6.
また、一週間が始まる。
オリヴィエとゆっくり話のできない日々はロザリアにとっても苦痛で、ついため息ばかりが漏れてしまう。
何度めだろうと苦笑したロザリアの前で、補佐官室の扉がノックもなしに勢い良く開いた。
「ロザリア!」
会いたいと思っていたから、逆に何も言えなくなってしまう。
茫然とした顔のロザリアを前に、オリヴィエの表情はどちらかといえば険しい感じがした。
「どうして昨日あんなことしたのさ。」
オリヴィエのいつになく強い口調に、ロザリアは立ち上がった。
「あんなこと?」
オリヴィエは黙って、手の中のリボンをひらひらと泳がせる。
見なれた水色のリボンは昨日のプレゼントに結んだもの。
「まあ、食べていただけてよかったですわ。」
ロザリアの手がリボンに伸びると、オリヴィエはその手首をつかんだ。
「約束を忘れたっていうのかい?」
オリヴィエが怒っているのだ、ということにロザリアはようやく気付いた。
ブルーグレーの瞳はロザリアを鋭く見つめたまま動かない。
お互いに言葉がないまま、ふと、オリヴィエが手を離した。
「会いたいのは私だけなんだね。」
オリヴィエは自分の口から出た言葉に驚いて、同時に困惑した。
こんなことを言うつもりじゃなかった。
なぜ、デートをアンジェリークに譲るようなことをしたのか。補佐感としての使命感ならやめてほしい。
ただそう言いたかった。
大人の態度で諭すつもりでいたのに、悪気のないロザリアの様子を見ていたら、なんとなく我慢できなくなってしまったのだ。
「もう、約束はしないよ。試験が終わるまで、会わないほうがいいみたいだからね。」
踵を返したオリヴィエからいつもの香りがして、ロザリアは声が出なくなった。
補佐官室の扉が閉まっても、追いかけてくる気配がないことにオリヴィエはイライラと壁を蹴りつけた。
つま先にはっきり感じる痛みは、今のやり取りが現実なのだと教えてくれる。
「バカだね・・・。」
自分に向かってつぶやいたオリヴィエは執務室へもどることにした。
いずれにせよ、冷静でないことは間違いない。頭を冷やす時間が必要だと思う。
遠ざかるオリヴィエの靴音が小さくなるのをロザリアは身動きもできずに聞いていた。
自分の名を呼ぶ声にはっと顔を上げると、相変わらず穏やかな笑顔のルヴァがいた。
「どうしたんですか~。」
ある惑星のサクリアバランスについて相談を持ちかけたのは自分の方だったのに。
上の空になってしまったことが恥ずかしくて、ロザリアは慌てて頭を下げた。
そのとたんにロザリアの手から数枚のペーパーがこぼれ落ちて床に散らばる。
しゃがみこんで拾い集めるロザリアにルヴァも一緒にペーパーを集め始めた。
部屋の中に風が流れて、そのたびにペーパーがふわりと舞った。
「ありがとうございます。」
向かい合ったルヴァの瞳に映る自分の姿にロザリアはふとため息をついた。
きつい色の蒼い瞳。
結いあげた髪は有能そうには見えても、かわいらしくは見えない。
きっと、オリヴィエも可愛くない女だと思っただろう。
呆れて、嫌われてしまったかもしれない。
ルヴァはそんなロザリアを見て部屋の窓を閉めた。
さっきから聞こえてくる話し声。
天気がいいからと開け放たれた窓は隣にいる人の気配を伝えてしまう。
「風が強いようですね~。」
窓を閉めた理由を言い訳するようなルヴァにロザリアは申し訳なさそうに微笑んだ。
何もかもきっとルヴァはお見通しなのに違いない。
その気遣いが嬉しかった。
「ロザリア。」
カーテンをタッセルでまとめるとルヴァが振り返り、ロザリアを見つめた。
揺れていたカーテンがおさまって、部屋の中は静かな空気につつまれている。
「気になることがあるのでしょう?私でよければ話してみませんか?」
窓から差し込む光がルヴァの顔を照らす。その瞳に諭されるようにロザリアは小さく声を出した。
「あなたはいつでも、わたくしの背中を押してくださるのね。あの時も、あなたが言って下さらなかったらきっとあきらめていましたわ。」
女王試験の間に芽生えた恋心を必死で封じ込めようとしていたロザリアに、告白するように勧めてくれたのもルヴァだった。
「頭では理解できても、心がついていかないようですわ。」
言い淀むロザリアを促すようにルヴァはロザリアのそばに歩み寄った。
「わたくしだけを見てほしいと思ってしまう自分がとてもイヤなんですの。こんなにも弱い人間だったのかと改めて思いますわ。」
ルヴァの目の前にいるロザリアはまるで普通の少女に戻っていて、その戸惑いがルヴァの心に伝わってくる。
ドレスをギュッと握りしめているロザリアの肩に触れると、うつむいていた蒼い瞳がルヴァをまっすぐに見た。
「ロザリア。あなたはもっと自分に素直になるといいと思いますよ。」
「素直に?」
「好きな人に自分だけを見てほしいと思うことは少しもおかしくありませんよ。当たり前の感情です。あなたが恥じる必要はないんですよ。」
「でも、わたくしは補佐官なんですんもの。女王候補と守護聖が親しくなることを喜ばなければいけないのではありませんの?」
ルヴァを見つめる蒼い瞳。
まっすぐで純粋だからこそ、助けずにはいられない。
このまま別れてしまえばいいと心のどこかで思いながらも、手を差し伸べてしまうのだ。
「でもね、補佐官というのはあなたの一部であって、全てではありませんよ。あなた自身が望むことをしてみたらいいんじゃないですか?」
補佐官だから、女王候補と守護聖が仲良くなることを我慢しなくてはいけないと思ってきた。
立場を重んじる貴族としての育ちのなかでは、その我慢は当たり前のことだったのだ。
「あなたが今、したいことはなんですか?」
「わたくしがしたいこと?」
・・・オリヴィエと話がしたい。
考えてみれば、こんなに簡単なことなのに。
「ありがとう。ルヴァ。」
柔らかく微笑んだ顔はもとのロザリアに戻っていた。
素直な、ルヴァの大好きな笑顔に。
「あの、少し仕事をさぼってもよろしいかしら?」
恥ずかしそうに見上げたロザリアにルヴァは微笑みを返して頷いた。
ペーパーをまとめてテーブルに置いたロザリアは、ドアを開けるのももどかしいように部屋を出て行った。
後に残ったのはかすかな薔薇の香り。
「私が本当に望むことを、あなたは知らないでしょう。いえ、知らないでいてください。」
閉じたままのドアはルヴァに言葉を返さない。
「あなたが幸せでいてくれれば、私は幸せなんですよ・・・。」
迷わずノックしたドアをロザリアは返事よりも早く開けた。
中にいた3人の視線が一斉にロザリアに集まる。
補佐官らしい笑みをつくることも忘れて、ロザリアはオリヴィエを見つめた。
「あの、オリヴィエ、今、よろしいかしら?」
頬を染めたロザリアにオリヴィエはすぐに立ち上がった。
ずっとロザリアのことが気になっていて、女王候補との話も耳を素通りしていた。
会いに来てくれたことが、オリヴィエにとって、何よりもうれしい。
「ああ、あんたたち、お茶飲んだら、そのままにしてっていいから。」
ソファに座ったアンジェリークとレイチェルがぽかんとした顔でいるのも気に留めずに、ロザリアの元に駆け寄る。
自然につながれた二人の手。
振り返ったアンジェリークの瞳が揺れた。
オリヴィエが去った執務室で、茫然としていたレイチェルがようやく声を上げた。
「あの二人って、そういう仲だったんだね!全然わからなかったよ!私!」
首を振りながら、肩をすくめたレイチェルはカップの紅茶を飲みほした。
あのオリヴィエがあんなふうに飛び出していくなんて、よっぽど好きなんだろうとレイチェルでさえ思う。
よく見れば蒼い薔薇の描かれた陶磁のカップもロザリアに似ていた。
「美男美女ってカンジだよね~?」
うっとりとしたレイチェルがカップを片付けようとして、窓辺を通りかかる。
「あ!見て見てー!」
レイチェルの指差した先を見たアンジェリークは全身の血が足元に流れて行くような気がした。
中庭の木々に隠れてはいたけれど、ロザリアを抱き寄せる派手な姿は見間違いようもなくて。
時が止まったように動かない二人が、アンジェリークの目に焼き付いて、離れない。
「しょうがないね。ロザリア様ってば、非の打ちどころがないヒトだし。アンジェもあきらめたほうがいいよ?」
アンジェリークがオリヴィエを好きだというのは誰が見てもわかる。
でも、レイチェルの目から見てもオリヴィエには全くその気がないこともわかっていた。
わざと軽口を聞いたレイチェルは、カップを手に奥へと消えた。
窓越しの綺麗な青空が光とともに部屋にさしこんでいる。
強い風が吹き込むのも気づかずにアンジェリークはただ、眼下の光景を眺めていた。
窓枠をぐっと握りしめたその手が次第に色を失っていく。
まっすぐに二人を見つめる瞳に暗い光が滲んだ。
「いいえ。あきらめないわ。絶対に渡さない・・・!」
木々の向こうで、二人の影がさらに近付いて、アンジェリークは手にしていたカップを床にたたきつけた。
その音に驚いたレイチェルが、奥から顔を出すと、粉々になったカップを拾い集める。
「大丈夫?けがしてない?アンジェってば、ホントにドジだね!」
床にかがんだレイチェルの隣で、アンジェリークは立ち尽くしていた。
「ごめんなさい・・・。」
だって、そのカップ、なんだかとても嫌だったの。
アンジェリークはレイチェルが拾い集めたカップをゴミ箱に捨てた。
ばらばらになった蒼い薔薇にアンジェリークはにっこりとほほ笑んだ。
風が夕方の涼しさを運んでくる。
ロザリアは窓を閉めて、部屋の明かりをともした。
もうすぐ一番星が現れるという時間になって、補佐官室のドアをこわごわとしたノックが叩く。
ロザリアが入室の許可を出すと、アンジェリークが静かに入ってきた。
「あの、ロザリア様、図書館に読みたい本があるのですけど、ルヴァ様が貸出されているみたいで・・。」
相変わらず語尾を濁らせたアンジェリークに、ロザリアは微笑んだ。
オリヴィエと仲直りができた今、些細なことは気にならなし、何でも出来そうな気さえする。
「まあ、わたくしと一緒に参りましょう?さっきまで執務室にいらしたから、きっとまだいらっしゃるわ。」
先に立ってルヴァの執務室をノックしても返事がない。
ロザリアはドアを開けると執務室の中に入って、辺りを見回した。
「やっぱり、いらっしゃいませんね・・・。」
ここにいないとすれば、奥の書室に違いない。
アンジェリークの言葉に頷きを返すと、ロザリアは少し開いている奥の書室のドアへ向かった。
ルヴァがここにいるときはいつもドアを開けておくのをロザリアも知っていたのだ。
すると、突然背後から冷たい水を浴びせられて、ロザリアは振り返る。
大きなピッチャーを手にして肩をいからせたアンジェリークが目に入ると、そのままロザリアは突き飛ばされるように書室に放り込まれた。
閉じたドアに鍵がかけられる音がする。
「ロザリア様。一人じゃないですから、安心してくださいね。」
小さく笑うアンジェリークの声はロザリアには聞こえない。
閉じ込められた、ということを悟ったのは、アンジェリークの足音が消えて、辺りの静けさを思い知ったときだった。
水をかけられたせいで体が冷えてくる。
ロザリアが身震いした時に、かたり、と書室の奥から人の気配がした。
「ロザリア?どうしたんですか?」
ひょっこりと顔を出したルヴァが驚いた顔でロザリアを見つめている。
ロザリアの様子にルヴァは早足で近付いてくると、言った。
「一体、どうしたんですか?外は雨でも?それにしてもびしょぬれじゃないですか?」
ロザリアは自分の体の震えを止めようと、何度も深呼吸をした。
それでも、心の底から来る冷え冷えとした怖さがどうしてもおさまらない。
アンジェリークの瞳に宿った憎しみの色。
あれほどストレートな憎悪を向けられたのは初めてだった。
アンジェリークの想いに気付きながらも、それを放置していた自分の罪なのか。
ロザリアはルヴァに向かって弱弱しく微笑んだ。
「いえ、あの、そこで水をかぶってしまっったんですの。」
「早く着替えないと風邪をひきますよ~?行きましょう?」
言いながら、ドアに手をかけたルヴァは開かないことを不思議に思って何度もドアノブを揺すってみた。
「おかしいですねぇ。・・・誰か鍵をかけてしまったんでしょうか?」
首をひねるルヴァは困ったようにロザリアを見た。
ロザリアは本当に青白い顔をしている。尋常でない様子にルヴァは何かを感じた。
「鍵はこちらからは開きませんの?」
「ええ。だからここにいるときはいつもドアを開けておくんですけどねぇ。気づきませんでしたか?」
無言のロザリアが胸元にそっと手を当てた。
小刻みに震える手が痛々しくて、ルヴァはロザリアに座るように促した。
とりあえず絨毯だけはひいてある。
壁にもたれて座ったロザリアの背中にルヴァはそっと手を当てた。
もし、抱きしめることができたなら。
せめて震える手を暖めることができたなら。
ルヴァはなにもできない自分が嫌で、せめて窓際から差し込む隙間風からロザリアを守るように隣に座った。
「・・・アンジェリークですか?」
ロザリアの驚いた表情にルヴァはじっと前を見つめる。
「オリヴィエがとても好きなんでしょうね。」
ロザリアは何も言えなかった。
落ちてきた暗闇にルヴァが灯りをつける。
ぼんやりした橙色の電球の明かりに二人の影がぼんやりと照らしだされた。
「わかっていましたの。アンジェリークの想いは。でも、ただの憧れのようなものだと、守護聖として慕っているだけだと思っていましたわ。
あんなに激しい想いを抱いていることに気付いておりませんでしたの。」
そう言ったロザリアがブルっと震えて、くしゃみをした。
濡れたままの体は思いのほか体温を奪っているようだ。
ルヴァは立ち上がるとターバンをほどいて、ロザリアに手渡した。
大切な人の前でしかとってはいけないと言われているターバン。
大切な人のために使うならそれもいい。
「あまりきれいとは思えないかもしれませんが、これで身体を拭いてください。」
そして、自分の上着を置いて、書室の奥へと歩いて行く。
執務服の上に羽織っていたものだが、ロザリアに体を包むのにはちょどいいだろう。
「これに着替えて。私はあちらで休みます。朝になれば、誰かが気づいてくれますよ。心配しなくていいですから。」
あらわになったルヴァの頭を初めて見たロザリアはぽかんとした後、くすりと笑った。
「ルヴァ、髪の毛があったんですのね。」
「どういう意味ですか?!」
「いいえ、ゼフェル達が噂をしていましたの。あなたの頭はきっとハゲているって。」
ひとしきり笑った後、ルヴァの姿が見えなくなる。
ロザリアは着替えをすると、いつの間にか眠りこんでしまった。
眠るロザリアを見つめたルヴァはそのそばに置かれたターバンをとると、頭に戻していく。
明かりとりの小さな窓から見える星が小さくきらめいた。
そばには大切な女性が眠っている。
ルヴァはなかなか寝付けずに、じっと、その星を見続けていた。