持ちの上でそうはいかない部分もある。
彼はロザリアの命の恩人なのだから。
やはりリハビリが終わるまで、きちんと見届けるべきかもしれない。
ロザリアは机の上のカレンダーをちらりと見た。
明日は土の曜日で、特に用事もない。
ふと思い立ったロザリアは、残りの執務を大急ぎで片づけたのだった。
翌朝。
ロザリアはオスカーの屋敷に向かった。
昨日、帰宅してから大急ぎで準備をしたミートパイ。
オスカーはお菓子を好んで食べるタイプではないし、以前、このミートパイを褒めてくれたことがあったからだ。
まだ、女王候補だったころ、オスカーは時々ロザリアを外に連れ出した。
馬に乗せてくれたり、アンジェリークも一緒に3人でピクニックをしたり。
強引過ぎる誘いに、時には怒りを覚えた記憶もある。
実際、オスカーの態度はふざけているとしか思えなかったし、わざわざロザリアを怒らせて楽しんでいるような節もあった。
けれど、いい気分転換になったことは、事実。
だから、第一印象が最悪だったにもかかわらず、試験が終わるころには、彼の真面目な部分も理解できるようになっていた。
もっとも、ロザリアがオリヴィエに惹かれていくにつれ、結果的にオスカーとは距離を置くことになってしまったけれど。
オスカーの屋敷にはまるで人気がなかった。
ロザリア自身、休みの日には使用人は置いていなかったが、たしか以前オスカーの屋敷を訪れた時は、出迎えがあったような気がする。
不思議に思い、ドアベルを鳴らそうとして、庭の方から音がするのに気が付いた。
なにかを叩くような、鈍い音。
ロザリアはためらわず、庭へと足を向けた。
ぐるりと屋敷の壁沿いを歩いていくと、不意に視界が開ける。
オスカーの屋敷、というよりも守護聖の屋敷はどこも広々とした庭が備え付けられていて、思い思いの形に整えられている。
オスカーの庭はあまり花がない代わりに、一面の芝生が植えられ、それほど背の高くない木が周りを取り囲んでいた。
まるで心地よい草原にいるような感覚。
若々しい緑がロザリアの目の前に広がっている。
その中にオスカーの緋色の髪が鮮やかに浮かんでいた。
彼の姿を認めて、声をかけようとしたロザリアは、ただならない様子の横顔に、息を飲んだ。
真剣なアイスブルーの瞳。
細く歪められた目は、どこか暗く、彼らしくない影を宿している。
ふと、オスカーの手がなにかを振り上げた。
まき割り用の鉈だ。
鈍く光る刃が台の上の木を二つに割ると、割れた破片が彼の足元に転がる。
ただ、それだけの動作なのに、なぜかオスカーからは近寄りがたいオーラを感じた。
何度かその動作を繰り返したオスカーは、鉈を左手に持ち替えた。
同じことをするのだろうか、と、ロザリアが息をつめた瞬間、鉈の刃がきらりと光り、オスカーの手を離れていく。
地面にざっくりとささる鉈の刃。
オスカーは左肩を抑え、震える掌を見つめている。
何が起きたのだろう。
彼はどうしたのだろう。
ロザリアの全身に震えが走ると、持っていたミートパイの袋が足元に転がる。
「誰だ?!」
その音に気が付いて振り返ったオスカーと目があった。
「君か…。」
射るような視線が柔らかな光に代わる。
オスカーの視線に射すくめられて固まっていたロザリアは、近づいてくるオスカーをじっと見つめ続けた。
「どうしたんだ? 休みの日だっていうのに、…俺に会いたくなったのか?」
いつもと変わらない軽口に、固まっていたロザリアの体がほどけていく。
さっきまで彼を覆っていた陰鬱な影は見間違いだったのだろうか。
陽の光に浮かぶ笑顔は、まるで屈託がない。
いつも通りのオスカーに、ロザリアもつられて、笑みを浮かべた。
「まあ。 そんなふうに訪問する方がいらっしゃいますの? では、他の方とかち合わないように、早々に退散させていただかなくては。」
にやりと面白そうな笑みを浮かべたオスカーが、ロザリアの足元に落ちた袋を拾い上げた。
袋に顔を近づけて、中身を確かめるように鼻を鳴らしている。
「…ミートパイか?」
「ええ。 うっかり落としてしまいましたけれど…。」
並んで袋を覗き込んだロザリアは、パイの無事を確認して微笑んだ。
少し角が崩れているが、壊れてしまってはいない。
ホッと胸をなでおろすと、すぐ隣にオスカーの瞳があって、どきりとした。
柔らかく細められたアイスブルーの瞳。
たしかにオスカーが女性にモテるのは理解できる。
端正な容姿なうえ、騎士のように洗練されたマナー。
もっともあの軽薄な部分がすべてを台無しにしてしまうのだから仕方がないけれど。
ロザリアの心中に気付いたわけではないだろうが、オスカーがふっとほほ笑んだ。
「お茶の準備でもしよう。 と言っても、俺はカプチーノくらいしか作れないが。」
構わないか?と言いたげにロザリアを見たオスカーに、「わたくしが淹れますわ。」と告げて、ロザリアはキッチンへと向かった。
彼女の背中が屋敷に消えていくのを確かめたオスカーは、鉈を拾い上げ、大きなため息をついた。
見られただろうか。
たとえ見られてとしても、気づかれてはいないだろうか。
オスカーは木の欠片と鉈を納屋に片づけると、テラスのテーブルにパイを広げた。
落としてしまったというパイは、少し形が崩れているが、彼女らしい暖かな雰囲気がする。
まだ暖かいということは、ロザリアがオスカーのために焼いてくれた、ということなのだろう。
ただの手土産なのに、頬が緩む。
「お待たせいたしましたわ。…紅茶の葉を探していましたの。
このお屋敷のご主人は、紅茶を飲まない方のようですわね。」
「そうかもしれないな。」
悪戯っぽく笑うロザリアに、オスカーも笑みを返した。
心地よい風がテラスを抜きぬけていく。
しばらくおしゃべりを楽しみながら、パイを食べていたロザリアはカプチーノのカップを傾けているオスカーの顔を盗み見た。
さっきの影は彼の瞳からはすっかり消えている。
いつものような皮肉な笑み。
ウィットに富んだ会話。
それでもどうしても気になって、とうとうロザリアは口を開いた。
「あの、さっきのことなんですけれど…。」
「ん? さっき?」
軽く眉を上げたオスカー。
「ええ。 …なにをなさっていたんですの?」
木の欠片や鉈は片づけられていたけれど、台はそのまま残っている。
「まき割り…と言いたいところだが、リハビリさ。」
「リハビリ?」
「ああ。 なるべく手をつかえ、と医者から言われているんだ。
だが普通にダンベルを振り回したりするのは面白くないだろう?」
あっさりとリハビリだと認めたオスカーに、ロザリアは安堵した。
医者の言うことをきちんと守っているのなら、今更ロザリアから言うことはない。
「それにしてもずいぶん乱暴なリハビリですこと。」
「医者は腕を使えって言っただけだぜ。 あれを考えたのは俺だ。 実益があるほうがやりがいがあるからな。」
「オスカーらしいですわ。」
つい笑みをこぼしたロザリアに、オスカーがにやりと笑う。
女王試験のころも、彼女とのこうしたやり取りを楽しんだものだ。
ロザリアは教養があり、頭の回転も速い。
甘い言葉に簡単に靡かない気の強さも、オスカーにとっては心惹かれる。
「そういえば、ランディが稽古をしてくれないと、残念がっていましたわ。」
とりとめのない話の中で、ふとロザリアは切り出した。
屋敷を訪れるきっかけにもなったこと。
きちんと確かめておきたいと思うのが、ロザリアの性格だ。
「ああ…。」
オスカーは一瞬目を泳がせると、すぐに緋色の髪をかき上げながら苦笑を浮かべた。
「ずいぶん入院が長引いたからな。 俺の帰りを待っていたレディたちが離してくれないのさ。」
「まあ! ええ、やはりそうではないかと思っていましたのよ。
では、あと1年くらいは稽古は無理かしら。
たくさんお付き合いがあると大変ですわね。」
くすくすと笑うロザリアにオスカーは目を細めた。
太陽のような女王陛下と並ぶ彼女を月のようだという者も多い。
青い瞳、青紫の髪。
まさに月を宿した夜の女神のようにも見える。
けれど、オスカーはこうして陽の光の中にいるロザリアが一番美しいと思う。
穢れのない乙女は女神というよりも妖精のようだから。
手が届きそうで、別世界に棲んでいる。
決してオスカーを見てくれない。
「どうかなさいましたの?」
「いや。」
それでもこうして久しぶりに二人きりで過ごす時間をとても愛しいものに感じてしまう。
今、このときの彼女の笑顔は全て自分のもの。
それ以外の彼女のすべてが、彼の物だとしても。
全宇宙の女性の恋人と公言する自分が、実はこんな女々しい感情を捨てきれないとは、とんだお笑い草だ。
もっとも簡単に捨てられるような想いなら、はじめから愛したりしなかっただろう。
…だからこそ、彼女にだけは知られるわけにはいかない。
楽しそうに話をする目の前のロザリアの笑顔を、曇らせたくない。
オスカーが冷めかけたカプチーノを飲み干すと、最後に残ったコーヒーの苦い澱が舌先に残った。
「そう言えば、オリヴィエが…。」
なにげなくロザリアが彼の名を呼ぶたびに、どろりとその苦味が心の奥にまで滲んでくるのに、自分の名前を呼ばれると、とたんに甘く、心が揺れる。
苦みと甘さは、まるでどちらかを引き立たせるために、あえて混在しているようだ。
だからきっとどちらもが必要なものなのだろう。
苦いだけでなくて、幸せなのだ。
二人は庭のテーブルで、とりとめのない話をして昼までの時間を過ごしたのだった。
パイを半分残して、ロザリアはオスカーの屋敷を後にした。
ランディの話を聞いた時に感じた胸騒ぎは、ただの気のせいだったらしい。
オスカーの様子は全く以前と変わりなかったし、リハビリもまじめにやっているようだった。
何も心配することはない。 …なにも。
けれど、ふと、ロザリアの心に、薪を割っていた時のオスカーの顔が思い浮かんだ。
どこか昏い影のある瞳。
もしかすると、思ったよりも回復が遅いのかもしれない。
あれだけの事故だったのだから、簡単に治る方がおかしいのだ。
すっかり片づけられ修復されているにもかかわらず、ロザリアはいまだにあの事故の部屋に足を踏み入れることができないのだから。