10.
季節は巡り、ロザリアが聖地を出てから10回目の冬が過ぎていく。
冷え込みに体を震わせたロザリアは、ストールの前をぎゅっと合わせ、カーテンの隙間から外を覗いた。
わずかばかりの月の光に、ふわふわと羽のように舞い落ちる雪。
「まあ、寒いと思ったら、雪ですわ。」
「えっ! 本当? 」
途端に目を輝かせた少女がロザリアのそばに走り寄ってくる。
懸命に背伸びをして、窓を覗き込む少女に見えやすくなるように、ロザリアはカーテンをそっとたくし上げた。
「わあ!」
すでに見渡す限りが白い。
いつもは緑の芝生も、木のベンチも、全てが白く輝き、見慣れた景色がまるでファンタジーの世界のように目新しく映る。
「ねえ、明日、雪合戦できるかな!」
ワクワクした気持ちを隠しきれず、少女は弾んだ声で、ロザリアを見上げる。
澄んだ瞳に、ロザリアはほほ笑んだ。
「ええ。きっとできますわ。 …でも、そのためにももう寝なくてはダメですわよ。
寝坊したら、みんなと遊べなくなってしまいますもの。」
「うん!」
少女は慌ててベッドに飛び乗ると、すぐに布団にもぐりこんだ。
その様子の可愛らしさに、ロザリアは笑みを浮かべたまま、ベッドの縁に腰を下ろした。
「楽しみだな…。 早く、明日にならないかな。」
布団を鼻までかぶって、目だけをロザリアに向けては、体をもぞもぞと動かしている。
あんな景色を見せられて、じっとしていられないのはよくわかる。
ロザリアは少女の髪を撫でると、囁いた。
「アンジェったら、来月には4年生になるのに、そんなにお転婆で大丈夫かしら?」
「嫌だわ、ママ。 わたし、とってもお嬢様らしい、って皆に言われているんだから!」
見た目とのギャップがヒドイ、とも言われているが。
「ふふ、本当ですの?
でも、アンジェは元気な方が似合っていますわ。
名前をもらったアンジェリークもとっても元気で、可愛くて、まるで太陽みたいだったんですの。
あなたもそんなふうに育ってほしいわ。」
アンジェの緋色の髪をロザリアの指が梳く。
まっすぐに伸ばした髪はさらさらと指を滑り、とても綺麗だ。
癖のあるロザリアの髪に似なくて、本当によかったと思う。
優しい手の動きに、アンジェのアイスブルーの瞳が閉じていく。
アンジェが眠るまで、こうしてベッドのそばについているのがロザリアの習慣になっていた。
「ねえ、ママ。
今日、エレンがわたしとアーサーは結婚できないって言ったの。」
「まあ。 どうして?」
「初恋は結ばれないって、決まってるんだって。
わたしはアーサーが初恋だからダメだけど、エレンは前にアランを好きになったから2回目だから大丈夫って。
そんなのおかしいよね。」
「ふふ。 そうですわね。」
女の子はおしゃまさんだとロザリアは内心でクスリと笑う。
アンジェはしばらく静かになったかと思ったが、すぐにまた口を開いた。
「…ママの初恋の人は、パパ?」
どきり、とロザリアの心臓が大きく波打った。
つい髪を梳いていた手が止まり、アンジェの目が開く。
じっとロザリアを見るアイスブルーの瞳は、オスカーによく似ている。
「…違いましたわ。」
あ~、とアンジェのため息が聞こえる。
「じゃあ、どんな人? ママの初恋の人、カッコいいの? それとも頭がイイの?」
残念そうだったのはわずかな間で、アンジェはすぐに興味津々と言った口調でロザリアを問い詰めてくる。
こんなところは本当に親友にそっくりだ。
名付けた時も、今も、彼女のようになってほしいと思っているのは本当だが。
…似てほしくないところばかり似てしまうのはなぜだろう。
「とても優しくて、わたくしが悩んでいるときや辛い時、さりげなく手を差し伸べてくれるような人でしたわ。
カッコいいというよりも、綺麗でしたの。
本当に、思わず見惚れてしまうくらい。」
今も、彼よりも美しい人をロザリアは知らない。
「ふうん。」
アンジェは少し残念そうに目を泳がせている。
ロザリアは柔らかく微笑んで、再び、緋色の髪を撫でた。
「片思いでしたのよ。 だから、結ばれなくて当たり前ですわ。
それに、パパは、わたくしにとって・・・そうね、初めて愛した人なんですの。」
「愛?」
「ええ。」
「愛と恋は同じでしょ?
恋をすると、結婚して、愛になるって、先生も言っていたもの。」
アンジェが唇を尖らせて抗議する。
「愛と恋は似ているけれど、少し違うと思いますわ。
愛はもっと大きくて…そうね、相手の嫌な部分も全てを含めて好きになれるの。
自分よりも相手のことを、ずっとずっと大切にしていく気持ちですのよ。
アンジェも、もう少し、大人になったらきっとわかるでしょう。」
「もうすぐ4年生だもん。 大きいほうだもん。 後ろから3番目なんだから。」
子ども扱いにふてくされて、アンジェはぷいっと顔をそむけた。
このまま寝てしまうのかとも思ったが、まだ体がもぞもぞと動いて、何か落ち着かない様子だ。
やがて、小さなつぶやきが聞こえてきた。
「ママの初恋はパパじゃなくても、ママは、パパを『愛してる』の・・・?」
「ええ。 もちろん。 とてもとても愛していますわ。
愛し合って生まれたあなたのことも、もちろん、とても愛しているわ。
だから、おやすみなさい。」
おませなことを言っていても、まだ子供なのだ。
やっと安心したように、アンジェは体を丸め直すと、すぐに寝息がこぼれてくる。
数回、頭を撫でたロザリアは、テーブルランプの明かりをのこし、そっと部屋を出た。
向かいの寝室を静かに開けたロザリアは、カーテンの開いたままの窓から差し込む白い光に目を細めた。
部屋の明かりが消えている分、舞い降りてくる天使の羽が鮮やかに浮かび上がっている。
幻想的で静かな美しさ。
音をたてないようにドアを閉めたロザリアの体を、不意に強い腕が抱きしめた。
「ロザリア…。」
背中に感じるオスカーの熱。
ぎゅっと体を包む腕が炎のように熱く、ロザリアまでも焦がすようだ。
耳元にオスカーの吐息がかかる。
「オスカー? どうなさったの?」
オスカーは答えない。
ただロザリアをぎゅっと抱きしめ、青紫の髪の中に顔をうずめている。
やがて。
「俺は君に愛されていないと思っていた…。」
「オスカー?!」
つい咎めるような口調になって、振り向こうとしたロザリアをオスカーの腕がさらに強い力で包み込む。
身動きができないほどの強い力。
ロザリアは諦めて、オスカーのなすがままに任せた。
「君が俺を追ってきたのは、このケガのせいだと。
このケガの責任を感じて側にいてくれるだけだと、そう思っていたんだ…。」
10年前のあの日。
この家で一人、荷解きをしていたオスカーの前に、ロザリアが現れた。
「オスカー…。わたくし、補佐官をやめてまいりました…。」
スーツケース一つを持って、戸口に立ったロザリアは不安そうな瞳でオスカーを見つめている。
揺れる青い瞳からは今にも涙がこぼれそうで、体は小刻みに震えていた。
「ここに、おいてほしいんですの。
あなたの、そばに、いさせて…。」
言葉に詰まったロザリアを、オスカーはそのまま抱きしめた。
唇を重ね合わせたのは、彼女の言葉をそれ以上聞くのが怖かったからだ。
彼女を想うなら、聖地へ送り返すべきだと心の奥の声がした。
たかが手一本で、彼女のすべてを縛るつもりか、そんな資格があるのか、とも。
けれどオスカーはその声に耳を塞いだ。
たとえどんな想いでも。
愛でなくても同情でも。
ロザリアがそばにいてくれるなら、それでいい。
たとえどれほど卑怯だと謗られても。
「愛してる…ロザリア。」
繰り返したその言葉に嘘はなかったから。
それからオスカーはロザリアを幸せにすることだけを考えて暮らしてきた。
彼女が聖地に残してきた全てのモノ以上に。 想い合っていたはずの彼以上に。
ロザリアを愛し続けてきた。
積み重ねてきた年月は、今、二人の間に確かな愛情を与えてくれている。
きっと今はロザリアもオスカーを必要としてくれているだろう。
それがオスカーの望む愛でなくても。
それでいいのだと思っていた。
「10年前のあの日も、雪が降っていたな…。」
「ええ。 わたくし、聖地のままのワンピースだけでしたから、とても寒くて…。
あの時、あなたに門前払いされていたら、きっと凍えていましたわ。」
ロザリアはオスカーに体を預けるように、彼の胸に頭を寄せた。
オスカーの腕の中はとても暖かい。
愛されている、と、いつでもロザリアを安心させてくれるのだ。
「…君は幸せか?」
「可愛い娘と、素敵な夫がいて、幸せでないなんて言ったら、神様に怒られてしまいますわ。
あなたは? 幸せですの?」
「ああ…。 幸せだ…。
ずっとずっと幸せだったんだ…。
愛する妻と子供がいて、俺もすごくすごく愛されているんだろう?
幸せじゃないなんて言ったら、君に怒られる。」
「まあ!」
きっといつものように、にやりとした笑みを浮かべているだろうと、オスカーを振り返ったロザリアは、彼の瞳に浮かぶ光を見た。
薄暗い明かりの中で、それは本当にわずかな輝きだったけれど。
10年分、彼が心の奥に閉じ込めてきたなにかが、あふれているのだろう。
「オスカー、愛していますわ…。」
体の向きを変え、ロザリアも両手でオスカーを抱きしめる。
重なりあった唇が紡ぐのは、ただ、愛の言葉。
窓の外では変わらずに天使の羽が降り注ぎ、明日の世界を白く染め上げていた。
Fin