1.
「とってもとっても幸せな気分になりました…。」
エンジュの言葉を、ロザリアは死刑宣告のように苦々しい気持ちで聞いていた。
語るエンジュの周りを取り囲むのは、ロザリアを含めて4人の少女。
いずれ劣らぬ花のような少女たちは、2つの宇宙の女王と補佐官だ。
そして、たとえ、どれほど宇宙にとってやんごとない存在であったとしても、乙女であることは変わらない。
今日の話題も古今東西関わらず、乙女の最大の関心事。
「は~、わたしも思い出しちゃった…。あの時のランディ様…。」
「私も…。」
「ワタシも…。」
それぞれ相手は違っても、頭に思い浮かんでいることは同じだろう。
昨夜、エンジュは恋人の守護聖と初めての夜を迎えた。
そこで開かれたのが、恒例のお茶会という名の報告会だ。
小柄でどうみても少年といったふうにしか見えないエンジュの恋人だったが、意外にも手が早かったらしい。
付き合い始めて数か月…。ならば今時は普通なのか。
まったく近頃の若い人たちときたら。
はしゃく少女たちをしり目に、ロザリアはまるで自分だけ一気に老けこんだかのように、紅茶を飲みほした。
「ねえ、ねえ。 アリオスはやっぱり、アレなの?」
「もう、陛下ったら!」
「聞いて聞いて、エルンストはね~。」
わいわいと騒ぎ始めた場から、ロザリアはそっと立ち去った。
紅茶が無くなったのも理由の一つだが、一番の理由はそれではない。
5人の少女たちの中で、ロザリアだけが、恋人がいないのだ。
というか、いたことすらない。
恋愛なんて、ちょっと洒落た遊び。
倦んだ上流階級の暮らしで、ロザリアはその現実を嫌というほど見て来た。
狭い世界で誰と誰が付き合っただの、別れただの。
昨日までの恋人同士が、今日は相手を変え、明日はまた別の相手と付き合っている。
そこには真実の愛などなく、ただ一時の快楽を与えあう関係があるだけ。
そのせいか、ロザリアは恋愛そのものに、あまり興味が持てないでいた。
幸いな事にスモルニイは女子校で、優等生ばかりの特別クラスに、浮いた話は必要なかった。
けれど、女王試験を経てアンジェリークという親友ができ、コレットやレイチェル、エンジュといった友達もできた。
彼女達の恋の話を聞くことが多くなると、今度は別の不安に襲われるようになったのだ。
もしかすると、自分はこのまま、恋を知らずに死んでいくのではないか、と。
誰かに愛される幸せを知らないまま、一人さびしく死んでいくことを考えると、気持ちが重くなる。
実は一度だけ、ときめきを覚えたこともあった。
初めて飛空都市へ足を踏み入れて、彼を見た瞬間。
彼はロザリアの描いていた理想そのものの、ただ一つの愛を抱く誠実な騎士のように見えた。
ところがその彼が、とんでもない遊び人で、女といえば誰彼ともなく口説く最低男だとわかり、憧れはすぐに落胆に変わったのだ。
やはり恋愛なんて、くだらない。
それからはただ、試験にだけ没頭した。
結局、女王に選ばれたのはアンジェリークだったけれど、別に後悔はない。
育成という点だけ見れば、優れていたのは自分のほうだったし、女王にふさわしいのがアンジェリークであることを理解しているからだ。
今は補佐官であることに誇りを持っている。
ただ。
アンジェリークはサクリアが尽きた後も、恋人の守護聖と聖地に残るだろう。
その逆も然りだ。
その環境はすでに自分たちの手で整えてある。
自分は一人で聖地から去り、その後は…?
客観的に見て、守護聖に限らず聖地にいる男性は魅力がある。
その男性達にさえときめかないのに、下界に降りて誰かに恋をすることなどありえるのだろうか?
そうなれば、やはり、ずっと一人ぼっちのまま。
ロザリアはぶるっと身体を震わせた。
恋をするのは無理だとしても、とりあえず何も知らずに死ぬのは嫌だ。
ロザリアはアンジェリークたちの話を頭の中で反芻していた。
暖かな口づけ、甘い囁きの中で交わす行為。
話している間の彼女達は、みんなとても幸せそうで、蕩けそうな甘い瞳をしていた。
そんな素敵なことを自分だけが知らないなんて、許せない。
好奇心と負けず嫌いとが合わさって、ロザリアはとにかく経験してみたかった。
だが、そのどれも一人では出来ないし、誰とでもいいわけでもない。
焦りにも似た気持ちは、日に日に大きくなっていた。
その夜、ロザリアは一人、女王宮の奥の中庭を歩いていた。
真夜中に近い闇は静けさという音楽を連れてくる。
木々の葉ずれ、あがったばかりの雨が落とす雫。
静かだからこそ聞こえる音に、一人、耳を傾ける。
この時間が、ロザリアは好きだった。
夜着にかるく上着を羽織ったまま、中庭のベンチに足を投げ出すように座ると、目を閉じる。
いつもは固く結んだ髪を、風は気ままに攫い、露を含んだ空気が露出した肌にまとわりついてくる。
世界がロザリアを包んでくれているような心地よさがあった。
「誰かいるのか?」
聞き覚えのある声。
明らかに警戒するその声をロザリアは無視した。
黙っていれば、ここまで入ってくる者はいない。
ここは誰でもが入れる場所ではないのだから、たとえ警備隊長であっても、異変がなければ足を踏み入れはしないはずだ。
このまま黙っていれば、そのうちに立ち去るだろう。
ロザリアは、じっと時が過ぎるのを待っていたが、ふいに背中にある大きな木が風に揺れ、雨の名残を落とした。
思いがけず腕に降り注いだ冷たさに、小さく声を上げてしまう。
「誰だ?」
草を踏みしめる靴音がして、木々の向こうから人影が現れた。
月のない空にも鮮やかな緋色の髪。 ここで一番会いたくなかった人物。
ロザリアは仕方なく目を開けて、その姿を見た。
「なにをしている?・・・待ち合わせか?」
隠れて逢引でもしていると言いたいのか。
自分を基準にして考えるのは止めてほしいと、ロザリアは内心苦笑する。
「さあ、どうかしら。」
こうして夜歩く理由は自分でもよくわからなかった。
ただ時々眠れなくなる。この世界に、一人きりでいるような気がして。
暗闇の中に立つオスカーはとても鮮やかで、彼の存在を強く主張しているようだ。
多くの女性に愛されている彼は、たしかにこの世界に必要とされているのだろう。
「こんなところじゃなく、もっと別の場所で待ち合わせるんだな。ここは、わかりにくいぜ。」
「平気ですわ。」
待ち合わせなんかじゃないのに。
くすっと、唇の端を上げただけの微笑みを乗せて、ロザリアはまた黙ってしまった。
辺りに雨上がりの匂いがする。
ぼんやりと座るロザリアを、美しいとオスカーは素直に思った。
まるで、この世のものでないような、今にも夜に溶けてしまいそうな姿。
誰が彼女をここでこうして待たせているのだろうか。
忘れていたはずの苦い感情がざわざわと胸を騒がせる。
流れる青紫の髪がとても艶やかで、思わず伸ばしかけた手が空を切った。
「送ろう。君が待ちぼうけを食らうとは思えないが、今夜はもう遅い。なにか訳があったのかもしれないからな。」
「…そうですわね。」
もっと反抗するかと思ったが、ロザリアはすぐに立ち上がり、オスカーは肩透かしを食ったような気持ちになった。
たとえば、「帰りたくない。」と言われたら、もっと話すことができたのに。
そう考えた自分がひどく卑屈に思える。
オスカーはロザリアの肩に自分のマントをかけると、横に並んで促すように歩き始めた。
中庭から補佐官の私室まで、それほど距離があるわけでもない。
けれど、オスカーはロザリアが部屋のドアを閉めるまで、見送っていた。
自分の顔を見て、女官たちがひそひそと噂をしているような気がする。
ロザリアは目の前の書類の最後の空欄に署名をすると、ペンを置いた。
もう間もなくお昼の時間で、女官たちも一番気の緩んでいる時だ。
「ちょっとよろしくて?」
ベルを鳴らして紅茶を持ってこさせると、自分よりも少し若い女官に向かって声をかけた。
「みんな、なにかそわそわしているようだけど。おもしろいニュースでもあったのかしら?」
にっこりと微笑むロザリアがとても美しくて、女官は頬を赤らめながら、首を横に振った。
「あの。いえ、なんでもありません。」
「まあ、わたくしには秘密なのかしら。悲しいわ。」
残念そうにわざとため息をつくと、女官はますます顔を赤くしている。
美しく聡明な補佐官は、年若い女官達にとって、ある意味、あこがれの存在だ。
ロザリアが優雅な動きでカップを取り上げると、紅茶の香りが辺りに広がる。
もう一度、優しく微笑みかけると、女官はやっと小さな声で話し始めた。
「オスカー様とお付き合いしているというのは本当ですか?」
「え?」
聞き間違いではないかと、耳を疑った。
付き合うどころか、まともに話したことすら、ここ最近ない。
彼に対する認識が180度変わった、あの女王候補の時から。
「オスカー様がロザリア様のお部屋から出てくるところを見た者がいるそうです。…あの、私はとてもお似合いだなと思います。」
女官はうっとりした瞳でロザリアを見つめると、ぺこりと頭を下げて、あっという間に部屋を出て行ってしまった。
考えこんだロザリアの前に、カップの湯気がふわりと香りを連れてくる。
そういえば、思い当たることがなくもない。
ついこの間の夜、中庭から部屋まで送ってくれたオスカーを誰かが見ていたのだろう。
そして、出てきたところだと勘違いをした…。
オスカーの日頃の言動から考えても、そういう誤解が生じるのも無理はない。
お堅いと評判の補佐官がオスカーのような男を部屋に引っ張り込んでいるとなれば、それは面白い噂だろう。
今頃は聖地中の格好のネタになっているはずだ。
まったくもって忌々しい。
ふとひらめいたロザリアは、飲み終えたカップもそのままに部屋を出た。
ノックすると、重厚なドア越しに入室を促す声が聞こえてくる。
ロザリアは礼儀正しくきちんと後ろを向いてドアを閉めると、少し向こうの執務机に座っているオスカーに微笑みかけた。
「お時間はありまして?よろしければ、お昼でも一緒にいかがかしら?」
オスカーは驚いた顔でロザリアを見ると、手にしていた書類をファイルに挟み込んだ。
目の前のロザリアは髪をきちんと結いあげ、かた苦しいドレスに身を包んだ、いかにも貴婦人といった風情を漂わせている。
有能で真面目な補佐官。
女王候補の頃の彼女はからかうと顔を真っ赤にして怒りだす、ちょっと生意気な少女だったのに。
オスカーはふっと吐息のような笑みを漏らすと、机の下で足を組みかえた。
「あまりここへは来ない方がいいと思うぜ。俺と一緒のところを見られたら困るだろう?」
きっとこう言えば、彼女は不快そうに眉を寄せて、「どうしてですの?」と問いただしてくるに違いない。
オスカーは、噂話をどう伝えようかと頭の中で考えた。
けれど、ロザリアは薄く微笑んだまま、オスカーをまっすぐに見つめている。
「噂なら存じていますわ。」
「ほう。」
思わず声が出たのは、この手の噂というものを彼女が嫌っていると思っていたからだ。
否定するためにオスカーを避けるとばかり思っていたが、どうやら見込み違いだったらしい。
ロザリアは美しい笑みを浮かべたまま、言った。
「噂を本当にする気はなくて?」
「なに?!」
自分でもおかしいくらい大声が出た。
唖然とするオスカーに、ロザリアはゆっくり近づいてくる。
「わたくしとお付き合いしていただけないかしら、とお願いしているんですのよ。」
彼女が机を挟んだだけの距離まで近づいている。
こんなに近づいたのも女王試験以来だと、オスカーは思った。
「俺を好きだと言うのか?」
「ええ。」
「俺のどこが?」
くすり、とロザリアが笑う。
「あなたのような方が、そんなことをおっしゃるなんて思いませんでしたわ。全ての女性の恋人、ではなかったのかしら?」
「ああ。そんなことを言ったかもしれないな。」
「では、問題ないでしょう?それとも、わたくしではご不満かしら?」
上目遣いでオスカーを見上げる彼女はとても魅力的だ。
この誘いを断れる男がいたら、ぜひ見てみたいとさえ思う。
彼女の真意はわからないが、乗ってみるだけの価値はあるだろう。
なによりも、抗えない。
「俺でよければ、よろこんで。」
「まあ、嬉しいですわ。」
オスカーは立ち上がり、ロザリアの前に立つと、恭しく彼女の手を取った。
白い柔らかな手。
もう二度と触れることなどないと思っていた。
それが了承の合図と感じたのか、ロザリアはオスカーに手を委ねたまま、カフェへと向かったのだった。
行く手に立つ人々が海を割るように左右に道を開ける。
凝視する者、目をそらす者、あからさまにため息をつく者、さまざまな反応が歩みを進めるたびに訪れた。
オスカーが手を引いているように見えて、実はここまで先導してきたのはロザリアだ。
わざわざ人通りの多い場所を選んで歩く彼女に、オスカーは嘆息した。
隠れて付き合おうと思っていたわけではないが、いかんせん、自分達は目立ちすぎる。
ランチのにぎわいも最高潮という時間、ロザリアはカフェの中に入ると、テラスの一席に腰を下ろした。
庇の落とす影にすっぽり包まれても、カフェ中の人々が注目しているのが分かる。
立ったままでいるオスカーにロザリアは軽く微笑むと、隣に座るように手招きした。
「なにになさる?」
差し出されたメニューを受け取り、オスカーは席についた。
二人でそれぞれの別のランチメニューを選ぶと、オスカーは氷の入ったグラスを持ち上げた。
汗ばむ陽気のせいか、グラスの周りにはぽつぽつと水滴が付き、向こうの景色を歪ませている。
丸い水滴に映るロザリアは、その完璧な美貌から出る笑顔を惜しむことなくオスカーに向けていた。
これほど近づくのは本当に女王試験以来だ。
久しぶりに感じる彼女の気配に、オスカーはつい饒舌になってしまう自分を感じていた。
「ちょっと、噂はホントだったんだね。」
二人の前にひらりと柔らかなスカーフが舞う。
ひそひそと声をひそめるばかりの中で堂々と声をかけてきた悪友に、オスカーは顔をしかめてみせた。
「デート中なんだぜ。野暮なマネをしてくれるなよ。」
肩にのせられた手を追い払うと、オリヴィエはまじまじと顔を近づけてくる。
「見に行かないと損します、って言われてわざわざ来たんだけどさ。こりゃ、来てよかったよ。」
そう言って、今度はロザリアに向き直った。
「ね、あんたたち、ホントに付き合ってんの?」
カフェ中の耳がこちらを向いているのに、誰も目を合わせようとはしない。
オスカーがどう答えようか考えているうちに、ロザリアはにっこりと笑った。
「ええ。お付き合いしていますわ。」
一瞬、空気が変わり、これほど人がたくさんいるのに全く物音がしなくなる。
ロザリアの指がオスカーの手に触れた。
親密度を周囲に知らせるかのように、白い指がオスカーの指をなぞる。
「ああ~。あんたってば、男を見る目がないねぇ。こいつがイヤになったら、いつでもおいで。私なら大歓迎だからさ。」
「ええ。オリヴィエ。」
にっこりとほほ笑むロザリア。
その微笑みが自分に対するものと少し違う気がして、オスカーは眉を寄せた。
ひとしきりからかったオリヴィエがウインクとともに立ち去ると、急に二人の間は静かになった。
もともとそれほど話がはずむ関係でもない。
それにオスカーが女性の喜ぶような話題を並べても、ロザリアは当たり障りのない返答をするだけだ。
どこか上の空の様子。
食後にそれぞれの飲み物を注文した後、まるでデザートでも頼むように、ロザリアは唐突に切り出した。
「次の土の曜日ですけれど、あなたのお宅にお邪魔してもよろしいかしら?」
一瞬、面喰ったオスカーは、すぐにニヤリと笑みを浮かべた。
「恋人が訪ねてくれるというんだ。断る理由はないな。」
「あら、さすがですわね。」
つまらなそうに、ロザリアが鼻を鳴らしたのがオスカーにも分かった。
彼女の様子は不可解だ。
付き合って欲しい、と言ってきたり、見せつけるように親密になったりするくせに、どこか落ち着いている。
落ち着きすぎていると言ってもいいだろう。
「なにかお菓子でも持っていきましょうか?」
「いや、それくらいは用意させよう。君はその体一つで来てくれればいい。」
ロザリアを甘く見つめるアイスブルーの瞳。
多くの女性を虜にしたその瞳の前では、しっかりと補佐官服に身を包んでいるにもかかわらず、何も身につけていないような錯覚を起こしそうになる。
ロザリアはテーブルの下でぎゅっとスカートを握りしめた。
「ありがとう。…素敵な夜を楽しみにしていますわ。」
それだけを口にしたロザリアは、話し足りなそうなオスカーを残して足早にカフェを出た。