永遠の『故郷』

Illustration by あおい楚春様

6.


目を覚ましたティムカの目に最初に映ったのは、真っ白な天井だった。
石造りのすすけたグレイではない、白い、清潔な天井。
「ここは…。」
馥郁の花の香りと、頬に触れる清浄な空気。
ティムカは一瞬のうちに、この場所が聖地なのだと理解した。

「あ。目が覚めたんだね! よかった!」
朦朧とする意識の中で、泣きそうなメルの声と、視界に入るセイランの横顔。
見慣れた人々の顔がやけに懐かしく思えて、ティムカは小さく息を吐いた。
次いで息を吸おうとすると、とたんに腹部にひきつれたような痛みを感じる。
その痛みのおかげで、ティムカはようやく、今までのことを思い出すことができた。
「私は…。」
それきり言葉が出ない。

「ずいぶんとよく寝ていたね。 絵を仕上げた後の僕だって、そんなには寝ていられないよ。
 ティムカがそんなに寝坊だとは知らなかったな。」
憎まれ口すら暖かく思うのは、ティムカの気のせいではないだろう。
表情こそいつものように皮肉めいているが、セイランにしては珍しく、纏う空気が安堵に満ちている。
そして、感極まって泣き出したメルは、ティムアの傷を気遣うように、ベッドの側に膝をつき、腕に縋り付いていた。

「よかったよ、よかったよ。ティムカ。
 ものすごく心配したんだからね。」
「すみません・・・。」
皆、知っているのだと思った。
ティムカの我儘を。
そして、許してくれているのだ、と。

ティムカはメルの泣き声を聞きながら、そっと目を伏せた。
この部屋のどこにもアンジェリークの姿はない。
気配すらも感じない。
軽蔑されて当然のことをしたのだと思いながら、ティムカの心は重かった。


「目が覚めたんだネ! …ちょっと、メルはあっち行ってて。
 ワタシ、ティムカとプライベートな話があるから。」
プライベート、という部分に、妙に力がこもっている。
ずかずかと部屋に入り込んだレイチェルは、メルにそう言いつけると、セイランと一緒にさっさと部屋から追い出した。
静まり返った部屋の中で、レイチェルは背を向けたまま、じっと扉を見つめている。
ティムカはまだ十分に力の入らない体をなんとか起こし、ヘッドボードに靠れた。
寝たままで出来るような話ではない。
このまま牢に繋がれても、本来は何も言えない立場なのだ。

「レイチェル…。 すみませんでした…。」
すると突然、レイチェルはくるりと振り返り、つかつかと歩み寄ると、ティムカの頬を力いっぱい打った。
しんとした室内に響く乾いた音。
ティムカはその痛みに、声を出さなかった。
叩いたほうのレイチェルの掌も赤いのだ。 きっと同じ痛みを彼女も感じているはず。
続けて手を振り上げたレイチェルに、ティムカは目を閉じた。

「…怪我してるから、これで許してあげる。
 本当ならあと30発くらい、グーで殴らないと気が済まないところだけどネ。」
大きなため息とともに、レイチェルは振り上げた手を、ゆっくりと下ろした。
気が収まらないのは本当だが、レイチェルが殴る立場ではないこともよくわかっているのだ。

「怪我自体はだいぶ回復してるはずだヨ。
 意識が戻らないのが心配だったケド、もう大丈夫みたいだし。」
「私は何日、眠っていたんですか…?」
「一週間。 みんなすごく心配してたんだから、あとでちゃんと謝っておきなヨ。
 神鳥の皆様も、何回もお見舞に来てくれただから。」

一週間。
この地での一週間は、向こうでは数か月以上になるはずだ。
あの後、白亜宮の惑星はどうなったのだろう。
無用な争いが起きてはいないだろうか。
無事に収穫は過ぎただろうか。
考えることは山ほどあるのに、それ以上に気になることがある。
今、彼女は、
なぜ、彼女は。

「もう少し、ゆっくり寝てて。」
立ち去ろうとするレイチェルを、ティムカは思わず呼び止めていた。
聞くとすれば、今しかない。
「陛下は…。 いえ、陛下に謝罪を…させてください。」
ぴくり、とレイチェルの肩が揺れる。

良くも悪くもレイチェルはとても強い意志を持った少女だ。
まっすぐな分だけ、はっきりとした物言いをするし、それが正しいと思えば、決して曲げることがない。
それは彼女の美徳の一つでもある。
そんなレイチェルが。
ティムカの目の前の彼女は、今、明らかに悩んだ顔をしていた。

「陛下は、どうしていらっしゃいますか?」
ティムカは言葉を重ねた。
なによりも会いたい、のだ。
かつてのような優しい瞳で見られなくても構わない。
ただ、彼女に会って。


しばらくの沈黙の後、レイチェルはぐっと唾を飲み、ティムカを見つめた。
まっすぐな菫色の瞳は、ティムカを試しているかのように輝いている。
「陛下は、…アンジェはここへは来られないヨ。 
 ティムカが歩けるなら、連れて行ってあげるけど。」
「行きます。」
動くと傷口が引きつるように痛む。
けれど、なぜか今行かなければいけない気がした。

ティムカが寝かされていた宮殿の一室から、長い廊下を歩き、奥へと進む。
ティムカにとっては何度も通いなれた道筋だ。
この廊下の先に、女王の居室がある。
最後の大きな扉のカギを開けたレイチェルの後につき、ティムカはアンジェリークの部屋の前に立った。
前回ここを訪れたのは、白亜宮の惑星に赴く前の夜。
今思えば、あの夜の彼女はいつもよりもずっと儚げに見えた。
きっと苦しんでいたのだろうと思うと、傷口よりももっと心の奥が痛い。

「アンジェ。」
ティムカを繋ぎの間に残し、先にレイチェルが奥へと入っていった。
この向こうは寝室しかないはず。
幾度となく通ったのだから、間違えるはずもない。
高い填め殺しの窓から、明るい光が差し込んでいる。
常春の聖地では、白亜宮の惑星のように強烈な光は感じない。
穏やかな日差しは包まれるようなぬくもりを運んでくるだけだ。
まだこんなにも日の高いうちだというのに、アンジェリークは休んでいるのだろうか。
不思議に思いながら立っていると、足音を忍ばせたレイチェルが戻ってきた。

「今、眠ってるから。 そばで待っていてあげてヨ。」
手招きされて寝室に足を踏み入れたティムカは、薄暗い部屋に瞬きした。
半分ほどカーテンの引かれた室内は空気までがひんやりしているような気がする。
大きなベッドの真ん中に、眠っているアンジェリークを認め、ティムカはベッドに駆け寄った。

「アンジェリーク! 」
薄暗いせいではなく、アンジェリークの顔は文字どおり青ざめていた。
真っ白な肌に薄い紫色の唇。
メイクをしていないせいもあるだろうが、それにしても今にも消えてしまいそうだ。
こころなしか頬もコケ、やつれているようにも見える。
思わずティムカはレイチェルを振り返った。


「アナタのせいだよ。 ティムカ。」
レイチェルの口調はあくまで冷静で、そのぶんだけ真実味がある。
ティムカは全身に冷や水を浴びせられたように硬直した。

「考えたことがある?
 自分がいない間、この聖獣の宇宙がどうなるのか、って。
 そりゃあ、ネ。
 向こうの惑星での時間に比べたら、こっちでの期間なんて短いヨ?
 でも、なんにもしなくていいほどじゃないし、水のサクリアが必要になった時もあったんだ。
 そんな時、アンジェはアナタの代わりをしてた。
 女王は全部のサクリアを操れるけど、すごく力を消耗するんだヨ。
 それに、アナタがけがをして意識がなかった時も、宇宙のバランスは無茶苦茶になった。
 それも全部アンジェが背負ったんだよ!」

考えないようにしていたのかもしれない。
自分など必要がないと、思い込むことで目を逸らしていた気もする。
それに、もし、本当にティムカの力が必要になれば、何らかのコンタクトがあるだろうと、タカをくくっていたのだ。
ティムカが白亜宮の惑星に来ていることは、ロザリアさえも知っていたから。


「ティムカを呼んでこようよ。 すぐに済むハナシでしょ?
 サクリアをちょっと解放してもらって、また戻ってもらえばいいじゃない。」
レイチェルが何度言ってもアンジェリークは聞き入れてくれなかった。
アンジェリークは物腰こそ柔らかく、いつもにこにこしていて優しいのに、こうとなったら梃子でも動かないところがある。
それだけ意志が強いという、女王の資質でもあるのだろうけれど。
「アナタの身体が持たないヨ。 昨日だって…。」
執務が終わった途端にベッドに倒れ込んだアンジェリーク。
見ていられないのは他の守護聖達も同じで、執務中も女王の間に入れ代わり立ち代わり、様子を伺いに来ていた。

「ダメよ。 絶対にティムカには知らせないで。
 ここでの数時間が向こうでは数日にもなってしまうもの。
 ティムカの気が済むまで、あの星に居させてあげたいの。
 私なら、大丈夫だから。」
青白い顔でそう微笑んだアンジェリークに、レイチェルは何もできなかった。
アンジェリークのティムカに対する深い想いを感じ取ってしまったから。

「ごめんね。 レイチェル。 私、わがままだよね…。」
「ホントだよ! …でもね、ワタシ、そんなアンジェだから補佐官になってサポートしたいと思ったんだ。
 大船に乗った気でいて!」
大きな口を叩いたのに、結局、アンジェリークに無理をさせて。
自分のふがいなさが本当は一番腹立たしい。
レイチェルはグッと唇をかみしめた。


ぎゅっとティムカが手を握ると、アンジェリークの目がうっすらと開く。
「あ、ティムカ…?」
緑の瞳に映し出された自分の姿に、ティムカは大きく頷いた。
「私です。 アンジェリーク…。」
背後で扉の閉まる音が聞こえる。
二人きりにしてくれたレイチェルの配慮が素直にありがたい。

「傷は大丈夫なの…?」
「ええ。 少し痛みますけれど、もう大丈夫です。」
「白亜宮の惑星は…?」
「はい。 そちらも大丈夫です。
 水の供給と作物の収穫ができました。 これで民の暮らしも安定するはずです。」
「そう。 よかった・・・。 心配していたの。 」
「そんな! 貴女の方がよほど心配です。 なぜ、こんな無茶なことを…。」
彼女を責める資格などないのに、つい声に怒りが滲んでしまう。
そんなティムカにアンジェリークは弱弱しくほほ笑んだ。


あおい楚春様より


「ごめんなさい。 ティムカ。」
「いいえ。謝るのは私の方です。
 勝手なことばかりしてしまって…。 貴女を苦しめてしまいました。」

グッと彼女の手を両手で握り、心からの懺悔をささげる。
平和で当たり前の聖地の日々の中で、忘れてしまっていた。
アンジェリークがそばにいて、笑ってくれている事の幸せ。
百万の民の王であることよりも、ただ一人、アンジェリークを守り、支え、共に生きていきたいと、自らが願ったからこそ。
今、ここで守護聖として生きていたのではなかったのか。

「ごめんなさい。
 もしも、私が女王じゃなかったら、ティムカと一緒に白亜宮の惑星に行って、あなたの大切なものを守る手助けができたのに。
 あなたのそばで、あなたを支えて。
 あなたと同じものを見て、一緒に喜んで。
 私が女王だから。
 あなたのためになにもできないの。
 だから・・・ごめんなさい・・・。 女王でごめんなさい…。」

アンジェリークの瞳から、すっと一筋の涙がこぼれる。
ティムカが一人、白亜宮の惑星に赴いてから、ずっと考えていた。
もしもただのアンジェリークだったら、彼のそばで、彼と一緒に星の復興を手助けして。
同じ苦しみも喜びも、分かち合うことができるだろう。
けれど、女王という立場は、アンジェリークをティムカだけの存在にはしてくれない。
聖獣の宇宙の未来。そこに住む人々。
そのすべてのために、女王であり続けなければならないのだ。
だからせめて、遠くからでも、ティムカの役に立ちたかった。
彼が心置きなく、あの星のために尽くせるように。
それだけがアンジェリークにできる、唯一のことだと思ったから。

「私は、全然大丈夫よ。 ちょっと寝て、美味しいケーキを食べたらすぐに元気になるから。 ね。」
アンジェリークは、そっと目を閉じた。
「おやすみのキスをして?」
せがむように唇をつぼめて、笑みを浮かべる。
ティムカは、その唇に触れるだけのキスを落とした。


すぐに眠りに落ちたアンジェリークから手を離し、ティムカは部屋を出た。
繋ぎの間で待っていたレイチェルがティムカをじっと見つめてくる。
ティムカはレイチェルに深々と頭を下げ、胸に手を当てた。

「アンジェリークは本当に素晴らしい女王です。
 私は…自分が恥ずかしい。」
守護聖として、自分の過去は断ち切ってきたはずだった。
それなのに、立場を忘れ、私情に走った自分。
そして、それを諌めるでもなく、見守っていてくれたアンジェリーク。
自ら手を下すことだけが、人々を助けるとは限らない。
女王候補のころ、アンジェリークに語った『王の資質』を、今度は彼女に教えられた。

「レイチェル。
 今度はきちんと許可を頂けませんか。
 私を白亜宮の惑星へ行かせてください。」
レイチェルは無言で腕を組んだままだ。

「お願いします。
 きっと怪我を抱えたまま去った私のことを気にかけている者がいます。
 それに、彼らにあの星を託しておきたいのです。」
「最後、なの…?」
レイチェルの瞳がきらりとティムカを見据えた。
「最後にする気がある? もう…。 」
「はい。」

アンジェリークの声を聴いた時。
いや、たぶん、アンジェリークの姿を見た時から、ティムカの中で答えは出ていた。
ティムカがずっとそばにいたいと願うのは、もう白亜宮の惑星ではない。
誰かがティムカを必要としていたとしても。
ティムカ自身が誰よりもアンジェリークを必要としているのだ。
それ以上の理由はない。

「アンジェリークが目覚めるまでに戻ります。
 …彼女の目が覚めた時、そばにいたいんです。」
「わかったヨ。 …向こうの聖地に話をつけておくから、行ってきて。
 遅刻したら、許さないからネ!」


レイチェルは再び深々と礼をし、出ていくティムカの背中を見送った。
レイチェルには故郷と呼べる場所はないに等しい。
幼いころから研究で宇宙を飛び回っていたし、両親との平凡な思い出もほとんどない。
だからティムカの故郷への想いを、恐らくは心から理解できていないし、今も正直に言えば許せないと思う。
それでも、アンジェリークがあんなに願ったことだから。

「あ~あ、今日はエルンストとでも飲もうかな~。」
アンジェリークとティムカの二人を見ていたら、なぜか一人が寂しくなった。
会いたい、と素直に思ってしまう。
ロザリアとコンタクトを取った後、レイチェルはエルンストの端末に、メールを送った。

『今日、飲まない?』
簡潔なのはレイチェルの性分。
返ってきた返事も
『わかりました。 執務の後で寄ります。』
同じくらい簡潔で。
それでも嬉しくて、レイチェルは笑みを浮かべて、端末を閉じたのだった。


Page Top