2.
それから数か月。
季節は足早に冬を連れ去り、すぐそばで春の足音を聞こうという頃。
エルンストとレイチェルはセレスティアに向かっていた。
手をつなぎ、寄り添いあう姿は、微笑ましい恋人同志そのものだ。
実際、この冬の間、二人は毎週のようにあちこちに出かけていた。
忙しく時間を過ごすことで、まるで不都合なことから目を背けるように。
そして、その思惑は今のところ上手くいっていて、二人の間の空気は以前のような慣れ親しんだ空気に戻ってきている。
「…今日はなぜここに?」
長い行列を眺めてため息をついたエルンストは、傍らのレイチェルに尋ねた。
どうしても今日!と半ば強引に連れてこられたセレスティアは、いつもよりもずっと人が多く、混み合っている。
できれば人込みを避けたいタイプのエルンストとしては、このままUターンしても構わないのだが、レイチェルは目をキラキラさせて、エルンストを見返した。
「今日は、イルミネーションの最終日なんだヨ!
で、コレ!」
レイチェルが端末をササッと操作して、画面を見せてくる。
そこに書かれていたのは
『最終日・特別企画! 恋人限定エリア、オープン!』
という大々的なキャンペーン。
ようするにイルミネーション最終日の今日、一番見やすいエリアを恋人同士だけに開放するというイベントらしい。
「いつも人混みがスゴイから、イルミネーションは避けてたでしょ?
でも、今日は余裕ある場所で見られそうだから。」
チラリと上目遣いでエルンストを見つめるラベンダー色の瞳は、期待に満ちている。
そういえば、流行に敏感なレイチェルが今まで一度もイルミネーションを見に行こうといわなかった。
きっとエルンストが混雑を嫌うからだろう。
その気遣いを嬉しいと思うと同時に、レイチェルへの愛おしさが胸の中にあふれてくる。
「それは楽しみですね。 …行きましょう。」
手を繋ぎ直し、エルンストは行列の最後尾へと並んだ。
もっと時間がかかるかと思っていたが、案外、列はスムーズに進んでいく。
人は多いものの、列に並んでいる数はそう多くないのかもしれない。
これなら、恋人エリアもそれほど混雑しないで済みそうだ、とエルンストはホッと胸をなでおろしていた。
そろそろ自分たちの番というところになって、やっと入り口の様子が目に入る。
恋人専用エリアはぐるりとフェンスに囲まれていて、その唯一の出入り口に係員が数名いた。
入場しようとする二人組が恋人がどうか確認しているようなのだが…。
目の前で突然行われた行為にエルンストはギョッと固まった。
手を繋いでいた二人組は係員の話に頷いたかと思うと、チュッと軽く口づけをしたのだ。
額でも頬でもない…唇に。
パチパチと係員達が拍手をして、恋人エリアに入っていく二人を見送る。
そして、次のカップルが招かれていくのを呆然と見つめていたエルンストの服の裾がくいっと引かれた。
「…どうする?」
引っ張られて体が傾いたエルンストの耳元でレイチェルが囁く。
「どうする、とは、どういう意味ですか?」
傾いた身体のまま、問い返したエルンストに、レイチェルはグッと眉を寄せ、なぜかエルンストを睨み付けてきた。
「決まってるでしょ! …このまま進むのか、ってコト!」
あくまで小声で話すレイチェルは、少しイライラした顔をしている。
エルンストはいまだ引っ張られた姿勢のまま、メガネのずれを指で直した。
「進まなければ、恋人エリアには入れません。 ここでイルミネーションを見ようと誘ったのは、貴女の方でしょう?」
「~~~そうだけど!」
また次のカップルたちがチュッと唇を合わせ、パチパチと拍手が聴こえてくる。
エルンストたちの番まであと少し。
レイチェルはさらにエルンストの服の裾を引っ張ると、耳に口を寄せた。
「だって、キスだよ?! …できないじゃん。」
じっとエルンストを見つめていた菫色の瞳が急に弱弱しい色に変わり、ふと俯くように逸らされる。
けれど、服を引っ張る手はそのまま離れることがなく、エルンストは身体を傾けて固まっていた。
レイチェルは気が進まないのだろうか。
それならば仕方がないが、かと言って、このまま列を離れるのも残念で、なかなか足が動かない。
すると、
「…キス、したくないんだよネ?
ワタシは別のエリアでもいいから、早く移動しちゃお。」
こそこそとささやく声に、今度はエルンストの眉がグッと寄った。
したくない、とはどういうことなのか。
今の問いかけが自分になされたものなのか。
確かめようと口を開きかけたところで、
「はい、次のお二人どうぞ~!」
と、マイクでの呼びかけが聴こえてきた。
すっと近づいて来た係員二人が、エルンストとレイチェルを挟み込むように並び、中央へと促してくる。
ごちゃごちゃ言い合っているうちに順番が回ってきてしまったらしい。
困った顔のレイチェルを横目で見ながら、エルンストは係員の言う通りの位置についた。
「お二人は恋人ですか?」
係員のリーダーらしき男性がにっこりと尋ねてくる。
専用エリアに並んでいるのだから今更の質問だが、コレも一つの儀式なのだろう。
エルンストはメガネをくいっと持ち上げた後
「はい。 そうです。」
さも当然だというように頷いた。
エルンストとしては実に当たり前の返事をしたつもりだったのだが、ふと傍らのレイチェルを見ると、彼女は実に微妙な表情をしている。
やはり少し困っているようにも見えて、エルンストは内心焦った。
彼女の返事も待たず、先走って恋人と答えてしまったが、不正解だったのだろうか。
先ほどまでのやり取りが頭の中によみがえってきて、同時にここ最近の微妙な空気を思い出してしまう。
あの日、スキンシップを避けるように、くるりと背を向けて駈け出したレイチェル。
彼女はまだ幼い。
だから、必要以上に焦らずに待つことも大事だと、エルンストは自分に言い聞かせてきた。
時期が来れば。
タイミングが合えば。
...今はまだ少し、早すぎたのかもしれない。
ふっと沈み込んだ思考にエルンストは小さく息を吐きだした。
そして、メガネのズレを直すと、レイチェルに顔を寄せ、係員に聞こえないように耳打ちする。
「…イヤ、ですか?」
「え?」
「もしも貴女が気が進まないのであれば、私から係りの方に説明します。
腹痛だとでも言えば、問題ないでしょう。
別の場所で見ても私は構いませんし、またの機会にしてもいいでしょう。」
なるべく彼女の負担にならないように、と考えた末なのに、なぜか話すほどに不機嫌になるレイチェルは、
「今日が今年の最終日なんだヨ。 またの機会なんてない。」
噛みつきそうな目で睨んでくる。
そして、
「ね、エルンストはどうなの? イヤ?」
「え?」
今度はエルンストが聞き返すと。
「だから、エルンストはイヤなのか、って聞いてるの!」
「私は嫌ではありません。 嫌なのは貴女の方じゃ…うわっ。」
不意に襟元を締め上げられ、声が詰まる。
ぐいっとそのまま前に身体ごと引っ張られて、エルンストは足を一歩踏み出すことで転倒を回避しようとした。
その瞬間。
ふわり、と唇に暖かいものが触れる。
そのまま固まること、しっかり10秒。
エルンストは瞬きもできずに、レイチェルからのキスを受け止めていた。
「はい! とってもお熱いお二人に拍手~!」
パチパチとそれなりの拍手が辺りから聞こえ始めて、レイチェルはパッと手を離した。
前のめりになっていたエルンストは反動で逆に大きく背を反らして、なんとか体勢を整える。
言いたいことはいろいろあるのに、すぐに言葉が出てこないのは、エルンストのいいところでもあり、悪いところでもある。
とくにこんな時は…なんと言えばいいのだろう。
「行こ!」
考えているうちに、レイチェルはさっさと歩きだしてしまった。
たしかに係員もフェンスのドアを開けて待っている今の状態で、ここに長居するのは次のカップルにも迷惑だ。
エルンストは係員に軽く会釈をすると、フェンスのドアをくぐり、レイチェルを追いかけた。
なぜか早く捕まえなければいけない気がして、自然とエルンストは足を速める。
背後ではもうすでに、次のカップルたちが仲良く係員と話していた。
「ここがいいカナ。」
恋人コーナーの最前列の片隅でレイチェルは足を止めた。
角度的にはもう少し後ろの方が見やすいかもしれないけれど、最前列の臨場感はやはり捨てがたい。
幸いなことに、暗闇に紛れたいカップルが多いのか、最前列でもさほどの混雑はなかった。
「レイチェル。」
やっと追いついたエルンストは風上に回って、レイチェルの隣に並んだ。
だんだん日が落ちてきて、風が冷たくなってきている。
タイツを履いているものの、足を出したレイチェルの服装は、きっとエルンストよりも寒いはずだ。
「…ありがと。」
エルンストのさりげない心遣いにレイチェルは素直に礼を言った。
「やはり夜は冷えますね。」
「でも、イルミネーション楽しみだから大丈夫ダヨ。」
「そうですか。」
それきり、沈黙が落ちる。
まだ点灯前のイルミネーションは、骨組みに規則的な電球が並んでいるだけで、味気ない。
いろんなモチーフがあちこちにぶら下がり、さぞ豪華なのだろうと予想はできるが、ピンとこないのが実感だ。
ちらりと腕時計に目を落としたエルンストの視界に、まっすぐに前を見ているレイチェルの横顔が映る。
少女のような、大人のような。
けれど、確実に、この冬が来る前よりも彼女はオトナになっている。
実のところ、迷って悩んでいるのは…エルンストだけなのかもしれない。
「ゴメン。」
ぽつり、とつぶやかれたレイチェルの声にエルンストは顔を上げた。
艶やかな唇から吐き出された白い息に、エルンストの胸の音が大きくなる。
愛おしい。
その気持ちに突き動かされて、そっとレイチェルの手を握ると、レイチェルはとても嬉しそうにエルンストに笑ってくれた。
「キス、しちゃったネ。」
「そうですね。」
「エルンストは…したくなかったんでしょ?」
「…そんなことはありません。」
「嘘。 だって…!」
レイチェルは思いっきり否定しかけて、
「まあ、どっちでもいいか。 ワタシがしたかったからしたの。 それでいいよネ。」
清々しくにっこりと笑う。
「…貴女が? したかった?」
「ウン。 ずっとしたかったんだ。 我慢してたけど。」
ペロっと舌をだした彼女から、ふわふわと白い息がのぼる。
「私も同じですよ。」
ふと口をついた言葉も、やはりふわふわと白い息になって上っていく。
「え、ウソでしょ? 全然そんなふうには見えなかったし!」
「本当です。 信じてください。」
言葉が白く見えるように、心も色づいて見えたらいいのに。
願いを込めて握る手にキュッと力を籠めると、レイチェルは少し驚いたような顔をした。
らしくない、とわかってはいるけれど。
「たしかに私はそういうことにあまり興味がある方ではありません。
でも、貴女には。
いつでもこうしたいと思ってしまうんです。」
手を引き寄せて、レイチェルの体を背後から囲い込む。
すでに辺りは暗闇。
そして、恋人同士はみんな自分たちのことしか見ていない。
ここで二人が唇を重ねあわせたことも…誰も気づかないだろう。
顔を赤くしたレイチェルが
「いつでも、は、ちょっと困るカナ。」
唇を尖らせれば、エルンストはメガネのずれを指で直して、
「そうですね。 気を付けるように善処しましょう。
貴女もあまり私を困らせないでください。」
いつも通りのポーカーフェイスで答える。
けれど、もし、ここが暗闇でなければ、エルンストの赤くなった顔をレイチェルも気が付いてしまったに違いない。
「3、2、1!
イルミネーション点灯です!」
大音響で流れ出した音楽と光の洪水。
点灯したイルミネーションはキラキラと輝き、周囲を明るく照らしている。
色とりどりに輝く空は、まるで魔法の国にいるようで。
レイチェルは思わず口を開けて、見惚れてしまった。
キレイすぎて、言葉もでない。
この光景はきっと一生忘れられないだろう。
ふと隣を見れば、明かりに照らされたエルンストも同じように口が開いている。
滅多に見られないエルンストの子供のような表情に、レイチェルはそっと彼の腕にしがみついたのだった。