3.
いよいよ聖地に足を踏み入れた。
ロザリアが何かを思い出すかもしれないと思うと心臓がドキドキしてくる。
あのままあの星で二人で暮らせたら。守護聖であることも、なにもかも捨てて二人きりで。
なんどもそう考えて、それでもやはり聖地に戻ってきた。
目の前に広がる景色を見て、すぐに後悔が押し寄せてくる。
ロザリアは目を丸くすると感嘆したようにため息をついた。
「とても美しいところですのね。ここに私達は住んでいたんですの?」
子供のように見上げた瞳に言葉を返す。
全く思いだす様子がない姿に安堵した。
「あんたは主星にいたんだよ。ご両親とね。ここは私の仕事場。」
「お仕事?なにをされているんですの?」
この辺りの記憶は本当にすっぽりと抜け落ちているらしい。
オリヴィエはロザリアの荷物を彼女から受け取ると先に立って歩きだした。
「家はこっちだから。行こう。」
なるべく聖殿から離れた場所を選んで借りた家はこじんまりした戸建だった。
「ここですの?」
隣の家から犬を連れた子供たちがのぞいている。
ロザリアがその子たちに気付いて微笑むと子供たちは一斉に家へと逃げ込んでいった。
「まあ、なんですの。失礼ですわ。」
眉を寄せたロザリアに「あんたが可愛いから照れちゃったんじゃないの?」 と、額を小突いた。
恥ずかしそうに、はにかんだロザリアはドアに向かって駆けて行く。
柔らかなシフォンのスカートがふわりと揺れた。
そのままドアを開けると、部屋の中から薔薇の香りがあふれ出してくる。
香りをたどって中に入ると、リビングにたくさんの薔薇が飾られていた。
「あんたのへの退院祝い。」
ピンクのバラの花束を手に取ったロザリアはオリヴィエに向かって花のような笑顔を向けた。
「じゃ、病人はここに座ってて。お茶の支度してくるから。」
薔薇の香りを楽しんでいたロザリアはオリヴィエの隣に駆け寄ると、一緒にキッチンへと向かった。
「もう病人ではありませんわ!これから毎日使うのですもの。見ておきます。」
首をすくめたオリヴィエがカップボードから紅茶の缶とポットを取り出した。
コンロの上のケトルに水を入れたロザリアはその缶とポットを受け取るとティースプーンで葉を入れる。
ポットにお湯を入れるオリヴィエを見て砂時計を返した。
さらさらと流れ落ちる砂から感じる既視感。
ダイニングに座ったロザリアは黙って紅茶をカップに注ぐオリヴィエを見つめていた。
暖かな湯気がふわりと流れる。
「どうしたの?」
黙りこんでいるロザリアを見て声をかけた。
「いままでもこうしてあなたと紅茶を淹れたことがあるような気がしますの。」
カップに視線を落としたロザリアがつぶやいた。
「わたくし、本当にあなたと一緒にいていいのですわね。」
変わらない青い瞳がオリヴィエを見つめた。
「心配でしたの。なぜあなたのことを忘れてしまったのかって。でも・・・。」
「でも?」
「おぼえていましたわ。こうして、あなたといたことを。忘れてしまっても、心に残っていましたのね。」
にっこりと笑ったロザリアにつられてオリヴィエも微笑んだ。
彼女の心の中に自分がいたことに胸が熱くなる。
カップを片付けようとして、偶然二人の手が触れると、はっとしたようにロザリアは手を引っ込めた。
「ごめんなさい。」
手を自分の胸にあてると、その手に自分の鼓動が伝わってくる。
ドキドキする気持ちを確かめるように、キッチンへ消えていくオリヴィエの背中を見つめた。
「じゃ、私は帰るよ。」
そのまま立ち去ろうとするオリヴィエにロザリアは驚いたように視線を向けた。
「一緒に暮らすのではないのですか?」
「ん。考えたんだけど、やっぱりちゃんとしてからの方がいいでしょ?・・・明日も来るから。」
確かに言う通りかもしれない。
わたくしはまだ、オリヴィエのことを何も知らないのだから。
ロザリアは頷いてオリヴィエを見送った。
しばらく玄関先で黙って立っているとすぐにドアが開いて、オリヴィエが顔をのぞかせた。
「あ、ごはんだけど、そこの棚に・・・。」
言葉の途中で声が出なくなった。
胸にロザリアが飛び込んできて、オリヴィエの背中に手をまわした。
目の前にある黒い髪からはやはり薔薇の香りがする。
「一人にしないで。怖いんですの。」
見上げた青い瞳を拒めるはずもなく、彼女の背に手をまわして、抱き寄せた。
ロザリアの体が一瞬固くなって、すぐに力が抜けていく。
「今日だけ。あんたが寝るまでいてあげるから。」
体をかがめてそう言うと、ロザリアはやっと安心したように頷いた。
夢を見た。
急に体が浮いて、叩きつけられると同時に頭と体に感じた痛み。
ぱっと目を開くと、手が暖かかった。
自分の手を包んでくれる、優しい手がある。
ベッドに体を預けるようにして、座ったまま眠っているオリヴィエを見つめた。
こんな姿勢でいたら明日の朝は体中が痛くなるに違いない。
ロザリアが体を起こすと手は自然に離れていく。ロザリアは自分もベッドの下に降りてオリヴィエの横に座ると、布団をひっぱった。
起こさないようにそっとオリヴィエにかけると、自分も同じ布団にくるまる。
それから、もう一度離れてしまった手をつないだ。
重ね合わせた手から伝わるオリヴィエの温度。
ロザリアも同じようにベッドのふちを枕にすると、すぐにまた眠りに落ちていった。
再び眠ったロザリアを確認すると、オリヴィエは目を開いた。
眠ったふりをしていたことにロザリアは気付いていないだろう。
彼女が手をつないできたとき、手が震えた。
愛さないことができればと思う。でも愛さなければこの幸せもなかった。
ロザリアをベッドに戻して、オリヴィエは家を出て行った。
目が覚めて一人になっていることに気付いたロザリアはとりあえず荷物を片付けることにした。
ここで暮らすのならば、いつまでもオリヴィエに頼ってばかりはいられない。
荷物といっても一緒に買った少しばかりの服と日用品をしまうだけで、すぐに終わってしまう。
これからのことを考えて、キッチンを整理することにする。
案外きちんと揃っていることにロザリアは驚いた。
冷蔵庫を見ると、お腹が空いたことに気付く。
自分は料理ができるのだろうか?
感覚に任せて動いてみると、なんとかベーコンエッグはできた。
「・・・あまり得意ではなかったようですわ。」
少し焦げたようなベーコンエッグを見てため息をついて、トーストを焼いた。
朝の紅茶を淹れようとして昨日のことを思い出す。
「明日も来るって、言ってくださいましたわ。」
オリヴィエの瞳はいつでも優しくて、思い出しただけでドキドキしてしまう。
以前の自分もきっとそうだったに違いない。ロザリアはくすりと笑った。
簡単な朝食を済ませると、ロザリアは外へ出た。
隣の子供たちが犬と遊んでいるのを見て、声をかけた。
6歳くらいの男の子と女の子が二人、庭先を転げまわっている。
「おはよう。可愛い犬ね。お名前はなんていうんですの?」
「ハリーだよ!」
子供たちが一斉に答えた。ハリーも黒いしっぽを振ってこたえた。
「ねえ、お姉ちゃん、お隣に来たの?」
「そうですわ。これからよろしくね。」
「お姉ちゃん、なにしてる人?」
ロザリアはふと考えた。なにをしているんだろう?
考え込んでしまったロザリアを前に女の子が言った。
「わかった!お嫁さんになるんでしょ?昨日の男の人の。」
お嫁さん?・・・。たしかにオリヴィエは自分をフィアンセだと言ったけれど。
カーッと首から赤くなったロザリアを、子供たちは「あ~。」「わ~。」と言ってはやし立てた。
「こ、子供のうちからそんなことを言うものではなくてよ!」
男の子がわっと走り出して、ロザリアと女の子が追いかけていく。
しばらく走ると、すぐに疲れたロザリアは下に座りこんでしまった。
気付いた女の子が「お姉ちゃん、どうしたの?」と覗き込んできた。
女の子の心配そうな顔がいたずらっぽく変わると二人の子供たちはまた追いかけっこを始める。
暗く変わった視界に顔を上げるとブルーグレーの瞳が目に入った。
「だめでしょ。まだ退院したばっかりなんだから。」
オリヴィエが膝をついてロザリアの瞳を見つめた。
「心配させないの。」
頭を胸に抱き寄せられたロザリアの耳にオリヴィエの少し早くなった鼓動が聞こえた。
「ごめんなさい。」
この方はいつでもわたくしを気にしてくれている。愛していてくれる。
ロザリアも同じようにドキドキして見つめあってしまった。
子供たちが遠巻きに見ているのに気づいて、ロザリアははっと離れる。
手を取って立たせてくれたオリヴィエに誘われて、街に出かけることにした。
昼間の街は少し人波ができていた。
派手な執務服の印象が強いのか、普段着でノーメイクのオリヴィエに誰も気づく様子はない。
時折、通りすがりの女性が端正な素顔に惹かれて目を向けることはあっても、夢の守護聖とは思いもよらない様子だった。
ロザリアが隣にいるオリヴィエに眩しそうな目を向けると、オリヴィエはロザリアの手をそっと握った。
「お仕事はどうされたんですの?」
「ん、ちょっとサボリ。・・すぐ戻るから。あんたの顔を見に来ただけだよ。」
さぼり、という言葉にぴくりと眉を上げたロザリアを見てあわてて言い訳をする。
生真面目なところも変わっていないらしい。
「・・・では、今すぐにお仕事に戻ってくださいませ。わたくし、ここからなら一人で帰れますわ。」
「どうしても?」
「どうしても、ですわ。」
ふと花屋の店先に並んだ薔薇の香りが鼻先をかすめた。
ロザリアはその一つ一つを確かめるようにゆっくりと薔薇を眺めている。
以前ならよく似合った白薔薇よりも今の黒髪にはピンクの方がよく似合う。
オリヴィエは店の者に声をかけると、バケツに入ったピンクの薔薇を包ませた。
「じゃ、今日はこれをあんたの代わりに持って帰るよ。」
一抱えもある薔薇の花束を抱えていても、少しも場違いでないオリヴィエにロザリアは少し恥ずかしくなった。
「後で、これ持っていくから。」
さりげなく『後で』と言われた言葉に頬を染める。
遠ざかって行くオリヴィエの姿が見えなくなるまで、ロザリアはじっとその姿を見つめていた。