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12.


育成と勉強の繰り返しが、女王候補の日常だ。
オリヴィエと付き合い始める前は、それがロザリアの全ての世界だった。
そして、今また、それだけがロザリアの支えになっている。

「ロザリア。一緒にランチ食べない?」
悪夢のように始まった今週も、あっという間に金の曜日になっていた。
オリヴィエとの出来事は誰にも話していないが、噂はすでに聖殿中を駆け回っている。
あれほど一緒にいた二人が、目も合わせようとしないのだから当たり前だ。
アンジェリークが何度も部屋に来たり、こうして声をかけてくれていたが、どうしても受け入れる気になれなかった。
自分自身でもいまだに信じられない。
オリヴィエのあの行動が、全て嘘だっただなんて。
けれど、アンジェリークには話さないわけにはいかないだろう。
「ええ。…あちらへ行きましょうか。」
カフェでテイクアウトしたランチボックスを手に、二人は人目を避け、庭園の東屋でランチをとることにした。

「オリヴィエ様とのことでしょう?」
ランチボックスのふたを開け、アンジェリークに聞かれる前にロザリアは話し出した。
気を使われるのは苦手だし、気まずい時間も耐えられない。
「そうだけど…。ケンカでもしたの?」
アンジェリークは本当に心配してくれているのだろう。
スプーンを持とうともせずに、ロザリアをじっと見つめている。
「ケンカなら、わたし、なんとか仲直りしてもらえるように、オリヴィエ様に言ってみるから!」

ロザリアは薄く笑みを浮かべると、小さく首を横に振った。
「違いますの。ケンカではなくて、わたくし達、お別れしましたの。 これからはただの女王候補と守護聖ですわ。」
「え…。そんな…。」
茫然と緑の瞳を揺らしているアンジェリークに、ロザリアはにっこりとほほ笑んだ。
微笑んだ、つもりだった。
「オリヴィエ様に、はっきり言われましたの。 わたくしのことは…。もう…。」
冷静だと思っていたのに、景色が滲んでくる。
ぽたり、と、ランチボックスの中に雫が零れて、ロザリアは両手で顔を覆った。
手の中から落ちたスプーンが、地面の葉をかさりと揺らしている。
アンジェリークの前だからだろうか。
もう出ないと思っていた涙が次々にあふれ出した。

「ロザリア。ごめんね。辛いこと、聞いちゃった…。」
勢いよく立ちあがったアンジェリークの膝からランチボックスが落ちて、中身が散らばった。
普段なら大騒ぎのはずの出来事も、今はどちらも気に留めない。
ロザリアの頭を胸に引き寄せたアンジェリークは、青紫の巻き毛の流れる背中を一生懸命に撫でた。
ロザリアがこんなに感情をあらわにして泣くのは初めてだ。
育成の方法をジュリアスにとがめられた時も、悔し涙は流していたが、すぐに立ち直っていた。
けれど、今日の涙は。
かける言葉が見つからなくて、アンジェリークはただ、背中を撫で続けた。


「わたくし、女王になりますわ。」
吐き出してしまって楽になったのか、しゃくりあげながらも、いつものロザリアの言葉に戻っている。
「もともとその予定だったんですもの。…今日はこんなだけど、明日になったら、もう今までのわたくしとは違うんですからね!
 あんたなんか足元にも及ばないほど、育成して、建物どんどん建てて、あっという間に女王になってみせますわ!」
「うん。ロザリアならなれるよ。」
まだアンジェリークはロザリアを抱きしめていた。
強がっていても、ロザリアの肩が震えているから。

「ばかね、あんた、ライバルなのよ?」
「わたしだって、諦めてないよ。負けるつもりないし、がんばるよ。」
「ルヴァ様がバックにいらっしゃるなら、強敵になるかもしれないわね。」
アンジェリークの腕を抜けだしたロザリアの顔は、もう泣いていなかった。
「えへ。がんばるね。」
「せいぜいがんばりなさい。…あんたが泣いても、わたくしは慰めたりしないわよ。
 ルヴァ様に呆れられないように、ちゃんと育成しなさい。」
別れたりしないで、と、言ってくれているのだと、アンジェリークにはすぐわかった。
目を合わせて、笑う。

「あ、ご飯…。」
膝に乗っていたはずのランチボックスが見事に足元に転がっていた。
飛び出した中身は、当然のように砂まみれで。
「これでは食べられませんわね。」
仕方なく、落ちたご飯を拾い集め、袋の中に片づけた。
匂いだけは美味しそうで、空腹の身には辛い。
「今日はお昼抜きかな~。」
「しかたありませんわ。」
しょんぼりと肩を並べて聖殿に戻ると、ルヴァがアンジェリークを探して待っていた。

「行きなさいよ。…お茶菓子くらいもらえるかもしれませんわ。」
ロザリアは並んで歩いていたアンジェリークの背中を、ドンと力いっぱい押した。
そうでもしなければ、きっと遠慮して、行かないだろう。
じっと見つめる緑の瞳に、ロザリアは腰に手を当てて、ふんと鼻を鳴らした。
よろよろとよろめきながら、それでもルヴァのところへ駆け寄るアンジェリーク。
愛おしさがあふれるようにアンジェリークを見つめるルヴァ。
ついこの間まで、自分にもあんなふうに優しい瞳が向けられていた。
ロザリアは、恋人達に背を向けると、まだ痛む胸を抱え、午後の予定へ取り掛かったのだった。



しばらくの間、ロザリアにとって辛い日々が続いた。
どこにいても、誰かに噂をされているような気がする。
ロザリアの耳に直接入ることはなかったが、マルセルやランディのあからさまな気遣いが辛いほどで。
育成以外はなるべく誰にも会わないように、ほとんどを自室で過ごしていた。
特に欠かさずあの場所に通っていた日の曜日は、やることがない。
一人でいることも苦痛で、そっけないゼフェルや、噂を知らないジュリアスを誘い、なんとか一日を過ごしていた。
おかげで二人との親密度が上がり、思いがけないプレゼントがあったりもした。
一度だけ、あの場所へ行ってみようとしたことがある。
けれど、いつも通っていたはずの道が全く思いだせなかった。
オリヴィエが手を引いてくれていたから。覚える必要がなかったのだ。



日の曜日。
何の予定もなく、ロザリアはいつも通りの時間に起き、いつも通りの朝食をとった。
ロザリアに遠慮しているのか、このところ土の曜日に、アンジェリークがルヴァのところへは行くことはない。
土の曜日の夜のたわいもないおしゃべりは、ロザリアにとっても楽しいひと時だ。
昔、恋の話ばかりをするクラスメイトの気持ちがわからなかった。
けれど、今はよくわかる。
あの時、もし、アンジェリークがいなければ、話を聞いてもらうことがなければ。
もっともっと辛かったはずだ。
「あら、いたの?」 とロザリアが声をかけると、「うん。今からデートなの。」 と明るく返された。
アンジェリークが変わらずにいてくれることは、ロザリアにとってもありがたい。
楽しそうに出ていくアンジェリークをロザリアも笑顔で見送った。

休日の候補寮はとても静かだ。
ばあやもロザリアが呼ぶまでは話しかけてくることはない。
ノートとペンを広げ、机に座ってみたものの、なぜか今日は集中できない。
中庭で別れを告げられてから、オリヴィエは目も合わせてくれなくなった。
民の望みでもあれば、口実になって訪ねることもできるのに、オリヴィエはフェリシアにプレゼントとしてサクリアを送ってくれているのだ。
たぶん、研究院でチェックして、ロザリアが来ないようにしているのだろう。
それほどまでに、避けられている。嫌われている。
頭が重く、意味もなく呼吸が苦しくなってきた。
今さらながら、無理にでも予定を入れてしまえばよかったと思う。
何もない時こそ、思い出してしまうから。

もしかして、今日、オリヴィエはあの場所にいるかもしれない。
ふと、そんなことを考えた。
聖殿では聞けないことも、あの場所でなら聞ける。
思い立ったらいてもたってもいられなくて、ロザリアはそのまま外へ飛び出した。
部屋にいるときは思わなかったけれど、今日は少し風が冷たい。
外の空気に触れ、身震いしたロザリアは、それでも、そのまま、あの場所へと歩みを進めた。


お茶の時間が近付いた頃になって、オスカーは候補寮へ向かい、ロザリアの部屋をノックした。
今日、彼女に何の予定もないことを知っていたが、朝一番に訪れるのはためらわれたのだ。
勿論オスカーも噂は耳にしているし、実際オリヴィエの態度を見てもいる。
ロザリアの憔悴した様子も。
本当なら、関わるべきではないのかもしれない。
そもそも男女の仲というものは、周りの人間がどうこうできることではないのだから。
けれど、ロザリアを放っておくことはどうしてもできなかった。
もし彼女が助けを必要としているなら。
差し伸べる手は自分の物でありたいと思っていた。

いつもならすぐに応答があるのに、部屋からはなんの音もしない。
帰るべきかと迷っていると、ばあやが寮の外から現れた。
「オスカー様、いらっしゃいませ。」
「ああ。ばあやさんもお元気そうでなによりだ。慣れない土地で困っていることがあれば、いつでも言ってくれ。」
ばあやとはいえ、立派な女性だ。
オスカー流の挨拶で微笑むと、ばあやは気をよくしたように、ロザリアの部屋をノックした。
「お嬢様。オスカー様がおいでです。」
ばあやが声をかけても、中はしんとしたまま。
何度かノックを繰り返した後、ばあやは「失礼します。」と、ドアを薄く開けた。
「お嬢様?」
部屋を覗くことにならないように気遣い、オスカーが後ろを向くと、ばあやはドアを大きく開けた。
それでもしんと部屋の中は静まり返っている。

「おかしいですね。いらっしゃいません。」
中にロザリアがいない、と知ったばあやは、オスカーを見上げた。
「いったいどこへ行かれたのでしょう?」
誰にも行く先を知らせずに、ふいっと出て行ってしまうようなことは今まで一度も無かったらしい。
「散歩にでも出たんじゃないのか?」
「それならばいいのですが…。このところ、ふさぎがちで、あまり食欲もありませんでしたから、心配で…。」
ばあやはオリヴィエとのことを知らない。
聖殿では元気にふるまっていたが、戻れば落ち込んでいたのだ。
オスカーは気がつかなかった自分に後悔した。
「戻るまで、待たせてもらってもかまわないか?」
「はい。すぐにお戻りになると思いますので。どうぞ。」

部屋に招かれたオスカーは、改めて中を見回した。
勉強をしていたのは間違いないが、ノートもペンも開いたままだ。
乱雑な机は彼女らしくない。
上着もハンガーにかけられたままだから、まさに着の身着のままで出ていったのだろう。
すぐに戻るはずだと思っていたが、1時間経っても2時間経っても帰ってこない。
夕陽が沈みかけた頃、先にアンジェリークが戻ってきた。

「あ、オスカー様。どうしたんですか?」
ルヴァとのデートを終えたアンジェリークを、オスカーはわざわざ部屋から出て出迎えた。
思いがけない客に驚いたアンジェリークは目を丸くしている。
どこかでロザリアを見かけなかったかと聞くと、アンジェリークは首をかしげた。
「わたしたち、庭園とかあのあたりをぶらぶらしていたんですけど、ロザリアは一度も見かけませんでした。
 お茶の時間に寄ったカフェでも見かけなかったし。」
「そうか…。」
イヤな予感がする。
「ロザリア、どこにいるかわからないんですか? …今朝、あんまり元気そうじゃなかったけど。」
「本当か?」
「はい。やっぱりこのごろ食欲もなかったみたいだし、あんまり眠れなかったみたい。
 無理して元気そうにしてたから、余計に心配だったんです。 どこ行ったんだろう…。」
ロザリアに限って、間違いがあるとは思えないが、どこかで倒れているということも十分あり得る。
なにかが起こってからでは遅い。
「探してこよう。」
オスカーは候補寮を飛び出すと、飛空都市の目立つ場所を探し歩いた。

庭園、カフェ、図書館。
念のために聖殿にも行ってみたが、鍵がかけられていて、人の気配はなかった。
ぐるりと都市を一周まわり、道行く人にもロザリアを見かけなかったかと聞いてみたが、彼女を見たものは誰もいない。
イヤな汗がオスカーの背中を伝う。
配下の警備兵に声をかけようかとも思ったが、あまり大げさにしては、ロザリアのためにもよくない。
オスカーは焦る心を押さえながら、再び庭園へと向かった。
すでに空は暗闇が勝ってきている。
風も一段と冷たさを増し、薄着では寒さを感じるほどだ。
人影すらまばらになる中、オスカーは以前ロザリアと会った時のことを思い出した。
オリヴィエの家の前で、寂しそうに立っていた彼女。
まだロザリアの中にはオリヴィエへの想いが溢れている。足が向いたとしても無理はない。
オスカーはぎゅっと拳を握り、足を速めた。


「おい、オリヴィエ!」
壊れそうなほどの音にオリヴィエは顔をしかめた。
ロザリアならば居留守を使おうと思っていたが、この声はオスカーだ。
「なに? ドア壊したら弁償してもらうよ。」
しぶしぶ開けたドアをオスカーがものすごい勢いでつかみ、開け放った。
冷たい風が流れ込んできて、オリヴィエが身体を震わせると、恐ろしいくらい鋭いアイスブルーが睨みつけてくる。
あまりの鋭さにオリヴィエはあっけにとられて、言葉も出なかった。

「ロザリアが来なかったか?」
「ロザリア?」
オリヴィエの顔が険しくなる。
聞きたくない名前。忘れたい名前。
「来ないよ。」
来ても無視するつもりだったのに、来なければ来ないで寂しい。
聖殿でも避けているせいで、このところオリヴィエはロザリアの姿すら見ていなかった。

「そうか…。お前、彼女の行きそうな場所を知らないか?」
「なんで?」
オスカーの緊張が移ったようにオリヴィエの声も硬くなる。
「帰ってこないんだ。昼過ぎからずっと。このところ体調も良くなかったようだし、心配になって探しているんだが…。」
オリヴィエの身体を冷たい雫が滑り落ちる。
きっとあの場所に行ったのだ。
けれど、彼女は最後まできちんと道を覚えていなかった。
体調が悪いなら、迷子になって、倒れているかもしれない。

気がつけば、身体が勝手に動き出していた。
「おい! オリヴィエ!」
オスカーの呼びとめる声が背中にかかったが、答えている余裕はなかった。
夜になれば、あの道は本当に暗い。
怖がりの彼女がうずくまり泣いている姿を想像して、胸が痛くなる。
オリヴィエは全速力で、森の方へ走っていった。


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