10.
リモージュが静かに扉を開けると、ベッドのアンジェリークはまだ眠っていた。
「アンジェリークの様子はどうなの?」
傍らに立つルヴァとエルンストにリモージュが尋ねると、「問題ありません。」とエルンストから即答が返って来た。
確かにアンジェリークの呼吸は落ち着いているし、顔色も悪くない。
リモージュは安心したように頷くと二人を見つめた。
「今回のことはどうして?」
アンジェリークを包んでいた光。
女王の自分だからわかる、同じサクリアの波長。
「陛下もわかっているのではないのですか?」
ルヴァの声は穏やかではあっても、きっぱりとした色を帯びていた。
「アンジェリークもわかっていたと思いますよ。すでに自分の中に女王のサクリアが満ちていることに。」
「では、なぜ?」
エルンストが理解できないというように首を振ると、ルヴァは一瞬苦しげな表情をした。
「女王試験が終わってしまうのが嫌だったんじゃないでしょうか?試験が終われば、新宇宙へ行かなければなりませんからね。」
このところの育成の停滞。
アンジェリーク自身が新宇宙の成長を無意識に妨げていたのだとすれば、全てつじつまが合う。
3人は無言のまま、ベッドの上のアンジェリークを見つめた。
「女王となるべき人がそのようなことをなさるとは、信じられません。」
エルンストは眼鏡を上げながら、ルヴァに向き直る。
同意を求めるエルンストに、ルヴァはただ薄く笑みを浮かべて返した。
恋するという心はきっといくら説明したところで、理解できないに違いない。
きっと誰にも分からないだろうと、ルヴァは思う。
なぜそうなのか、説明できないことが恋なのだから。
「陛下・・・。」
アンジェリークが弱弱しい声を上げた。
自らベッドの上で身体を起こしたアンジェリークは、シーツをつかんだ自分の手をじっと見つめている。
青白い顔に緑の瞳が暗い影を帯びて輝いていた。
「2人でお話しさせていただけませんか?」
顔を見合わせたルヴァとエルンストが静かに部屋を出る。
後には二人の女王が残された。
「おめでとう。あなたが新宇宙の女王にえらばれたのよ。」
アンジェリークは何も答えない。
リモージュはベッドに腰を下ろすと、アンジェリークの両手をそっと包み込んだ。
リモージュの手から暖かな慈愛のサクリアが流れ込む。
「わかるでしょう?」
二人のサクリアは確かに共鳴して、輝きを増している。
けれど、アンジェリークはリモージュから手を離すと、うつむいて絞り出すような声で言った。
「わたしは女王になりたくありません・・・。」
「どうしてなの?新宇宙はあなたを必要としているのよ?」
「今は、新宇宙に行きたくありません・・・。」
うつむいていたアンジェリークが顔を上げると、リモージュをじっと見据えた。
一見かよわいのに、その実、強い意志を秘めている。新宇宙はそれゆえにアンジェリークを女王に選んだのかもしれない。
そう思いながら、アンジェリークの言葉をリモージュは待った。
「ここで、オリヴィエ様とロザリア様が幸せに暮らしているのに、わたしだけが新宇宙に行くのはイヤです・・・。」
しばらくの沈黙が下りた。
「陛下。守護聖は辞めさせることができなくても、補佐官は辞めさせることができますよね。」
「それはどういう意味なのかしら・・・?」
一呼吸置いた後、リモージュの瞳が大きく見開かれた。
アンジェリークの言葉が続く。
「ロザリア様を聖地から出してください。わたしが女王になるのは、そのあとです。」
ドアの向こうから聞こえてきたアンジェリークの声に、ルヴァとエルンストは言葉を失った。
「アンジェリークは何と言うことを・・・。そのような要求をするとはありえません。」
エルンストは心底呆れたという表情でつぶやく。
「穏やかな性格だと思っていた私の認識は誤っていたと考え直さざるをえませんね。
それにロザリア様がいなくなったところで、オリヴィエ様のお心がアンジェリークに向くとは限らないのではないですか?」
あくまで冷静なエルンストの意見にルヴァは目を細めた。笑顔というには寂しさのある表情。
「エゴイズムの塊なんですよ、恋というのはね。」
アンジェリークの気持ちはわからなくもない。
もし、彼がいなければ、と、自分ですら何度となく思うのだから。
ルヴァの微笑みをエルンストは不思議な思いで見つめていた。
医務室のドアが静かに開いた。
ルヴァとエルンストは出てきたリモージュの頬に涙の後を認めて、言葉に詰まる。
「陛下。」
ルヴァはエルンストの肩をそっと押しとどめる。
今はまだ話すべきではないと、ルヴァに目くばせされたエルンストは開きかけた口を閉じて、一歩退いた。
「ごめんなさい・・・。今は何も言えないの。新宇宙のことはわたしにまかせておいてくれないかしら。」
「お言葉ですが、すでに新宇宙は広がり始めています。女王のお力による安定がなければ、最悪消滅してしまいます。」
リモージュはエルンストを見つめてきっぱりと言った。
「しばらく時間が欲しいの。新宇宙もわたしの力で全力で守るから。」
リモージュは二人の間をすり抜けるように走り去っていく。
ルヴァはリモージュの後ろ姿を見ながら、ぐっとこぶしを握りしめた。
「陛下はどうなさるおつもりなのでしょうか?」
リモージュの姿が消えたのを見計らって、エルンストがルヴァに尋ねる。
「ロザリア様を解任するなんて、ありえません。新宇宙のためとはいえ、アンジェリークの要求は受け入れるに値しないのでは・・・。」
「エルンスト。」
ルヴァの厳しい口調にエルンストは黙りこんだ。
「このことは私たちだけの胸にしまっておきましょう。いいですね?」
エルンストが頷いたのを見て、ルヴァはその場を離れる。
これから起こる出来事がロザリアを不幸にしないことをただ願いながら。
柱の影で様子をうかがっていたチャーリーは「ロザリアの解任」という言葉に息をとめた。
ルヴァとエルンストに声をかけようとしたときに耳に飛び込んできた言葉。
二人に声をかけることもできずにいると、やがて二つの足音が遠ざかる。
柱にもたれたまま、チャーリーはその場を動けなかった。
「ロザリア様・・・。」
二人の話から、大体の想像はつく。
オリヴィエとロザリアを引き離すことしか、きっと今のアンジェリークには考え付かなかったのだろう。
純粋で強い想いだからこそ、哀しい。
しばらくして、チャーリーは両手で自分の頬を軽く叩いて、宮殿を出た。
大広間の片付けも済んで、人影の消えた宮殿はそれぞれの思いを抱えて、静かにたたずんでいた。
パーティの後も、変わらず女王試験は続いていた。
相変わらず育成の成果は出ずに、新宇宙の成長は止まったままになっている。
さすがにおかしいという空気が流れ始めていたが、それを声高に言う者はいなかった。
「陛下。お疲れのようですわね。」
玉座に座り込んだリモージュの青白い顔にロザリアは不安げに声をかけた。
新宇宙の影響なのか、宇宙の状態は不安定で、女王のサクリアの放出はここ数日休む間もないほど続いている。
今日も土の曜日だというのに、辺境の惑星の乱れのせいで、仕事になってしまっていた。
「大丈夫よ。心配しないで。」
明るい声とは裏腹な疲れ切った様子にロザリアはリモージュの手を握った。
「何のためにわたくしがいるの?無理しないで、なんでも言ってちょうだい。」
「本当に大丈夫。少し寝不足なだけなの。」
微笑んだリモージュに、ロザリアはそれ以上何も言えない。
女王陛下はこう見えても意外に頑固なのだ。
ロザリアはため息交じりに立ち上がると、リモージュを奥の間に連れて行った。
「それなら、すぐに寝なくては駄目よ。陛下が寝付くまで、わたくし、ここで見張っていますから。」
しぶしぶと言った様子で着替えたリモージュはベッドに入ると、すぐに寝息を立て始めた。
本当に疲れているのがロザリアにもよくわかった。
ロザリアはリモージュを起こさないように、そっと部屋を出る。
そしてすぐに庭園へと向かった。
「ごきげんよう。」
ぼんやりしたチャーリーに声をかけると、チャーリーは「うわ!」と大声を上げて飛び上がった。
「・・・まるでお化けでも見たような言い方をなさるのね。」
多少不機嫌にロザリアが言うと、チャーリーは急に調子よく揉み手を始めた。
「すんません~。何の御用でした?」
「チョコレートをいただきたいの。」
このところロザリアはチョコレートを買っていなかった。
それはオリヴィエとうまくいっている証拠と思って、チャーリーは複雑ながらも安心していたのだ。
「・・・なんかあったんでっか?」
まさか、あのこと?
チャーリーの胸にあのパーティの日のことがよみがえる。
「陛下へのプレゼントですわ。このところお疲れのようなんですの。」
チョコレートをとりだしたチャーリーは頷きながら言った。
「そらそうですやろなあ。二つの宇宙をお一人で支えなあかんのですから。アンジェリークが早いとこ、女王になってくれたらええんですけど。」
プレゼント用のラッピングペーパーを手にしたチャーリーはロザリアの視線に気づいて手を止める。
「今、なんておっしゃいましたの?二つの宇宙を一人で?」
まだ、新宇宙は成長の途中で、女王のサクリアで導く必要はないはずだ。
それなのに、女王が支えなければいけないというその意味は、なんだろう。
「まさか・・・。」
チャーリーは後ろを向いて、チョコレートの箱を包んでいる。
「俺が知るはずないやないですか。そんな気がしただけですわ。」
綺麗にラッピングされたチョコレートがロザリアの手に渡った。
「陛下によろしゅう言ったって下さい。俺も応援してます~~って!」
そう言って笑うチャーリーはいつもの商人の顔で、ロザリアはそれ以上聞くことができなかった。
けれど、心に浮かぶ答えは何度考えても一つしかない。
ロザリアはチョコレートの箱が腕の中で潰れそうになっていることに気付いて、力を緩めた。
一方、オリヴィエはルヴァの私邸にいた。
定期審査の結果は先週と全く変わりがない。
本当に変わりがないのだ。一つも。
「ねえ、おかしいと思わない?」
ルヴァが出してくれた緑茶は紅茶よりも甘みが強くて、オリヴィエは顔をしかめた。
「このところ、まったく進展がないじゃないか。一体いつになったら試験は終わるんだろう。」
2口目を含んだオリヴィエは、そのまま一気に緑茶を飲み干す。
おかしいのは結果だけではない。
そのことを女王もルヴァも新宇宙の管理をしているエルンストでさえ、なにも調べようとさえしないことだ。
「アンジェリークは女王になりたくないって言ってんの?」
ルヴァの手が止まり、湯呑をゆっくりと茶托へ戻す。
「・・・そうですよ。」
「やっぱりね。」
オリヴィエはソファの上で身体を伸ばして天を仰いだ。
伸ばした手の先には今、なにもない。
抱きしめたい顔を思い出して、オリヴィエはルヴァに向き直った。
「どうしたらいい?私にできることはある?」
ルヴァは冷めかけた湯呑を両手でかかえると、中の液体を口に含んだ。
甘みと苦み。
愛と苦しみはいつでも混在している。
「では、アンジェリークを愛することはできますか?」
「私にはロザリアがいるんだ。彼女以外、愛せない。」
ふと、ルヴァの口からため息が漏れた。
「では、ロザリアがいなければ、アンジェリークを愛することができますか?」
「ねえ、ルヴァ。私が聞きたいのはそんなことじゃないんだけど。」
ルヴァは湯呑の中の緑茶をただ見つめている。
オリヴィエの瞳が何かに思い当ったようにゆっくりと開いていった。
「まさか、ロザリアを?」
ルヴァが最後の一口をすすると、冷めた緑茶からは苦みだけが口に残る。
「これ以上は言えません。陛下もご存じです。今はただ、待ちましょう。時が解決することもあるでしょうからね。」
ルヴァの言葉も耳に入らないように、オリヴィエは席を立つと、外へ飛び出した。
不安定な天候。
新宇宙が与える影響は日に日に強くなっているのだろう。
強い風にあおられた葉がオリヴィエの目の前に落ちる。
緑のまま落ちるしかなかった葉は、哀しげに遠く吹き流れて行った。
窓をたたく音に、ロザリアはカーテンを開けた。
星空を背にしたオリヴィエの姿が目に飛び込んでくる。
「ごめん。またこんなとこから来ちゃった。」
窓を開けたロザリアの前に立ったオリヴィエは、そっと手を伸ばすと、ロザリアの肩に額を乗せた。
目の前に広がる金の髪が月明かりを浴びて、輝いている。
ロザリアが背に手を回すと、オリヴィエと唇が重なった。
「一緒に来てほしいんだ。」
月明かりに照らされたオリヴィエの顔がとても真剣で、ロザリアはうなづいた。
手早く着替えたロザリアの前にオリヴィエが靴を並べた。
銀色に輝く編み上げのヒールを、オリヴィエはひざまづいてロザリアの足にはかせる。
「この靴、あの日に渡すつもりだったんだよ。」
リボンを結んだオリヴィエがロザリアに手を差し出す。
「行こう。」
ロザリアが重ねた手をオリヴィエは軽く握る。
手から伝わる熱に浮かされるように、二人は歩きだした。
星の小道を抜け、ついた先は見渡す限り、星の広がる大地。
「ここね、あの布が作られるとこなんだよ。」
「ここが?」
「そう。ホントはなかなか来るの大変なとこなんだけどね。ちょっと陛下にお願いしちゃった。」
圧倒されるような星の群れ。
手を伸ばせばと届きそうなほどの輝きにロザリアの瞳も輝いた。
「こんなすごい星空を毎日見てたら、同じものを作り出したくなるんだろうね。」
静まり返った丘の上に二人は腰を下ろした。
膝を抱えるようにして座ったオリヴィエの隣でロザリアはその肩にそっと頭を乗せた。
心地よい静寂が二人を包む。
オリヴィエは右手でロザリアを抱き寄せると、その額に口づけた。
「このまま、二人で、遠くへ行かないかい?」
見つめた先にあるオリヴィエの瞳。
そのブルーグレーの色がロザリアにすべてを悟らせた。
「オリヴィエ。あなたはこの宇宙にかけがえのない人ですわ。わたくしはその言葉だけで、十分です。」
ロザリアの頬に涙が伝わって、オリヴィエは抱きしめる腕に力を込めた。
寄せ合うだけの口づけが、求め合う口付けに変わっていく。
「寒くない?」
オリヴィエの腕の中でロザリアは頷いた。本当にこれほどの暖かさを感じたことはない。
星空が二人を優しく包みこんで、いつまでも見守っていた。