15.
空に星がまたたき始めたころ。
図書館での調べ物を終え、ロザリアは候補寮へと向かっていた。
朝はアンジェリークと一緒に行くけれど、帰りは別々。
お互いに恋人ができてから、いつの間にかそうなっていたのだ。
飛空都市は安全だから一人でも怖くはないが、一抹の寂しさはある。
ずっとアンジェリークと一緒で、その後はオリヴィエと一緒だった帰り道は、ひとりだとやけに長く感じてしまう。
足を動かしながら、なにか別のことを考えようと無理に気持ちを切り替えた時、木の下に人影を見つけた。
ぼんやりとした薄闇に鮮やかに浮かび上がる緋色の髪。
ヒラリと舞った枯れ葉がその横顔を通り過ぎると、オスカーもロザリアに気がついたのだろう。
アイスブルーの瞳でロザリアを見据えると、柔らかく微笑んだ。
思わず、ドキリと胸が高鳴るのは、この頃のオスカーが初めのころと明らかに違う顔をしているせいだ。
冷たく見えるアイスブルーの瞳は相変わらずなのに、その奥にある真摯な光。
強い光にうろたえながらも、ロザリアは言うべきことを思い出して、オスカーに向かって近付いた。
「昨日はありがとうございました。」
几帳面に頭を下げたロザリアにオスカーはふっと眼を細めた。
「礼には及ばないさ。」
いつもならもっといろいろとからかいを言ってくるオスカーがその一言だけ。
ロザリアは不思議な沈黙に耐えられず、言葉をつづけた。
「このようなところでどうなさったのですか? 今日は執務をお休みされていたようですけれど。」
オスカーの周りには枯れ葉が幾重にも取り囲んでいて、長い時間ここにいたのだろうとわかる。
ロザリアはその枯れ葉を踏まないほどの距離でオスカーと向かい合った。
「君を待っていた。ロザリア。」
今、彼はなんと言った?
理解するよりも前に、オスカーの腕がロザリアを包み込んだ。
暖かな腕の中にぎゅっと抱かれ、ロザリアは驚きのあまり抵抗することも忘れてしまった。
力強い掌がロザリアの頭を押さえるように、そのまま胸の中へと引き寄せる。
強く求められて、守られているような感覚。
一人でずっと張り詰めていたロザリアの心がふとゆるんだような気がした。
どれくらいの間、そうしていたのか。
少し冷たくなった夜風に、オリヴィエとは違う香りを感じ取ったロザリアは、はっと目が覚めたように身体をよじった。
「お放しくださいませ。」
「放したくない。」
一向に力を緩めようとしないオスカーに、ロザリアは足を振り上げると、思い切りすねをけり上げた。
「痛っ。」
護身術が思わぬところで役に立った。
オスカーが痛みに顔をしかめている間に、さっと腕から逃れたロザリアは、真赤になったまま、彼を睨みつけた。
「何をなさるのですか? お戯れなら、どうぞ、お取り巻きの女性達になさってあげてくださいませ。」
「戯れなんかじゃない。」
からかうような色の消えたアイスブルーの瞳は、まるで今の空に似た、沈んだ太陽のような熱の灯る青。
ロザリアは魅入られたようにその瞳を見つめた。
「君が好きだ。ロザリア。 一人の女性として、君を。」
零れそうなほどに青い瞳を見開いたロザリアをオスカーは再び腕の中に閉じ込めた。
小さな羽のような身体を壊さないように、優しく包み込む。
ロザリアの震える声が鼓動とともに伝わって来た。
「わたくしは…。」
「君がまだオリヴィエを想っていることは知っている。」
「では、なぜ?」
「オリヴィエは君を愛さない。 それでも君はアイツを想い続けるのか?」
オスカーの言葉は確実に彼女の心をえぐったのだろう。
一瞬大きく肩を震わせたロザリアの身体から力が抜けた。
「心を偽ることはできませんもの…。」
「俺も同じだ。 君が誰を想っていようと、俺が君を好きだと思う気持ちは変えられない。
ただ知っていてくれればいい。 君の傍にはいつでも俺がいることを。」
「オスカー様…。」
オスカーが腕の力を緩めると、ロザリアはすぐに半歩下がった。
それでも逃げようとはせずにうつむいたまま、足元の枯れ葉だけを見つめている。
しばらくして顔を上げた彼女の顔は苦悩に満ちていても泣いてはいなかった。
そんな彼女の強さも愛おしい。
オスカーはロザリアの髪についた落ち葉を取り上げると、その茎を指先でくるりと回した。
「ロザリア。」
呼ばれて彼女が青い瞳を向けた。
「俺のところへ来てくれ。君を泣かせたりはしない。」
ロザリアからの答えはもちろん無かったが、オスカーはそれでも構わなかった。
あのことに囚われているオリヴィエは決してロザリアを愛さない。
いや、本心では強く愛しているだろう。
けれど、その想いが表に出ないのであれば、無いものと同じだ。
事実、彼女は愛されていないと思っているのだから。
枯れ葉が音もなく舞い落ちる。
「送ろう。俺のお姫さま。」
オスカーはロザリアの手をとると、先に立って歩き出した。
ロザリアも無理に振り払おうとせずに、静かに手を引かれたままでいる。
拒絶されなかったのは、ただ驚いているからだとオスカーにもわかっていた。
それでも細い彼女の指が自分の手に触れていると感じるだけで、喜びがあふれてくる。
候補寮までのわずかな道をオスカーは出来るだけゆっくりと歩いていった。
「はあ~、やっぱりオスカー様、本気でロザリアのこと…。」
少し離れた木の影から、アンジェリークの金の髪が飛び出した。
「まあ、このあいだからなんとなく、そんな気はしていましたけどねぇ。まさか、あのオスカーが…。」
並んで姿を現したのは勿論ルヴァだ。
二人で候補寮へ向かう道、偶然目にしてしまったロザリアとオスカーの姿。
ルヴァは不思議な気持ちで二人の後ろ姿を見つめていた。
オスカーは聖地に上がってきた時から、あのオスカーで、数え切れないほどの武勇伝を自慢にしてきたほどだ。
全部の行状を知るはずはないけれど、ルヴァのような者にでも耳に入るほどなのだから、大したものだろう。
プレイボーイとの噂を全て真実だとは思っていなかった。
お互いに遊び遊ばれる関係。女性を連れたオスカーを目にするたびに、そう感じていたからだ。
どこか冷めたアイスブルーの瞳を携えて、いつでも別の女性に愛を囁く姿。
全ての女性の恋人とは、誰の恋人でも無いに等しい。
そんな彼がさっき、まるで子供のようにロザリアだけを一心に見つめていた。
「ロザリア、オスカー様のことを好きになればいいのに。」
唇を尖らせて呟くアンジェリークにルヴァは目を丸くした。
「おや、アンジェリーク。あなたはこの間まで、オリヴィエとのこと応援していたじゃありませんか。」
「だって。」
キッと緑の瞳に睨みつけられる。
「オリヴィエ様はロザリアを傷つけたわ。わたし、許せない。 でも、ロザリアはまだオリヴィエ様が好きだから…。
見ていられないんです。 がんばり過ぎてて。…わたしばっかり…。」
どうしようもないことはアンジェリークにもわかっている。
だからアンジェリークはくっと緑の瞳を見開いたまま、足元に舞う枯れ葉を見つめている。
泣かないように、必死でこらえるアンジェリークの背中をルヴァがそっと支えた。
「本当に、人の心というものはわからないものですね…。こんな私でさえ、貴女を好きになってしまったんですから。」
オリヴィエへの怒りはロザリアへの友情の裏返しだ。
素直なアンジェリークの想いはルヴァにもよくわかる。
ただ、ルヴァにとってはオリヴィエも古くからの友人だ。
「アンジェリーク。オリヴィエを嫌わないであげてください。 その、彼は、誤解されがちですが、とても心の綺麗な人なんですよ。
だからこそ、美しさをつかさどる夢の守護聖なんです。
たしかに彼のロザリアに対する仕打ちに関しては酷いと思いますが、私は、彼にもなにか事情があるのではないかと、そう思えて仕方がないんですよ~。」
ルヴァも考えていた。
オリヴィエが楽しんで人を傷つけるとは考えられない。
きっと、なにか深い理由があるはずだ、と。
「ルヴァ様…。わたし、ロザリアのために何かしてあげられないんでしょうか…?」
アンジェリークはきっと、誰かを嫌うことよりも、誰かを愛することの方が向いているのだろう。
そんなアンジェリークの心をルヴァは改めて愛おしいと思った。
彼女には女王の慈愛の資質が備わっている。
その事実が決して喜ばしいことばかりではないことは、わかっているけれど。
「貴女の気持ちは、きっとロザリアにも通じていますよ。…今はまだ、見守ってあげてください。
もしロザリアの心がオスカーに向かった時も、貴女が認めてあげれば、ロザリアは救われるはずですから。」
彼ら3人のうち、必ず誰かは恋を失う。
想う人に想われるということは、なんて奇跡的なことなのだろう。
ルヴァは傍にいるアンジェリークの金の髪を優しく撫でた。
オリヴィエも、オスカーも、ロザリアも。
皆が幸せになる道は決して無いことが辛い。
「はい。 わたし、ロザリアを信じてます! …オスカー様だといいな、とは思いますけど!」
ようやく笑顔を見せたアンジェリークにルヴァはほっと安堵の息を漏らしたのだった。
次の日から、オスカーはロザリアへの好意を隠さなくなった。
朝は候補寮の馬車を出迎え、昼はランチへ誘い、お茶の時間になれば彼女を探して歩いていた。
「あ、オスカー様! ロザリアならここですよ!」
ルヴァの執務室からふわふわした金の髪が手招きしている。
流れていたバイオリンの調べがふいに止まり、「アンジェリーク!」とロザリアの叫ぶ声がした。
どうやら3人でティータイムの予定だったらしい。
中庭から窓を見上げたオスカーは、アンジェリークに手を挙げて合図をすると、ルヴァの執務室に向かって歩き出した。
ルヴァの執務室のドアは開け放たれていて、窓から抜ける風が頬を撫でていく。
オスカーのピアスも風を受けて、軽く音を鳴らした。
「オスカー様!こっちですよ!」
アンジェリークが立ち上がって、ロザリアの隣をあけてくれる。
「すまないな、お嬢ちゃん。」
軽いウインクで礼を返せば、アンジェリークは嬉しそうにクスッと笑った。
ここのところアンジェリークは驚くほど協力的だ。
もうオスカーの方としては協力できることは何もないというのに、こうして率先してオスカーを受け入れてくれている。
そうなれば、ロザリアとしても拒否はできない。
バイオリンを抱えているロザリアの隣に座ったオスカーは、彼女に優しく微笑んだ。
彼女からはにかんだような笑顔を返されたくらいで、ときめく胸が忌々しいくらいだ。
今までなら、軽く肩を抱いていたかもしれない。
けれど、オスカーは失礼のない距離を空け、足を組んだ。
わずかに頬を染めたロザリアがバイオリンを胸に抱え直したのを、オスカーがとけるような瞳で見つめている。
アンジェリークは満足そうにルヴァに目くばせすると、お茶菓子をあさり始めた。
「これ、堅焼きせんべいって言うらしいんですけど、本当にすっごく硬いんです
齧るのも歯が痛いし、オスカー様、割ってもらえませんか?」
アンジェリークが取り出したのは、丸い平べったい食べ物。
オスカーはそれを受け取ると、両手の指先にほんの少し力を込めて、真っ二つに割った。
「わ!すごいです~! ルヴァ様ったら、『無理です~~。』なんて言うんですよ?」
喋りながらオスカーの手から割れたせんべいを取り上げると、一つは自分の口へ。
そしてもう一つはルヴァの口へと放り込んだ。
「おいしい~!」
二人の熱々ぶりに当てられてように、ロザリアは目を丸くしている。
そのロザリアに隠れるように、アンジェリークがそっとオスカーにウインクした。
「はい、もう一枚。」
アンジェリークに渡されたせんべいを再びオスカーは半分に割った。
小気味の良い、割れる音。
そして、割れた片方を自分の口へ。もう片方をロザリアの前に差し出した。
ロザリアは目を丸くしたまま、オスカーを見つめたかと思うと、小さく口を開けている。
オスカーがせんべいをさらに口に近付けると、彼女はそれにかじりついた。
いつものロザリアなら絶対にしない、お行儀の悪いこと。
「悪くないな。」
「でっしょー!」
オスカーとアンジェリークの頷いた様子に、ロザリアは一瞬眉を寄せると、すぐに顔を真っ赤にした。
二人にからかわれたとわかったのだ。
「もう! おやめくださませ! …アンジェ、あんた、後でおぼえてらっしゃい!」
「やだー!!」
「どうせなら口移しの方が俺らしくないか?」
「そうですね、やってみたらどうですか?」
「おっと、お手本が先だろう?」
「やめてください~~。オスカー、アンジェリークを煽るのは~~~。」
楽しそうな声が窓越しに聞こえてきて、オリヴィエは開けていた窓を閉じた。
ロザリアの声が聞こえてくると窓を開ける習慣を卑しいと思いながらもやめられない。
このところ、ロザリアはよくルヴァの執務室に来ている。
育成の勉強にもルヴァの知識は役立つだろうし、なによりもアンジェリークの恋人だ。
連れだって執務室を訪れることも、そうおかしなことではない。
隣り合わせの部屋だから、お互いに窓を開けていれば、彼女達の話し声が聞こえてくる。
楽しそうなロザリアの笑い声に、オリヴィエは安堵しながらも、どこか淀んでいくような気がしていた。
こうして時がたてば、彼女の傷も癒えていくのだろう。そして、オリヴィエのことを忘れてしまう。
忘れられないのは自分だけ。
さっきまで聞こえていたロザリアのバイオリンは以前のような快活さを取り戻しているように思えた。
今頃はオスカーと、ルヴァの淹れる苦い緑茶を飲んでいるのだろう。
「やっだー!」
アンジェリークの大きな声が壁越しに聞こえてきて、オリヴィエは苦笑した。
アンジェリークはオリヴィエを見ると、明らかに挑戦的な目をする。
嫌われているのだろう。無理もないが、あそこまであからさまだとむしろすがすがしい。
逆にロザリアはひっそりとオリヴィエの視線を避けるようにしている。
あんな仕打ちをしたオリヴィエを責めることも、怒ることもなく、たんたんと試験を進めている。
育成は3/4を過ぎ、ややロザリアがリードした状態だが、まだ結果はわからない。
試験のあと、彼女達がどういう選択をするのかはわからないが、おそらくどちらが女王になっても片方を補佐官にするだろう。
「おいおい、お嬢ちゃん達、あんまり俺をいじめないでくれ。」
オスカーのおどけたような声に、心の淀みが深くなる。
この先、聖地で、オスカーとロザリアが結ばれていくのを、ずっと見続けなければならないのか。
その日が来た時に、自分は心を保っていられるだろうか。
再び、バイオリンの音が聞こえてきた。
今度は窓を開けず、オリヴィエは耳をふさぐように、部屋を飛び出した。
かすかに耳を打つ、扉の音。
その音にロザリアは思わず吐息を漏らした。
目の前の三人は、ロザリアの奏でる音に聞き入っているようで、その小さな吐息には気づかなかったらしい。
ロザリアは早めに切り上げようとテンポを上げ、演奏を一気にコーダへと持っていった。
弓を下ろしたロザリアに、アンジェリークが拍手を浴びせる。
「素敵! やっぱりロザリアのバイオリン、いいよね~。」
オスカーをちらりと見たアンジェリークの視線につられてロザリアも目を向けると、オスカーも唇に笑みを乗せて手を叩いている。
ロザリアはキチンと淑女の礼をすると、ケースを手に取った。
「そろそろ図書館へ行ってきますわ。 ルヴァ様、美味しいお茶をありがとうございました。」
「いえいえ~、またいらしてくださいね。」
穏やかなルヴァの口調に、ロザリアも頬が緩む。
「あんたもルヴァ様にちゃんと教わりなさいよ? せっかく最近順調なんだから。」
「うん!」
隣に座っているアンジェリークもにっこりとした笑顔でロザリアを見送った。
ルヴァもアンジェリークも人の心を和ませる才能がある。
高飛車で傲慢だった自分をここまで受け入れてくれたのは、アンジェリークが初めてだ。
もう一人、ロザリアの心に寄り添ってくれた彼はもう手が届かないけれど。
ロザリアは廊下に出て、閉じたままの隣の扉にため息をついた。
部屋にいないことはわかっている。足音が遠ざかっていった方向も。
追いかけたいと思う気持ちを必死に押さえつけるように胸に手を当てた。
「さあ、まだもうひと頑張りできますわ。」
言い聞かせて、図書館へと歩き出した。
「オスカー様は行かないんですか?」
アンジェリークに問われて、オスカーははっと顔を上げた。
ロザリアが出ていくのには、もちろん気づいていたが、ただ会釈することしかできなかった。
「ロザリア行っちゃいましたよ?」
アンジェリークは首をかしげている。
「おっと、それは失礼したな。お嬢ちゃん達のお邪魔をするつもりはないから、安心してくれ。」
「オスカー様~。わかってるんなら、早くどっか行ってください。」
笑いながら、アンジェリークがオスカーの背中を押し、部屋から追い出した。
守護聖には不敬すぎるほどの態度なのに、アンジェリークがやると嫌味にすら感じない。
オスカーはロザリアが向かうと言っていた図書館を頭に思い浮かべたが、足はそちらに向かなかった。
気がついてしまったのだ。
ドアの開く音に、ロザリアが見せた瞳の揺れ。
切ない吐息。
ルヴァの部屋を頻繁に訪れていた理由の一つが、それだったのだろう。
壁の向こうにいるオリヴィエを彼女は今も。想っている。
オスカーは中庭にたたずんでいた。
緋色の髪はたおやかな花園には異質すぎるほどに鮮やかだ。
花壇に咲く白薔薇に触れると、その棘がオスカーの指に痛みを与えてくる。
可憐な花にその意思はなくても、その棘は誰かを傷つけている。
オスカーは痛みがくると知りながら、その薔薇を手折った。