2.
「ねえ、あんた。 探し物がある人?」
生意気そうな目をした少年が、オリヴィエを見上げている。
まだ10歳にもならないだろう子供だ。
もちろんオリヴィエには全く見覚えがない。
「はあ?」
つい、つっけんどんな声を出したオリヴィエに、少年は若干ひるんだようなそぶりを見せたが、すぐにバラを指さして、再び睨んできた。
「それ。 白いバラを持ったあんた、探し物があるんだろ?」
探し物。
ようやくロザリアのことだと思い当たり、オリヴィエは少年の前に片膝をついた。
「何か知ってるの?」
真剣な目で見つめ返すと、少年は目をそらし、ポケットから、紙を取り出す。
「これ・・・渡してくれって頼まれた。」
渡された紙はアクアリウムのスタンプラリー。
スタンプを埋めると、ちょっとした景品がもらえるらしい。
「これを埋めろってこと…?」
立ち上がったオリヴィエが呟くと、少年が慌てた様子で縋ってくる。
「おい、それを渡したら、そのバラをくれるって約束してるんだ。 早く寄越せよ。」
「はい? あんた、薔薇が欲しいの?」
少年の思いがけない主張に驚いたオリヴィエだったが、彼はまじめな顔で大きく頷いている。
「誰かにプレゼントでもするの?」
まさか少年自身がバラ好きだとは…思えない。
Tシャツ短パン、キャラクターのスニーカー。
どう見てもバラよりも戦隊もののヒーロー遊びが好きそうだ。
少年はわかりやすくさっと顔を赤らめると、オリヴィエの手からバラをひったくるように奪い取った。
そして、後ろを振り返ると、アクアリウムの入り口あたりにぽつんと立っている少女の方へと走っていく。
「おーい!」
バラを振り回しながら、少年が近づいていくと、少女は嬉しそうに手を振っている。
「わあ、すごい綺麗なお花だね。」
にこにこしている少女に、少年は照れながらもバラを手渡した。
「明日、誕生日なんだろ? だからこれ、やるよ。」
「え?!」
少女は無理やり渡された花を抱えて、目を丸くしている。
「でも、これ、あの人の…。」
少女がオリヴィエをちらりと見る。
「違うよ! これはオレの仕事の報酬だ。
あの人からもらう約束になってんたんだ!」
少女に向かって一生懸命説明している。
それでもまだためらうように、オリヴィエの様子をうかがう少女に、オリヴィエは笑いかけた。
「この子の言う通りだよ。 これと引き換えにバラを渡したんだ。
だから、あんたは気にしなくていい。」
ヒラヒラとアクアリウムのスタンプラリーカードを見せると、ようやく少女は安心したように笑った。
「綺麗なお花。 すっごくうれしい!」
少女は満開の笑みを浮かべている。
それを見た少年は、さっきまでの生意気な様子が嘘のように、顔をくしゃくしゃにして、必死で嬉しさを我慢しているように見える。
おままごとのようだけれど、二人が想いあっている様子が垣間見えて、とても可愛らしい。
ふと、少女の笑顔とロザリアの笑顔が重なった。
白バラはロザリアの大好きな花で、以前はよく彼女に贈ったものだった。
デートのたびに花を贈るオリヴィエに、「持ち歩くのが大変ですわ。」と困ったようにしながら、それでもいつも笑ってくれていたロザリア。
その笑顔を見たくて、わざと持ちにくい大きな花を選んだりもした。
二人で花を抱えて、歩きにくいのに楽しくて。
最後にロザリアに花を贈ったのは、いつだっただろう。
そう言えば、ここ最近はなかったような気がする。
考え込んでいたら、いつの間にか少年たちの姿は遠くなっていた。
問い詰めれば、もう少し犯人の手がかりを得られるかもしれなかったけれど、オリヴィエは二人を追わなかった。
少年と接触した犯人の一人がわかったところで、ロザリアの居場所がわかるわけではない。
むしろ、警戒されて、彼女の身に危険が及ぶ可能性もある。
オリヴィエは犯人たちからの要求通り、スタンプラリーを集めることにした。
きっと次の接触は、アクアリウムの中であるはずだ。
チケットを買い、アクアリウムに入ったオリヴィエは、順路通りの道を進んでいった。
一番最初がシロクマ舎。
大きくて真っ白な体が、ゆうゆうと水槽を泳いで横切っていく。
ダイナミックな動きに、時々、水面が激しく波立つと、観客たちが歓声を上げている。
オリヴィエはそれらを横目に、スタンプを探し歩いた。
この中で一人なのはオリヴィエだけ。
あとは家族連れやカップルなどばかりだ。
一人で人ごみをすり抜けていくと、あからさまに不審な目を向けられて、こっちが悪いことをしているような気さえしてくる。
そそくさとスタンプを押し、次のコーナーに向かった。
次はペンギンコーナー。
壁一面がガラス張りになっていて、多くのペンギンたちが、あちこちに座っている。
毛づくろいしたり、時々よちよち歩いたり。
南極に迷い込んできたような、広い空間には大勢の人がいて、みんな、ペンギンを夢中で見ていた。
「ったく…。」
今回のスタンプは、水槽のど真ん中。
最前列に行かなければ押せない仕様になっている。
オリヴィエは人の間をすり抜け、スタンプ前まで移動した。
数人の子供がスタンプを待って列を作っていたので、その後ろに並ぶ。
「カワイイね~。 あ、見て、あの子、毛づくろいしてる!」
フェンスに並んで寄り掛かって、ペンギンを見ている女性が楽しそうに隣の男性に話しかけている。
手を繋ぎ、顔を寄せて笑いあって。
けれど、まだ付き合いたてなのか、どこか初々しい空気も漂っている。
「ペンギン、好きなの?」
男性の問いかけに、にっこり笑って頷く女性。
すると、男性はその笑顔に照れたように、目を細め
「じゃあ、また一緒に来よう。」
そう言って、キュッと手を強く握った。
目の前で繰り広げられる甘いムードに、オリヴィエはなぜか胸の痛みを感じていた。
アクアリウムはデートコースとしては一般的で、この界隈のカップルなら一度は訪れるスポットだ。
実際、オリヴィエもロザリアと来たことがある。
付き合い始めてすぐの…数年前。
やっぱり、ロザリアもペンギンコーナーが気に入って、かなり長い時間をここで過ごした。
「わたくし、初等部の遠足以来ですわ。」
弾んだ声で、どのコーナーでも、楽し気に笑っていたロザリア。
イルカショーも見たし、アザラシのエサ遣り体験もした。
オリヴィエ自身は別にアクアリウムを好きでも嫌いでもなかったけれど、彼女のその笑顔は、とても愛しいと思えた。
「また来ようね。」
帰り際、まだ名残惜しそうにしているロザリアに、そう言って、手をつないだ。
「ええ。 また来れたら嬉しいですわ。」
恥ずかしそうに手を握り返して、ロザリアはやっぱり笑っていた。
…たしかにそう約束したのに、あれからアクアリウムには一度も来なかった。
皇帝の侵略や新宇宙のゴタゴタ。
その他いろんな出来事があって、忙しかったのも事実だけれど。
「あんまりデートらしいデート、出来てなかったかもね。」
聖地というのは閉鎖された空間だ。
やろうと思えば、大抵のことはできるけれど、やろうと思わなければ、ただ日々が過ぎてしまう。
平日は執務をしながら、一緒にご飯を食べたり、お茶をしたり、おしゃべりしたり。
休日はお互いの屋敷で、夜を過ごして。
いつの間にか、それが当然の日常になり過ぎていて…彼女の存在が当たり前になり過ぎていて。
ふと、ジャケットの裾を引っ張られた。
振り向くと、そこには数名の子供。
目の前のスタンプ台が空いていて、後ろに並んでいる子供が、オリヴィエの順番を教えてくれたらしい。
「あ、ごめん。」
ぼんやりしていたことを素直に謝ると、オリヴィエはペンギンのスタンプを押した。
デフォルメされたペンギンは可愛らしく手をあげて挨拶している。
ペンギンを気に入っていたロザリアなら、きっと喜ぶに違いない。
この次に来た時は、一緒にスタンプを押そう。
そのためにも…早く彼女を助けなくては。
オリヴィエは急ぎ足で、アクアリウムを廻り、スタンプラリーを終えた。
出口で景品をもらい、外に出ると、即座に携帯が鳴る。
今度のメールに添付された地図は、メゾン・プラネット。
オリヴィエが店につくと、すぐに、店員が近づいてきて、
「こちらですね?」
と、品物を見せてきた。
箱にならんだ二つのマグカップは、大きなハートが色違いで描かれている。
いかにもペアカップ、という雰囲気は、オシャレさには程遠く、まるでおままごとの道具のようだ。
しかも、そのカップによく似た物をオリヴィエはつい最近も見たことがあった。
ほんの数週間前、ロザリアの私邸に遊びに行った時に出されたマグカップ。
たっぷりのティーオーレは、二人でまったり午後を過ごすときの定番の飲み物なのだが。
今まで二人で使っていたバラのマグカップが、突然、ハート柄のマグカップに変わっていた。
「このカップ、アンジェリークがくれたんですのよ。
せっかく恋人同士なんだから、こういうラブラブなのにしなきゃ、って。」
はにかみながら、ロザリアは赤いハートのカップを手にする。
彼女の凛とした空気にはあまりにもそぐわない、チープな赤いハート柄。
完全にアンジェリークの趣味だろう。
オリヴィエはグリーンのハートが描かれたカップを手にして、ため息をついた。
そして、言ってしまったのだ。
「こういうの、私の趣味じゃないねえ。」
持ち物だってファッションの一部。
オリヴィエのポリシーとして、『似合わないもの』を使うことはしたくなかった。
…それがたとえ、ロザリアとのお揃いだったとしても。
「え、あ。 …ごめんなさい。」
オリヴィエの冷ややかな反応に、ロザリアは手にしていたカップをテーブルに戻そうとした。
別になにげない動作だったのに、やはり気が動転していたのか。
テーブルに収まるはずだったカップは、床に転がり、椅子の足の角に当たって、綺麗に二つに割れてしまったのだ。
こぼれ出たミルクティーがじんわりとじゅうたんに染み出して、ロザリアは慌てて、ぞうきんを取りに奥へとかけていった。
オリヴィエも割れたカップを拾い上げ、ミルクティーの上にティッシュを広げる。
あっという間にティッシュが吸い取ってくれたこともあって、これなら、じゅうたんにシミを作ることもないだろう。
すぐに雑巾を手に戻ってきたロザリアが
「ごめんなさい。 あなたにはかかりませんでした?」
オリヴィエを気遣いながら、床とテーブルを拭いている。
一通り拭き終わると、
「あとはメイドたちに任せますわ。 申し訳ありませんけれど、あちらでお待ちになって。
もう一度、作り直してきますから。」
オリヴィエをテラスへと促し、割れたカップともう一つのカップも一緒にトレーに乗せて、また奥へと消えていった。
凛としたロザリアの後姿を見送りながら、オリヴィエはほんの少し後悔していた。
カップが好みじゃなかったのは本当だし、できれば、使いたくなかった。
でも、オリヴィエが放った言葉は、確実にロザリアを傷つけた。
はにかみながらほほ笑んでいた瞳が、一瞬、驚いたように揺れて、翳って。
すぐに、なにげない風で謝ってきたのは、彼女の育ってきた環境のせいだ。
…そうやって、本心を隠してしまうロザリアを守ってあげたいと思っていたはずなのに。
もっと、他に言い方があったんじゃないか。
なぜ、あんなにストレートな言葉をぶつけてしまったのか。
あの時はよくわからなかったけれど、今はわかる。
ラッピングされていくペアカップを見つめるオリヴィエの胸に、苦い思いが広がってきた。
ロザリアと出会ってから、数年。
恋人としても長い年月を過ごしてきた。
それまでのオリヴィエの女性関係を考えれば、この年月は奇跡的だし、今もなお、彼女への想いは色褪せることなく存在している。
きっとこれから先もロザリア以上に愛せる人は現れないだろう。
けれど。
愛する気持ちに変わりはなくても、愛される気持ちには・・変わりがあったような気がする。
彼女がオリヴィエを愛してくれるのは当然で。
なにをしても許してくれるのが当然で。
だから、言葉や態度に、『思いやる』気持ちが欠けてしまったのだ。
本音で接することと、感情を直にぶつけることは違うとわかっていたのに。
「あの、こちらをお渡しするように承っているのですが、中に入れたほうがよろしいですか?」
ラッピングを終えた箱を紙袋に入れてくれた店員が、オリヴィエに封筒を見せてきた。
カードくらいの大きさの薄い封筒。
オリヴィエは紙袋とは別に封筒を受け取ると、胸ポケットにしまった。
「ありがとうございました!」
丁寧にお辞儀をする店員に軽く手をあげ、店を出ると、オリヴィエは辺りを見回した。
今までのパターンなら、このタイミングで次の指令が来ていたが、メールの着信もない。
まさか、なにかあったのか。
急に不安が押し寄せてきて、イライラと携帯ばかりを眺めてしまう。
しばらくその場で待って、オリヴィエはふと、胸ポケットの封筒を思い出した。
中身を開いてみると、入っていたのは、一枚のカード。
「なるほどね。」
オリヴィエはカードを指先でつまみあげると、書かれている文字を確かめ、長い息を吐き出す。
それから、封筒をくしゃりと丸め、近くのごみ箱に放り込み、カードだけをまた胸ポケットへと戻した。
カードの文字で行き先はわかった。
…そこまで急ぐ必要がないことも。
けれど、オリヴィエの足はいつしか勝手に走り出していた。
早く、一秒でも早く。
…ロザリアに会いたい。
息を切らしながら、たどり着いた先の建物を見上げる。
それは、アルカディア唯一の高層ビルである、シティホテルだった。