4.
ティムカは久しぶりに星の小道を渡っていた。
路地裏の奥の荒れ地を開墾し、掘り当てた井戸からの灌漑を行った。
あとは壁の中から手に入れることができなかった作物の苗を、聖地に求めるだけ。
白亜宮の惑星では、あれから数か月が過ぎている。
はたして聖地では、どれくらいの時間が過ぎているのか。
飛び出すように出ていったティムカをどう迎え入れるのか。
星の未来を見届けた後は、たとえどんな処罰を受けても後悔はしないが、今はまだ自由を奪われるわけにはいかない。
いざという時の覚悟をもって、ティムカはまっすぐに宮殿の奥の庭へと向かった。
やはり、というべきか。
扉を開けた温室では、ロザリアが花の手入れをしていた。
足元には鮮やかな色の花壇が広がり、湿気の多い風が花弁を揺らしている。
「ティムカ。 来ると思っていましたわ。」
「ロザリア様。」
ロザリアは怒る様子もなく、ただ柔らかな微笑みを浮かべてティムカを見ている。
ティムカを捕らえる気などないことは、その笑みですぐにわかった。
さわさわと穏やかに揺れる木々の葉擦れの音が、緊張していた気持ちをすっとほぐしていく。
「10日、ですわ。 あなたが聖獣の宇宙を飛び出してから。」
「10日…ですか…。」
短いのか長いのか、ティムカにはわからなかった。
それにそれを決めるのは自分ではないような気もする。
「ロザリア様。 どうか、先日ご用意されていた苗と同じものを、分けて頂けませんか。」
ここでの数分が向こうでは数日にもなることはわかっている。
出来るだけ早く、帰りたい。
焦るティムカを見透かしているのか、ロザリアはすぐに温室の奥の棚から、いくつもの苗が入ったトレーを取り出した。
準備しておいてくれていたのだろう。
「こちらをお持ちなさい。
すべて、もともと白亜宮の惑星で栽培されていた作物の苗です。
気候の条件にあっているから、間違えなければ、きちんと根付くはずですわ。」
トレーの中で並んでいる、小さな緑の葉。
これがいずれは星を覆い、人々の命になっていく。
ティムカはトレーをぎゅっと抱え、ロザリアに心からの礼をした。
「コレットには、会っていきませんの?」
背を向けかけたティムカに、ロザリアが声をかける。
ティムカはわずかにためらった後、再び礼をし、今度ははっきりと背を向けた。
「今は、会えません。
私のしていることは、陛下への反逆です。 …お会いするときは罰を受ける時だと覚悟しています。」
「それは女王としてのコレットでしょう?
あなたの大切な人。 恋人としてのコレットには、会わなくてもいいんですの?」
会いたくないはずはない。
赤い花を見るたびにアンジェリークのことを思いだした。
けれど、彼女への想いは、暖かさと同時に鋭い痛みもつれてくる。
あの日、アンジェリークが見せた女王の顔。
ティムカの故郷への想いを理解してくれようともしない横顔がティムカの胸を刺すのだ。
「今は、会えません。
ロザリア様、私がここへ来たことはどうか誰にも言わずにいてくださいませんか。
どうか、お願いいたします。」
おそらくロザリアは言わないだろうと知っていた。
けれど、念を押すように告げたのは、ただ一人、コレットに黙っていてほしかったからだ。
「わかりましたわ。 くれぐれもお気をつけて。
あなたの身体は聖獣の宇宙そのものでもあることを、忘れないようになさってね。」
ロザリアの言葉に大きく頷いたティムカは、トレーを抱え、すぐに扉の向こうに消えていく。
温室のガラス越しからティムカの姿が見えなくなると、ロザリアは大きくため息をついた。
「ロザリア。」
不意に背中から暖かい腕に包まれて、ロザリアはその腕に縋り付いた。
華やかな香りは、この温室の中のどの華とも違うもの。
意識してはいなかったのに、ティムカと向き合って、いつの間にか張りつめていたいたのだろう。
肩が下りると、気持ちがふっと軽くなっていくのを感じる。
力が抜けたロザリアの体をオリヴィエは優しく抱き寄せた。
「オリヴィエ…。 わたくしは、正しいことをしたのかしら?」
ティムカの気持ちがわかるからこそ、苗を渡してしまった。
それに、あの惑星の混迷に対して、聖地が無力だという後ろめたさもある。
聖地から直接的な支援ができないことは、もちろんティムカも知っているから、責められることはない。
けれど、だからこそティムカからの小さな願いをどうしてもむげには退けられなかった。
「間違ってないよ。 …それだけしかできないのが、辛いくらいさ。」
オリヴィエの腕にギュッと力がこもる。
「わたくしと、ティムカは…似ているところがあるんですの。
幼い時から、周囲の決めたレールの上を歩いていくことを期待されて育ってきて。
今でこそ、自分の決めた道を歩いていると言えますけれど、やっぱり、心のどこかで、残してきた人々を裏切ってしまったんじゃないかと思うことがありますの。」
完璧な女王候補として育てられてきたけれど、もしも女王交代がなければ、カタルヘナの娘として、家のために生きていかなければならない運命だったはずだ。
今でも時々考える。
自分がカタルヘナの跡を継いでいれば、もしかして、と。
「後悔してる?」
オリヴィエの手がロザリアの頬を撫でる。
この手を選んだことに後悔はない。
「いいえ。 でも、もしも、今のわたくしにできることがあれば、きっと・・。」
同じように助けたいと思うだろう。
ティムカにとって、今回のことは贖罪なのだ。
王として生まれ、人々も彼が王として生きることを望んでいたのに、違えてしまった約束。
過ぎてしまった過去を取り戻すことはできないと知りながら、残してきた世界へのうしろめたさに縛られている。
ロザリア自身がずっと背負ってきた後悔と同じ。
「ティムカなら気付くよ。」
背中から伝わるオリヴィエのぬくもりに、ロザリアの心が癒されていく。
補佐官になると伝えた時、両親は心から喜んでくれた。
付き添ってくれたオリヴィエを紹介すると、母は「ステキな人ね。」と言ってくれた。
最後まで微妙な顔をしていた父も「幸せになりなさい。」と送り出してくれた。
「ええ。 わたくしが幸せでいることが、送り出してくれた人々への最高のお返しになると信じていますの。」
ロザリアが悩んで出した答えが唯一の解だとは思っていない。
けれど、ティムカもいつかは自分なりの答えを見つけるはずだ。
それが、多くの傷を作る前であればいいと、願うことしかできないけれど。
ティムカが持ち帰った苗は、すぐに畑へと植えられた。
「ようやく、だな。」
畝に並んだ緑の葉を見たサライがつぶやく。
砂ばかりの荒れ地の中で、すぐに耕作地になりそうな土地はそれほど広くはなかった。
いずれは一帯をすべて開墾する予定ではいるが、今は、その第一歩。
丁寧に石を拾い、山からわざわざ土を運び入れ、ようやくできた畑だ。
「ここから、ですよ。」
ティムカはくすっと笑みをこぼした。
サライは端正な顔の割には感激屋だ。
些細な出来事にも、ものすごく嬉しそうに笑い、時には涙する。
見ず知らずのティムカや行く当てのないメーデルを家に招き入れ、家族同然に接してくれていることでも、彼の人間性がわかる。
今もこの畑の世話を、路地裏の人々が自分の仕事の合間を縫って、自主的にしてくれているのだ。
「収穫までには半年くらいかかりますから。 それまで、なんとか頑張りましょう。」
サライは苗の出所を聞いてこなかった。
『しばらく出かけますね。』とだけ告げて、出ていったティムカを、サライはどう思っているのか。
苗だけでなく、ティムカ自身のことも全く尋ねようとはしないのだ。
時に「よう、龍王。」と冗談っぽく声をかけられることはある。
きっとなにかあるとは感じているだろうが、あえて聞いてこない。
それもサライの器の広さなのだろう。
「ああ。 よし、水でもやるか!」
腕をまくったサライに
「さっきあげたよ。」
メーデルがおしゃまに即答する。
「水を上げ過ぎは根を腐らせますよ。」
近くにいた男も、一緒になってサライをからかうと、そのまた周りにいた人々が、どっと笑い声をあげる。
明るい人々の姿。
聖地から送られるサクリアが、ようやく功を奏してきているのだ。
人々の心に希望が。
大地には大いなる恵みが。
このままいけば、きっとまた以前のような白亜宮の惑星に戻る日が来るだろう。
できることなら、見届けたいけれど、その願いは叶わないかもしれない。
ティムカの目に赤い花の姿がよぎる。
壁の向こうでもらってきた花を挿し木にしてくれたのはメーデルだ。
メーデルの育った場所に、花は全く咲いていなかったらしい。
赤いごつごつした岩地に覆われ、わずかな作物で飢えをしのぐのが精いっぱいだったと、ぽつりと教えてくれた。
「キレイだね! みんなに見せてあげたいよ!」
初めての花に大喜びしたメーデルは、たくさん増えるように、と、畑の片隅に挿したのだ。
順調に花は根づいていて、路地裏の人々の目を楽しませるようになっている。
揺れる花弁に浮かぶ、アンジェリークの笑顔。
ティムカが聖地を出て、あちらの時間でも10日以上が経っていると聞いた。
守護聖の脱走は本来なら厳罰だ。
そもそも脱走するという思想自体がありえない。
ティムカもすぐに追っ手が来ることを覚悟していたのだ。
けれど、今のところ、その気配すらない。
ティムカの居場所について、ロザリアが知っているのなら、アンジェリークも知っているのが当たり前だろう。
神鳥の宇宙でのことには関与しない約束でもあるのか。
それとも。
アンジェリークはすでに、ティムカのことを見離したのか。
「おい、この苗は盗んだのか?」
しわがれた男の声にティムカが振り返ると、そこにはやけに着飾った男が少女に日傘を差させて立っている。
チャラチャラと歩くたびに音を立てるアクセサリーに、ティムカは神鳥の夢の守護聖を思い出した。
彼もこのくらいのアクセサリーを常に纏っていたけれど…この男はまるでアクセサリーに負けている。
アクセサリー自体は高価なものだとわかるだけに、男の貧相な様子が気の毒にすら思えた。
「おい、この苗は盗んだのかと聞いているだろう。」
高圧的な物言いに、サライがグッと拳を握るのが見え、ティムカは先に男の前へ進み出た。
「いいえ。 この苗は私の星から持ってきたものです。 こちらに自生していたものと、近いものを用意しました。」
ロザリアにもらった苗は、この星特有の植物だから、見る者が見れば嘘だとわかる。
けれど、この男に作物の知識があるとは思えない。
ただの先遣隊。 もしくは牽制か。
壁の向こうでも、この畑のことは話題になっているはずだ。
苗をもらいに行った時も、向こうはすでにティムカのことを知っているようだったし、偵察は常にしているのだろう。
労働者を搾取するためには、この畑は彼らにとって邪魔なものだ。
遅かれ早かれ、このような事態が来ることをティムカもサライも予想していた。
「その証拠はあるのか? この苗がお前の星から持ってきたものだという証拠は。」
「証拠と言われれば難しいですが、この苗の入っていたポットが、多少の手掛かりにはなるのでは?」
ティムカは苗の入っていたトレーとポットを男に差し出した。
主星の文字のタグ。
今でこそ取引がないが、あの災害の前は、どこででも見ることができた文字だ。
「ふん。 主星か。 …お前は主星人には見えないな。」
「はい。 数代前に主星に移り住みました。 この星の状況を聞き、少しでも力になりたいと。」
全てが嘘ではない。
胸に手を当てる礼のある態度に、男は満足気な笑みを浮かべて、鷹揚に頷いた。
「そうか。 …だが、ここを勝手に耕作地に変えるのは問題だな。
この土地は誰のモノか知っているのか?」
「俺の土地だ。」
ティムカに抑えられていたサライがぬっと体を前に出した。
自分よりも頭一つ大きなサライの姿に、男は一瞬気圧されたように後ずさる。
「俺が最初にここに目を付けたんだ。 だから俺のもんなんだよ。」
「早い者勝ちだというんですかねえ。」
鼻で笑う男にティムカはまっすぐな瞳を向けた。
「では、あの王宮跡に住み着いてるあなた方はなんなのですか?
あそこは公園だったはずではないのですか? 先にあの土地を私達から奪ったのはあなた方です。
早い者勝ちではないと言うのなら、あなた方が今すぐあの地から立ち去りなさい。」
ティムカの言葉は風に乗り、畑の一番遠くにいた人々の耳にまで届く。
ざわざわと人々が動いた。
今まで誰しも感じていた理不尽を、初めてはっきりと壁の向こうの人間に告げたのだ。
ピリピリした空気が一瞬のうちに周囲を包み込む。
周囲のざわめきに身の危険を感じたのか。
男はわざとらしい咳払いをすると、傘を持った少女を小突くようにティムカたちにくるりと背を向けた。
駆け足で逃げ出さなかっただけ、まだプライドがあったのだろう。
それでも、忌々しげな様子なのは、砂を押しつぶすような足音でわかる。
まだざわめきの残る中。
「ティムカ。 落ち着けよ。」
男の背中を射殺すような目で見ていたティムカの頭に、ポンと大きな手が乗る。
「十分落ち着いています。」
言いながらも、ティムカは自分の拳がぐっと握られたまま、掌に爪が食い込んでいるのを自覚していた。
「なあ、ティムカ。
確かにアイツらのしたことは許せない。 でも、俺はあの場所を取り返そうとは思っていないんだ。」
ティムカは答えなかった。
確かにティムカにとって、あの王宮は特別な場所だ。
けれど、その感情をサライにまで押し付けることはできない。
「あの場所には、かつて王が住んでいた。
その治世の間、この星は豊かで平和だった。
だが、それはあくまで過去のことだ。
…なあ、ティムカ、王宮って、なんだと思う?」
「なんだ、ですか・・・?」
サライの質問の意図がわからずに、ティムカはただ同じ言葉を繰り返す。
サライはわずかにほほ笑んで、畑の方へと視線を向けた。
「王のいるところが王宮なんだ。 …王宮に住んでいる人間が王なんじゃない。
では、王は誰が王にするのか。 それはそこに住む人々だ。」
そこでサライは言葉を切り、再び、ティムカの頭に掌を置いた。
大きな暖かな手。
この感覚を、ティムカは遠い昔に感じたことがある。
「王は人々の中にいる。
だとすれば、この場所が、こうして人々が力を合わせて作り上げる、この場所が。
新しい王宮になると、そう思わないか?」
『王は人々と共に在る』
ティムカの胸に幼いころに聞いた言葉がよみがえってくる。
まだ、聖地も守護聖も知らなかったころ、この星の王になるべくして育てられていたティムカに父が言った。
同じ言葉、同じ手の暖かさ。
「父様…。」
胸にこみ上げる熱いものを言葉にして逃がした。
「…サライ、あなたは私の父に似ています。」
「父? おいおい、俺はお前みたいな大きな子供がいるような年じゃないぜ。
まだ花の30代だ!」
サライは大きな声をあげると、頭の上の手でくしゃりとティムカの髪をまとめる。
ティムカはつい泣いてしまいそうになるのを、必死でこらえようと、うつむいた。
「すみません。 でも、本当に、本当に、似ているんです…。」
体こそ丈夫ではなかったけれど、立派な王だった父。
今のこの星を見たら、彼はどうするだろうか。
ティムカのしたことを叱るだろうか。
・・・褒めてくれるだろうか。
「尊敬できる父親がいるっていうのはいいな。」
穏やかな中に一抹の寂しさを感じさせる声。
見上げたサライの黒い瞳はティムカを見ながらも、どこか遠くを見ているようで。
「サライのご家族は…?」
「ああ、言ってなかったか? …あの噴火のときに皆、なくなっちまった。
親も、妻も、住んでた家も、全部だ。 今は気楽な1人モンさ。 っと、お前たちがいるか。」
明るく笑えるまで、どれくらいの涙を流したのか。
大切なものを目の前で失くす、という哀しみをティムカはまだ実感したことがないのだから、想像するしかできない。
「また、そんな顔するなよ、ティムカ。
ここにいる連中は、みんな、そんな思いを抱えてる。
大事なものを失くしたり、手放したり。
それでも生きてくんだ。 …すごいことだろう?」
人は弱いけれど、どれほどにでも強くなれる。
ティムカとサライは畑で笑い合う人々の姿をしばらく黙って見つめていた。