4.
時計の針がいつも通りの時間を指すと、ノックの音が聞こえた。
ロザリアはエプロンをつけたままドアへ向かうと、確かめることもなくドアを開ける。
オリヴィエが仕事の帰りに毎日ロザリアのところに来るのが当たり前になっていた。
「・・・いらっしゃいませ。」
恥ずかしそうに微笑む顔はいつもより少しいたずらに見えた。
通りの向こうまで流れて来ていた甘いにおいがここからだったと知って、オリヴィエは鼻をひくひくとさせて尋ねる。
「これ、なんの匂い?・・すっごく甘い。」
ロザリアはオリヴィエの袖をつまむと、中にひっぱった。
以前の彼女ならしなかった仕草がとてもかわいらしい。
「わたくし、ひとつ思い出しましたのよ。」
オリヴィエの胸がドキン、となった。思い出したことはなんだろう。
「これですわ!」
テーブルの上に乗った焦げ茶の物体をロザリアは指差した。
甘いにおいはチョコレートの香り。
「これ、ケーキ?」
「そうですの!わたくし、料理は今一つのようですけれど、チョコレートケーキはうまく焼けましたのよ?」
嬉しそうにオリヴィエの袖を持ったまま、ロザリアはじっとオリヴィエを見つめた。
その瞳が褒めてほしそうに見えて、オリヴィエは胸が痛くなる。
「これ、私のために?」
「・・・オリヴィエに食べていただきたくて。
以前のわたくしもきっと、こうしてあなたに食べていただいたのではないかと思ったんですの。違いまして?」
甘いにおいが息を吸い込んだ胸の奥までしみてくる。
チョコレートケーキなんて、もう見たくないと思ってた。
「もしかして、半分なのが、気に入りませんの?あの子たちがどうしても食べたいというものですから分けましたのよ。」
黙ったままのオリヴィエを不安に思ったのか、ロザリアが顔を覗き込んできた。
「ううん。嬉しくて。・・・私のためにつくってくれたんでしょ?」
やっと顔を上げたオリヴィエにロザリアは赤くなった。じっと見つめられて恥ずかしくなったように急に離れていく。
「あ、あの、お茶を用意しますわ。先に座っていらして。」
パタパタとキッチンへ足音が消えていくと、オリヴィエはダイニングの椅子に腰かけた。
自分のためにつくられたチョコレートケーキはとても甘くて。
ロザリアの手造りを何度も食べたはずなのに、まるで初めて食べるような味がした。
「あら。もう食べていらしたの?」
ティーセットのトレイを持ったロザリアが向かいに座った。
ポットから注がれる紅茶はチョコレートケーキに負けないアッサムティー。
「いかがかしら?・・・以前のケーキと違いまして?」
全然違う。とても甘くて心まで溶けてしまいそうで。
「おいしいよ。前より上手になったんじゃない?」
ロザリアの瞳がきらりと輝いた。
「やっぱり、あなたは食べていたのですわね。これからも作りますわ。あなたのために。」
・・・あなたのために。
どれだけ聞きたかった言葉なんだろう。
オリヴィエが全部食べてしまったのを見てロザリアは驚いて目を丸くした。
「大丈夫ですの?かなり甘いと思ったのですけれど。」
お皿の上にぽつんと残ったフォークに少しだけチョコレートがついている。
「・・・大丈夫じゃないかも。」
テーブルに肘をついてその上に額を乗せたオリヴィエの声は本当につらそうに聞こえた。
ロザリアは急いで立ち上がるとキッチンに水を取りに行った。
蛇口をひねると勢い良く流しの水が流れ出して、それからコップを取るのを忘れていたことに気付く。
カップボードの方へ振り向くと、急にふわりと甘い香りがした。
「オリヴィエ?」
優しく抱きしめられて、ロザリアは体を預けた。
そっと胸に頬を寄せると少しだけオリヴィエの腕に力がこもる。
しばらくその暖かさをじっと感じていたロザリアはおそるおそるオリヴィエの背に腕をまわした。
一瞬、オリヴィエの体が動いてロザリアは顔を上げる。
自分を見つめる、甘いブルーグレーの瞳。
鼓動がドキドキと音を立てるのが聞こえて、ロザリアは目を閉じた。
降り注ぐように甘い唇が下りてくる。
オリヴィエは目を閉じたロザリアに何度も唇を合わせた。
初めは自分の唇から漂っていた甘いチョコレートの味がだんだんとロザリアに移って、おなじ甘さに変わって行く。
長い長いキスのあとで、ロザリアは力が抜けたようにオリヴィエの胸に寄り添った。
「わたくし、不思議ですの。まるであなたと・・・・初めてキスしたみたいにドキドキしていますの。なぜかしら?」
初めてのキス。
きっと私の方がドキドキしてる。ずっとずっと、望んでたから。
オリヴィエはロザリアの頭をそっとなでた。
「今のあんたが私を好きになってくれたってことならうれしいね。」
ロザリアの目の高さに合わせて微笑むと、彼女は真っ赤になった。
「もう!知りませんわ!」
腕から逃れようとしたロザリアをオリヴィエは強く抱きしめた。
「私はずっと、あんたが好きだよ。昔も今も。これからもね。」
たとえあんたがこの先私を憎む時があっても。
じっと抱かれていたロザリアが不意に顔を上げた。
「あの、オリヴィエ、わたくし、仕事をしようと思いますの。」
「仕事?」
「ええ、いつものお花屋さんなんですけれど、お手伝いを募集していて。 わたくし、薔薇のことを少しは知っているみたいですし、記憶を取り戻す手助けになるかもしれませんわ。」
抱きしめていた腕を緩めると、ロザリアはまっすぐな瞳で見つめてくる。
「いつまでも病人みたいにあなたのお世話にばかりなっていたくないんですの。自分の足で立たなければ。」
強い気持ちも変わっていない。
記憶はなくても、人の心までは簡単には変わらないのだ、と改めて思う。
ロザリアはやっぱりロザリアで。
あのオスカーへの想いも彼女の中にまだ残っているのだろうか。
それでも過去を思いだしたいと願うロザリアを止めることはできない。
「いいんじゃない?がんばっておいで。」
花屋なら聖殿とはかなり距離もある。聖殿の出入りの花屋はもっと大きな業者だし、守護聖が立ち寄ることもないだろう。
誰にも知られるわけにはいかない。
嬉しそうに仕事について話すロザリアをオリヴィエは微笑んで見つめた。
たくさんの薔薇を見ていると、病院で過ごした時間を思い出す。
毎日オリヴィエが持ってきてくれた薔薇はその数だけ、自分の中に彼への想いを増やしたような気がする。
枯れた花や傷んだ葉を取り除くと、水を変えるためにプラスチックのケースをガラスケースから出した。
花屋の仕事は思ったよりも肉体労働で、重いものを持つたびにまだ少し右わきが痛む。
ゆっくりとケースを外に運ぶと、中の薔薇を別のケースに移していく。
花が揺れると幸せな薔薇の香りが胸に広がってロザリアはこの仕事をとても気に入っていた。
「あれ?君、新しく入ったの?」
少年の声がして、ロザリアは振り向いた。
金色の髪を小さく結んだスミレ色の瞳の少年が立っていて、下に落ちた薔薇の花びらを拾い上げている。
柔らかな風がふわりと薔薇の香りをまきあげると、ロザリアの黒い髪がさらさらと肩をなでた。
少年の手から花びらを受け取ると、ロザリアは微笑んだ。
「はい。ついこの間からお仕事をさせていただいています。」
少年のスミレ色の瞳が大きく見開かれた。
「君・・・・。」
客あしらいはまだうまくできない。聞かれた以上のことは答えない、と店長にされた注意を頭の中で繰り返した。
「なんでしょうか?」
首をかしげて、唇を少し上げて微笑んだロザリアを少年はじっと見つめた。
「君ね、僕のよく知っている人に似てるんだ・・・。ううん、知ってた、かな。」
「知ってた?」
少年は少しさみしそうに目を伏せると言った。
「もう、この世にいない人なんだけど。君によく似てる。瞳の色とか。声とか。・・・なんだか思いだしちゃった。」
泣きそうな表情になった少年にロザリアは戸惑った。
誰かに似ている、なんて初めて言われた。
「でも、よく見たら少し感じが違うかな・・・。君の方が優しい感じがする。」
にっこりと笑った少年は女の子のように可愛らしくてロザリアの警戒心がすうっと消えていく気がした。
「僕はマルセルって言うんだ。君は?」
「わたくしはロジーですわ。」
「ロジー・・・。やっぱり薔薇なんだね。」
やっぱり、といった声は少し寂しそうで、目の前の少年がまるで弟のように思えてくる。
それ以前にどこか懐かしいような気さえしていた。
「ねえ、一緒に苗を選んでくれない?花壇に植えたいんだ。」
「まあ、それでしたらもっと詳しい者がおりますわ。呼んでまいりますからお待ちになって。」
ロザリアが奥へ行こうとするとマルセルが引き留めた。
「出来たら君に選んでもらいたいんだけど、ダメかな?」
その声にほほ笑んだロザリアはマルセルと並んで苗のコーナーに向かう。
出来る限りマルセルの期待にこたえようとロザリアは一生懸命苗を探した。
オリヴィエ以外の男の人と話したのは久しぶりなのに、とても話が弾む。
ただ、彼の人柄なのか、それとも、自分は彼を知っている?
「ありがとう。君のおかげで素敵な花壇になりそうだよ。よかったら見に来てね。」
段ボールに入れた苗を手渡すと、マルセルはにっこりと笑った。
その笑顔はやはり見たことがあるようで。
けれど強い風に揺れた苗に気を取られて、その思いはどこかへ飛んでしまった。
「こちらこそありがとうございます。また、いらしてくださいませ。」
ロザリアの声にマルセルはふと遠くを見るような眼をした。
一緒に薔薇の手入れをしたロザリアの姿を思い出す。
綺麗で優しくて、憧れだったロザリア。
その目でよく似ていたというその女性がマルセルにとって大切な存在であったことがわかる。
マルセルが帰った後、薔薇の手入れを続けたロザリアはその香りを初めて怖いと思ったのだった。
常春の聖地では季節感はあまり感じられない。
オリヴィエは目の前に置かれたスープボウルの暖かな湯気をじっと見つめた。
「これ何?」
ボウルの中はトマトのスープで大きめに切った野菜と肉がごろごろと入っている。
さっきキッチンをのぞいたとき、大きな寸胴鍋が目に入ったことを思い出した。
「オリヴィエは寒い星の出身なんでしょう?このお料理は寒い星ではよく食べられていると聞いたんですの。・・・違いまして?」
湯気の向こうに幼いころの自分が見えた。
「たしかにね、食べてたかも。」
その向こうに自分を見つめるロザリアの顔。
青い瞳は少し不安そうにオリヴィエの言葉を待っている。
このところのロザリアは色々な料理に挑戦していた。
おもに花屋のおかみさんから教えてもらったレシピだが、日に日に上達してくのがわかる。
やっぱりやりだしたら完璧を目指してしまうところも変わらないらしい。
ゆっくりスプーンを口に運んだオリヴィエはロザリアに向かってにっこりほほ笑んだ。
「おいしいよ。あんた、料理がじょうずになったね。」
毎日来て下さるオリヴィエに少しでも喜んでいただきたいから。
その言葉は恥ずかしくて口に出せない。
「まあ、以前のわたくしはそんなにひどかったんですの?」
恐る恐る聞いてきたロザリアにオリヴィエはスプーンをくわえながら答えた。
「そうだね・・・。あんまり料理したことなかったと思うよ。あんたってば仕事第一だったから。」
「仕事・・・。」
思い出せない。いったい、自分は何をしていたんだろう。
なぜだか急にマルセルの顔が思い浮かんで、ロザリアは困惑した。
「あ、あのオリヴィエは何の仕事をしていますの?」
前から不思議に思っていた事を聞いてみる。お金には困っていなさそうだし、時間にも余裕がある。
「え~とね。宇宙を平和にする仕事かな~。」
あまり触れられたくないのかもしれない。ロザリアの頭の中でよろしくない仕事の数々がよぎる。
そんな表情に気付いたのか、「あ、やばい仕事じゃないから。」とあわててオリヴィエはフォローを入れた。
「あんたもね、同じような仕事してたんだよ。」
出会いを聞きたい、と思ったロザリアだったが、オリヴィエはそれ以上話さない。
「・・・いつか話すから。」
しんと沈黙が下りた。
「もしね、今の仕事が終わって自由になったら、私の故郷の星へ行ってみない?寒くてなんにもないけど、このスープとよく似たのがあるから。」
どっちがおいしいかな?と言ったオリヴィエをロザリアが軽く睨んだ。
「あんたに雪を見せたい。・・・晴れた日に雪が降ることがあってね。とてもきれいなんだ。」
故郷の星の唯一の思い出。
風花を見て喜ぶロザリアの姿を思い浮かべた。
「もちろん行きますわ。あなたの故郷を見てみたいですもの。」
向かいではなく隣に座ったロザリアが同じようにスープを口に運んだ。
上手く出来てる、とオリヴィエに微笑みかけた顔は以前のロザリアと変わらない。
このままでいてほしいと、ただ願うしかない自分がいた。