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13.


部屋を出たロザリアは、あの場所へ向かっていた。
けれど、なぜか足が重く、道もろくに思い出せない。
目印にしていたはずの木も、月日とともに色を変えてしまったらしく、手がかりにならなかった。
「一度は行けたんですもの。 今日も大丈夫。」
一人であの場所に辿り着いた日。
迎えに来てくれたオリヴィエと初めて愛の言葉を交わした。
同じことが起こるとは思わないけれど、思い出に浸りたい時もある。特にこんな、寂しい時は。

ロザリアは思い出しながら、足を進めていく。
ここでオリヴィエが手を引いてくれた。ここで、転びそうになって抱きとめられた。
思い出は限りないほどあるのに、なぜか、なかなかあの場所にたどり着くことができない。
だんだんまともに思考することも難しくなって、身体も重くなってくる。
木の根に躓いてよろけたロザリアは、そのまま木の根元にうずくまってしまった。
もうどれくらい歩いたのか、見当もつかない。
さっきまでは穏やかだった風も急に氷のように冷たく感じて来た。
それなのに、掌が妙に熱く、木を支えにしようとしてもうまく力が入らないのだ。

「少し疲れたのかもしれませんわ。」
結局、昼ごはんも食べずに出てきてしまったことを思い出した。
どうせほとんど手をつけることはなかったとしても、飲み物くらいは飲んでくればよかったと思う。
少しだけ。
木の根の間に身体を沈め、幹に頭をもたせかけた。
じっと目を閉じると、歩き回っていた時よりもずいぶん呼吸も楽だ。
薄闇が忍び寄る中、ロザリアはそのまま意識を失っていた。


オリヴィエは迷わず、森を抜け、あの場所へと向かった。
走れば、ほんの20分足らずの距離だ。
さすがに全力で20分、というわけにはいかなかったが、休むことなく進めば、すぐに着く。
視界の開けた場所で、オリヴィエは辺りを見回したが、ロザリアの姿はどこにもない。
けれど、オリヴィエは彼女がここに来ていると確信していた。
落ち込んだ時に、ここへ来るといいと教えたのは、自分なのだから。
いつもランチを食べた木の下や、寝転んだ草むらを探してみたが、生き物の気配すら感じない。
オリヴィエは元来た森の道を引き返しながら、脇道へと入っていった。

かさかさと枯れ葉の舞う音がする。
しんと静まり返った森は、薄闇だというのにまるで夜の世界のようだ。
重なり合う木々のせいで、視界は良くない。
彼女の迷子癖を思えば、どこまで入りこんでしまっているか見当もつかないが、一つ一つ探していくより手はないだろう。
ただ、何度か一緒に出かけた時に気づいたのだが、ロザリアは迷うと右へ右へと動く癖がある。
元に戻ればいいのに、そうやって曲がってしまうから迷うのだと、心の中で思っていたものだ。
想いはこちらがたじろぐほど、まっすぐに伝えてくるくせに。

オリヴィエは最初の別れ道を左へ折れ、ロザリアの姿を探した。
冷たい風が頬に触れる。
昼間はあんなにも暖かな日差しが差していたのに、日が沈み始めたとたんに、肌寒い。
ロザリアの体調が気がかりだ。
闇が濃くなるほど、探すのは困難になる。
オリヴィエは足元から道を見通し、枝や葉の傷を確かめていった。
もし、彼女が通ったのなら、きっと跡が残っているはずだ。
オリヴィエが枯れ葉の荒れた道を辿っていくと、ふと木の香りとは別の香りが鼻先をかすめた。
華麗な花の香り。
オリヴィエは足音を殺して、その香りの元へと近づいた。


できることならば、彼女に気取られずにいたいと思っていた。
けれど、木の根元に倒れているロザリアを見た時、そんな思いはどこかへ消し飛んでいて。
オリヴィエは木の葉の割れる音もかまわずに、彼女の元へ駆け寄った。
「ロザリア!」
抱き上げて、名前を呼んでも、彼女の瞳は開かない。
オリヴィエは胸に耳を当て、鼓動を確かめてみた。
柔らかなふくらみ越しに、しっかりとした鼓動が伝わってきて、思わず安堵の息が零れる。
ただ、もたれていた木に体温を吸い取られてしまったように、腕の中の彼女の身体は冷え切っていて、顔には血の気がない。
以前身体を冷やした時も、ロザリアはすぐに熱を出していたのに、今日はあの時よりもずっと冷えている。
オリヴィエは彼女の身体をじっと抱きしめた。
走りまわったせいで、自分の身体は汗をかくほどに温まっている。
少しでも温まれば、と、オリヴィエは彼女の腕や背中をさすった。

ぎゅっと抱きしめて、どれくらい時間が経っただろう。
ほんの少し、ぬくもりが移った気がしたところで、オリヴィエは彼女の身体をもう一度木にもたれかけた。
闇が濃くなる気配。
このままここにいても、気温が下がってくるのは明らかだ。
抱きかかえようとした、その時、ロザリアの唇が開いた。

「オリヴィエ様…。」
苦しい声。そして、伸ばされた手。
堰を切ったように、オリヴィエは彼女の唇に唇を重ねていた。
冷えて乾いたロザリアの唇に、暖かさを分けるように、なんども、なんども。
会いたかった。触れたかった。
押し殺すには大きすぎる想いが、オリヴィエの頭をマヒさせていく。
わずかな隙間から舌を忍び込ませ、貪るように彼女の舌を絡め取った。
意識のないはずのロザリアの頬に赤みが差してきて、オリヴィエはさらにキスを深めた。

ロザリアの後頭部を支えようと伸ばした指先に、ふと冷たい金属が触れた。
彼女の首にかかるネックレスのチェーン。
指先に絡んだチェーンを外そうと、引っ張り出したネックレスを見て、オリヴィエは息をのんだ。
服に隠れていて、気がつかなかった。
小さなサファイアが、チェーンの先に揺れている。
夢から覚めたように、オリヴィエは静かに唇を離すと、ロザリアの身体を抱き上げた。
軽々と持ちあがる軽さ。
体調が悪いというのは本当だろう。
食事はきちんと取っているのだろうか。この顔色の悪さは冷えているせいだけではないのかもしれない。
思いながら、自嘲の笑みがこぼれてくる。
ロザリアにこの苦しみを与えているのは、誰でもない、自分なのだ。
オリヴィエは胸の痛みをぐっとこらえ、彼女を抱いたまま、森を抜けた。



「オリヴィエ!」
ロザリアを探し続けていたオスカーは、町外れで彼女を抱いているオリヴィエを見つけた。
追いかけて行こうかとも思ったが、同じ場所を探すよりも、別の場所を少しでも探した方が得策だと考えて、あえて別の方角を探していたのだ。
けれど、結局手がかりがなく、オリヴィエの向かった方へと行きかけていたところだった。
「どうしたんだ?」
青白い顔をしてぐったりとオリヴィエに抱かれているロザリア。
「すぐそこの木の下に倒れてたんだよ。」
そう言ったオリヴィエは、オスカーを顎で呼ぶと、腕の中のロザリアをオスカーに渡した。
「おい!」
「重くて疲れたんだよ。あとはよろしく。」
ひらひらと後ろ手に手を振ったオリヴィエは、少し先でぴたりと足を止めるとオスカーに振り返った。

「…あんたが見つけたことにして。」
「どういうことだ。」
「私はもう、ロザリアに関わりたくないんだ。…助けたなんて、恩を感じられてもうっとおしいからね。」
言い捨てたオリヴィエは、さっと踵を返すと、いつも通りの足取りで私邸の方へ消えていく。
どこで彼女を見つけたのか、オリヴィエに聞きたいことは山ほどあったが、今はそれどころではない。
オスカーは腕の中のロザリアを落とさないように抱き直した。
驚くほど軽い身体。
青ざめた顔から辛そうな吐息が零れて、オスカーは彼女を抱えたまま走りだした。


「ばあやさん、ベッドの用意を頼む。」
オスカーに抱えられ戻ったロザリアに、ばあやとアンジェリークは仰天して、急いで準備をしてくれた。
ばあやが整えたベッドにロザリアを横たえると、すぐにアンジェリークが暖かいタオルを持ってくる。
ロザリアの冷たい頬にタオルを当てたオスカーは、布団の中の彼女の手をぎゅっと握りしめた。
氷のように冷えた手。
青ざめた唇も痛々しくて、見ているだけで胸がつぶれそうだ。
暖めたタオルを何度も交換し、布団の中にもいくつもの湯たんぽを入れた。

ロザリアのそばを離れようとしないオスカーをアンジェリークが見つめている。
オリヴィエと付き合い始めた時、オスカーは綺麗に身を引いたようにアンジェリークの目には映った。
だから、オスカーのロザリアへの想いは、やはりその程度のモノだったのだと安心したのだ。
たくさんいる、気になる女の子の一人。
本気のように見えたのは、錯覚だったのだと。
けれど今のオスカーはロザリアのことを心から想っているようだ。
心配そうにロザリアを見つめるアイスブルーの瞳。
アンジェリークの姿など、まるで目に入っていない。
ロザリアの頬に触れるオスカーの手の優しさに、アンジェリークはただ困惑していた。



小さな声とともにロザリアが目を覚ましたのは、数時間後。
ずっと手を握っていたオスカーは、その声にロザリアの顔を覗きこんだ。
まだ青い瞳に点る光は弱弱しかったが、オスカーを見て、明らかに動揺している。
「あの…。」
口の中が乾ききっているせいで上手く声が出ないのだろう。
かすれた声が喉に絡んで苦しそうだ。

「大丈夫か?」
オスカーは手を握ったまま、ロザリアの額の髪をかきわけた。
普段の彼女なら、こんな風に触れることを許さないだろう。
けれど、今は抗う元気もないのか、美しい睫毛を伏せ、大きく息を吐いた。
オスカーはばあやにお茶を頼むと、再び強く彼女の手を握りしめた。
ロザリアはオスカーの力に驚いたように、逃れようと手をねじっている。
かなり体温は戻ってきているが、まだ手に力が入らないのだろう。
思うようにいかないことに諦めたのか、力が抜けた。

「オスカー様が見つけてくださいましたの?」
ばあやが持ってきてくれた暖かな紅茶を口に含むと、ようやく声が出たようだ。
青い瞳にじっと見つめられて、オスカーは頷いた。
「ああ、森の入口で倒れていたんだ。」
「入口…。」
あんなに歩きまわったと思ったのは、錯覚だったのだろうか。
ロザリアは紅茶の湯気を頬に当てながら、さっきまでの出来事を思い出していた。
あの場所へ行くために、森の奥へと歩いていたつもりだったのに。
実際は、ほんの入り口をグルグル回っていただけだった。

「他にはどなたも?」
森の中で一瞬、オリヴィエの香りを嗅いだような気がした。
抱きしめられた暖かな腕、触れ合った唇。
彼の暖かさが染みて来るような、抱擁。
単なる夢というにはあまりにもリアルだった。

うつむいたロザリアに、オスカーは首を振った。
「誰もいなかったさ。いたらもっと大騒ぎになっている。お嬢ちゃんは大切な女王候補なんだぜ。もっとその自覚を持つべきだ。」
思いがけない厳しい言葉にロザリアが顔を上げた。
たしかに今の自分の行為は恥ずべきことだ。
女王候補でありながら、感情をセーブできずにオスカーにまで迷惑をかけてしまった。

「申し訳ありません。」
こみあげてくる涙をロザリアはぐっと飲み込んだ。
さまよった森の景色は、オリヴィエの心と同じ。
奥に触れたと思ったのは、彼がそれを許したからだ。
拒絶されてしまった今、あの景色を見ることもできない。

「だが、無事で良かった。…君にもしものことがあったら、俺は…。」
アイスブルーの瞳に熱を感じてロザリアは再びうつむいた。
今までからかわれてばかりで、オスカーを軽薄だと思っていたのに、今の彼はまるで別人のようだ。
目が覚めた時からさっきまで、手を握られていたことが頭の中に浮かんでくる。
助けてくれて、ずっとついていてくれて。
もしかして夢の中で感じたあの暖かさもオスカーのモノだったのだろうか。
あの、口づけも。


「ロザリア? 何か食べれそう??林檎持って来たんだけど。」
恐る恐るといった気配でアンジェリークが顔をのぞかせた。
ずいぶん彼女にも心配をかけてしまったらしい。
「では、俺はそろそろ失礼しよう。いくらお嬢ちゃん相手とはいえ、こんな時間までいては失礼だからな。」
居住まいを正したロザリアはベッドの上できちんと頭を下げた。
「明日からきちんと女王候補としての責務を果たしますわ。」
「ああ。その方が君らしい。」
さっきとは違う優しい瞳。
なんだか今日のオスカーはよくわからない。
助けてもらったせいかもしれない、と単純な自分にロザリアは呆れてしまった。



オスカーが出ていったのと、入れ替わるようにアンジェリークがベッドに腰掛けた。
「大丈夫?」
「ええ。あんたにも迷惑掛けてしまったわね。…ごめんなさい。」
アンジェリークがピックに刺したリンゴをロザリアの口元に差し出してくる。
子供のようで照れくさいけれど、ロザリアは素直に口を開けた。
「ホント、びっくりしたんだから。ロザリアが遅くなっても帰ってこなくて、オスカー様は飛び出してっちゃうし。
 帰って来たと思ったら、真っ青なロザリア抱えてるし。なにがあったの?」
「オスカー様、いらしてたんですの?」
「うん。ロザリアが帰ってくるのを待ってたんだけど、遅いから心配になったみたい。」
「そうですの…。」
なんとなく流れがわかった気がした。
帰らないロザリアを探しに出たオスカーが、偶然見つけた。
ただそれだけ。

「…他にはどなたもいらっしゃらなかった?」
「ううん。誰も。」
ロザリアの言いたいことがアンジェリークにはよくわかった。
オリヴィエのことを気にしているのだろう。
食べ終えたピックを受け取ったアンジェリークは残りの1個のリンゴに刺すと、再びロザリアの口に運んだ。
普段とは逆でロザリアを世話できるのが、なんとなく嬉しい。

「オリヴィエ様が来てくださったような気がしたんですの。抱きあげられた時、香りがしたような。」
ため息交じりの言葉。
アンジェリークはどう返していいかわからずに、続きを待った。
「でも、本当に気のせいだったんですのね。」
ロザリアは泣いていない。
それなのに。
「なぜ、あなたが泣くんですの?」
「だって…。」
しゃくりあげるアンジェリークを呆れたような顔でロザリアが見つめている。
「バカね。 あなたってどこまでもお人よしですわ。」
「ごめんね…。」
ロザリアはアンジェリークの肩を優しく抱き寄せた。


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