2.
その夜、ロザリアはいつもよりもゆったりとバスを使った。
大胆なことをしたと自分でも思っている。
明日になれば、もう、聖地中に二人が深い関係だと知れ渡っているだろう。
もっとも彼にしてみればいつものこと。
お茶会のネタにもなりはしない程度の。
薔薇のオイルを垂らしたバスタブにゆっくりと浸かったロザリアは、髪にタオルをあてながら、ドレッサーを覗きこんだ。
大人の女性に見えているだろうか。
彼と遊ぶのにふさわしい、大人の女性に。
オリヴィエがくれた薔薇のオイルは、心をほんの少し大人の気分にさせてくれる優雅な香りだ。
ロザリアにとって、とっておきの時に使う、魔法のようなオイル。
鏡の中の自分の姿は、まだまだ大人の女性とは言えない。
精いっぱいの背伸びをオスカーにだけは気づかれたくなかった。
オスカーとの噂を耳にした時に、ロザリアはチャンスだと思った。
経験したいと思っていたことを、彼ならしてくれるはずだ。
オスカーが不誠実でロクでもない男だということはよく知っている。だからこそ都合がいい。
きっと彼なら適度に付き合って、すぐに別れてくれるだろう。
プレイボーイで、女の扱いにも慣れている。
目的はそれだけなのだから、上手であるに越したことはない。
女子会でさんざん聞かされて、すっかり耳年増になっているロザリアは、初めての相手は上手な方がいい、と信じていたのだ。
「あとは上手く、それに持ち込めるかですわね…。」
カフェでのやり取りを思い出して、ロザリアは微笑んだ。
家に行きたいと言った時、たしかに彼の瞳にも期待がのった。
艶めいた、期待。
ロザリアはアンジェリークから借りた恋愛小説をベッドの下から取り出した。
いささかきわどい内容のラブロマンス小説は、今までなら嫌悪して読まないようなものだ。
けれど、オスカーとのことをアンジェリークに問い詰められ、ロザリアは嘘をついた。
彼を好きだが、初めてで、なにもわからないから心配だ、と。
まさかただ経験したいから、とりあえず上手そうなオスカーを選んだ、とは言えない。
すると、彼女は訳知り顔でこの本を貸してくれた。
「コレ読んで。すごくためになるわよ。 わたしもこれで、予習したもの。」
さすがのアンジェリークでも、自分の体験をまじめな状況で微細に話すのは躊躇われたらしい。
アンジェリークはヒロインの女性の初体験のシーンが感動すると言っていたが、ロザリアは違った。
ヒロインのライバルの女性。
慣れた所作で男を操ろうとする姿に、ロザリアは心惹かれた。
淫らで、凛々しい悪女。
こんなふうに彼を翻弄してみたい。
すでに、その女性の情事のシーンは暗記するほどに読み込んでいる。
いつの間にか本の人物を自分に置き換えていることに気づかず、ロザリアは同じシーンをまた読み返していた。
土の曜日、ロザリアは約束通り、オスカーの家を訪れた。
期待と不安で、昨夜、ほとんど眠れなかったせいで、頭は重いのに、思考はやけにクリアだった。
薔薇のオイルで入浴を済ませ、わざわざ新しい服を下ろしている。
つまらない堅苦しいブラウスとスカートで、彼を誘惑するなんて不可能だ。
髪は緩く背中に流してみた。
服もいつもより胸元の開いたカットソーとひざ丈の柔らかな素材のスカートをわざわざ取り寄せた。
ストッキングは無粋だから、素足を出した。
アンジェリークにも見せたことのないスタイルは、まるで自分でないみたいだ。
ほんの少しの冒険にはふさわしい。
ロザリアを出迎えたオスカーは見慣れないスタイルの彼女に少し驚いたように目を見開いた後、家の中へと招き入れた。
「悪いが週末は誰もいないんだ。そのかわり、ゆっくりしてくれ。」
オスカーは自ら淹れたカプチーノをロザリアの前にも置くと、ソファで向かい合った。
自宅だからかオスカーはラフにシャツ一枚をはおっただけの姿だ。
ちらりとのぞく鎖骨がいかがわしい気がして、まともにオスカーの方を見ることもできない。
ロザリアはそれを悟られないように、わざと睫毛を伏せ、薄く笑みを浮かべた。
「わたくし、コーヒーはあまり好きではありませんの。」
オスカーが肩をすくめた。
「あいにく、他の飲み物は作れないんだ。」
自分のもてなしが女性に拒否されたことなどない、という仕草だ。
なぜかロザリアの胸にちりっとした苛立ちが起きる。
「そうですの…。では、あちらをいただけますかしら?」
テーブルの上にはおそらくさっきまでオスカーが飲んでいただろうワインがグラスと一緒においてあった。
実際、ロザリアは苦みの強いコーヒーが苦手なのだ。
まだ食事の時に口にすることの多いワインの方が慣れている。
「いただきますわね。」
普段のロザリアなら、使いかけのグラスを手に取るなど考えもしないはずだ。
けれど、今の状況はとても普段通りの行動がとれるような神経ではいられない。
景気づけにアルコールが欲しくなったのも、当たり前といえば、当たり前だった。
オスカーが唖然とした様子で見つめていることを知りながら、ロザリアはグラスの中身をあおった。
「いいワインですわ。」
思わず声に出していた。
重くなりがちな赤なのに、このワインはどこかフレッシュで華やかな味わいがする。
オスカーならもっと、濃い風味を好むのではないかと思っていたから、その違いはなおさらだ。
立て続けに二杯飲むと、それまでの恥ずかしさやためらいが、ふっと消えていったような気がした。
「お酒もいいけれど、もっと他の物も味わいたいわ。」
小説の中で彼女が使ったセリフは効果抜群だったらしい。
ほんのりと染まった頬で見上げると、オスカーがふっと笑みをこぼした。
執務の時に見せる真剣な瞳よりも野性味のある、男らしい顔。
溶けてしまいそうなほど素敵だけれど、騙されたりはしない。
誰にでもこんな顔をして見せる彼なのだから。
ふわり、とロザリアの身体が宙を浮いた。
オスカーは軽々とロザリアを抱きあげ、奥へと運んで行く。
手慣れた様子なのが悔しいが、たくましい胸に抱かれて、ロザリアは不思議な安心感に包まれていた。
これはきっと体をめぐるアルコールのせい。
そして、こんなふうに男性に触れられたことがないせい。
言い聞かせて、彼の触れる個所を意識しないように、鼓動を押さえつけた。
ドアを開け、フロアライトを点けたオスカーは彼女を壊れもののようにそっとベッドへ下ろすと、額に軽いキスを落とした。
「シャワーを浴びてくる。 君は?」
まさかもう済ませて来たとは言えず、ロザリアは小さく首を横に振った。
アルコールでいつもの抑制はかなり外れているものの、いざ、彼の寝室に連れてこられると緊張で気がおかしくなりそうだ。
シャワーを浴びて頭を冷やしてしまう前に、早く。
オスカーが離れていくのを感じて、ロザリアはため息をついた。
改めて部屋を見回せば、余分な装飾のないシンプルなインテリアが目につく。
大きなベッドとサイドテーブルがあるくらいで、他には何もない空間。
本当に寝るためだけの部屋、という感じだ。
彼の執務室の奥の間は、もっと遊び心があった。いかにも彼らしい軽薄そのものの。
ぐるりと頭を回したロザリアは、ふらついて、ベッドに倒れ込んだ。
飾り気はないが、質のいいリネンが頬に触れて、心地よい。
耳の奥にシャワーの音が聞こえてくるのを感じながら、ロザリアは目を閉じていた。
謁見の間ではじめてオスカーを見た時、ロザリアは自分の体温がカッと熱くなるのを感じた。
彼の姿はまるで思い描いていた騎士そのもの。
燃えるような赤い髪も冷たいアイスブルーの瞳も。
外見だけではなく、時折見せる彼らしい気配りも、男らしい所作も、全てがロザリアを惹きつけた。
たぶん、あの瞬間、ロザリアは恋に落ちていたのだろう。今はそれがわかる。
けれど、あの頃のロザリアは今よりもずっと子供で、オスカーを見るたびに感じる心の動揺が理解できなかった。
なぜ、彼を見たいと思うのか、彼を知りたいと思うのか。
わからないまま、育成やお話に、オスカーの執務室に通った。
「お嬢ちゃん。今日も可愛いな。」
「お嬢ちゃんと呼ばないでくださいと申し上げておりますわ!」
決まり切ったやり取りさえも楽しくて、心が弾んだ。
ある日、ロザリアは思い切って、オスカーを庭園へ誘った。
日の曜日に自分から誰かを誘うことが初めてだったロザリアは、その一言を言うのに、実に思い立ってから2週間かかった。
オリヴィエに誘われることも、ルヴァに勉強を教えてもらうことはあっても、純粋に楽しみのためだけに自分から声をかける。
そのことは完璧な女王候補を自負していたロザリアにとって、かなりのハードルだったのだ。
「今度の日の曜日、お会いしていただけませんか?」
一気に言い切ったロザリアに、オスカーは唇の端をあげるだけの笑みを浮かべた。
「ああ。 構わないぜ。 俺の休日を、お嬢ちゃんに捧げよう。」
慇懃に腰を折る礼。
お嬢ちゃんと呼ばれても、その態度には淑女に対する礼儀が含まれているような気がして、ロザリアは嬉しかった。
日の曜日、おろしたてのワンピースに身を包んで、ロザリアは庭園に向かった。
約束の時間までは、まだ半時ほどもあったが、どうにも落ち着かずに寮を飛び出してしまったのだ。
いつもの制服とは違う、緩やかな淡いブルーのワンピースに白いカーディガン。
胸元の大きなリボンが、歩くたびに、風に揺れて、とても可愛い。
少し少女趣味のような気がしたが、アンジェリークまで手放しに褒めてくれたのだから、そう悪くはないのだろう。
出会ったばかりの頃は、アンジェリークともこんなに親しくなれると思っていなかった。
飛空都市に来て、いろんなことが変わったと思う。
友情も、誰かに会うことを嬉しいと思うことも。
今までのロザリアにはなかったから。
約束の場所は庭園の噴水の前。
そわそわとその場に立ったロザリアは、庭園で遊ぶ人たちを眺めていた。
楽しそうに走り回る子供。散歩をする人。仲良さ気に歩くカップル。
他人から見れば、自分とオスカーもあんなふうに見えるのかもしれない。
甘い想像をして、ひとりでに笑みがこぼれてしまう。
いつ彼が来てもいいように、ロザリアは何度も髪を気にしながら、行儀よく立っていた。
さすがにおかしい、と思い始めたのは、子供たちが疲れた様子で、噴水の周りで、休み始めた時だった。
思い思いに持ってきた水筒で喉をうるおし、甲高い声で話をしている。
そう言えば、ボール遊びに興じていた子供たちをずいぶん長い間見ているような気がした。
楽しい想像ばかりをしていて、どれくらい時間がたったのか、ロザリアにはわからなかった。
時計を持ち歩く習慣もないから、正確な時刻さえもわからない。
遅れているのかもしれない、と少し腹が立った。
自分はわくわくして早く目が覚めてしまったのに、寝坊でもしているのだろうか。
オスカーの悪い噂をロザリアも耳にしていないわけではなかった。
週末ごとに下界に降りては、よくない遊びを繰り返しているということも、女官と関係があるらしいということも、聞いている。
けれど、ロザリアは信じていなかった。というよりも信じたくないという思いが強かったのだ。
やがて、子供たちは散り散りに庭園から姿を消していった。
ひょっとしたらランチタイムになったのかもしれない。
静かになったせいか、噴水の水音がやけに大きく聞こえ、高く上る太陽の光が目に眩しい。
ロザリアはうつむいて、足元の影を眺め続けた。
影は短くなった後、再び伸び始めている。
庭園には午後のぬくもりを求める人々が現れ始め、ロザリアを不思議そうに見ては、その前を通り過ぎていった。
帰ろうか。 何度もそう思った。
けれど、もうすぐ来るかもしれないと思ったら、帰れなかった。
オスカーが 「遅れてすまなかった。」と、息を切らして駆けてきてくれたら。
拗ねて怒ってみせて。
でもきっと許してしまうだろう。
もし、彼が来たら。
庭園の入口に、待つ人が現れたのは、実に午後のお茶の時間を過ぎた頃だった。
噴水の前に立つロザリアを見て、オスカーは明らかに驚いた顔をした。
予想もしていなかった、というその表情に、ロザリアはどういう顔を返せばいいのか、わからない。
それにロザリアを見ても、彼は駆けだしたりはしなかった。
そして、ロザリアは気がついたのだ。
彼の後ろに、一人の女性の姿があることに。
すらりとした白いワンピース。大きな帽子のせいで、顔は見えないが、長い金の髪が揺れている。
飾り気がないからこそ、辺りににじみ出る、大人の女性の色香。
きっと彼はその女性をお嬢ちゃんとは呼ばないだろう。
オスカーは女性の手をとり、導くように歩いている。
淑女に対する彼らしい礼儀。
ロザリアの近くまで来ると、オスカーは女性の手を離した。
頷き合い、なにかのサインを交わすオスカーと女性を見ていられなくて、ロザリアはうつむいていた。
「お嬢ちゃん。」
いっそのこと、通り過ぎてくれればよかったのに。
ロザリアは、仕方なく顔を上げた。
庭園にはたくさんの人がいる。その人々に対しても、守護聖への礼を欠くことはできない。
それに、少し後ろにいる女性に、取り乱した子供のような姿を、絶対に見せたくなかった。
「ごきげんよう。オスカー様。今日はいいお天気ですわね。 わたくしも、ここで日向ぼっこをしておりましたの。」
にっこりと笑えていたと思う。
「そうか…。」
オスカーは虚をつかれたようにアイスブルーの瞳を揺らしたが、後ろの女性を気にしているのか、それ以上は何も言わない。
きちんと淑女の礼を返したロザリアは、オスカーが黙って、再び女性の手をとるのを見ていた。
オスカーにとって、ロザリアとの約束は取るに足らないものだったのだ。
別の女性から誘いがあれば、すっかり忘れてしまう程度の。
去っていく二人の後ろ姿を見つめながら、ロザリアはこれまでのバカバカしいほどの気持ちを自嘲した。
浮かれて、舞い上がって、もしかしたら、彼も同じような気持ちを持ってくれているのではないかと期待をして。
彼は噂通りの不誠実な男だった。 女好きで、誰彼ともなく口説いては弄ぶ男。
そんな彼に騙された、バカな、自分。
恋なんて愚かなモノだと知っていたはずなのに。
月の曜日、ロザリアはオスカーの執務室へ行かなかった。
それから必要最低限にしかオスカーに近づかなくなったロザリアを、アンジェリークが何度も気にしたけれど、もう二度と彼には近付かないと決めていた。
恋する気持ちと一緒に、ゴミ箱に投げ入れたブルーのワンピース。
今となってはもう、彼を好きだったことも忘れてしまった。
ただ、初めての経験のために遊び慣れた彼を利用するだけ。
そして誘惑した通りに乗ってきたオスカーは、やはりそれだけの男だったのだ。
なのにまだ、あの日のことを夢に見ているのは、なぜだろう。
オスカーがシャワーを終えて出てくると、部屋の中はしんと静まり返り、人の気配がなかった。
慌てて、傍の照明のスイッチを入れ、ベッドの上を確かめてみる。
白いシーツの上に広がる長い青紫の髪。
横たわる身体が規則的に上下している。
オスカーは足音を忍ばせて、彼女に近づき、跪いた。
額にかかる髪を指ですくい、そっと頬に指を滑らせてみる。
一瞬ロザリアは眉を寄せたが、すぐにまた深い眠りに落ちてしまったようだ。
「男の前でこんな無防備だとはな。とんだお嬢ちゃんだ。」
まだ濡れている緋色の髪をタオルで掻き、オスカーは小さな笑みを浮かべた。
青い瞳を閉じた彼女はさっきまでの妖艶な雰囲気が消え、どこかあどけない。
本当の彼女の姿はどちらなのだろう。
女王候補だった時、ロザリアはまさに薔薇の蕾だった。
まだ硬く閉じられた蕾は、その棘で周囲を傷つけながらも、すでに男を惹きつける魅力を醸し出していた。
棘の痛みに顔をしかめる者も少なくはなかったが、同時にその棘を好ましいと思う者も多くいて。
たとえば、オリヴィエやゼフェルは今でも彼女に構いたくて仕方がないようだ。
しょっちゅう補佐官室に出入りしているのを見かける。
ロザリアも彼らの前では、いつもの気まじめな仮面を脱ぎ、リラックスしているらしい。
時々お茶会などで見かける少女らしい笑顔は、気の置けない友人、といったところか。
だが、補佐官になってからの彼女は咲き誇る大輪の薔薇だ。
多くの男たちの羨望の視線を一身に集め、女神のように崇められていることをオスカーも知っていた。
彼女に声をかけたという者、一夜を過ごしたという者。
ロザリアにまつわる話を耳にしない日はないほどだ。
無責任な噂を全て真に受けているつもりはないが、それなりに大人になったのは、彼女を見ていればわかる。
美貌の女王補佐官。
その仮面の下を覗いてみたいと思うのは、男として当然の欲求だ。
ロザリア自身が望むのであれば、恋の相手には困らないだろう。
不可解なのは、なぜ今、オスカーに声をかけて来たのかということ。
あの日以来、彼女はオスカーを避けていたはずなのに。
シーツの上に不自然な姿勢で横たわるロザリアを抱き起こしたオスカーは、彼女の身体を布団の中に収めた。
その間も、ロザリアは全く目を覚ます気配がない。
思わず添い寝するような形になり、彼女の身体の下にある腕を引き抜こうと身体を起こした時。
「オスカー様…。」
ロザリアの唇から、小さなつぶやきが漏れた。
「オスカー様、行かないで…。」
ぎゅっと胸に寄せられた青紫の頭。
すがるように伸ばされた腕は、オスカーの背に回り、彼の身体を抱きしめている。
オスカーは掌を彼女の後頭部に添え、あやすように撫でた。
「俺ならここにいるぜ…? 」
穏やかな空気に安心したのか、ロザリアは再び規則的な寝息を立て始めた。
胸に顔をうずめている状態で、彼女の顔を見ることはできなかったけれど。
オスカーは腕の中の柔らかさを確かめるように、一度、ロザリアをぎゅっと抱きしめた。