薔薇の守人

3.

少し前のこと。
聖地に招集されて数ヶ月が経ったヴィクトールは、いつも通りランニングをこなしていた。
身体を鍛えることは軍人としての基本であり、たとえ今は戦いとは無縁の任務に就いているとはいえ、怠るわけにはいかない。
もっとも以前のようなトレーニングは出来ず、朝夕のランニングと、帰宅後の筋トレくらいになってしまっているのが現実だ。
本当は実戦的な剣術の稽古などもしたいところだが、この聖地では相手を探すのが難しい。
一度、ランディに請われて相手をしたことがあったが、力の差がありすぎて、ヴィクトールの鍛錬にはならなかった。
ランディの剣自体はよく鍛えられていたから、いつかはランディの師匠のオスカーとも剣を交えてみたいと思ってはいるが…。
彼とはまだそこまでの親交がない。
したがって、基礎トレーニングのみに従事する毎日になっていた。

「は、は。」
規則正しい呼吸をとり、意識して同じペースで足を進める。
土の曜日である今日は、一週間の中でも一番自由に時間を使える日だ。
ランニングの距離も平日の倍に伸ばし、このあとの筋トレも休日用のメニューを組んでいる。
黙々とランニングを続けたヴィクトールは、聖地の隅の森へと足を踏み入れた。
聖地の奥の奥であるこの森では、今まで誰かに会ったことはない。
さえずる鳥の声や、動物たちが木々の隙間を移動する葉擦れが聞こえるだけの道のり。
ところが。

「きゃあああああ!!!」
「いやー! あっちいってー!!」
風に乗って聞こえてきた女性たちの悲鳴。
ヴィクトールは決めていたコースを外れ、声の元へと走り出した。

茂みをかき分けて進むと、少し開けた広場のようなところがあった。
その隅に二人の少女が座り込んでいる。
女王候補のコレットとレイチェルだ。
二人はお互いの肩を抱くようにして、うつむいたまま、震えているように見える。
ヴィクトールは素早く二人に駆け寄ると、
「どうした? 今の悲鳴は?」
驚かさないように、優しく声をかけた。
まさかこの聖地に不穏な輩が入り込むとは思えないが、なにがあるかはわからない。
未知の猛獣という可能性もある。

「大きな、蛇が…。」
先に声を上げたのはレイチェルだ。
いつも気丈に輝いている薄紫の瞳が、おびえたように揺れている。
彼女よりもか弱い印象のあるコレットの方は、驚きのあまり、声を出すこともできないのか、レイチェルの言葉にただ頷いた。
「蛇?」
とりあえずホッと胸を撫で下ろしたヴィクトールは、辺りを見回した。
さっきの悲鳴でよほど蛇の方が驚いたのかもしれない。
彼女たちを驚かせたらしい蛇は影も形もなかった。

「大丈夫か?」
腰が抜けたように座り込んでいるコレットに手を差し出して立たせると、レイチェルが
「ワタシたちは大丈夫だけど、ロザリア様が。」
思い出したようにヴィクトールに訴えてきた。
「ロザリア様が?」
「蛇を追い払って、向こうの茂みに行っちゃったんです。」
「なに?」
レイチェルの視線の先は膝丈ほどの草が生い茂っている。
わずかに草が倒れたような跡があるのが、ロザリアの歩いて行った印のようだ。
ヴィクトールは急いで、印を辿り、あとを追った。


しばらく行くと、草の丈が低くなり、まばらに土の見えるところにさしかかった。
乾いた土が靴底にざらついて、うっかりすると足を取られそうになる。
さらに奥へと進んで、ヴィクトールはようやくロザリアの姿を見つけた。
後ろ姿のロザリアはややうつむきがちに立ち尽くしていて、ヴィクトールが近づいていることに、気がついていないようだ。

「ロザリア様、大丈夫でしたか?」
ヴィクトールが声をかけると、ロザリアは一瞬遅れて振り向いた。
はっと見開かれた青い瞳は少し不安げな影をあっと今に消し去ったかと思うと、
「ええ。 大丈夫ですわ。」
いつものように優雅な笑みを浮かべている。
彼女の足でここまで来るのは相当大変だっただろうに、そんな疲れも微塵も見当たらない。

ヴィクトールは辺りを見回すと、
「レイチェルに蛇がいたと聞きましたが。」
「あちらの草むらの方になんとか追い払いましたわ。 女王候補たちはどんな様子でしたかしら?」
「はい。 怖がってはいましたが、けがなどはありません。 ご安心ください。」
「そう。 よかった。」
心から安堵した様子で、ロザリアはほっと息を吐き出している。
風の音に草むらがざわざわと揺れ、彼女のドレスの裾がはためいた。
凜と伸びた背筋は美しく、一人で立つ姿は孤高に咲く大輪の薔薇のようだ。

「ですが、ロザリア様。」
ヴィクトールはロザリアをまっすぐに見た。
強面の自分に真正面に見つめられて、ロザリアにしてみれば、あまりいい気持ちではないかもしれないが、彼女よりも年長である者の責務として、きちんと言うべきだと思ったのだ。

「ロザリア様のような方が、蛇を追い払うためにこのようなところまで来られるのは、感心できません。
 いくら聖地とはいえ、危険すぎます。
 もしも、あの蛇が毒蛇で、急に襲いかかってきたらどうなさるおつもりですか?」
少しでも反省して、今後は無茶な行為を慎んでほしい。
ただ、それだけのつもりだったのに。
ロザリアはヴィクトールのきつめの口調にさえ、怯むことなく、青い瞳でしっかりと見つめ返してきた。

「毒蛇であれば、なおのこと、わたくしが追い払わなければなりませんわ。
 彼女たちは大切な女王候補なのです。
 わたくしの補佐官としての使命は彼女たちを守り、宇宙を安寧に導くこと。
 そのための犠牲になる覚悟はいつでもできております。」

青は静寂の色なのに、彼女の瞳の青はまるで炎を宿しているように見えた。
なんとりりしい女性なのか。
学習に来る女王候補たちと年も変わらないはずなのに、彼女のこの強さはどこから来ているのだろう。
今まで出会ってきたどの女性とも違うロザリアの姿に、ヴィクトールは圧倒されていた。


「ロザリア様ー! 大丈夫ですかー?」
遠くからレイチェルの声が聞こえてきた。
戻りの遅いロザリアを心配して探しに来たのだろう。
ロザリアは、ヴィクトールから視線を外すと、つま先を声のする方へと動かした。
瞬間、
「あ。」
ぐらりと膝が落ち、ロザリアの身体が傾く。
転びかけたロザリアは、ヴィクトールがとっさに差し出した手につかまり、なんとか踏みとどまった。
偶然とはいえ、エスコートするように手が重なり、お互いに見つめ合う形になってしまう。

「いやですわ。 こんななにもないところで。」
ダンスの終わりのように優雅な所作で、ヴィクトールの手を放したロザリアは微笑んだ。
いつものような補佐官然とした美しく整った微笑み。
けれど、ヴィクトールは気がついてしまっていた。

とっさにつかんだ彼女の手の震え。
白く冷えた指先。
…彼女は本当は怖かったのだ。
怖かったけれど、それを誰にも見せずに、女王候補たちを守るという使命を優先した。

「お待たせしましたわ。 もう蛇はいませんから、安心してちょうだいね。」
レイチェルとコレットに、何事もなかったかのように言い聞かせるロザリア。
彼女の横顔はやはり強く、りりしく…美しかった。

それから気がつけば、ヴィクトールの視線は常にロザリアを追いかけるようになっていた。
もちろん、ヴィクトール自身が彼女の隣に並ぶのにふさわしいと思っているわけではない。
彼女は強い使命感を持つ立派な女性で、ヴィクトールとは生まれも身分も違う。
けれど、彼女はその尊さゆえに、また同じことがあれば、同じように自分を犠牲にし、使命を全うしようとするだろう。
だから。
ロザリアが命を賭して、誰かを守るというのなら、そのロザリアを自分は守りたい。
そう願うようになっていた。


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