3.
体を起こそうとして、あまりのだるさに目を閉じた。
枕に頭をつけたまま、ロザリアは唇に手を触れる。
ゼフェルの時とは違う、オリヴィエとのキス。雨に打たれたまま、何度繰り返しただろう。
思い出した途端に熱を帯びる体をそのままベッドに沈めると、メイドを呼んだ。
額のタオルがすぐにぬるくなるほどの熱に、ロザリアは執務を休むことを連絡する。
しばらく眠っただろうか。目を開けると心配そうに赤い瞳を曇らせたゼフェルがいた。
ロザリアの胸が掴まれたようにギュッと縮む。
「どうしたんだよ。」
起き上がろうとしたロザリアをゼフェルが慌てて押しとどめた。
熱で潤んだ青い瞳はいつものきつい印象がなくて、頼りなげな感じすらする。
ゼフェルは思わず抱きしめてしまいそうになる気持ちを抑えて、ロザリアの額に手を当てた。
熱っぽい手が額に触れて、ロザリアはびくりと体を震わせる。
その大げさな反応にゼフェルは慌てて手を引っ込めた。
「・・・・なんだよ。熱、まだあるみたいだな。」
拒絶されたのか、と思った。ゼフェルは動揺を隠すように顔をそむけてつぶやいた。
「寝ろよ。見ててやるから。」
額のタオルを氷水にひたして、ロザリアに当てた。
ロザリアの赤く色づいたくちびるからため息のような吐息が漏れる。
何気なく唇を寄せようとしたゼフェルをロザリアは両手で押さえた。
「・・・・風邪がうつりますわ。」
構わない、と思ったけれど、ロザリアの気持ちも嬉しかった。
「早く治せよな。」
頭をぽんとたたいて、ゼフェルが部屋を出て行くと、ロザリアはため息をついた。
ゼフェルはとても優しい人。そして、純粋な人。
熱に侵された頭で必死にゼフェルのことを考えた。
候補時代、たくさん喧嘩をしたこと。そのたびに仲直りしたこと。
不器用なロザリアに作ってくれた、たくさんのメカとアクセサリー。
そして、壊れそうだった心を救ってくれたこと。
なにもかもが大切で。
「ごめんなさい・・・。」
誰になにを謝っているのか、自分にも分らなかい。ただ、枕に涙が滑り落ちる。
いつの間にかロザリアは眠りに落ちて行った。
ロザリアが休んでいることを知ったのは、イライラしたゼフェルの足音が聖殿を出て行くのを聞いてすぐだった。
きっと、お見舞いに行ったんだろう。
オリヴィエが窓の外を見ると、キラキラした太陽の明かりがまぶしいほどに輝いていた。
はめ殺しのステンドグラスでさえ、瞳に焼きつくほどに明るく色づいている。
唇に残る彼女の感触は確かに熱くて、今日の熱が予想できた。
意外にも丈夫な自分の体に感謝しながら、オリヴィエは女王の間に向かった。
ドアを開けた向こうには、ぽつんと女王が所在無げに座っている。
ヒールの音に顔を上げた女王はオリヴィエを見て、困ったような笑顔を向けた。
「ロザリアがいないと仕事がたまっちゃって~~。あれでしょ?この辺にあると思うんだけど・・・。」
女王は束になった書類をひとつひとつ確認しながら、横によけていく。
綺麗に色分けされた附箋にはロザリアの綺麗な文字で簡単な内容がついてはいるが、それさえもよくわからないようだ。
このままでは、ロザリアが復帰するまでほとんど仕事は進まないだろう。
「まったく、見てられないね。」
オリヴィエは手近なところにあった椅子を引っ張り寄せると、アンジェリークの隣に座った。
「このままじゃ、書類に埋もれるよ。手伝ってあげるから。」
「ホントに?」
目をウルウルさせた女王は申し訳ないという様子で、書類の束をオリヴィエの方へ寄せた。
緊急のものは赤、とくに大切なものは黄色。
附箋の色に沿って分けて行き、急ぎのものは各自の部屋へと持参した。
そうしている間にもひっきりなしに新しい仕事がやってくる。
日ごろ、ロザリアがこなしている仕事の量に、オリヴィエも正直驚いた。
ようやく、一通りのことが終わると、すでに夕暮れになっている。
窓から差し込むオレンジ色の光が今日が晴天だったことを教えてくれた。
「ありがとう、オリヴィエ。おかげで助かっちゃった。」
嬉しそうな女王に「それはよかったね。」と返事をして部屋を出た。
これなら、明日、ロザリアが困ることはないだろう。
自分にできることは、きっとこれくらいしかないから。
オリヴィエは自分の執務室に戻ると、今度こそ自分の仕事を片付け始めた。
執務終了の合図とともにゼフェルのあわただしい足音が響いてきた。
その理由を知っているからだろう。いつもならドアを開けて怒るジュリアスでさえとがめる気配がない。
彼女の恋人はゼフェルだ、ということをこれ以上ないほど実感させられた。
机の上にわざと積み上げた仕事が片付くまで、オリヴィエは聖殿に残っていた。
やがて自分の部屋以外の明かりが消え、オリヴィエは時計を見る。
深夜に近い時間を確認して席を立つと、闇に飛び出した。
聖地の夜は暗い。綺麗に整えられた街は空気さえも静謐。
オリヴィエは灯りの消えたロザリアの部屋を見つめた。
もう、熱は下がっただろうか。・・・・一目でいいから会いたい。昨日のことが夢ではないと知りたい。
思ったら、止められなくなる。
オリヴィエは身軽に塀を乗り越えると、ロザリアの部屋の窓を開けた。
不用心にもほどがあるけれど、今日は鍵が開いていることに感謝する。
オリヴィエが部屋に入ると、ロザリアは眠っていた。
月明かりだけが漂う部屋は白い彼女の顔をほんのりと照らしている。
まだ赤味の残る頬が熱のあることを伝えてくれた。
オリヴィエの手がひとりでにロザリアの額に触れる。
やはりまだ熱さが残っていた。
そのまま、じっと額に手を当てていると、ロザリアが少し動いた。
青紫の睫毛がゆっくり開いて、潤んだ青い瞳が現れる。
「オリヴィエ?」
夢を見ているのかしら?
いるはずのないこの人を見てしまうほど、熱にうなされているのかしら?
・・・夢でも構わない。会いたかったから。
「来て下さったの?」
暗い闇に月を映す金の髪。オリヴィエはロザリアの隣に腰を下ろすと、その胸にそっと頭を寄せた。
「あんたに会うのはいつも夜だね。」
こうして会えるだけでもいいと思ったのに、会ってしまえば、全ての時間がほしくなる。
・・・彼女には彼がいるのに。
熱いロザリアの体から伝わる熱。重ねた唇から、体の中まで熱くなる。
オリヴィエはロザリアから体を離すと、ベッドに横たえた。
「おやすみ。ちゃんと私に移した?」
ロザリアのさらに赤くなった頬に、指を滑らせる。
そのまままぶたを閉じさせると、すぐにロザリアは眠りに落ちて行った。
オリヴィエは額にそっとキスをすると、来た時と同じように外へ出て行った。
あの調子では明日も来られそうもない。
雲に隠れた月はオリヴィエの足元を暗くする。
まるで自分の未来のようでオリヴィエは足を速めた。
次の日、やって来たゼフェルは手にしていた水筒をロザリアのフトンの上に投げた。
「なんですの?」
弱々しい声とともに起き上がったロザリアは熱のせいか頬が赤い。
ドキッとして視線を外したゼフェルはベッドの端に腰をおろした。
「ルヴァのヤツに聞いたんだ。よく効くらしいぜ。」
激マズらしいけどよ、とニヤリ笑って続ける。
ロザリアは水筒を開けると匂いをかいでみた。なにやら草のような青臭いなんともいえない匂いがする。
「これを飲むんですの?」
きっと想像以上に不味いに違いない。
ロザリアの憂鬱そうな顔を見て、ゼフェルがぽつりと呟いた。
「早く治せよな。おめーがいねーとなんかさ、やる気出ねー。」
頭をがしがしと掻いて、そっぽを向いたゼフェル。
「まあ、そう言えば、今日の執務はどうなさいましたの。まだ時間中ですわよ?」
つい、補佐官口調になってゼフェルを睨むと、少し咳が出た。
「だ~か~ら~。おめーが休んでる間は執務なんてできねーの。」
ほら、と飲むように促されてロザリアは覚悟を決めた。
ごくり、とロザリアの喉が動くのを確認して、ゼフェルは鼻の下をこする。
「・・・・不味いか??」
ロザリアの目が丸くなったまま、固まった。
「不味いですわ・・・。」
ようやくそれだけ言うと、ゼフェルが笑いだした。
「あとは寝とけ!!」
ひったくるように水筒をもって、ゼフェルは部屋から出て行った。
朝と昼休み、そして帰り。
ゼフェルは必ず寄ってくれている。あの、あまのじゃくなゼフェルがタオルを変えたりするのを、他の誰が信じるだろう?
ひとりベッドに横になったまま、ロザリアは思った。
ゼフェルは大切な人。・・・だから。
どうしても心に浮かぶ面影を必死で消そうと目をギュッと閉じる。
テーブルの上に置かれたペンダントがきらりと光った。
結局ロザリアの熱は3日間続いて、ようやく下がった。
4日目にまだふらつく頭を抱えて聖殿についたロザリアは覚悟を決めて女王の間に入る。
きっと山積みの仕事が待っていて、泣きべそをかいたアンジェリークが「ロザリア~~。」と情けない声を出すのだろう。
ところが予想に反してアンジェリークの声は明るかった。
「あ!ロザリア!もう大丈夫なの?」
とことことドレスの裾をひるがえしたアンジェリークがロザリアの額に手を伸ばした。
「よかった。心配したんだから。移るからお見舞いもダメって言うし。」
くるくるとまわりを回るアンジェリークを叱ることもせずにロザリアはぽかんと机の上を見つめた。
信じられないことに、机の上は綺麗に片付いている。
そんなロザリアに気付いたのか、アンジェリークがペロッと舌をだした。
「わたしが全部やったの!・・・って言いたいところだけど、実はオリヴィエが手伝ってくれたの。普段やる気なさそうだけど、ホントはできる人だったのね~。」
オリヴィエが?
まだ話し続けているアンジェリークの言葉にうんうんとうなづきながら、ロザリアは机の上を見た。
同じように書類ごとにつけられた附箋。
そして附箋につけられた文字は間違いなく彼のもので。
休んだ間に片付いたものはメモ書きとともに隅のカゴへと入れられている。
「すごいでしょ?ロザリアのやり方に合わせてくれたみたいよ。すごく助かっちゃった。」
飛び出して会いに行きたい気持ちを抑えて、ロザリアはアンジェリークに微笑みかけた。
「本当ですわね。御礼を言わなくては。」
一番上に置かれた書類はオリヴィエあてのもの。
わざと一番上に置いたのか、そうでないのか。
ロザリアは緊急の附箋の付いたそれをアンジェリークに見せると、机に座った。
「これをオリヴィエに届けて頂戴。」
秘書に渡した大きな封筒はブルーの補佐官専用のもの。
それを受け取ったオリヴィエは秘書が出て行くのを見送って封を開けた。
緊急の書類の間から出てきた同じブルーの便せんには、一言、「ありがとう」の文字がある。
オリヴィエはメモを引き出しの箱にしまうと、立ち上がり、窓の外を見た。
今日は一日晴天。
このメモが彼女の答えなのだろう。
晴れた日には会うことができないということ。つまり、今を壊すつもりがないということ。
それでも構わない。
こうして彼女に何かがあった時、助けてあげることができる。
オリヴィエはロザリアの文字で書かれた「緊急」の附箋を外すと、書類を読み始めた。
窓からの光が瞳を刺す。
次の雨はいつだろう。頭に入らない文字の向こうに、ロザリアの顔が浮かんだ。
「よお!あの薬、やっぱ効いたみたいだな。」
女王の間にやってきたゼフェルは嬉しさを隠さずにまっすぐロザリアの元に来た。
「あ~、やっぱり来たわね!」
女王のうっとおしそうな声に、「あったりめーだろ!」と怒鳴り声で返す。
「昼飯、一緒に食おーぜ。」
他の人に聞かれないように小声でささやいたゼフェルにロザリアは頷いた。
「なに、なに??」
女王が首を突っ込んでくるのに、舌打ちすると、「迎えに来るからな!」と、慌てて部屋を出る。
「ゼフェルったら、別人みたいじゃない??ツンデレって、ああいう人のこというのね?」
くすくす笑いの女王にロザリアも照れたように笑った。
このまま時が過ぎれば、いつか忘れる日が来るだろう。
あの人のことを。
まだ笑っている女王を軽く睨んで、ロザリアは執務を続けた。
今日もすがすがしい一日。
晴れの日が続いている聖地は吹きるける風もさわやかだった。
カフェにある軽食で一番好きなのはチキンカレー。
何度もここに来たけれど、ゼフェルが注文するのはいつもそのメニュー。
「またですの?」
「おめーだって、サンドイッチばっかりじゃねーか!もっと栄養のあるもん食わねーとまた倒れるだろ!」
言いながらゼフェルはカレーの中のチキンをロザリアの皿に乗せた。
「大体おめーは肉が足りねー。これでも食っとけ。」
じっと見つめているロザリアに気付いて、ゼフェルはフォークをスプーンに持ち帰ると、慌ててご飯をかきこんだ。
当然のようにむせたゼフェルにロザリアがコップを手渡した。
「ありがとう。ゼフェル。」
渡されたチキンはすごく辛くてロザリアも何度もむせたけれど、なんとか全部食べきった。
満足そうにしたゼフェルの後ろに会いたかった人の姿を見つけて、ロザリアの心が止まっていく。
通りに面した席は外を歩く人の姿が目に入る。
穏やかな風と、優しい日差し。気象票がなければ、誰も傘を持ってこないだろう。
見間違えるはずのないあでやかな姿にロザリアはうつむいた。
見られたくない、ゼフェルといるところを。
オリヴィエが近付いてきて、ふと、視線があった。
永遠のような一瞬。
いつかも同じようなことがあったと思う。あの日も雨で、今日も予報は夜からの雨。
遠くを見ているロザリアにゼフェルはなぜか胸騒ぎがした。
この頃、ロザリアは時々こうして遠くを見ている。
わざと音を立ててスプーンを置くと、ロザリアがはっとゼフェルを見た。
そのロザリアの顔が、なぜか悲しそうだとそう感じた。