3月の雪

8.


オリヴィエが旅立って数日。
聖殿の廊下を歩いていたロザリアの耳に、立ち話をしている女官たちの声が聞こえた。
「オスカー様、お休みみたいよ。」
「え、体調が悪いのかしら。 珍しいわね。」
「つきっきりで看病してさしあげたいわ~。」
女官たちはちょっときわどい話も織り交ぜながら、廊下の真ん中で話しを続けている。
普段のロザリアなら眉を顰め、咳払いの一つでもして彼女たちに注意を促すのだが、今はそんな気にはならなかった。

そういえば、今日は朝からオスカーの姿を見ていない。
もっともこの広い聖殿で、一日のうちに一度も会わない守護聖だっていないわけではないのだ。
実際クラヴィスにはここ3日くらい会っていなかった。
けれど、オスカーは違う。
たとえ話すことがなくても・・・どれほどロザリアが意識しないようにしていても、彼の存在はいつでも感じられたのだ。
真っ直ぐに寄せられる視線が絡みつくほどに。
ふと手にしていた書類に頭を巡らせたロザリアは、炎の執務室に足を向けた。


このごろはずっと、秘書官に使いを任せきりにしていたから、直接向かうのは久しぶりだ。
さっきの噂話が事実か確かめるだけ。
もしも休むとしたら補佐官には連絡を入れるのが筋というモノだろう。
本当にそれだけ。
自分に言い聞かせながら、ドアを叩いた。

「どうぞ。」
中から聞こえたのは、秘書官の声。
ロザリアは知らぬ風を装って、「オスカーに書類を持って参りましたの。」  と、声をかけた。
すると秘書官はわずかに困ったような顔をして、
「オスカー様は不在なのですが…。お急ぎでしょうか?」 と、ロザリアの様子をうかがっている。
「ええ。 ぜひサインを頂きたいから、戻るまで待たせていただきますわ。」
返事を待たずに、ソファに腰を下ろしたロザリアに、秘書官はますます困った様子だ。
それでも、隠しきれないと悟るのは早かったらしい。
すぐにロザリアに向かって切り出した。
「申し訳ありません。 オスカー様は本日お休みを取られております。」
「まあ、それは驚きましたわ。」
補佐官に無断とはどういうことだ、と、言外に不愉快さをにじませると、秘書官はさらに縮こまった。
「無用な心配をかけたくない、と、他言しないように言われておりました。」

「オスカーの様子は?」
「はい。 高熱だと聞いておりますが、それ以上は…。」
「わかりましたわ。」
ロザリアはすくっと立ち上がると、秘書官に 
「休みの時は補佐官に連絡するように伝えておいてくださいませ。 執務に支障をきたします。」
有無を言わさない口調でぴしゃりと言い放った。



それからの数時間、ロザリアは落ち着かないまま、なんとか執務を終わらせた。
あのオスカーがこともあろうか熱で執務を休むほどなのだ。
関係ないとは思いながらも、あの事故のせいではないかと不安になってしまう。
事故のせいならば、責任の一端は自分にある。
だから。
結局、気が付いた時、ロザリアはオスカーの屋敷の前に立っていた。

ベルを鳴らしたが、中からは返事がない。
そのまま勢いでノブに手をかけると、鍵がかかっていないらしく、ドアがすうっと中に開いた。
明かりのない室内の様子。
人のない気配。
何かあったのか、と、早鐘のように打ち鳴らす心臓を抱えながら、ロザリアは一つ一つドアを開いていった。
リビング、バスルーム、キッチン、使用人の部屋と並んでいて、そのすべてを確認したが、やはり誰の姿も見えない。
ロザリアは携帯を取り出し、緊急の知らせが来ていないかと確認した。
もしかするとオスカーの病状が悪化して、使用人たちが病院に連れていったのかもしれない。
それならば、すぐに補佐官である自分のところに連絡が入るはずだ。
けれど、携帯には一通のメールもなければ、着信履歴もない。
不安のまま、ロザリアは一番奥の重そうなドアに手をかけた。


明かりは点いていないのに、一瞬眩しさを感じたのは、窓一面から差し込む月明かりのせいだ。
はためくレースのカーテンが、幻想的な陰影を毛足の長い絨毯の上に散らしている。
部屋の中央に置かれた大きなベッドに人影を認めて、ロザリアは忍び寄った。
ベッドの上に横たわっていたのは、目を閉じ、荒い息を吐いているオスカー。
明らかにつらそうな様子に、ロザリアは目を見張った。
額に手を当ててみれば、やはり熱い。
冷やした方がいいのは一目瞭然だ。

「誰か…。」と、言いかけて、誰もいなかったことを思いだしたロザリアは、バスルームに向かうと、タオルと洗面器を用意した。
キッチンで氷と水を入れ、その中で絞ったタオルをオスカーの額に乗せる。
とりあえずできることといえば、これくらいしか思いつかない。
それでも、乗せた瞬間、
「ああ…。」と、安堵を押し殺したような声がオスカーの口から漏れた。

数分で冷えたタオルが温んでいく。
ロザリアは何度もタオルを取り換えながら、目を閉じたままのオスカーの顔を見つめた。
赤らんだ頬。 汗で額に張り付いた髪。
いつもの自信満々な炎の守護聖とは思えないほどの弱った様子。
朝から今まで独りでじっと我慢していたのかと思うと、気の毒にすら感じる。
不思議なのは使用人たちが誰もいないことだ。
屋敷の中は片付いているし、手入れが行き届いているから、辞めてしまって誰もいない、というわけではないだろう。
けれど、ロザリアが訪れてから小一時間は経とうというのに、未だに誰の気配もない。
静寂の中、オスカーの息遣いと、時計の針だけが響く。


何度目かのタオル交換をしていると、ふいにオスカーの手が動いた。
だるくて動けなかった体が、多少冷めたことで自由になったのかもしれない。
布団をめくろうと無意識に動いた手を、ロザリアは思わず押しとどめてしまった。
「う…。」
オスカーの目がうっすらと開く。

「ロザリア…?」
かすれた声で、呼ばれた名前。
ロザリアは伸ばしていた手を引くと、ぎゅっと胸の前で握り合わせた。
オスカーの瞳に映る自分の姿を見て、ハッと気が付いたのだ。
許可なく屋敷に上がり込み、寝室にまで入り込んでしまった。
はしたないと謗られても仕方がない。

けれど オスカーはロザリアを瞳に映してはいるものの、まだ意識が朦朧としているのか、どこか遠くを見ているようだ。
顔に浮かんだ穏やかな笑みは、いつものオスカーとはまるで違っていて、むしろ儚くさえ見える。
「ロザリア…。」
ベッドから伸ばされたオスカーの手を、ロザリアは無意識に握っていた。
熱を帯びた手はロザリアのひんやりとした手をもすぐに温めてしまう。

「ああ…。 夢でも、いいもんだな…。」
オスカーの手に一瞬、力がこもったような気がした。
けれど、それはほんの一瞬で、すぐにそのままの形で固まってしまい、動かなくなる。
オスカーはふっと寂しそうに目を細めた。
「これ以上は無理、か…。」

大きく息を吐いたオスカーは再び目を閉じた。
さきほどまでよりは呼吸が楽になっているのが、ロザリアにもわかる。
このままもう一眠りすれば、きっと明日には熱も下がっているだろう。
規則的に胸が上下し始めたのに気づいて、ロザリアはそっと握っていた手を離そうとした。
成り行きとはいえ、こんなことをするべきではない。
…してはいけないのだ。

けれど、ロザリアが完全に手を離そうとした瞬間。
「行かないでくれ…。 今だけで、いいんだ。
 そばにいてくれないか…。」
譫言、なのかもしれない。
オスカーの瞳は閉じたままで、体も動いてはいない。
ただ、その掌だけが。
離れようとするロザリアの手を懸命に掴もうとしていた。
本当なら、あの事故の前なら、その手はきちんとロザリアを掴んでいたはずなのに。
かえって軽く添えられるだけの指先が、金縛りのようにロザリアの体の動きを縫いとめてしまう。

ロザリアはベッドの横に膝をつくと、オスカーの手を両手で包み込んだ。
病気の時には、誰だって、心細くなるもの。
使用人でもいればともかく、こんな状態のオスカーを一人にしていけるほど、冷たい人間にはなれない。
ここにいる理由は、ただそれだけ。
まるで他の理由を思い浮かべることを避けるように、ロザリアは何度も自分に言い聞かせ続けた。

じっと瞳を閉じたまま、浅い呼吸を繰り返しているオスカー。
そして。
「ロザリア…。」
時折、吐き出される呼び声。
そのたびにギュッと胸が痛くなるのは、きっと彼がとても辛そうな顔をしているからだ。

どれくらいそうしていただろう。
ようやくオスカーの手から完全に力が抜けたのを合図に、ロザリアはタオルを交換して屋敷を出た。
涼しいほどの夜風に吹かれても、手だけは不思議なほど熱を持っている。
『そばにいてほしい』
何度も脳裏によみがえってくる、オスカーの声。
熱で浮されていたからこそ、の言葉なのだろう。
けれど、それだけにその言葉にはオスカーの真実の願いが込められているような気がした。


家路を急いでいると、ぎゅっと握りしめたバッグの中で、チカチカとディスプレイが点滅しているのに気が付いた。
マナーモードに設定してあったせいで知らずにいたが、着信を知らせるメッセージはすでに数回にもなっている。
再び細かな点滅を始めた携帯のボタンを、一瞬ためらった後、ロザリアは震える指で押した。

「あ、ロザリア? …今、大丈夫?」
携帯の向こうから聞こえるオリヴィエの声に、ロザリアは小さく息を吐いた。
オリヴィエの声を聴いた途端、胸に広がる暖かな気持ち。
『会いたい』
言いそうになって、慌てて言葉を飲み込んだ。

「ええ。 大丈夫ですわ。 オリヴィエこそ、どうなさったの?」
わざわざ私用で電話をくれたのだろうか。
もしかして、オリヴィエも声が聴きたいと思ってくれたのなら…。
知らずに携帯に向かって笑みが浮かんだ。
けれど、
「ちょっと聞きたいことがあってさ。 そっちはもう深夜だと思うから、明日の朝、返事をくれたらいいよ。」
あっさりと『執務のことだ』と返されて、さっきとは別の意味で息をついてしまった。

「で、用件なんだけど。」
オリヴィエは、明日、聖殿に出仕したらすぐに手配してほしいという、いくつかのこまごました用件を伝えてきた。
確かにどれも急ぎだから、メールではなく、電話をしてくるのも当然といえば当然だろう。
ロザリアは、もともとあまり電話が得意ではない。
育ちのせいか丁寧すぎる話し方が、なんとなく相手をつまらなくさせてしまうことを知っているからだ。
だからいつもなら用件だけを聞いて、すぐに切ってしまうのだが、今日はもう少し話がしたかった。

「あの、オリヴィエ。 そちらはどうですの?」
「どうって・・。そうだねえ。 思ったよりは落ち着いてるよ。 
 先に気候の調整をしたのがよかったね。
 あんたの考えが正しかったってこと。」
「そうですの…。」
危険が少ないことに素直に安堵する。
守護聖だとて不死身ではない。 …そのことをつい最近、思い知ったばかりだ。

オリヴィエは電話でも話し上手で、今の惑星で起こっていることを、面白おかしく話してくれた。
大変なことが多いことも知っているだけに、オリヴィエの気遣いが嬉しい。
話ながら、家に向かって歩いていると。
「…ねえ、あんた、外にいるの?」
オリヴィエに尋ねられて、ロザリアは足を止めた。
さわさわと鳴る葉擦れの音。
耳を掠める風の音。
携帯越しでもきっとわかってしまったのだ。
ロザリアはグッと携帯を握りしめた。

「え、ええ。 テラスで涼んでいますの。
 今日は少し忙しくて、さっき帰って、やっとバスを使ったところなんですのよ。」
「ふうん。 夜風に当たり過ぎると風邪を引くよ。
 気を付けてね。」
「ありがとう。 …あ、あの…。」
「なあに?」

「…オリヴィエも気を付けて。」
「ん。 ありがと。 じゃあね。」
ぷつっと切れた電話。
ディスプレイの明かりが消えてもまだ、ロザリアは携帯を耳から離せずにいた。

なぜ、嘘をついてしまったのだろう。
どうして、オスカーの屋敷からの帰りだと、言えなかったのだろう。
…わからない。
わからないけれど、言いたくないと咄嗟に思ったことは本当だ。
オスカーとのあの時間を、オリヴィエには言うべきではない気がした。



翌朝、ロザリアは熱を出して、執務を休んだ。
ベッドから出ることもできずに、薬を飲むのが精いっぱい。
その知らせを秘書官から聞いたオスカーは、昨夜の出来事が夢ではなかったと確信した。
高熱で朦朧とした中、感じたロザリアの気配。
彼女がそっと包み込むように抱いてくれていた手。
全てが夢のようで、とても信じられなかった。

真夜中になって、ようやく熱が下がったオスカーは、目を覚ました自分の額の上に、タオルが置かれていることに気が付いた。
相変わらず、屋敷の中はしんと静まり返り、使用人が戻った気配はない。
もっとも明日の昼まで3日間、全員に休みを取らせたのは、オスカー自身だ。
ケガのことを知られないように、なるべく使用人も遠ざけたかった。
まさか、そんな時に限って、自分が倒れることになるとは思ってもいなかったが。

「誰が・・?」
温んだタオルを手に頭を巡らせる。
その時、ふと、愛おしい薔薇の香りを感じたような気がした。
ロザリアの香り。
なんとなく蘇った薄い記憶の中の彼女は、じっとオスカーの手を握り、見守っていてくれた。
夢、かもしれないとも思う。
このタオルだって、無意識のうちに自分が用意したものかもしれない。
でも、どこか満たされたような、この気持ちは、きっと彼女にしか与えることはできないはずだ。

昨日休んだ分、オスカーの前には朝から山積みの執務がある。
ロザリアを見舞いたい。…できれば、昨夜のことを問いたい。
そう思いながら、追い立てられるように執務をこなし、全てが片付いたのは、陽が沈みかけたころ。
オスカーはさっとマントを羽織ると、ロザリアの私邸へ向かった。


裏の小道を行けば、聖殿から補佐官の私邸はすぐそこだ。
生垣に沿って歩いていたオスカーの耳に、薔薇のアーチの向こうから話し声が聞こえた。
この向こうは確かリビングから続く、テラスになっているはずだ。
ロザリアの私邸でのお茶会はいつもそこで開かれているから、間違いはない。
自然と足音を忍ばせたオスカーは、アーチの陰に隠れるように、中の様子を伺った。

「あんたは座ってて。」
楽しそうなオリヴィエの声。
「でも…。」
ロザリアの声も続けて聞こえてきた。

夕日が差し込むテラスのベンチに座っているのは、ロザリアと…オリヴィエだ。
そう言えば、そろそろ帰ってきてもおかしくはないが、まさか聖殿に寄るよりも先にここに来ているとは、思ってもいなかった。
オスカーの胸に苦い澱が落ちる。

「あんたの代わりに秘書官から連絡が来たときはびっくりしたよ。
 夜風には気を付けて、って言ったばっかりで、まさかホントに熱を出すなんてさ。」
「ごめんなさい・・・。」
「いいよ。 私も早く帰りたかったし。
 ま。ランディには気の毒なことになったけどね。」
連絡を受けたオリヴィエは、死ぬほどランディの尻を叩いて、早々に任務を終わらせたのだ。
窶れはてたランディは聖地についた途端に倒れ込んだらしいが、それもまた修行。
事実、それ以上をこなしたオリヴィエは、こうしてぴんぴんしているのだから。


オリヴィエの任地での話をほほ笑みながら聞くロザリア。
ゆったりとしたワンピースを着て、髪を柔らかく編んだロザリアは、とても可憐で美しい。
ほんのりと頬が赤いのは、熱のせいなのか、陽の色なのか、それとも。
オリヴィエと一緒だからなのか。
見たくない光景のはずなのに、オスカーの目は吸い寄せられるように、ロザリアから離れない。

「病人は座ってなきゃダメでしょ? 」
「でも、お茶くらいは用意できますわ。」
「ダーメ! 私が取ってくるから。」
「わたくしも…。」

言いながら立ち上がったロザリアが、突然、よろり、と足をふらつかせた。
一瞬の眩暈に体が付いていかなかったのだろう。
危ない、と、言いかけたオスカーの目に飛び込んできたのは、倒れそうになるロザリアの体をしっかりと支えるオリヴィエの姿。
片腕だけで軽々とロザリアの体を抱き留めたオリヴィエは、笑いながら、
「ほら、だから言ったでしょ? 座ってなきゃ。」
そのまま抱き上げ、ロザリアをベンチに座らせた。

「ご、ごめんなさい。」
耳まで真っ赤にして、ロザリアは俯いている。
だからきっと彼女には見えていないのだろう。
そんなロザリアを見つめるオリヴィエの瞳が、どれほど優しく…甘いものかを。



くるりと踵を返したオスカーは、足音を消しながら、その場から走り去った。
幸せそうな二人に割り込むほど、プライドを失くすつもりはない。
それに。
オスカーは左の拳を握ってみた。
ふっとこもったと思った力は、すぐに掌から抜けていき、指が重くこわばっていく。

全く何もできないわけじゃない。
力が入るときは、ケガをする前と何も変わらないのだ。
ただ、もしも、彼女に助けが必要な時。
自分は彼女を守り切れないかもしれない。
さっき、咄嗟に彼女を抱きかかえたオリヴィエのように、彼女を守ることができないかもしれない。

力だけが強さではないことはわかっている。
けれど、今の自分は。
ぐっと握った拳が、今度は掌に食い込み、爪の後を残している。
空を仰ぎ見たオスカーの氷青の瞳に、白く薄い月が静かに映っていた。


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