永遠の『故郷』

Illustration by あおい楚春様

2.


熱風のような空気がティムカの頬に触れる。
聖地とはまるで違う、じんわりとした湿気が懐かしい。
ふと足元で風にあおられる砂。
あちこちで石畳が壊れて捲れているせいで、歩くたびに靴が砂を巻き上げるのだ。
白亜宮、と呼ばれていたのは、この星が全体的に白い石でおおわれていたせいだと、遠い昔に聞いたことがあった。
それが今は乾燥した薄茶の砂に占められている。

ロザリアから聞いた話では、突然の噴火が白亜宮の惑星から水を奪ってしまったことが最初の混乱の原因らしい。
山から流れていた川の支流のほとんどがせき止められ、干上がり、中央まで届かなくなった。
圧倒的な水不足はわずか数年で、産業や農業を衰退させ、人の心も荒廃させたのだ。
水の奪い合いから村単位の抗争が起こり、今や、弱者は次々と倒れている。
あの、美しかった星が。

ティムカは足元にまとわりつく砂をかき分け、荒廃した都市の建物を廻った。
自分が王として暮らしていた時代とは、微妙に変わっているものの、大まかな形態は同じだ。
宮殿からまっすぐに伸びる大通り。
碁盤の目状に交わる路地。
大広場と噴水と・・・・。
年月を経て古びてはいるものの、しっかりとした建物は残っている。


突然、ドサリ、と足元に大きな塊が落ちてきて、ティムカは立ちすくんだ。
「水は持ってきたのか。」
低い男の声。
目深にかぶった帽子の隙間から、あまりよくない感じの目の光が見える。
「どうなんだ? 水と引き換えだろ?」

男が足元の布袋を軽く小突くと、わずかなうめき声が上がる。
それが子供の声だと気付くのに時間がかかったのは、汚れた袋に包まれていたことと、中身が全く動かなかったからだ。
ティムカは慌ててしゃがみ込むと、袋の口を開け、中の子供を抱き上げた。
薄汚れた細い身体。
声も出ないほど衰弱した様子に、ティムカは男を睨み付けた。

「これはどういうことですか?」
子供を袋の上に横たえ、ティムカは男に向き直った。
穏やかな口調ではあるけれど、ティムカの全身からは明らかな威圧感がある。
男はわずかに怯んだ様子を見せたが、開き直ったのか、ティムカを睨み返した。

「水と引き換えに子供を要求してきたのはそっちだろうが。 
 人の弱みにつけこみやがって。 早く水をよこせよ!」
身なりの違うティムカを、男は異星人だと思っているらしい。
今、この星では、このような取引がある意味、当たり前のことなのか。

「どうなんだ! 取引しねえのか?!」
男が声を荒げる。
けれど、周囲の誰一人、言い争う二人に足を止める者はいない。
他人に興味を持つ余裕がないのか、皆、下を向き、避けるように通り過ぎていくだけだ。
ティムカは目の前の男以上に、そのことに打ちのめされていた。
暖かな気候と同じくらいに、暖かな人が住んでいた星だった。
他人の子供であっても、王族であっても、みんなが自分の子供であるように、慈しんでくれていたのに。

「今は…水を持っていないんです。 すみません。」
「持ってないだって?! じゃあ、どうすんだ! くそ、せっかく連れて来たってのに…。」
男は急にティムカにも子供にも興味を失ったように見えた。
もともとはそんなに度胸のある人間ではないのかもしれない。
窮するがゆえに、であれば、この男も被害者だ。

「ホントに持ってねーのか?」
「はい。」
事実、ティムカはほぼ身一つでこの地にやってきている。
こんな状況だと理解していれば…。
唇をかんだティムカの足元で子供が小さくうめいた。

「どうしました?」
しゃがみ込んで抱き上げた子供の息は荒く、明らかに衰弱している様子だ。
このままでは危険かもしれない、とティムカが顔をあげると、その場からすでに男の姿は消えていた。
面倒なことになりそうな気配に、慌てて逃げ出したのだろう。


「…大丈夫か?」
背後から伸びた手に、ティムカは振り向いた。
同じようにしゃがみ込み、子供の額に手を乗せた男は30代半ばだろうか。
精悍な顔つきはどことなく神鳥宇宙の炎の守護聖を思わせる。
自分と同じ浅黒い肌と黒い瞳の奥に、確かな知性と良識を感じ、ティムカは男のなすがままに任せた。
男は子供の口元に耳を寄せながら、手を握り、呼吸を確かめている。
子供の手がわずかに握り返したのを見て、少し安心したように頷いた。

「弱ってはいるが、命に別条はなさそうだ。」
「そうですか…。」
ホッとティムカからも力が抜ける。
人の死に慣れていないわけではないけれど、こんな子供がこんなふうに命を落としていいはずがない。

「あんた…この星の人間じゃないんだろう?」
男の黒い瞳がきらりとティムカを見据える。
一瞬ためらって、ティムカは正直に頷いた。
『この星の人間じゃない』。
否定したくても、今の自分が異邦人であることは事実だから。

「この子をどうするつもりだ? 行く当てはあるのか? 」
ティムカは答えに詰まった。
とりあえずやって来たものの、今からどうするか、具体的な考えがあるわけではなかったのだ。
短慮だったというほかはないだろう。
ティムカの困惑が伝わったのか、
「こっちへ来るといい。 俺の家がある。」
男は軽々と子供を抱え上げると、ティムカに顎で路地裏を差した。

暗い道の向こうは、ティムカがこの地にいた頃、小さな店が軒を連ねていた商店街だった。
その名残なのか、屋根の片隅には壊れた看板をつなぐ蝶番の残骸や、大きなドアベルが残っている。
街並みは懐かしい。
けれど、どこか夢としか思えない。
黙って後をついてくるティムカを振り返ることもせず、男はずんずんと先を進んでいく。
やがて、古ぼけた一枚板のドアを開けると、男はその中へと入っていった。


広々としているが、閑散とした大きな一間。
片隅にベッド。 その反対に炊事場。
石床の上にはすり切れた布が一枚ひいてあるだけで、あとはなにもない。
男は奥のベッドに子供を下ろすと、炊事場から水差しを運んできた。

「あんたも飲んでいいぞ。」
湿らせた布で子供の口をぬぐいながら、男が言う。
ティムカは「ありがとうございます。」と声をかけ、水差しの水をコップに移して口に含んだ。
ゆっくりと口中に水を巡らせ、飲み下す。
ティムカの様子を見ていた男は、詰めていた息を吐き出すと、初めて笑った。

「あんた、どこから来た? あんたのような人間が、そんなふうに水を飲んだのを初めて見たぜ。」
男の口調には嫌味がなく、ストレートな物言いはかえって好感が持てる。
「水が大切なことは、さっきの出来事でよくわかりましたので。 」
ティムカもわずかに笑みを浮かべ、男を見返した。
同じ浅黒い肌。黒い瞳。
次代は違えども、同じ血族であることが、魂の奥で分かり合えるのだろうか。
男はそれ以上、詮索しようとはしなかった。

「ふうん。そうか。
 俺はサライ。 このあたりで暮らしてる一般人だ。
 あんたは?」
「ティムカ、です。」
この星で自分を知る者はすでに全員が鬼籍に入っているはずだ。
ところが名を聞いた男は目を丸くし、くくっと笑いだした。

「ティムカ! 伝説の龍王の名と同じだな。 お前の親はずいぶん信心深い。」
「龍王?」
「ああ、偶然なのか? 
 この星でティムカという名は、ちょっと有名なんだ。
 水龍になって天に上ったという、かつての賢王の名なのさ。
 この星が最も栄え、美しかった時代の伝説だ。
 この星の人間なら、一度くらいは聞いたことのある昔話だよ。 …あんた、知らないってことは、やっぱり外の星の人間なんだな。」

ティムカは答えなかった。
おそらく、この昔話は自分のことなのだろう。
突然の王の退位と守護聖への就任。
それをもっともらしく演出するための作り話。 
いや、全くのでたらめではないから、年月のうちに歪められて伝わったのかもしれない。

「あんたの名付け親はこの伝説を知ってたんだろうな。
 他の星の龍王にあやかった、ってわけだ。
 まさか、あんた自身がこの星に来るなんて、思ってもなかっただろうに。」

サライはティムカににやりと笑うと、子供の顔に耳を近づけ、呼吸を確かめた。
水を絞ったおかげで、ひゅうひゅうと乾いた音を出していた喉が落ち着いてきている。
もう一度、布で子供の唇を濡らすと、サライはティムカに「もう大丈夫だ。」と告げた。

湿らせた布で顔を拭いても、子供は眠ったまま、起きる気配がない。
ずっと袋の中で、ロクに眠ることもできなかったに違いない。
親や家族はどうしているのだろう。
心配しているのではないだろうか。
…いずれにせよ、自分は無力だ。
じっと寝顔を見つめたまま、暗い目をしているティムカに、サライはため息をついた。

「水不足が続いてるからな。
 あの災害から何年たっても、未だに何も変わらない。
 むしろ俺たちみたいな一般人の生活はドンドン悪くなってる…。 
 あんたもなんだって、こんな時にこの星へ来たんだ?
 …観光気分なら帰ったほうがいい。」

サライの口調は淡々としていた。
絶望でもなく、無気力でもなく、ただ、あるがままを伝えようとしている。
ティムカはその言葉の中に、サライの優しさを感じ取った気がした。

「私は…この星で自分のできることをしたいと思ってきたんです。」
「できること?」
サライが皮肉な笑みを浮かべる。
「できることってのは、なんだ?
 あんたみたいな苦労知らずの坊ちゃんになにができるって?」
ティムカを見つめる視線に棘がある。
サライは立ち上がると、部屋に一つしかない窓を開けた。


「あの壁を見てみろ。」
サライの指さした先は、かつての王宮だ。
建物は古びているが、堂々とした風格は変わっていない。
むしろ年月の風雪で、さらに重みを増したようなたたずまいを見せている。
あの中で、ティムカは育ち、そして旅立った。
さまざまな思い出が、一瞬、ティムカの脳裏を通り過ぎていく。

「あの壁の向こうには、水がある。
 噴水なんてものを眺められるくらいにな。 
 少ない水をアイツらは独占して、私腹を肥やしてやがる。」
「…王族、なのですか?」
サライの言う『アイツら』が、自分の末裔だとしたら。
これほど恥ずかしいことはない。
サライは目を丸くして、カラカラと笑い声をあげた。

「王族なんてものはとっくにいなくなってるさ。
 伝説の龍王が天に昇り、龍王の血を引く優秀な王が何代か続いた後、血族が絶えたんだ。」
「では、あの中にいるのは…?」
「災害のときにいち早く、あの土地に目をつけたヤツラだよ。
 それまであの王宮跡は公園になっていたんだ。
 王政の後、地域の代表者が話し合って、政治を進める制度に移行したんだが、その代表者の、まあ、お偉いさんってやつだな。
 ソイツらがあそこに水が出るってわかった途端に、壁を作って、一般人を閉めだした。
 あとは、想像がつくだろう?
 持つ者と持たない者。 支配するものとされる者、に分かれた。
 上の人間は勢ぞろいで自分のことしか考えてない。」

王宮の中庭にあった大きな噴水。
ある時間ごとに大きく水を噴き上げる仕組みに、子供のころは大喜びして走り回ったものだ。
生い茂る緑の木々。
風に揺れる鮮やかな花々…笑う父と母。
頭の奥で、今も消えることのない記憶。
ティムカは空の向こうの王宮を見つめた。
サライの言ったことが本当ならば、今、あの場所は人々から忌み嫌われていることになる。
愛おしい、あの場所が。
ティムカはぎゅっとこぶしを握り、サライに向き直った。


「水を…井戸を掘りませんか?」
「井戸だって?! この乾いた土地にそんなものがあると思っているのか?
 そりゃあ、どこかに水脈があるのはわかってるさ。 あの場所にいきなり水が出るわけはないからな。
 だが、当てもなく掘るなんて馬鹿げてる。」
呆れたようなサライの声を背に、ティムカは家の外へ出た。

何度も深呼吸を繰り返し、昂る心を凪いでいく。
自身の中のサクリアを世界へと広げ、まるで自分が水になってこの地の隅々にまで染み渡っていくような感覚に身を任せた。
サクリアを持つものならば、ティムカのしようとしていることがわかるだろう。
ティムカが宿す水のサクリアが共鳴し、地面の下の水の流れを教えてくれるのだ。
水の守護聖だから、できること。


あおい楚春様より


背中にサライの視線を感じる。
傍から見れば、祈ってでもいるように見えるのか。
サライのような立場であれば、とっくに祈りなんて忘れているだろう。
であれば、今のティムカは愚かに見えるだけかもしれない。
ふわり、と、体の奥に水の流れを感じた。
ティムカが確かな足取りで歩き出すと、サライは舌打ちしながらも、その後を追ってきた。

「人を、集めてもらえませんか。
 報酬は、ここに出た水で。」
ティムカは足元の砂をつま先で掻き、サライを見つめた。
今のティムカは何もない。
サライに信じてもらえるような手立ても、物も、何一つ。
あるとすれば、この星のため、という信念だけ。
サライはしばらくティムカの視線を受け止めていたかと思うと、ふうっと大きく息を吐き出した。

「根拠は? ここに水が出るっていう根拠はあるのか?」
たしかにただ水が出そうだからここに井戸を掘れ、と言われても納得できないだろう。
けれど、サクリアのことを説明することはできない。
ティムカのいた時代でも、聖地外でサクリアのことを知るものはほとんどいなかった。
特別な力は人々に尊敬をもたらすが、それがすべて善となるとは限らない。
未知のものは時として恐怖を与えてしまうからだ。
それ以上に、ティムカが守護聖であることを教えることはできなかった。

「私は、水の研究をしているんです。
 たとえば、山や川の位置から、どのあたりに水脈があるのかは想像がつきます。
 あの場所に水が出るというなら、支流のひとつがこの辺りにあることは間違いありません。」
咄嗟についた嘘だったが、ティムカの言葉には確信があった。
それも狂信的なものではなく、絶対的な根拠がうかがえる。
サライはしばらく迷ったあと、頷いた。
いずれにしても水はない。
ならば賭けてみようと思ったのだ。 
ティムカという伝説の王の名を持つ男に。

「わかった。 俺はこのあたりではわりと顔が効くんだ。
 明後日…いや、明日には、人間を集めて掘りはじめられるように手はずを整えておく。」
「ありがとうございます。」
瞳を輝かせたティムカにサライは苦笑を浮かべた。
こういう顔はまるで少年のようなのに、普段のティムカは年齢を感じさせない成熟さを備えている。
恐らく自分のほうが10は年上だろうに。
どこか圧倒されてしまう気がする。


その夜、ティムカはサライの家に泊まることになった。
忙しそうに明日の手配をするサライに変わり、寝たままの子供の世話をした。
わずかばかりの水を与え、サライがくれた貴重な果物を擦って口に含ませる。
大きな黄色い果実は、ティムカが王として暮らしていた時代には、あふれるほど庭に実っていたものだ。

「果物なんて、腹が膨れねえからな。」
サライの言葉にはティムカの知らない重みがある。
いつのまに、贅沢を贅沢と感じないようになったのだろう。
聖地ではすべてを与えられ、それを当たり前のように享受していたのだ。
あの間に、この星は。

「あれ・・・。」
ようやく体を起こした子供は、突然の出来事に頭が付いていかないのか、きょろきょろと周りを見回して、ようやくティムカに気づいた。
「ここは? お兄さんは誰? わたしは・・・やっぱり捨てられたの?」
かすれた声に、ティムカは残っていた果実の汁をいれたカップを手渡した。
『やっぱり捨てられた』 という、子供の心を思うと、何も言えなかったのだ。
こんなに小さくても、自分の境遇を知っている。
それが切なかった。
子供はごくりと汁を飲み込むと、急にむせたように咳き込んだ。

「落ち着いて。 ゆっくりでいいですよ。」
こげ茶の瞳をパチパチと瞬かせて、子供は今度はゆっくりとカップを傾けた。
ごくり、と一度喉が鳴ると、あとはどんどんと吸い込まれていく。
最後の一滴をコップから垂らすように飲み込むと、子供はにっこりと笑った。
「美味しい! こんなに美味しいもの、初めて飲んだ。 ありがとう!」
コップの縁をなめとり、無邪気に笑う姿。
胸を締め付けられるような痛みに、ティムカはただ、小さく微笑み返すことしかできなかった。


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