10.
背中でドアの閉まる音。
無意識のうちに外に出ていたことにようやく気が付いて、オリヴィエは苦笑した。
春の暖かい風で髪が顔に張り付いて、気分が悪い。
けれど、それが風のせいだけではなくて、いつの間にか出ていた冷や汗のせいなのだとわかると、さらに笑いがこぼれてくる。
情けなくて、笑うしかない。
思えば今日は最初から、なにかがおかしかった。
パーティの開始少し前、真っ赤なドレスで会場に現れたロザリアに、オリヴィエは息を飲んだ。
いつもの補佐官のドレスとはまるで違う赤。
彼女のイメージといえばその髪と瞳に合わせたブルーで、補佐官のドレスはもちろん、遠くは女王候補時代のドレスもブルーばかりだった。
純粋でキレイだけれど、どこか近寄りがたい潔癖の色。
それがどうしたことだろう。
色の違いだけではない。
大胆なミニ丈は、キレイな脚のラインを惜しげもなく晒しているし、キャミソールタイプの胸元は豊かなバストをこれでもかと強調している。
今まで見たこともないような、セクシーな姿。
もちろん驚いたのはオリヴィエだけではなくて、オスカーも盛んにその姿を褒めていた。
「アレがロザリアだって? まるで、さなぎが蝶になったようじゃないか。
お堅いばかりのお嬢ちゃんだと思っていたが、男でも知ったのか?」
ぴゅう、っと口笛でも吹きそうに、オスカーはロザリアに熱心な視線を送っている。
彼女は全く気が付いていないが…オリヴィエは内心面白くなかった。
本来なら、喜ぶべきことなのだろう。
オスカーのいうとおり、彼女は見違えるように綺麗になった。
清楚な空気はそのままに、艶やかさがまして、いやでも男を惹き寄つける。
それがオリヴィエの力によるものだとしたら、自慢してもいいくらいだ。
けれど。
他の男の下卑た視線が彼女に向けられることに、怒りを感じてしまう。
いっそ、ここから連れ出して、自分の目の届くところだけに閉じ込めてしまいたい、なんていう、危ない考えすら浮かんでくるほどの。
完全な独占欲。
おまけに忙しく立ち働いているロザリアには近寄る隙もなく、なぜかおかしな女官たちばかりが近づいてくる。
バカらしくなって、木立の中へ逃げ込むと、まさかそこにまで、女官たちが付いてきて。
長々とくだらない話に付き合う羽目になった。
正直、ロザリアを知る前なら、それなりに楽しく話もできていたはずだ。
女のような格好をしてはいても、オリヴィエの性癖はいたってノーマルで、綺麗な女の子は好きだ。
オスカーともよく遊んだし、女慣れしている、と言ってもいいだろう。
けれど、もう適度に遊ぼう、という気持ちは微塵も持てない。
めんどくさいし、なによりも、ロザリア以外は欲しくない。
「ホラ、オスカーが暇してるよ。 あんたたちも行ってきたら?」
ちょうどよく、オスカーの周りに人がいなくなったのを見計らって、なんとか女官たちを追い払うと、もうパーティに戻る気はしなくなっていた。
適当に木立の中で時間をつぶして、そのまま誰にも見つからないように、裏庭から聖殿に戻ろうとした、その時。
バックヤードの扉の近くに、ロザリアとルヴァがいるのを見つけた。
「ええ。わかりましたわ。 来週ですわね。」
「ああ~、その、私の家で、大丈夫でしょうかねえ?」
「その日は屋敷の者にはお暇を出してくださいませね。 見つかったら困りますもの。」
「はあ。」
ひそひそと交わされる会話。
ロザリアはとてもリラックスした表情で、楽しそうに笑っている。
対するルヴァも少し恥ずかしそうで、でも、とてもうれしそうに笑っている。
ロザリアの胸がルヴァの腕に触れそうなほど近い距離。
そして、使用人にはわざわざ暇を出して、二人きりで、ルヴァの私邸で会う約束を交わしているのだ。
オリヴィエの屋敷には一度も訪れようとしないのに。
ロザリアとルヴァが親しいのは知っている。
彼女とのお茶の時間でも、ルヴァの話は良く出てくるし、逆にオリヴィエがルヴァと話をしてもロザリアの話題が出ることもある。
女王候補時代からの師弟関係、と、思っていたけれど。
ロザリアが手にしていた手紙を、ルヴァに渡すと、手紙を受け取ったルヴァはにこにこと、それを懐にしまっている。
可愛らしいピンクの封筒は、ただの業務連絡には見えない。
クスクスと笑うロザリアに、頭を掻いて、照れるルヴァ。
二人の間に特別な絆があるようで、とにかく気分が悪かった。
一足先に会場に戻ったオリヴィエの元に、ルヴァが近づいてくる。
さっきのことを聞きただしたい衝動に駆られたけれど、オリヴィエはじっと我慢して、当たり障りのない会話を続けた。
ふと、
「今日のロザリアは綺麗ですねぇ。」
ルヴァがつぶやく。
その視線の先にはロザリアと女王が楽しそうに笑い合っている姿があった。
「へえ、あんたがそういうことを言うなんて、珍しいんじゃない?」と、オリヴィエは混ぜ返した。
冗談で躱すのは慣れている。
イライラを悟られないように、グラスを傾けていると、ルヴァはさらにのんびりとしたいつもの調子で続けた。
「恋をしているからでしょうね~。 本当に女性というのは、突然変わりますね。
オリヴィエもそう思いませんか?」
「ロザリアが恋してるって?」
わざと大げさに言ってみると、
「ええ。 きっと、そうだと思いますよ~。」
なんとなくルヴァの口調に含みがあるような気がした。
まさか、彼女を綺麗にしているのはルヴァ自身だとでも言いたいのだろうか。
ルヴァはロザリアをじっと見ていたかと思うと、急にすたすたと彼女の方へと歩き出した。
もうパーティもお開きになる時間だ。
オリヴィエも最後にロザリアと話しておこうと、ルヴァに付いていった。
「似合ってるね。 この庭の中でも一番キレイだよ。」
オリヴィエが言うと、ロザリアははにかみながらも、とてもうれしそうに笑ってくれた。
もっと他の言葉もいろいろ考えていたのに、ロザリアの隣にいたアンジェリークが
「わたしはぁ?」なんて言い返してきたので、冗談みたいになってしまったけれど。
本当にロザリアは誰よりも綺麗だった。
片付けのあるロザリアを残し、オリヴィエは先に自宅へ戻ると、着替えを済ませた。
きっと彼女も今日は疲れているだろうから、ゆっくり休ませてあげたい気もする。
けれど、どうしても会いたかったのだ。
ロザリアが好きなのは、ルヴァではなくて、オリヴィエなのだと確信したい。
その気持ちで、つい彼女の家まで押しかけて。
手っ取り早く答えを知りたくて、彼女を求めた。
拒まれても、まだどこかで安心してもいたのだろう。
汗をかいているから、と、困った顔をしているロザリアは、初心で可愛いと思えた。
オリヴィエはそんなこと少しも気にしないのに、必死で拒む姿も愛おしくて。
不満も少しはあったけれど、一緒にシャワーを浴びる妄想をしたりもしていた。
忙しさを乗り越えた今日くらいは、泊まってもいいだろうし、そろそろ皆にバレてもいい。
おかしな虫が寄ってくる前に、彼女はオリヴィエのものだと宣言したい。
女官との話を聞かれていたことは驚いたけれど、それに対する彼女の反応は妬いているとしか思えなくて。
贔屓目でもなく、自惚れでもなく、焼きもちを焼くというのは、オリヴィエを好きだからだ。
何でもない相手なら、妬いたりはしないはず。
ロザリアの可愛らしさに、にやけそうになりながらも、オリヴィエの脳裏に、ルヴァとの密会が思い浮かんだ。
オリヴィエと女官程度で妬くなら、あれはもっとひどい。
ちょっと問いただしてやろうと思ったら、つい意地の悪い口調になってしまった。
「それって、焼きもち?」
その程度で妬くなんて、ズルいんじゃない?と、言外に含ませた。
彼女が『違いますわ!』と怒り出しても面白い。
『そうですわ』と、泣きそうになったら…それも可愛い。
いずれにしても、簡単に笑い飛ばせる、些細な戯れのはず、だった。
ところが、彼女は不自然なほど、黙り込んでいる。
不思議に思った瞬間。
「わたくし達、そんな関係じゃありませんでしょう?」
突然、投げつけられた言葉に我を失った。
そんな関係じゃなければ、どんな関係だというのか。
今まで積み重ねてきたはずの時間が、全て何もなかったというのか。
ロザリアはぎゅっとこぶしを握ったまま、オリヴィエを見ようともしない。
震える体はどんな言葉も受け付けないような硬いオーラに覆われている。
長いため息が零れたオリヴィエの目に、一冊の本が映った。
分厚い、いかにも真面目そうな本。
いつか見たのと同じしおりが丁寧に挟み込まれていて、大切に扱っているのがよくわかる。
ルヴァの本だ、と思った瞬間、オリヴィエは席を立っていた。
今日の密会、二人きりの約束、渡していた手紙。
きっとロザリアはルヴァが好きで、でもなかなか上手く行かなかったのだろう。
ロザリアが不器用なタイプだというのはよくわかっているし、ルヴァもあの通りだ。
長い片想いに疲れていたのかもしれない。
そんな時にオリヴィエと出会って、たまたま付きあうような形になって。
でも…きっとここ最近でルヴァと上手くいったのだ。
パーティの準備で忙しくて会えないというのは口実で、実はルヴァと親しくなっていたのかもしれない。
だからもう、オリヴィエは必要なくなり、そんな関係などなかったことにしたくなったのだろう。
…そう考えれば、全てのつじつまがあう。
俯いているロザリアを責めることもできず、オリヴィエは黙って消えることを選んだ。
「眩しいねえ。」
今日に限って、嫌になるほどの満月がオリヴィエの上から白い光を注ぐ。
暗闇になら紛れてしまうこともできるのに、こんなに明るく照らされては、何一つ隠すこともできない。
ロザリアが好きだ。
恥ずかしそうに、オリヴィエを受け入れたロザリア。
多少強引だったけれど、彼女は嫌がってはいなかったと思う。
あのキスもあの時も。
慰めてくれそうな相手なら、誰でもよかったのか、なんて思いたくない。
屋敷に戻ると、既に使用人たちは休んでいて、廊下の明かりだけがぼんやりと付いていた。
時折、ふらりと出かけては、朝まで戻らないことも多いオリヴィエを待たなくていい、と言ってある。
無駄に広い家にはいつまでも慣れないし、まるで間借りしてるようなよそよそしさを感じる。
もしも彼女が許してくれるなら、オリヴィエはロザリアの家で暮らしたいと思っていた。
料理も洗濯も掃除も二人で分担して、二人きりで。
シャワーを浴びて、頭を冷やしたつもりでも、心の中はロザリアのことでいっぱいだった。
彼女と過ごした時間が次々に頭に浮かんできて、到底眠ることなどできない。
失恋だって初めてじゃない。
一緒に住んでいた女の子に、全部の荷物とお金を持って逃げられたこともある。
あの時も凹んで…でも悲しさよりも悔しさの方が大きかった。
こんなに辛くて、苦しい気持ちは初めて。
日の曜日、部屋に閉じこもりっきりのオリヴィエに、何度か執事が食事の知らせに来た。
「いいから。 今日は放っておいてよ。」
気まぐれなオリヴィエに慣れている執事は、それ以上は何も聞いてこなかった。
それでも、がさがさと使用人たちが働く物音は耳に入ってくる。
一人になりたくてもなれない立場が、窮屈で忌々しい。
夕方まで部屋でネイルの手入れをしたり、バッグや靴を磨いたり、そんなどうでもイイことで気を紛らわせていた。
けれど、傾きかけたオレンジの日を眺めていたら、ふと、ロザリアは今頃なにをしているだろう、と思った。
あの屋敷にたった一人で、お茶を飲んで、ご飯の支度をしているのだろうか。
少し前、突然訪ねたオリヴィエを輝くような笑顔で出迎えてくれたことを思いだした。
素直に喜ぶ顔、恥ずかしそうにほほ笑む顔、どの笑顔も本当にキレイで。
それはきっと心からの笑顔だったからに違いない。
昨夜、あんな別れ方をしたけれど、考えれば考えるほど、ロザリアはオリヴィエをルヴァの代わりにできるような、そんな性格じゃない。
好きでもない男に身を任せるほど、軽い女の子じゃない。
『そんな関係』という言葉だって、ロザリアは別の意味で言ったのかもしれない。
そういえば、オリヴィエは何一つ、彼女の気持ちを聞いていない。
いてもたってもいられなくなったオリヴィエは、着替えもそこそこに屋敷を飛び出していた。
急ぎ足で10分ほどの距離。
ロザリアの屋敷が見えてきて、オリヴィエは足を緩めた。
彼女に会ったら、まず何から話せばいいだろうか。
とりあえず抱きしめて、彼女の気持ちをきちんと聞いて。
それとも逆の方がイイだろうか。
まずは彼女の気持ちを聞いて、それから抱きしめる方が、彼女の重荷にならないかもしれない。
彼女が遊びだったと言ったなら、もう、それ以上、なにもする必要はないのだから。
勝手に頭を抱えていたオリヴィエの身体が、突然凍り付いたように動かなくなった。
ロザリアの家のすぐ前に立つ、見慣れた姿。
あんな恰好をしているのは、この聖地でもたった一人しかいない。
この間、オリヴィエが買ってきたのと同じケーキショップの箱を大事そうに手にぶら下げて、門をくぐっていくのはルヴァだ。
ドアの前に立ったルヴァは、少しためらうようにきょろきょろとあたりを見回した後、ベルを押している。
すぐに開いたドア。
けれど、ちょうど扉の陰になって、オリヴィエから中の様子はうかがえない。
一言二言、言葉を交わしたルヴァは照れたような顔をしつつ、すんなりと家の中へと吸い込まれていった。
バタン、と、ドアの閉まる音がして、あとは、まるで、何事もなかったような景色が広がっている。
ふとオリヴィエが視線を移せば、リビングにはすでにカーテンが降りていて、中で照明が灯っているのが見えた。
きっと今頃はロザリアがお茶を淹れにキッチンに立って、ルヴァがケーキの箱を開けているのだろう。
いつかの自分たちのように。
しばらく、明かりを眺めていたオリヴィエは、そのままくるりと踵を返した。
招かれた客がいるのなら、招かれざる客が入り込む余地はない。
それに今見た光景がなによりもの証拠だ。
薄闇が広がる聖地は、春の匂いが漂っている。
オリヴィエはゆっくりと歩きながら、大きく息を吸い込んだ。
いつの間にか変わっていた季節を改めて感じるように、大きく。…大きく。