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16.


土の曜日、視察を終えたロザリアはデートの約束があると言って走り出したアンジェリークを見送った。
自分には取り立てて用事もない。
午後から何をして過ごそうかと考えながら部屋で紅茶を飲んでいると、ばあやが来客を告げた。
「オスカー様。いらっしゃいませ。」
執務服とは違うラフな服装ももう見慣れたものだ。
黒のシャツを軽やかにはおり、さっとウインクをしたオスカーが、白薔薇のブーケを持って現れた。
「もしこの後に予定がなければ、俺とデートでもどうだ?」
「デート? 守護聖様としてのお誘いでしたら、ご一緒しますわ。」
ツンと顎を上げたロザリアはもらった白薔薇を花瓶に生けながら、冗談めいた口調で言った。

告白はまるで嵐のような激しさだったのに、あれからオスカーはロザリアになにも仕掛けてはこなかった。
ただ気がつくと一緒にいることが多い。
『君の傍にはいつでも俺がいる』
その言葉を実践するように、彼はロザリアを優しく包み込んでくれる。
暖かな優しい瞳。
愛されることの居心地の良さに、流されてしまいそうになる自分がいる。

ロザリアは白薔薇の香りに目を細めて、花の向こうで物想いに沈んでいるオスカーを盗み見た。
いつも饒舌なほどの彼が黙り込んでいる。
今日のオスカーは少しいつもと空気が違っていて、まるで彼自身が、鋭い棘を持つ薔薇のように見える。
紅茶を用意してくれたばあやが、ちょっと買い物に行く、とロザリアに告げて出ていった。
土の曜日は使用人もおらず、しんとした候補寮には人の気配がない。
重たい沈黙が、二人の間に横たわった。


「ロザリア。」
突然、オスカーがロザリアを抱きすくめた。
背後から加わる強い力にロザリアはなんとか腕から逃れようと身体を捩る。
「なにをなさいますの!」
思わず強い口調でオスカーを咎めたが、彼は一向に力を緩めず、露わになったロザリアの首筋に唇を落とした。
陶器のように滑らかな肌は唇に吸いつくようだ。
ロザリアが身体を捩ると、長い髪が揺れ、辺りに花の香りが漂う。
生けてある薔薇の香りよりも官能的なロザリアの香りに、オスカーは追い立てられるように唇を移動させていった。

「止めて!」
悲鳴のような声をオスカーは唇で抑え込んだ。
彼女の細い身体を片腕で抱きしめ、もう片方の手で強引に顎を持ち上げる。
振り向くような形で強引にキスを奪うと、オスカーは彼女の身体を反転させ、壁際で抑え込んだ。
「イヤ…。」
両手を壁に押しつけられ、唇をふさがれたロザリアは苦しげに吐息を漏らすことしかできない。
オスカーは角度を変え、何度も彼女の唇を貪った。

ようやく唇を離したオスカーの耳に乾いた音が響く。そして頬に広がる痛み。
打たれたのだ、と気がついて、オスカーは乱れた前髪をかきあげた。
ふと目を上げると青い瞳を潤ませて、ロザリアは身体を震わせている。
泣かせたい訳ではないのに。
オスカーの胸に刺すような痛みが降りて来る。

沈黙の後。
「お帰りになって。」
さっきまで潤んでいた瞳に、今は強い怒りが滲んでいた。
力づくで唇を奪われた屈辱が、彼女の頬を染め、青い瞳をいつもよりも強く輝かせている。
感情を露わにした彼女の瞳は抗いようがないほど美しい。
堕ちるしか、ない。
オスカーは一つ、大きなため息をつくと、彼女の手をとった。


「俺をどう思っている…?」
オスカーはロザリアの青い瞳をじっと見下ろした。
「さっきのことはすまなかった。なにを言っても言い訳にしかならないが…。」
オスカーの表情がかすかに歪んでいる。
苦しさを押し殺したようなその顔に、ロザリアは息をのんだ。
いつでも自信にあふれ、司るサクリアそのもののように、強い人。
その彼にこんな顔をさせているのが、自分なのだと思うと、胸が痛い。
さっきの怒りが急速に沈んでいき、かわりに戸惑いが心を駆け巡る。

「嫌い…か?」
「いいえ! 嫌いだなんて…。そんなこと!」
大きく首を振ったロザリアの肩に、オスカーの掌が乗る。
手の温度が彼の熱のように熱い。
「じゃあ、好き…か?」
ロザリアはうつむいていた。
オスカーのことは嫌いではない。どちらかといえば好きだ。
でも、彼の望む『好き』とはきっと違う。だから、頷くことができない。
彼女の答えを感じ取ったオスカーはしばらく黙り込んだ。
肩に乗せられたままの掌が、震えているようで。
ロザリアは顔を上げることができなかった。

「アイツの家のリビングのサイドボードの上に写真がある。」
「え?」
突然のオスカーの言葉にロザリアは耳を疑った。
アイツというのはおそらくオリヴィエのことだろう。
「そのすぐ下の引き出しにも何枚もな。」
どことなく暗いオスカーの声よりも、ロザリアはオリヴィエのことですぐに頭がいっぱいになった。
オリヴィエの家には何度か訪れたことがある。
サイドボードにはお酒やグラスや綺麗なものがたくさん並んでいたが、その中に写真はあっただろうか。
思い出せない。
考えこんでいたロザリアの肩がふいに軽くなる。
オスカーの掌が離れたのだ、と気づいた時、すでに彼の姿はドアに消えていた。



ほんのり薄闇が辺りを包み始めた頃、ロザリアはオリヴィエの家の前に立っていた。
オスカーの言葉がどうしても気になって頭から離れない。
一体、オスカーはなにをロザリアに告げようとしたのだろう。
あの彼が、直接口にできないような何かをオリヴィエは隠しているのだろうか。
自分が唾棄すべき考えを持って、この場にいることを、ロザリアは理解していた。
オリヴィエの豹変に理由があるのならば。
それを知ることで、以前のような関係に戻れるかもしれない。
その誘惑にどうしても耐えられなかったのだ。

薄暗い窓が、この屋敷が無人であることを伝えている。
ロザリアはもう一度辺りに目をやり、誰もいないことを確認すると、屋敷のドアに手をかけた。
オリヴィエがいつも鍵をかけないことは知っている。
回した瞬間、ひんやりと隙間から流れてきた空気にロザリアは身を震わせた。
部屋の配置ももちろん良く覚えている。
アイボリーのよく磨かれた床をまっすぐに進み、一番最初に現れる繊細な彫刻の施されたドア。
そこがリビングと言われる場所だ。
ソファのうえで、初めての大人の口づけを交わした時のことが、まるで昨日のことのようにはっきりと思いだされる。
あの愛に満ちたダークブルーの瞳を見ることはもうできないのだろうか。
思わず睫毛を伏せ、溜息をついてしまう。

そのまま左手奥のサイドボードにロザリアは近付いた。
この前と微妙に配置が換わっている。
センスの良い小物が飾られていたその場所は、すっきりと片付けられ、今はいくつかの香水瓶が飾られているだけだ。
オスカーの言っていた写真は、すぐに目にとまった。
細かな細工の銀のフレームに、仲睦まじげに映る男女。
フレームを手にとって、ロザリアは写真をまじまじと見つめた。

男は間違いなくオリヴィエだ。
今よりも少し若い印象だが、その美貌は先日目にしたままの男性的な姿。
そして、彼の隣でにこやかに微笑む女性。
ロザリアとそう変わらない年齢の、まだ少女と言ってもいいくらいだろう。
すまして見せてはいるものの、その表情はどこか楽しげで、今にも飛び出してきそうなきらめきがあった。
美しい黒髪。印象的な青い瞳。
オリヴィエと並んでも遜色のない美しい少女に、ロザリアの心に燃えるような激情が湧き上がった。
嫉妬という醜い感情。
それは理性や教養を彼女の中から簡単に消し去ってしまう。
ロザリアは激情のまま、オスカーに教えられた引き出しを開け、中の写真をとりだした。
色とりどりのドレスを着た少女とオリヴィエ。
どの写真にも幸せそうな二人がいた。

オスカーはこのことが言いたかったのだろうか。
一瞬の激情が去った後、ロザリアは静かに息を吐いた。
オリヴィエには想う女性がいる。だから、ロザリアの想いは決して受け入れられない。
彼が見せてくれた優しさは、やはりただの戯れだったのだ。
改めて突き付けられた事実に、ロザリアはいっそこのまま息絶えてしまえばいいのに、とさえ思った。
手にした写真を改めて見つめ直してみる。
オリヴィエに愛されている女性が、ロザリアを見つめ返してくるようだ。
その青い瞳に、ロザリアは不思議な既視感を覚えた。
自分とよく似たサファイヤブルー。
同じ瞳をどこかで、見たことがある。そんな気がした。



「なにしてんの?」
深い思考の淵に落ちていたロザリアを、オリヴィエの鋭い声が引き上げる。
はっと顔を上げると、暗い影を帯びたダークブルーの瞳がロザリアを見つめていた。
オリヴィエはヒールの音を鳴らして、ロザリアに近付くと、彼女の手から写真を奪った。
驚いて、抵抗どころか声を出すこともできず、ロザリアは茫然とオリヴィエに目を向ける。
あと少しで、思い出せそうだったのに。
目の前にあった細い記憶の糸がふっと掻き消えた。

「勝手に人の家に上がり込むなんて、泥棒みたいじゃないか。 女王候補のお嬢様がそんな真似するなんてね。」
鼻を鳴らすように嘲笑するオリヴィエの言葉にロザリアはカッと頬を染めた。
留守に勝手に上がり込んだことは紛れもない事実だ。
嘘のつけない性格のロザリアはただ黙るしかなかない。

「申し訳ありません。」
素直に頭を下げたロザリアにオリヴィエは何も言わなかった。
写真を揃え、元の引き出しにしまい、ロザリアをじっと見下ろしている。
いたたまれないような冷たい視線。
ロザリアは再び頭を下げた。
彼の思い出に土足で踏み込んだのだ。許されないことだと覚悟していた。

頭を下げたままじっとしていると、首にかけていたネックレスが肩を滑ってきた。
スクエアネックのワンピースの鎖骨に小さなサファイヤが揺れている。
小さくても凛とした輝きを放つサファイヤブルー。
ロザリアは思わず顔を上げていた。
「大おばあさま…?」
自分の口から零れたつぶやきに、オリヴィエの顔が凍りついたのがわかった。


ロザリアはサイドボードに戻されていた銀のフレームを再び手に取った。
すぐには気がつかなかった。
カタルヘナ家の一室には、代々の当主とその妻の肖像画がある。
そのなかでも大おばあさまの肖像画は、群を抜いて美しかった。
まっすぐにのびた豊かな黒髪をサイドに流し、凛とした大きな青い瞳で絵の前に立つ者を圧倒する。
ロザリアも何度、その肖像画を本人と一緒に見たことだろう。
繋がれた手に年月を経た年輪が刻まれていても、彼女は凛としていた。
若かりし日の思い出話を静かに語ってくれる。
ロザリアは曽祖母と、そういった静謐の時間を共有することを好んでいた。
マニュアルのマナーにうるさい母や祖母の目を離れ、二人で向き合う時間。

「ロザリア。貴女は私によく似ているのね。 だから、貴女もきっと忘れられない恋をするわ。
 これをあげましょう 貴女をその恋へと導いてくれるはずよ。 それに…。」
肖像画の前で、大おばあさまはロザリアにこのサファイヤのネックレスをくれた。
それはロザリアの持つ多くのネックレスよりも小さく、おそらく価値の少ないものだっただろう。
けれど、ロザリアはそのネックレスが大好きな曽祖母の胸元をしばしば飾っていたことを知っている。
だから、精いっぱいの淑女の礼をして答えた。
「はい。大おばあさまのお望みの通りにいたします。」
その言葉で、彼女は深い笑みを浮かべた。
「可愛い私のレディ。いつでも貴女を見守っているわ。」
結局あの日が最後だった。
それからすぐに曽祖母は体調を崩し、そのまま帰らぬ人となってしまったから。
写真立ての中の少女は、まさにあの肖像画の少女だった。


「気づいちゃったか。」
恐ろしいほどの沈黙を先に破ったのはオリヴィエだった。
軽い声音と小さく竦められた肩。
すでに闇に近いほどの暗い部屋に凍るように張り詰めた空気が流れている。
写真を凝視していたロザリアが、その声に顔を上げてオリヴィエを見た。
ロザリアの綺麗なサファイヤブルーが淀んでいる。
困惑と絶望。
オリヴィエはその瞳を避けるように、彼女の足元に視線を向けた。

「聖地に来る前に、私は彼女を愛してた。 他のモノなんて全部捨ててもいいと思うくらいにね。
 でも、運命はそれを認めてくれなかったんだ。
 彼女は身売りするみたいに大貴族様に連れてかれたし、私もこうやって、守護聖なんかやってる。」
望んで別れた、とは言わなかった。
泣く泣く引き裂かれたのだと思わせた方が都合がいい。

「忘れたって思ってた。もう、とっくに諦めたってね。
 聖地と下界の時間の流れの違いはあんたも知ってるだろう? 二度と会えないってこともわかってたし。」

耳をふさぎたいのに、ロザリアの身体はピクリとも動かない。
オリヴィエの言葉が針のように全身に刺さって、血が噴き出してくるようだ。
茫然としているロザリアに、オリヴィエは小さく笑った。

「あんたのこと、好きかもしれないって思ったんだよ。
 だけど、あの日、あんたと彼女の関係を知って、わかったのさ。 私が愛してるのは、誰でもない、彼女。
 リアーヌだけなんだって。
 あんたの中の彼女が、私をここまで惹き寄せているだけなんだって。
 そう思ったら、あんたへの興味は無くなってた。…わかってくれた?」

オリヴィエの言葉を聞きながら、ロザリアはあの日、急に態度を変えたオリヴィエのことを思い出していた。
ロザリアの淡い初恋を話した時、オリヴィエは顔色を変え、彼女を突き放したのだ。
あんな話をしなければ、今、自分は彼の隣で笑えていただろうか。
それとも、いつかは彼自身が気づいたのだろうか。

「お葬式にいらしていたのは、あなたでしたの…?」
この期に及んで何を。そう思っても止まらない。
「そう。 リアーヌのことはずっと気にしてた。 でも、あの時は本当に偶然でね。
 式にピッタリで行けるなんて、考えてもいない僥倖だったよ。」

ロザリアの頭の中に、あの日のオリヴィエが浮かんだ。
白薔薇のブーケは、きっと天に召された大おばあさまへの約束だったのだ。
彼から漂うどこまでも深い悲しみに、幼いロザリアは心惹かれた。
長い年月がたって、同じ横顔をあの場所で見た瞬間、たとえようもなく恋に落ちてしまうほどに。

「あんたを見ると、リアーヌを思い出すんだ。」
ロザリアがもし、オリヴィエを見ていれば、その言葉を発した時の彼の苦しみに気づくことができたかもしれない。
けれど、ロザリアは今知った事実に心を打ちのめされていた。
深く傷ついた心に、周囲を見遣る余裕はない。
彼にとって、自分は、過去の傷をえぐるだけの存在。
息が止まりそうなほどの衝撃に、ただうつむき、耐えるしかない。


ロザリアはワンピースの両裾を軽く摘み、静かに淑女の礼をした。
オリヴィエに最大の礼を持って別れなければいけないと思うのに、どうしても、彼の顔を見ることだけはできない。
うつむいたまま、彼の横を通り過ぎる時、いつもの香りが鼻先をかすめた。
ぐっとこみあげるモノを喉の奥に押し込み、ロザリアは闇の中へ走りだした。
一度でも立ち止まれば、もう歩き出すことができなくなりそうな気がした。

月明かりが部屋の中ほどまでを照らし始めて、ようやくオリヴィエは顔を上げた。
出ていくロザリアの腕を引き、この胸に抱きしめてしまいたかった。
過去を後悔はしていない。リアーヌを愛したことも。
ただ与えられた運命の過酷さを嘆くだけだ。
愛してはいけない人に出会ってしまった運命を。



行くあてもなく、ロザリアは候補寮への道をたどっていた。
こんなときでも、帰る場所は一つしかないのが可笑しい。
すでに夜が忍び寄り、人影もほとんどない。
ヒールが石畳を打つ音がやけにはっきりと聞こえ、ロザリアはその音で自分が歩いているのだと実感できた。
身体と心がまるで別々のモノのように、意識が遠い。
オリヴィエは自分を好きではなかった。
あの優しい瞳も、甘い囁きも、全ては自分の中の彼女に贈られたもの。
ロザリア自身には何一つなかったのだ。何一つ。
吐き出さずに堪えた錘が胸の奥に溜まり、逃げ場を求めていた。
けれど、泣いたところでなにも変わらないことを、この飛空都市に来てから嫌というほど思い知っている。
ロザリアはベッドにもぐりこむと、泥のように眠りに落ちたのだった。


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