あかのいと

3.


「足は大丈夫?」
久しぶりに腰を下ろしたベンチで、アンナは足首をさすっている。
ファッション性重視でサンダルを選んでしまったが、ここまで歩くことになるのなら、楽な靴の方がよかったかもしれない。
オリヴィエが後悔していると、アンナは小さく首を振り、
「大丈夫ですわ。 少し紐を緩めましたし」
座ったまま、軽く足首を振ってみせた。

すぐそばのワゴンでドリンクを買ってきたオリヴィエは、一つをアンナに手渡し、隣に腰を下ろした。
しばらく何も飲んでいなかったから、のどがカラカラに乾いている。
「ずいぶん時間が経ってたんだね。」
高かった陽射しはかなりの角度を持って、それに応じて影が長く伸びている。
気温も落ち着いてきたのか、額に滲んでいた汗も、いつの間にか乾いていた。

「楽しい時間はあっという間だね。」
ふと口をついた言葉にアンナが目を伏せた。
きっと彼女も同じ思いを感じてくれているに違いない。
サンダルの紐を結び直した手がスカートの上でぎゅっと結ばれている。
…もっと彼女と一緒にいたい。
ふとそんなことを考えた自分にオリヴィエは苦笑していた。
お互いに名前も身分も偽って。
未来がないからこその今日だと、理解していたはずなのに。

「あの、行きたいところがあるんですけれど、今からご一緒していただけませんか?」
まっすぐに向けられたアンナの瞳に、オリヴィエは瞬時に頷いていた。
たぶん、その『行きたいところ』が、今日の彼女の外出の原因なのだろう。
「どこなの? 場所はわかる?」
尋ね返したオリヴィエに、アンナは曖昧に首をかしげた。
「正確な道順はわからないのですけれど…あそこですわ。」
アンナが指差した先は、傾きかけた日を浴びて、荘厳なたたずまいを見せている聖殿。
この歴史ある街で、最も有名で立派な建物だった。


石畳の道をたわいもないおしゃべりをしながらゆっくりと歩く。
オリヴィエは次第に長くなる影を意識しないように、わざと軽口ばかりを叩いて。
アンナもちょっとした冗談にも楽しそうな笑顔を浮かべていた。
森のような敷地に入ってからも長い石づくりの道が続く。
先には聖殿の入り口への石段があり、重厚な扉が左右に大きく開け放たれている。
儀式のない日中は聖殿全体が一般公開されているようすで、まだ人がちらほらと中を散策していた。

様々な色の光が降り注ぐ中、二人は参拝者用の長椅子に並んで腰を下ろした。
高い天井のアーチ部分は明り採りのためにすべてガラス窓になっていて、その中の一部は見事な細工のステンドグラスがはめ込まれている。
計算された光が中央部分を割る廊下に鮮やかな色を与え、装飾部分の金とのコントラストが美しい。
歴史のある建物らしい、重厚さと伝統美は、聖地にも似た趣があった。

最も奥まった祭壇部分はロープが張ってあって、一般客は入れないようになっている。
その祭壇の手前がお祈りをするスペースになっていて、人の列ができていた。

「ジョゼはここに来たことがありまして?」
「ああ、昨日ね。」
「まあ、あなたも昨日の式典をご覧になっていたんですの?」
ジャーナリストなら当たり前、という返事を返すと、アンナは納得したように頷いた。

昨日の式典。
それこそがオリヴィエがこの地に出張に来た理由だった。
50年に一度、聖地から守護聖が派遣され、この街と聖地との繋がりを確認する祝祭。
もう数百年続いているしきたりで、メインの儀式は国全体に公開され、新聞や雑誌でも特集を組まれるほどの注目度なのだ。
実際、昨日の賑わいはオリヴィエの想像以上で、この聖殿にもあふれんばかりの見物客が押し寄せていた。
アンナがその中の一般客として、儀式を見に来ていたとしても何の不思議もない。

「どう、だった?」
オリヴィエの声に少しの不安が滲んでしまったのは、自分の正体が感づかれてしまうのでは、と思ったからだ。
ところがアンナはそんなそぶりもなく、残念そうに首を横に振った。
「遠すぎて、あまりよく見えませんでしたの。
 でも、儀式の厳粛な様子はわかりましたし…。 聖地への信仰の篤さも改めて感じましたわ。
 そういえば、昨日、おいでになっていた守護聖様は夢の守護聖様で、特に華やかでお美しい方だそうですわね。
 遠くからでも特別なオーラみたいなものがありましたわ。」
少し興奮した様子で頬を上気させているアンナに、オリヴィエはほほ笑んだ。

特別なオーラがもし本当にあったら、彼女だってとっくにオリヴィエの正体に気が付いているはずだ。
守護聖と言えど、こうしていればただの人間で。 …ただの男だ。
オリヴィエはそっと彼女の手を握った。
言葉にできない、今の気持ちをその手の熱に込めて。
一瞬、身体をこわばらせたアンナも、すぐにその熱を受け入れてくれた。


何の言葉もなく、静かな時が流れる。
聖殿の厳かな空気のせいか、見物客もここでは皆口数が少ない。
整然と列に並び、祈りを捧げていく。
日差しの傾きに合わせて、ステンドグラスの色も変わり、次第にオレンジに似た赤みを帯びてくる。
見物客の数も減り、奥から出てきた職員が、周囲の片づけを始めた。
そろそろ閉める時間なのだろう。
アンナもそれを感じたのか、オリヴィエに視線を向けた。
この特別な時間も、もうすぐ終わりだ。

「お祈りしとこうか」
立ち上がったオリヴィエはアンナの手を引き、祭壇の前へと立った。
先に祈る人々の列に並び、順番を待つ。
オリヴィエにしてみれば、聖地も女王も自分の一部のようなもので、それに対して祈るというのも、なんだか不思議な気がする。
けれど、祈る人々の姿に、オリヴィエは真摯な気持ちを揺り起こされていた。
守護聖になりたくてなったわけじゃないけれど。
祈る彼らのためになにかができるなら…。
オリヴィエは昨日、この壇上で儀式をした時よりも、もっと神聖な気持ちで、頭上の女王像を見上げた。

ふと、アンナに視線を戻すと、彼女は真剣な面持ちで目を伏せ、祈りを捧げている。
彼女の願いは、なんなのだろう。
そんなに叶えたいことがあるのだろうか。
願をかけているという長い髪がふわりと風に揺れる。
祈る彼女の姿を見つめていたオリヴィエは突然のまばゆい光に目を見開いた。
アンナの身体が金色に輝き始めたかと思うと同時に、彼女の背に広がった金の翼。
暖かく、柔らかな光が彼女の全身を包み込んでいるのだ。

「アンナ…。」
思わずこぼれた呟きを聞きつけたのか、アンナが目を開いた。
すると、あれほどあふれていた光は一瞬にして消え失せて、さっきまでの静寂が戻ってくる。
「ごめんなさい。 長くお祈りしすぎましたわ。」
眉を下げて笑ったアンナは、祭壇の前から退くと、次の親子連れにと場所を譲っていた。
親子連れはごく当たり前のようにアンナに会釈をしていて、不思議な現象を目の当たりにしたような様子には見えない。

あの翼が見えたのは、自分だけなのか。
立ち止まってしまったオリヴィエを、アンナは扉の近くでにこやかに待っている。
オリヴィエは「ごめん」と彼女に駆け寄ると、祭壇をちらりと横目で見た。
目の錯覚、だったに違いない。
たまたまステンドグラスの光が金の装飾の一部に反射して、そう見えただけだ。

言い聞かせるようにアンナを追い越して扉をくぐり、さっさと石段を下りると、少し上から「あ!」と、細い声が上がった。
バランスを崩したのか、体をひねるようにして、落ちてくるアンナ。
数段とはいえ、マトモに落ちたら、けがをするのは間違いない。
オリヴィエは咄嗟に両手を差し出し、彼女の体を自分の胸で受け止めた。
落下の勢いもあって、かなりの衝撃があったものの、なんとかお互いに転がらずに済んだようだ。
オリヴィエの今日の靴がヒールでなかったことも幸いだったらしい。
ホッとすると同時に、抱き合うような姿勢になっていることに、心臓が跳ねた。
腕の中にすっぽりと納まる細いけれど柔らかな身体。
オリヴィエは無意識にぎゅっとその体を抱きしめていた。


聖殿内の鐘楼が鳴る。
大きな鐘の音は、閉門の合図なのか、見物客があちこちからばらばらと姿を現して、正門へと消えていく。
その気配に、オリヴィエが腕の力を緩めると、アンナは俯いたまま、小さく息を吐き出した。
なにも言葉を発しないのは、ただ驚いているのか、それとも嫌悪なのか。
何の計算もなく、感情のままに、アンナを抱きしめてしまったことは、オリヴィエにとっても計算外だった。
どうしたらいいのかわからない、と思う自分に、オリヴィエ自身が戸惑ってしまう。

「あ、ご、ごめんなさい。」
なぜか唐突に謝罪をしたアンナにオリヴィエは一歩退いた。
こういう場合のゴメンナサイはだいたい、拒絶の意志であることが多いからだ。
「やっぱりこういうサンダルはあまり慣れていなくて…。 おかげで転ばずに済みましたわ。」
チラリと彼女の足に目を向けると、紐の当たっている個所が紅く擦れている。
痛みで足が思うように動かなかったのだとすれば、そのサンダルを選んだオリヴィエにも責任がある。
「こっちこそゴメン。 ね、もうそっちの靴に履き変えたら?」
もともと彼女が身に着けていたものは、バッグの中にしまってある。
あのパンプスなら足への負担も少なくなるはずだ。
けれど、彼女はきっぱり言った。
「いいえ。 このサンダルが気に入ってしまったんですの。 このまま帰りますわ。」

アンナはにっこりと美しい笑みを浮かべると、スカートをわずかに摘まみ、膝を折った。
「もう戻らなければいけませんわ。 …今日は本当に楽しく過ごせました。
 もし…。」
オリヴィエをじっと見つめる青い青い瞳。
言いかけた言葉を飲み込んだアンナは、くるりとオリヴィエに背を向けた。
このまま去ってしまうつもりなのか。
本当に、それでいいのか。

「待って!」
オリヴィエの声にアンナの足が止まる。
「ねえ、まだ流行のパンケーキ食べてないでしょ?
 明日の12時。 ココで待ってるから。」
顔だけ振り向いたアンナがしっかりと頷いたのが見えた。
大きく2回。
その後、すぐにアンナは足を速め、聖殿の門の向こうへとその姿は消えてしまった。
ここなら観光客相手のタクシーを拾うのにも困らないだろう。
それにきっと、追いかけてはいけないような気がした。


一人、ホテルに戻ったオリヴィエは、ごろりとベッドに寝転がった。
今日だけのお遊びで始めたはずなのに、気が付けば、あんなことを言っていた。
明日もアンナに会えるかもしれないと思えば、正直に心が弾む。
けれど、その先を考えれば、どうしようもないこともまた、事実で。
守護聖というオリヴィエの立場では…。

「いっそ連れてっちゃおうかな」
守護聖であることが障害になるのなら、その特権を逆にフル活用してみてもいい。
けれど、それはアンナ自身が受け入れないだろう。
彼女には何かがある。
ただの少女ではない、なにかが。

しばらくの間、天井を眺めていたオリヴィエは、むくりと起き上がり、ミニバーのワインを開けた。
結局のところ、考えたって何も始まらないし、『その時』になってみなければわからないのだ。
心のままに生きる。
今までだって、ずっとそうしてきたのだから。


翌日、少し早めに聖殿についたオリヴィエは、門を出入りする人々をぼんやりと眺めていた。
有名な観光地だけあって、たくさんの人が出入りするが、オリヴィエが式典に出席した守護聖だと気付く人はいない。
時々、好奇な女性の目を感じることもあったが、さすがにここでナンパをしようと思う不信心な者はいないようで、皆、会釈だけをして通り過ぎていく。

12時の鐘が鳴り、オリヴィエは尖塔の時計を見上げた。
もしかしたら、彼女は来ないのかもしれない。
もう一度会いたいと思っていたのは自分だけで、待っていても無駄なのかもしれない。
そう思っても、なかなか立ち去りがたい感情。

あと少しだけ、と、人ごみの中で彼女の姿を探していると、一人の老女がきょろきょろとあたりを見回しているのに気が付いた。
待ち合わせの観光客も多いから、そんな姿は珍しくもないが
「あ」
オリヴィエが思わず声を上げたのは、老女の服がよく知っていたモノだったからだ。
昨日、アンナが着ていた茶色のワンピース。
老女はそれと全く同じデザインのワンピースを着ていた。
彼女が着ていた時は野暮ったく見えたワンピースも老女が着ていれば、メイド服としてふさわしい。
駆け足で近づいたオリヴィエが声をかけるよりも早く、老女の方もオリヴィエに気が付いて頭を下げる。
老女の物腰から、仕えている屋敷は相当格の高い家なのだろうと推測がついた。

「ジョゼ様でしょうか?」
呼ばれた名前に頷くと、老女はほっとしたように息を一つついて、オリヴィエに封筒を差し出した。
「こちらを預かってまいりました。 お返事をいただけますか?」
宛名も差出人もない封筒。
糊付けさえされていないのは、この老女がアンナにとって、それだけ信用のおける存在ということだろう。
オリヴィエは中から便箋を取り出し、さっと目を通した。

『ジョゼさま
 今日のお約束ですが、どうしても叶える事ができません。
 ですが、もしも、もう一度、お会いいただけるのでしたら、一年後の今日。
 この同じ場所でお約束をいただけませんか?』

アンナもオリヴィエにもう一度会いたいと思ってくれている。
それはこの短い手紙からでもはっきりと伝わってきた。
けれど、明日でもなく、明後日でもなく。
なぜ、一年後なのだろう。

「あの子はどうしたの?」
答えてくれないかとも思ったが、老女は頭を下げたまま、
「お嬢様は、父君から急なお呼び出しがありまして、お屋敷に戻られました。」
と、告げた。
やはり彼女の立場は『お嬢様』と称されるものだったのかと納得すると同時に、
「なんで帰ったの?」
疑問が口を突いて出た。
けれど、その質問に老女は答えをくれない。

オリヴィエは手紙を元の封筒に戻すと、胸ポケットに入れた。
「わかった、と伝えてくれるかな」
老女は一瞬、オリヴィエの瞳をしっかりと見返し、深く礼をした。
「承知いたしました。」
そして、今度は確かな足取りで、聖殿の外へと戻っていった。

一年後の約束なんて、本当はできるはずがない。
明後日には聖地に戻り、また守護聖としての生活が始まるのだ。
聖地と下界では時間の流れが違う。
オリヴィエにとっての一年が、この地では何十年に当たるのかもわからない。
でも、彼女と繋がっている細い糸を完全に断ち切ってしまうことは、どうしてもできなかった。
どんな頼りない糸でも、無いよりはましだ。

突然、ポケットに入れていた端末が震え、オリヴィエはメールを開いた。
『すぐに帰還するように』
簡潔な用件だけのメールはジュリアスからだ。
ジュリアスは面白みのない堅物だが、無理難題を押し付けてくるような一方的なリーダーではない。
執務能力は間違いなく有能だからこそ、オリヴィエは手を抜いても気楽でいられるのだ。
そのジュリアスからの休暇中の呼び出しとは、よほどの事態に違いない。
このところの聖地の不穏な空気を思い出して、なんとなく、不思議な胸騒ぎがした。
オリヴィエは休暇を切り上げ、すぐに聖地に戻ることにしたのだった。


Page Top