14.
冷たい風がカーテンを揺らす。
オリヴィエはリビングのソファに寝転び、グラスを傾けていた。
この頃、酒量が増えたことは自分でもわかっている。
どうせ飲んでも酔えないのに、つい手が伸びるのは、ひと時だけでも、彼女のことを忘れることができるから。
ふわりと風が忍び込んで来て、オリヴィエは背筋を震わせた。
このところの風はずいぶん冷たくなった。
彼女がこの家に来た頃、夜風はまだ頬をひやりとかすめるほどだったのに。
それともあれは、そんなに前のことだったのだろうか。
「そんなとこにいないで、入ってきたら? グラスならあるよ。」
窓の外に声をかけたオリヴィエは、傍にあったグラスを指で引き寄せた。
グラスの足がテーブルクロスにかかり、一瞬ぐらりと揺れる。
同時に舞い上がるカーテンの隙間から、オスカーが現れた。
「また飲んでるのか。」
「あんただって飲んでるじゃない。」
遠目からでもわかるほど、オスカーの足元はおぼつかない。
かなり酒に強いはずのオスカーがここまで飲むとは、よほどのことだ。
「なぜだ?」
オスカーは自分の身体をまるで荷物のようにソファに投げだすと、身を乗り出してオリヴィエに詰め寄る。
すぐにアルコールの匂いが伝わってきて、オリヴィエは顔をしかめた。
「なんのこと? 酔っ払いに話すようなことなんて何もないよ。」
オリヴィエはボトルを傾け、自分のグラスにだけ中身を注いだ。
オスカーはそれに不平を言う様子もなく、じっとオリヴィエを見つめている。
「なぜ、ロザリアから離れようとするんだ。愛しているんだろう?」
一瞬の間。
オリヴィエは大きな笑い声をあげると、グラスの中身を飲み干した。
「あんた、バカ? 見ててわかんないの? 私はね、ロザリアなんて何とも思っちゃいない。むしろ邪魔なくらいさ。」
アイスブルーの瞳をキッと睨み返し、割れるほどの勢いでグラスをテーブルに叩きつける。
酔っているように見えたのは、幻だったのかもしれない。
オスカーの瞳は、恐ろしいほど冷静にオリヴィエを見返していた。
「嘘をつくなよ。ロザリアがいなくなったと言った時のお前の顔。 俺がわからないとでも?」
逆に聞き返されて、言葉に詰まる。
たしかにあの時は動転していて、心を隠す余裕がなかった。
もともとオスカーは簡単に騙せるような男ではない。
それ以上に今日のオスカーはいつもと何かが違う。
苦しんでいる。吐き出したがっている。
「ずっとお前の名前を呼んでいた。意識がない間、ずっとだ。 ロザリアはお前を愛している。 本当に応えてやるつもりはないのか…?」
なぜ、オスカーがここへ来たのか。
それがロザリアのためなのだと、気がついた。
そして、その理由も。
「言ったでしょ。何とも思ってないって。好きでもないのに、どう応えるっていうの? 抱いてやれとでも?」
オリヴィエは大げさに肩をすくめ、再びボトルを傾けた。
出来ることなら、ロザリアと出会う前に戻りたい。
ロザリアを愛する前に。
神はなぜ、人にを愛するという気持ちを与えたのだろう。
誰かを傷つけることも、苦しむことも、全てはそこから始まるというのに。
けれど、愛は同じくらい、幸せや喜びを与えてくれる。
だから、どうか、彼女には。
自分が与えた苦しみの分だけ、オスカーに幸せを与えてもらえますように。
ただ祈ることしかできない自分の代わりに、彼女を。
「聖地に来る前に、真剣に愛した女の子がいたんだ。」
唐突なオリヴィエの言葉にオスカーが眉をひそめている。
オリヴィエは立ち上がると、サイドボードに伏せてあった写真立てを持ってきた。
クローゼットに隠してあった写真をここに移したのは、戒めのため。
目に入れば、忘れない。自分にロザリアを愛する資格などないということを。
「…若いな。」
「そう?ほんの2年くらい前の話さ。…もちろん下界じゃ100年くらい経ってるけどね。」
オスカーは手渡された写真をじっと眺めた。
どこから見ても幸せそうなカップル。
今よりもオリヴィエは明らかに若い。
髪も男にしては長い方だが、今ほどではないし、なによりもノーメイクだ。
意外に男らしく見える素顔に驚いた。
「綺麗な女性じゃないか。」
オリヴィエの隣に映る、まっすぐのびた長い黒髪と理知的な青い瞳の女性。
まだ少女と呼んだ方がいいかもしれないが、はにかむような笑顔が美しい。
「…綺麗だったし、明るくて、前向きで、強い意志を持った女の子だったよ。」
オリヴィエはしばらく黙りこんでいた。
冷たい風がカーテンを波のようにゆらしている。
静かすぎる時間。
オスカーも黙ってオリヴィエの言葉を待った。
「似てるって思ってたんだ。私を見る青い瞳や高飛車なのに純粋なところ。
ふふ、私はどうも、綺麗で気が強くてまっすぐな女の子に弱いんだな、って思ってた。でもさ、それだけじゃなかったんだ。」
「…どういう意味だ?」
オスカーは写真立てをテーブルに戻し、オリヴィエを見つめた。
昔のことを話したがらないヤツだった。
くだらないことにはすぐ乗るくせに、肝心なところには入りこませない。
そんなオリヴィエがなぜ急にこんな話を。
「似てるに決まってるんだよ。 ロザリアと彼女、リアーヌは血が繋がってるんだから。」
「なに?」
「私にとってはほんの2年前のことさ。でも、下界では100年、4代も過ぎてるんだね。
リアーヌのひ孫なんだ。ロザリアは。」
そんなばかな、とは言えなかった。
時の流れが違う二つの世界だからこそ、できてしまった真実。
「だから、私はロザリアに惹かれた。ロザリアの中にいるリアーヌに惹かれたんだ。
わかったでしょ? 私がロザリアを愛してないっていう意味が。 私が愛してるのは今でもリアーヌなんだ。
…ロザリアじゃない。」
再び静寂が辺りを包んだ。
オスカーは、テーブルの上のボトルをひったくるように取り上げると、縁いっぱいまで酒を注いだ。
水のように透明な液体は、喉を焼く熱さだ。
それでも胸の渇きを癒そうとオスカーはグラスを傾けた。
やがて。
くくっ、と肩を震わせ、緋色の髪をかきあげたオスカーは、足を組み返し、オリヴィエをにらみつけた。
「そんな嘘で騙せると思われたとは、ずいぶん俺も舐められたもんだな。」
アイスブルーの瞳は濁りがなく、自分の言葉が真実だと信じて揺るがない光があった。
「この女を今でも愛してる? 笑わせるな。 お前が今、愛してるのはロザリアだ。」
写真を斜に見つめ、鼻を鳴らすオスカー。
「嘘じゃない!」
「ああ、ロザリアがこの女のひ孫だっていうのは真実なんだろうな。 だからなんだ?
アダムとイブから世界ができたとしたら、俺達はみんな同じだ。
そんなことを気にして、ロザリアを遠ざけるのか? お前はそんな小さい男じゃなかったはずだぜ。
愛してるなら愛してると、素直に言ったらどうなんだ。」
まっすぐな視線を受け止めきれずに、オリヴィエは目をそらした。
オスカーが来た時から、こうなる予感はしていたのだ。
ロザリアの中のリアーヌに惹かれたのは事実だけれど、抱える想いは過去の物ではない。
だがそれを認めるわけにはいかない。 これは愛ではないのだ。
愛では、ない。
「私が聖地に来たのは、リアーヌの結婚式の1か月前。婚約式の日だったんだ。
その前の日まで、私達は愛し合ってた…。」
貪るように求め合い、与えあった。
なにもないアパートメントの一室で、最後のひと時まで抱き合っていた、あの日。
「この間、リアーヌとロザリアの関係を確かめたくて、主星のカタルヘナ家に行って来た。
大きな家にはちゃんと記録があってね。…結婚式の後、7ヶ月でリアーヌは男の子を産んでたんだ。
ロザリアのおじいさんに当たる人だよ。」
「…7ヶ月?」
オスカーは眉を寄せ、再びグラスに酒を注いだが、口をつけようとはしない。
じっと考え込んだ後、縁に顔を上げた。
「まさか、その子は…。」
「私の子としか思えないんだ。リアーヌは婚約式まで相手の男とはお茶会で一度会ったきりだったしね。
貴族の結婚なんてそんなもんだって、笑ってたよ。」
「ただの早産かもしれないだろう?」
「そうかもね。今となっては確かめようもないし、証拠もない。
でも、ロザリアは私のひ孫かもしれない。
たしかにリアーヌと似ているから惹かれたのかもしれないけど、それ以上に、ロザリアの中の自分の血に惹かれたのかもしれないとも思えるんだよ。」
すぐには信じることができない。 オスカーの周りを窓から吹きつける冷たい風がまとわりついてくる。
ぶるっと震えたのは、身体以上に心かもしれない。
そんなことが本当にあるのだろうか。
「ロザリアには言わないでほしい。 大好きな大おばあさまの名誉のためにも。」
このことを知れば、ロザリアは傷つくだろう。
聖地と下界の時の流れの違いは、知っていてもまだ理解はしていない。
恋人だと思っていたオリヴィエが自分の曾祖父だなんて。
そんな思いをさせるくらいなら、一つの恋として終わらせてあげたい。
綺麗な思い出として。
「もう十分、ロザリアは傷ついているさ。…お前はそれでいいのか? このまま黙って、彼女を愛していけばいいじゃないか。」
「もし、ロザリアが気づいたら? あの子はすごく純粋な子だよ。 きっと禁忌を犯している事実に耐えられない。
今ならまだ、引き返せるんだ。 新しい恋の一つでもすれば、私とのことは過去にできる…。」
「お前の想いはその程度か。」
「…なにが言いたいの?」
オスカーなら、この苦しみを理解してくれるのではないかと思ったから、全てを打ち明けたのに。
明らかな敵意にオリヴィエの身体が冷める。
「俺ならそんなことで手を離したりはしない。彼女が事実を知っても、愛されてよかったと思わせてみせる。
それだけの幸せを与えてやる。それが愛するってことなんじゃないのか?」
「オスカー!」
叫んだオリヴィエをオスカーが見下ろしている。
「手を引くなら、好きにすればいい。おとなしく指をくわえて見ているがいいさ。
俺は同情なんてしないぜ。」
来た時にはふらついていた足取りも、もうすっかり落ち着いている。
今はアルコールよりも苦しい想いが、頭の中から酔いを追い出してしまっているようだ。
オスカーははためくカーテンを手で押しやり、窓から外へ出た。
冷たい風と凍るほど白い月明かり。
ほのかに青白い光は、彼女の瞳の色によく似ている。
オリヴィエの言葉は衝撃的だった。
彼の悩みも苦しみも決断も、当たり前のことなのかもしれない。
けれど、もしも自分なら、彼女を諦めたりはしない。
なにがあっても、世界中から非難を受けても、守り抜いて愛し抜く。
二人が愛し合っているのなら、身を引くしかないと思っていたが、オリヴィエではロザリアを幸せにはできない。
彼女を幸せにできるのは、自分だ。
いつのまにか、オスカーの足は候補寮へと向いていた。
すでに夜半を過ぎ、当然のようにロザリアの部屋の明かりは消えている。
初めて出会った、心から愛しいと思える少女。
その眠りが穏やかなものであればいいと思う。
オスカーは部屋を一瞥すると、静かに家路を辿っていった。
次の日の朝、聖殿についたロザリアは一番にオスカーの元へ向かった。
昨日の礼をきちんと言わなければ。
助けてくれたことももちろんだが、自分が今なすべきことを思い出させてくれた。
帰り際の優しいアイスブルーの瞳が胸によみがえると、すこしだけ心が落ち着くような気もするのだ。
けれどオスカーの執務室を訪れたロザリアを出迎えたのは、オスカー付きの秘書だった。
「今日は一日、いらっしゃいません。」
予定までは聞いていない、と秘書は申し訳なさそうに頭を下げた。
聖地から呼び出しでもあったのかもしれない。
お礼を後回しにしたロザリアは、予定通りの育成をこなすためにルヴァのところへ向かった。
ルヴァと育成について検討していると、時々ルヴァの気遣わしげな視線にぶつかる。
おそらくアンジェリークからいろいろと聞いているのだろう。
ルヴァのことはロザリアも信頼しているから、特にアンジェリークに口止めしたりしなかった。
予想通り、ルヴァは何も言わない。
ランチの時間になり、アンジェリークがルヴァを誘いにきた。
「ロザリアも一緒に食べよう?」
当然のように手を繋いで来たアンジェリークに、ロザリアは首を振った。
せっかくの二人の時間を邪魔するのも悪いし、それ以上に、一人になりたかったのだ。
「ごめんなさい。少しやりたいことがありますの。」
図書館へ行く、と言ったロザリアに、アンジェリークも強くは誘えなくなってしまった。
カフェと図書館は方角が違うし、ついていけばかえってロザリアに迷惑だろう。
「ちゃんと食べなきゃダメだからね!」
アンジェリークの心配が素直に嬉しかった。
ロザリアは「もちろんですわ。とてもお腹がすいていますもの。」と返事をすると、二人とは逆の方へ歩き出した。
アンジェリークにはそう言ったものの、実のところ食欲はなかった。
昨日もほぼ丸一日何も食べなかったし、今朝もヨーグルトしか食べていない。
簡単に倒れてしまうような体調管理では、完璧な女王候補と言えないことはわかっている。
でも、なにかが詰まっているように胸が苦しくて、食べ物が入っていかないのだ。
ばあやに持たされたランチを抱え、ロザリアは中庭に向かった。
ここならば滅多に人も来ない。
ベンチに座ると、ロザリアは袋を開けた。
柔らかな白いパンにブルーベリーのジャムとクリームチーズが挟んであるサンドイッチ。
シンプルだが、ロザリアの好物だ。
ばあやの心遣いがありがたい。
ロザリアはサンドイッチを袋の上に乗せたまま、ぼんやりと風に吹かれていた。
昼間の風は暖かく優しいのに、瞳の奥がツンとする。
ここへ来たのは、失敗だったかもしれない。
オリヴィエに告げられた辛い言葉を思い出してしまうから。
しばらく枯れ葉が落ちるのを眺めていたロザリアは、ため息をつきながら、サンドイッチを袋の中にしまおうとした。
「食べないと身体に悪いよ。」
意外な声にびっくりして、ロザリアはサンドイッチを落としてしまった。
砂まみれになったパンは、いつかのお弁当よりもずっと真っ黒で絶対食べられそうもない。
「ああ、もう食べられないじゃないか。…コレ、あげるよ。」
オリヴィエは手にしていた紙袋をロザリアの隣に置いた。
「カフェのサンドイッチだから、大したもんじゃないけど。食べなよ。」
大きく見開いた青い瞳が、オリヴィエを見つめている。
ずっと避けられていたオリヴィエから思いがけずに声をかけられて、戸惑っているのがよくわかった。
「食べなって。」
オリヴィエはいったん置いた紙袋からサンドイッチをとりだすと、ロザリアに差し出した。
ごく普通の野菜サンド。
ロザリアは手を震わせながら、それを受け取ると、小さく噛みついた。
このところ砂のようにしか思えなかったパンが、しっかりと小麦の味がする。
「美味しいですわ。」
ベンチに座ったまま、ロザリアは立っているオリヴィエを見上げた。
彼の香りが自然に漂う距離。こんなに近くで見るのは久しぶりだ。
やはり胸がドキドキして、言葉が出ない。
「全部あげるから。もう倒れたりしないで。」
「え?」」
言い捨てるように、オリヴィエは聖殿へと消えてしまった。
けれど、声をかけてくれた。自分を気にしてくれた。
それだけで胸が潰れそうなほど嬉しい。
それにしても最後のオリヴィエの言葉は、まるでロザリアが昨日倒れたことを知っているような口ぶりだった。
アンジェリークとオスカーしか知らないはずなのに、なぜ。
ふと、オリヴィエの残り香が香ってきた。華やかで甘い、彼の香り。
昨日、同じ香りを感じたのは気のせいだったのだろうか。
「そんなこと、あるはずありませんわ…。」
否定しながらも心の奥で、そうであったらいいのに、と願っている。
ロザリアは手の中のサンドイッチを全て食べると、袋の中に残っていたもう一つも全て食べ尽くしたのだった。
ロザリアが食べ終えたのを影から見ていたオリヴィエは、足音を殺すようにその場を離れた。
弱弱しく消えてしまいそうだったロザリアに声をかけずにはいられなかった。
それでも多分、昨日までなら声をかけたりはしなかっただろう。
オスカーに言われた言葉が頭の中を駆け巡っているのだ。
愛される資格などないと、わかっている。
けれど、心のどこかで、ロザリアなら全てを受け入れてくれるのではないかとも思える。
オリヴィエは机の引き出しにしまいこんでいる写真をとりだした。
青い瞳を輝かせて、にっこりとほほ笑むリアーヌ。
最期のひと時まで、リアーヌは自分を愛していたのだろうか。
だとしたら、今、彼女を裏切り、ロザリアを愛している自分をどう感じているのだろうか。
午後の柔らかな風が小さく開けた窓から吹き込んでくる。
写真を戻したオリヴィエは、執務机に座ったまま、その風の流れていく先を見つめていた。