11.
聖地を覆う雲は今にも降り出しそうな雨粒を抱えた色だった。
女王の前に立ったロザリアは一通の封書を差し出した。
受け取ったリモージュは封筒を一瞥すると、手をぐっと握りしめる。その手の上にこぼれたのは、涙。
リモージュの涙をロザリアは目で追った。
「ごめんなさい。もっと早く気がついていれば、あんたをこんなに苦しませないで済んだのに。」
思うような言葉が出てこないもどかしさに、ロザリアは目を伏せた。
「まったく、あんた一人でできることなんて、たかが知れているでしょう。すぐにわたくしに相談しないから、こうなるのよ?」
相変わらずな言葉とは裏腹に、その口調は優しかった。
ロザリアの手がリモージュの髪に触れる。
柔らかなリモージュの金の髪をロザリアは愛おしげになでた。
「わたし、もっとがんばるから。だから、こんなのはやめて。」
リモージュは手の中の『辞職願』を、ロザリアの胸に押し付けた。
涙の付いた文字は滲んで、しわしわになった封筒はなんだか冗談のようにすら思える。
ロザリアは胸の上のリモージュの両手を握りしめた。
「あんたのためじゃないわ。宇宙のためよ。このままじゃ、この宇宙も新宇宙も共倒れだわ。」
うつむいたままのリモージュに、ロザリアは微笑んだ。
「二人で宇宙を守っていこうって約束したじゃないの。わたくしにもこの宇宙のためにできることがあるの。だから、止めないで。」
「ロザリア!!」
叫び声のように名前を呼んだリモージュが子供のように首を振る。
支え合ってきた月日は、あまりにも大きかった。
「あんたのことはあの方に頼んでいくわ。きっと、支えて下さるから。あんたのことをずっと愛してくださっているんだもの。」
堰を切ったようにリモージュから涙がこぼれおちる。
わたくしは涙を見せたくない。
ロザリアはじっと天井を見つめると、謝り続けるリモージュをただ、静かに抱きしめた。
その夜、ロザリアはトランク一つを下げて、聖地の門を出た。
別れの儀式を、と渋るリモージュをなんとか説得して、誰にも会わずに出ることができた。
もし会えば、ここから出たくなくなることはロザリアにもよくわかっていたから。
振り向くと、遠くに聖殿の灯りがぼんやりとかすんでいる。
忘れがたい人々、大切な親友、そして、愛する人。
すぐに動き出すことができずに、ロザリアはしばらく、その場に立ちつくしていた。
通り過ぎる雲が何度もロザリアの上に影を落としていく。
どのくらいの時が立ったのか、月明かりを遮る人影が目の前に現れた。
「ロザリア様、逃げてもうたら困りまっせ。」
夜目にも鮮やかな緑の髪。
特徴的なイントネーションは、顔が見えなくても間違えようもない。
「逃げるですって?」
ロザリアの蒼い瞳がきりりとつり上がった。
背にした月明かりのせいで表情は見えないが、チャーリーの顔は笑っているように見える。
夜なのにサングラスを鼻に引っ掛けたチャーリーはロザリアが下げているトランクをひったくるように取り上げた。
「そうやないですか~。まだ、この前の借り、返してもろてないですよ?」
ちっちっちっと人差し指を振ったチャーリーは「グラス。忘れたんでっか?」と大げさに眉をひそめた。
「あ・・・。」
チャーリーの店で割ってしまった、グラス。
あの時、たしかにチャーリーは「あとで返してもらう」と言っていた。
「困りますなぁ。あれ、めちゃくちゃ高いもんなんでっせ。補佐官様や、思うて、なんも言えませんでしたけど、辞めはったんやったら話が別ですわ。」
にっと笑ったチャーリーは、ロザリアに人差し指を突き付ける。
「ちゃんと返してもらいまっせ。俺の会社で、働いてもらいますわ。そうやな~、10年くらいかかるんの、覚悟しといてくださいね。」
「10年ですって!そんなにかかるはずないでしょう?!あなた、どういうつもり?」
ロザリアの頭にカーッと血が上る。
「わたくしをバカにしているの?」
「してませんて。ほんまに高いんです。10年はウソやけど。」
「やっぱりウソなんじゃないの!」
言い返すロザリアの顔からは、さっきの哀しみの色が薄らいでいる。
トランクを持って先に行くチャーリーを追いかけることで、きっと頭はいっぱいに違いない。
泣いてるより怒ってる方がエネルギーになる。
チャーリーは朝の電話を思い出しながら、主星への道を歩いて行った。
「チャーリー?」
携帯の着信はオリヴィエからで、チャーリーは椅子からずり落ちそうになるほど仰天した。
「オリヴィエ様?!なんで、俺のプライベートの携帯番号、ご存じなんです?!」
電話の向こうのオリヴィエはふんと鼻を鳴らした。
「私に調べられないことなんてないっていうの!」
実はエルンストを脅して吐かせた、なんてことは秘密だ。
「あんたに頼みがある。」
うって変った真剣なオリヴィエの声にチャーリーは居住まいを正した。
「はい、なんでも言うてください。」
真剣に聞かなければならない。そんな気がした。
「今夜、ロザリアが聖地を出る。あんたに、あのコを頼みたいんだ。」
「俺にですか?」
「大人に見えてもまだ17歳なんだ。聖地に来るまでもお嬢様として育ってきて、世間知らずもいいとこだし。見てやってほしい。あんたしか頼める人がいないんだよ。」
オリヴィエの心配は十分理解できる。
もしロザリアが聖地を出るのが本当ならば、言われなくても協力したいと思う。
でも、それならば、オリヴィエに言わなければならないことがある。
チャーリーは携帯を握る手に力を込めた。
「俺、ロザリア様のこと、好きです。ずっと、想ってました。それでも、ええんですか?」
オリヴィエの息遣いが止まる。
隠してきた想いは女王試験の終了とともに消えるはずだった。
けれど再び共に過ごすことが運命なら、もう、あきらめたりはしない。
「私はもう、あのコのために何もしてあげられない。同じ時間を生きることさえできない。あんたが守ってくれるなら、安心だよ。」
オリヴィエの言葉が途切れた。
「ロザリアを幸せにしてあげて。」
私の代わりに。
言葉にできない想いが受話器を通して伝わってくる。
チャーリーはこみ上げてくる熱い何かに流されそうな気持ちを必死に抑えて、オリヴィエと約束を交わした。
「必ず。俺の全部で守ります。せやから・・・。」
「でもね、もし、私が聖地を出たら、ロザリアを迎えに行くよ。その時にあのコが私を選んでも、恨まないでよね。」
いつもの軽口でそう言ったオリヴィエにチャーリーは言い返した。
「俺を選んでも恨まんといてくださいね。」
同じように軽口で返したチャーリーにオリヴィエも笑う。
そして、切れた電話。
ディスプレイが自然に落ちるまで、チャーリーはじっと携帯を握りしめていた。
たとえ今、ロザリアがオリヴィエを想っていてもかまわない。
時は変えてくれるはずだ。
激しい想いも、悲しみも、何もかも全てを。
聖地ではすぐに新宇宙の女王即位式が行われた。
オリヴィエは式典が終わると聖殿を抜け出して、家に戻る。
夜には新女王のためのパーティが予定されているが、出席するつもりはなかった。
新宇宙の女王の即位という大きなニュースの影に隠れて、補佐官ロザリアの退任はそれほど話題に上がっていない。
もちろん、女王試験から関わってきた守護聖たちの間で突然過ぎる退任をいぶかしむ者もいたが、女王の態度がそれらを退けていた。
このところリモージュは体調がすぐれないと言って、奥に下がることが多い。
わざと距離をとるように、ベールの向こうでに姿を見せるだけ。
ある守護聖の心配がオリヴィエにも伝わってきたが、以前のように力になってやろうという気持ちにどうしてもなれなかった。
夕闇が降りると、オリヴィエはカーブからワインを取り出した。
自然に増えるのはため息だけではない。
テーブルの上に積まれたいくつものコルク。
ソファに横たわって、ワイングラスを傾けていると、ドアが開いて、人影が現れる。
一瞬だけ目を向けたオリヴィエはすぐに誰もいないかのように、再びグラスを傾けた。
「オリヴィエ様。」
蒼いドレスをきらめかせて、アンジェリークが近付いてくる。
「パーティが始まります。エスコートしてください。」
オリヴィエは全く動こうとせずに、腕で顔を隠した。
「今はあんたの顔を見たくないんだ。パーティも行かない。早く出てって。」
静けさが連れてくる空気はどこまでも冷たい。
「女王としての命令なら、聞いていただけるんですか?」
「守護聖としての仕事?それなら命令書でも持ってくるんだね。」
オリヴィエの厳しい口調にもアンジェリークはひるまない。
ただ、じっとその場に立っていた。
オリヴィエの視界の端に、いやでもあの蒼いドレスが入ってくる。
二人で見た星空の美しさにくらべれば、まやかしのような色。
「アンジェ!」
飛び込んできたレイチェルは二人の空気を感じ取って、大きく息を吸い込んだ。
「アナタ、早く行かないと遅刻だよ? 主賓が遅れたら大変でしょ。オリヴィエ様も早く支度してくださいネ!」
レイチェルはアンジェリークの手を引いて、強引に外へ連れ出した。
きっとオリヴィエは来ないだろうと、レイチェルにもわかっている。
睫毛を伏せたアンジェリークを馬車に押し込むと、レイチェルは言った。
「アンジェ。オリヴィエ様のこと、あきらめた方がイイと思うよ。」
アンジェリークの急な変化に戸惑って、レイチェルはエルンストを訪ねていた。
あのエルンストが言葉を濁して、はっきりと言わないことが、かえって、レイチェルに気付かせたのだ。
アンジェリークとオリヴィエ。
そしてロザリアとの間に何かがあったのだろうということを。
「ねえ、レイチェル。わたし、オリヴィエ様が好きなの。初めてこんなに誰かを好きになったの。だから誰にも渡したくない。」
蒼いドレスは馬車の揺れに合わせてキラキラとその輝きを変える。
オリヴィエから贈られたというドレスは、レイチェルから見てもあまり似合っているようには思えなかった。
栗色の髪にはきっと、もっと優しい色が似合う。
ドレスを見るたびに感じる胸騒ぎにレイチェルはごくりと唾を飲み込んだ。
アンジェリークのどこに、こんなに強い想いが隠れていたんだろう。
「きっといつかはわたしを見てくれるよね?あの人のこと、忘れてくれるよね?」
「アンジェ・・・。」
アンジェリークの手の中でドレスがギュッと握りしめられる。
レイチェルは言葉もなく、その姿を見つめた。
パーティも終わり、聖地に静けさが戻ってくる。
オリヴィエはいつの間にか眠ってしまっていたことに気付いて、ソファの上で体を伸ばした。
ソファで寝てしまう自分に毛布をかけてくれたロザリアはもういない。
つけた覚えのないスタンドが部屋の片隅でオレンジ色の明かりを投げかけていた。
はっきりしない頭をめぐらせると、スタンドのそばにルヴァが座っている。
静かにたたずむ姿にオリヴィエは目を開けた。
「あんた、いつからそこにいたの。起こしてくれたらよかったのに。」
頭を押さえながら起き上がるオリヴィエにルヴァは微笑んだ。
ぼんやりとした灯りに浮かぶ微笑は、なぜか泣いているようにも見える。
「いえ。考え事をしていたのですよ。・・・気づいたら、あなたが起きていたんです。あいかわらず、私ときたらぼんやりですよね~。」
時計の音だけがしばらくの間響いた。
これからの長い夜を感じさせる、静寂。
ようやく口を開いたルヴァの声はいつもよりもかすれていた。
「オリヴィエ。私を信じてくれますか?」
穏やかな視線の奥に見える、たとえようのない色。
「あんたのことを疑ったことなんてないよ。」
そう言ったオリヴィエにルヴァは静かに話し始めたのだった。