3月の雪

9.


炎のサクリアの急激な減少。
女王アンジェリークの前に膝をついたオスカーは、粛々とその事実を述べた。
「そう…。やっぱり間違いなかったのね。」
アンジェリークもうすうす感知していたのだ。
ここのところの宇宙のバランスの狂いは、おそらくサクリアの減少だろう、と。

「嘘…ですわよね? 本当にあなたが・・・?」
呟くロザリアの声に、オスカーは顔を上げた。
女王のそばに立つロザリアの顔は青ざめ、錫杖が震えているのか、しゃらしゃらと金属の鳴る音が羽音のように響いている。
いつも凛とした青い瞳に広がる動揺は、オスカーがこの地を去ることを少しでも悲しんでくれていると思ってもいいのだろうか。
オスカーは軽く唇をかみ、彼女を抱き寄せたいという衝動に耐えた。
永遠の別れまであとわずかなのだ。
少しでも長く、見ていたいから。
ロザリアに疎まれて避けられるようなことだけはしたくない。

ロザリアはそれきり一言も発さず、ただ茫然としている。
明らかにただ事ではない様子に、アンジェリークは驚いた。
オスカーの退任が、ロザリアにとって、そんなにも衝撃的だとは、正直思っていなかったのだ。
ロザリアにとって命の恩人であることは知っている。
けれど、ロザリアがオリヴィエを想っていることをアンジェリークは随分前から気づいていた。
ロザリアは誰にも知られていないと思っているだろうが、二人を見ていればわかる。
いつか話してくれるだろうと、プライドの高い友人を思い、アンジェリークから口にしたことはなかったけれど。
間違いなく両思いだろう、とも察していたのだ。
それなのに、今のロザリアの様子は、まるで。
玉座から、アンジェリークがそっと手を握ると、ようやくロザリアの震えが止まる。
今にも泣きだしそうで言葉も出ないロザリアに代わって、アンジェリークがオスカーに声をかけた。

「早急に交代の準備をしましょう。 …オスカー、あと少しだけれど、最後まで執務をお願いするわね。」
アンジェリークにとっても守護聖交代は初めてのことだ。
あの輝かしい女王候補時代。
フェミニストのオスカーに心がときめいたこともあった。
軽く躱されて、ほんの少し悔しかったことも。
こうして少しずつ、時は流れ、変わっていくのだ。
アンジェリークは静かに退出するオスカーを見送ると、まだ呆然としているロザリアを抱きしめた。

「ロザリア…。 どうしたの? わたしに何でも言って。 親友でしょ?」
「アンジェ…。」
絞り出すような声。
こんなに苦しそうなロザリアを見るのは初めてだ。
女王試験の最後の日も、皇帝の侵略を受けた日も、気丈に顎を上げ、凛としていたロザリア。
彼女のそんな姿に、アンジェリークも支えられてきたのだ。
「わたくし、 どうしたらいいの・・・? わからない…。 わからないの…。」
そのまま凍り付いたようにロザリアは動かない。
オスカーが去った扉の向こうをただじっと見つめているだけだ。

どす黒い不安がアンジェリークの心を包む。
「ロザリア、わたしはいつでもあなたの味方よ。 どんなことがあっても、あなたのことを一番に考えるから。」
親友として、ロザリアにとっての幸せを最優先する。
たとえそれが、アンジェリークにとって、最悪の選択であっても。

この不安が現実となることを、アンジェリークはすでに覚悟していた。
ロザリアですら、まだ気が付いていないだろう、想いの行方を。



淡々と日々は過ぎていく。
新しい炎の守護聖はすぐに見つかり、まだ15歳の少年が聖地へとやって来た。
強さをつかさどるとは思えない、あどけない少年。
彼は剣を持ったことも、もちろん戦いをしたこともない、ごく普通の少年だった。

「全く、俺の後継とはとても思えないな。 サイラスは。」
天を仰いで嘆息するオスカーに、オリヴィエはクスリと笑った。
事実、サイラスの線の細さはマルセルに近い。
もしも、このサクリアを与えるのが神だとしたら、彼のどこに『強さ』を認めたのか聞いてみたいものだ。

「まあねえ。 どっかなんかあんたに似たところもあるんじゃないの?
 とりあえずは私達もフォローしてくからさ。
 …で、あと、どれくらい?」
「この週末には立とうと思っている。 見送りなんて恥ずかしい真似をされるのは御免だからな。
 誰にも言うなよ。」
オスカーはまるで日帰りの旅行にでも行くような気やすい口ぶりで告げる。
オリヴィエはわずかに眉を寄せたが、すぐに 
「あんたらしいね。 せめて私だけでも見送りに行ってあげようか?」
軽口で返した。

オリヴィエにとってもオスカーはこの聖地でもっとも親しい友人だ。
正直に腹を割って話すことも、逆に、何も言わなくても、とにかく居心地のいい相手だった。
オスカーが去ることを、素直に寂しいと思う。
それを口に出さないのは、オスカー自身が望まないからにすぎない。
炎のサクリアは消えつつあっても、彼はやはり『強い』男だ。

「あっという間だったね。 …あんたにとって、ここはいい場所だった?」
オリヴィエの問いかけに、オスカーは一瞬視線を宙にさまよわせ、少しシニカルな笑みを浮かべた。
「さあな。 あと10年経ってから、考えてみるぜ。」
この胸に渦巻く叫び出しそうな激情を、忘れられる日が来たら、この場所で過ごした日々もまた、いい思い出にできるのかもしれない。
今はまだ、答えを出すことなどできない。

オスカーはもうすぐこの地を去る。
きっとロザリアはオリヴィエと結ばれるだろう。
彼女を手に入れる男が、もしも自分であれば。
目の前で笑うオリヴィエを、心から羨ましいと思う浅ましい自分に、吐き気がする。
「お前こそ、ここがいい場所だったと言えるように、今のうちから心を入れ替えておけよ。
 …大事なものは手放すな。」
唇の片端をわずかに上げ、オスカーは苦い思いを無理矢理飲み込んだ。



土の曜日。
恒例の補佐官のお茶会に、サイラスは一人で現れた。
「皆様、どうぞ、これから、よろしくお願いします。
 オスカー様の後継として、頑張っていきます。」
自分なりに考えぬいた口上なのだろうが、まだまだ幼い雰囲気は否めない。
それでも、ぐっと前を向き、強くあろうとする新守護聖を皆は暖かく受け入れた。
「うん! 一緒に頑張ろうね!」
一番年の近いマルセルが手を引くようにして、サイラスを中心に座らせる。
誰とでも気軽に話せるランディと、好奇心旺盛な女王陛下がその周りに集まってきた。

「おっさんはどーしたんだよ。」
なんだかんだで放っておけないゼフェルが、サイラスにお菓子を突きつけながら尋ねる。
サイラスはゼフェルのつっけんどんな態度に少しおびえたのか、声を震わせた。
「あの、オスカー様は、今朝、ここを立たれました。
 皆様によろしく、と。」

途端に、背後でガシャン、と音がした。
緑のじゅうたんの上を転がるポットとカップ。 ジワリと地面に染みていく紅茶。 散らばる銀のカトラリー。
呆然と立ち尽くしたロザリアの足元で、それらが無残な姿をさらしている。
お気に入りだと言っていた、ブルーのティーセットだったのに、ロザリアはそのことすら忘れてしまっているように、呆然と立っているだけだ。
いつものロザリアらしくない。
オリヴィエが、さっとロザリアのそばに駆け寄った。

「怪我はない?」
オリヴィエの問いかけにもロザリアは答えない。
おそらく、オリヴィエの声が耳に入っていないのだろう。
足元にしゃがみ込んだオリヴィエは、無言のまま転がっているカップやポットを拾い集めた。
幸いなことに芝のじゅうたんのおかげで、カップ類は割れずに済んだようだ。

「わ! ロザリア、大丈夫?!」
アンジェリークの声に、ようやくハッと意識を取り戻したロザリアは、慌ててしゃがみ込み、落ちたものをトレーに戻していった。

「ええ、大丈夫よ。 …ありがとう、オリヴィエ。」
アンジェリーク達のいる方へ声をかけ、オリヴィエに会釈をする。
オリヴィエはスプーンを取るロザリアの手が震えているのに気が付いた。
青ざめたままの横顔。
光を失った瞳。
これほどに彼女が動揺した理由は、一つしかない。

すでにテーブルを取り囲む人々はサイラスと一緒に笑いあっている。
これからの仲間を受け入れようと、努力しているのだろう。
その楽しげな様子にも、ロザリアはどこかうつろな笑みを浮かべているだけだ。
まるで心は別の場所にあるような。

もう遅いのかもしれない。
オリヴィエは初めて、はっきりとそう思った。
幼いころ、窓辺に餌をねだりに来ていた小鳥がいた。
薄茶のあまりきれいとも言えない、どこにでもいる鳥。
毎朝、その声で目を覚ましていたオリヴィエは、その小鳥を自分の鳥だと思い込んでいた。
小鳥はオリヴィエの与えるパンをとてもうれしそうに食べていたし、時々、周りを飛び回って遊んでいたから。
けれど、いつの間にか、小鳥は来なくなって。
ある日、少し離れた家の屋根に吊り下げられた鳥かごの中に、よく似た鳥が休んでいるのに気が付いた。
じっと、オリヴィエを見たつぶらな瞳。
自由にさせていることが小鳥にとっても幸せだと思っていたのに。
安らいだ様子で羽を繕う小鳥の姿に、自分の手元で守っていればよかったのだと後悔した。
…なぜ、こんなことを思いだすのだろう。
テーブルの間を動き回るロザリアは、あの鳥には似ても似つかないほど、キレイなのに。
お茶会が終わり、アンジェリークと二人で奥へ戻るロザリアを、オリヴィエはどうしても、追いかけることができなかった。



その夜。
オリヴィエは一人、私邸のリビングのソファに寝転んでいた。
アルコールを口にするわけでもなく、ただ、黙って天井だけを見つめて。
時計がカチカチと時を刻む音だけが空間を支配し、重苦しい空気がオリヴィエを包み込んでいる。
今夜、何もなければ。
祈るような気持でいたオリヴィエの耳に、ドアベルの音が響く。
一瞬、目を伏せたオリヴィエは大きく深呼吸をすると、自らを奮い立たせるように勢いよく立ち上がった。

「こんな時間にどうしたの?」
ドアを開けると、そこには来なければいいと願っていたロザリアがいた。
長い髪をゆるくハーフアップにし、ブルーのワンピースを着ている。
散歩にでも行くようなごく普通の服装だ。
けれど、夜の帳もとうに落ちたこの時間に、普段のロザリアならば、決して出かけたりはしないだろう。
「ごめんなさい。 どうしても、オリヴィエには会っておきたくて。」
ふと視界に入ったロザリアの足元の大きなスーツケース。
オリヴィエは凍り付くような胸の痛みを抑え込んで、ロザリアにほほ笑んだ。

「わたくし…。」
それきり言葉の出ないロザリアは、オリヴィエをじっと見つめている。
澄んだ青い瞳は、間違いなくオリヴィエの知るどの宝石よりも美しいと思う。

「アイツのところへ行くの?」
オリヴィエが問うと、ロザリアは長い睫毛を伏せ、しばらくしてから小さく頷いた。

「あの人の。 オスカーのところへ行きますわ。
 アンジェリークも…納得してくれました。」

やはり、という、どこかあきらめに似た気持ちと。
行かせたくない、という独占欲に似た愛情と。
せめぎ合う感情がオリヴィエから言葉を奪う。
黙ったままのオリヴィエに、ロザリアはますます俯いた。

「無責任な女だとお思いでしょうね…。
 補佐官の仕事も中途半端で、こんなふうに聖地を飛び出すんですもの。
 女王試験に負けた時、わたくしを補佐官に、と、あなたが一番に推してくださったのに。」

ロザリアを補佐官に推したのは、もちろん彼女自身のこともあったけれど、オリヴィエが彼女と離れたくなかったからだ。
聖地と下界は時間の流れ方が違う。
離れてしまえば、二度と、同じ立場で会うことはできない。
…それは、今も同じ。

「本当にいいのかい? あんたはそれで幸せになれるの?
 アイツへの気持ちは…本当なの?」

顔を上げたロザリアの瞳が揺れている。
同情ではないのか、贖罪ではないのか。
オスカーのケガに責任を感じて、一生を捧げようというのなら、そんな嘘っぱちの想いは、すぐに剥がれ落ちてしまうだろう。
そしてそれでは、誰も、幸せになれない。


「オスカーは…わたくしを愛している、と。 そう言ってくれたのですわ…。」
ロザリアは顔をゆがめた。
寂しそうに、切なそうに、笑みを浮かべようと懸命になりながらも、それはとても笑顔にはならず。

「わたくしは、育成でリードしていたにもかかわらず、女王になれませんでしたわ。
 宇宙が、あの子を選んだから。
 …誰も愛してくれなかったわたくしを、オスカーだけが、愛していると、言ってくれたんですの…。」

あの事故の後、二人の間の空気が明らかに変わったのを、オリヴィエも感じていた。
けれど、それはオスカーのケガのせいだろうと思っていたのだ。
まさかオスカーがロザリアを想っていたなんて。
気付かなかった? …いや、気づかないふりをしていただけだ。
彼女を助けた男に、オリヴィエはずっと嫉妬していた。

彼女を助ける男は自分でありたかったのに。


「わたくし、オリヴィエのことを好きでしたわ。
 女王候補のころから、ずっと。」

どうしてもこの一言を告げたくて、ロザリアは聖地を去る前にオリヴィエを訪れた。
本当に本当に長い間、抱き続けていた初めての恋。
恋をすることの楽しさも、苦しさも、全部、オリヴィエが教えてくれたこと。
大好きで、大好きで。
好きになり過ぎて・・・・親しくなりすぎて。
あと一歩が踏み出せない臆病な自分に、何度泣いたことだろう。
今もまだ、こうしてオリヴィエの前に立っていると、胸が苦しくて張り裂けそうになる。
きっとこの気持ちは、一生忘れない。

不意に、ロザリアがにっこりとほほ笑んだ。
それは、儚さも愛しさも慈しみも全てを含んだ、とても綺麗な笑みで、オリヴィエも目を奪われる。
それと同時に、オリヴィエははっきりと理解した。
彼女にとって、オリヴィエへの想いはすでに過去のモノなのだ、と。


「…ありがとう。 あんたの気持ち、すごくうれしいよ。」
オリヴィエはロザリアの額にそっと唇を落とした。
触れるだけの優しい口づけ。
大切なものを愛おしむようなオリヴィエの瞳に、ロザリアの頬が染まる。
それでも、その口づけが恋人へのそれではないことも、ロザリアはちゃんと気づいていた。

拒絶されはしなかったけれど、オリヴィエは受け入れてもくれなかった。
やはりずっと、片思いだったのだ。
でも、これで、いい。
想っていたことを、きちんと伝えられたのだから。
ロザリアはこみ上げてくる熱いものをぐっとこらえて、ほほ笑む。
今、一つの恋が確かに終わりを告げた。

「さようなら。 わたくし、あなたに出会えて、本当によかった。」
そのまま、ロザリアは一度も振り返ることなく、凛と顔を上げ、聖地の門をくぐっていった。


小さくなるロザリアの背中。
その後姿が見えなくなるまで、オリヴィエはじっと見守った。
「私も…好き、だったんだ。」
過去じゃなく、今も。
こんなにロザリアを想っているのに。

もしも、あの事故が起きる前に、彼女に想いを伝えていたなら、何かが変わっていたのだろうか。
自分の隣で彼女は笑っていてくれたのだろうか。
考えても仕方がないことなのに、胸を占めるのは、そんな空しい後悔だけ。
ずっと愛して、見守ってきたつもりだった。
彼女にとって、一番近しい存在であり続けようと、我慢してきたつもりだった。
けれど、気づかなったのだ。
ロザリアが望んでいたのが、たった一つの言葉だった事を。

いつからか彼女の胸元から、あのネックレスはなくなっていた。
それに気づいていたのに、何もしなかったのは自分。
渡せなかった指輪も伝えられなかった想いも、いつかはすべて過去になる。
…いつかは、きっと。

ポツリと冷たい滴がオリヴィエの髪に落ちた。
ロザリアが門をくぐった気配と同時に降り注ぐ雨。
冷たい雨は、きっと女王の涙だろう。
親友を失った哀しみが痛いほどオリヴィエにも伝わってくる。
全てを洗い流すように、その雨は聖地に数日降り続けたのだった。


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