17.
新しい週になって、ロザリアは図書館へ通い詰めていた。
アンジェリークに何度も一緒に勉強しようとルヴァの執務室に誘われたが、全て断っている。
今まで隣の部屋にいるオリヴィエを少しでも感じていたくて、強引についていっていたくせに、きっとアンジェリークも呆れているに違いない。
いつの間にかロザリアの定位置になっている図書館の一番奥の席は窓から少し離れているせいで、どんな晴天でも直接日が当たることがない場所だ。
探さなければ、誰にも見つからない場所。
一人でいたいロザリアにとって、そこはとても居心地がよかった。
今日ももくもくと資料を読み続けていたロザリアは、昼近くになって足りない資料があることに気がついた。
おそらくルヴァのところに行けば、手に入るだろう。
けれど、候補寮まで取りに戻ろうか、ルヴァのところに借りに行こうか迷って、取りに帰ることに決めた。
少しでも、オリヴィエに近付くことが怖かったのだ。
ロザリアを見て、彼が不愉快な顔をしたら。
これ以上傷つくことなどないと思うのに、胸が痛くなる。
馬車がなければ、30分ほど歩くことにはなるが、穏やかな飛空都市の気候は、散歩にはちょうどいい。
いい気分転換にもなるだろう。
図書館を出たロザリアがゆっくり歩いていると、草を分けるように、馬の蹄の音が聞こえた。
「どこへ行くんだ?」
手綱を引き、ロザリアの隣に馬を止めたオスカーが声をかけた。
週が変わり、聖地に呼ばれていたオスカーは、ようやく今、飛空都市に戻ってきたところだった。
すぐにでも会いたいと思っていたロザリアに思いがけない場所で会えた喜びで声が弾んでしまう。
けれど彼女はそんなオスカーに気づく様子もなく、いつも通りに答えた。
「寮ですわ。忘れ物を取りに参りますの。」
馬上からでは、彼女の青紫の髪しか見えない。
「乗っていくか? 歩くよりは早いぜ。」
からかうようにかけた声に、ようやくロザリアが顔を上げた。
気まずく別れた土の曜日のことなど、彼女はすっかり忘れたような顔をしている。
実際、その後の出来事のショックが大きすぎて、オスカーからのキスの記憶はおぼろげになってしまっていたのだが。
「よろしいんですの?」
ほっとしたオスカーは大げさににやりと笑って見せた。
「ああ。ただし、俺にしがみつくこと。君にできるか?」
「あら、わたくし、馬は慣れていますの。 馬だけ貸していただいてもよろしくてよ?」
ロザリアが言い終わるよりも前に、オスカーの腕が彼女を抱えあげる。
すると、ロザリアは、器用に鐙に足を乗せ、自らすとんとオスカーの前に腰を下ろした。
横に座り、馬の首に手を置く仕草も見事になれていて、オスカーは苦笑するしかない。
「たしかにこれならしがみつく必要はないな。」
ロザリアはつんと顎をあげ、得意そうに青い瞳を細めている。
オスカーが歩様をなみあしに変えると、気持ちのいい風が馬上を通り過ぎ、ロザリアの青紫の髪がふわりと風に揺れた。
しばらく馬に揺られていると。
「オスカー様。」
「なんだ?」
「教えていただいてありがとうございました。」
オスカーは手綱を握り締めた。
彼女の言葉は穏やかで、素直だ。
「…見たのか?」
見せるように仕向けたのは自分なのに、彼女の言葉の続きを聞くことが恐ろしかった。
「はい。 オスカー様がおっしゃっていたこと、わかりましたわ。
オリヴィエ様はわたくしを愛して下さらない。 わたくしを…。」
我慢していたものがあふれそうだ。
ひとすじ涙がこぼれると、もう止められなくなった。
次から次へと流れてくる涙に、ロザリアは両手で顔を覆った。
声を殺して、静かに泣く彼女をオスカーの腕がそっと包み込む。
肩に触れた力強い手、額に触れる広い胸。
泣いていいのだと言われた気がして、ロザリアはしばらく彼の腕の中で涙をこぼし続けた。
遠回りして踏み込んだ先は、草の広がる丘の上。
馬上を流れる風は、平地よりもわずかに冷たい。
ようやく乱れた息を直して、ロザリアが呟いた。
「オスカー様には、ご迷惑をかけてばかりですわ。」
「俺は喜んでいるんだぜ。君が泣ける場所が俺の胸だってことにな。」
からかうような言葉と裏腹な、真剣な声音。
肩に置かれたままの彼の手のぬくもりが、悲鳴を上げそうな心まで溶かしてしまうようで。
「わたくしを愛して下さいますか…?」
流されることの弱さを知りながら、ロザリアはすがってしまった。
「愛している。 君だけだ。 どんな世界でも、なにがあっても変わらずに君だけを愛すると誓おう。
…信じてほしい。」
オスカーは彼女を抱く腕にほんの少し力を込めた。
強くすれば、壊してしまいそうなほど細い身体。
求めてやまない愛しい少女が、今、自分のもとで羽を休めようとしている。
その瞬間を手放したくなかった。
「では、信じさせてくださいませ。わたくし、とても疑い深いんですのよ。」
「ここで心臓を取り出して見せれば信じてくれるのか? まったく、困ったお姫様に惚れちまったもんだ。 」
大げさに天を仰いで見せたオスカーに、ロザリアはようやく笑顔を見せた。
腕の中で可憐に咲く青い薔薇。
ロザリアを候補寮まで送り届けたオスカーは、まだ残る掌の傷跡を見つめた。
手折った白薔薇につけられた棘の痕。
どれほどの痛みを得たとしても。卑怯だと人に謗られたとしても。
彼女のためならば、受け入れる。
「お待たせしましたわ。」
資料を手にしたロザリアを再び抱え、オスカーは馬の脇を軽く蹴った。
来るとは思っていたが。
予想通りにドアを叩く音がして、ロザリアは笑ってしまった。
「ちょっといい?」
顔をのぞかせたアンジェリークにロザリアは机から立ち上がると、中へ入るように促した。
「もうばあやは寝たからお茶はないわよ。」
「えへ。持って来たもん。」
枕と一緒に手にしていたのは、お気に入りのマグカップ。
わずかに湯気の上がるカップにはきっとホットココアが入っているのだろう。
甘いチョコレートの香りが漂ってきた。
ベッドの上にちょこんと腰かけ、テーブルにマグを置いたアンジェリークは、ロザリアを上目づかいで見つめている。
ロザリアも飲み物を用意して、その隣に座った。
「見ちゃったわよ! 今日、オスカー様と二人で馬に乗ってたでしょ?」
わくわくした緑の瞳は好奇心でいっぱいだ。
でもその奥に心配するような揺らめきを感じて、ロザリアはため息をついた。
「ええ。忘れ物を取りにここまで戻った時に偶然通りかかったから、乗せていただいたのよ。」
「偶然?」
「オスカー様は聖地に呼ばれてずっとお留守だったじゃないの。本当に偶然よ。」
「そっか~。 てっきり約束してたのかと思った。」
つまんないの~と、唇を尖らせたアンジェリークに、ロザリアはくすっと笑みをこぼした。
「でも、今度の日の曜日にはお約束をしましたわ。」
「えっ!!」
ばっと顔を上げて、目を丸くしたアンジェリークは、ロザリアに掴みかかる勢いだ。
「ホント? じゃあ、オスカー様と?!」
「…ただお約束をしただけですわ。」
「嬉しい! ロザリアがそんなに楽しそうなの、久しぶりだもの。」
「アンジェ…。」
知らないうちにずいぶん彼女にも心配をかけていたのだと改めて思った。
気丈にふるまっていたつもりでも、親友にはなにもかもお見通しだったということだ。
「オスカー様なら安心だわ。 ああ見えて、すっごく真剣にロザリアのこと想ってるもん。」
「まあ。」
ごろんとロザリアの膝に頭を乗せたアンジェリークは、安心したように目を閉じた。
「ロザリアが幸せならいいの。ホントよ?」
ロザリアは広がるアンジェリークの金の髪を優しく撫でた。
腿に感じる頭の重みが、不思議なほど心を穏やかにさせてくれる。
「わたくしが女王にあったら、あんたを補佐官にしてあげるわ。 めちゃくちゃこき使ってやるんだから。」
「うふ。 もしかして私が女王になったら、ロザリアが補佐官だからね。」
「わたくしが負けるとでも?」
きらりと光る青い瞳は、負けん気の強いロザリアの瞳だ。
初めて会った頃、怖いくらいに思った、そのままの。
「負けない…と思うけど…。」
急に弱気になったアンジェリークの声にロザリアはくすくすと笑い声を立てた。
「あのね、アンジェ。 オリヴィエ様は悪くないのよ。」
金の髪を梳きながら、ロザリアは優しく話しかけた。
アンジェリークになら話してもいい。
「オリヴィエ様には守護聖になられる前から、とても好きな方がいらっしゃるの。
その方はわたくしとご縁がある方で、少し、わたくしに似ていますの。いいえ、わたくしが、その方に似ているんですわ。
だから、オリヴィエ様はわたくしに心惹かれていると、勘違いされたのよ。
本当は、その方だけを想っていらっしゃるのに。 もう二度と会うこともできない方を、ずっと。
とても愛情深い方なのだと思うわ。」
「ロザリア…。」
何気ない風に話すロザリアがとても強くて、綺麗で。
でも、その口調でまだオリヴィエを想っているのだとわかってしまう。
アンジェリークは飛び起きると、ぎゅっとロザリアの身体を抱きしめた。
「ロザリアだって、悪くない!」
「そうね。だから誰も悪くないの。…あんたもちゃんと、夢のサクリアをお願いしに行きなさい。
エリューシオンの望み、気が付いているんでしょう?」
オリヴィエに会いたくないばっかりに、このところエリューシオンには夢のサクリアが足りていないのだ。
ルヴァにも何度も指摘されていたが、オリヴィエの顔を見ると、文句を言ってしまいそうで足が向かなかった。
「今、どんどん発展しているところなんだから、次に進むために夢は必要なのよ。
前を見るためには希望がなくちゃいけないんだから。」
「…わかった。来週からは行くわ。」
唇を尖らせて、じとーっとした目つきでロザリアを見つめている。
気に入らないことがある時のアンジェリークの仕草だ。
「来週?」
「ロザリアとオスカー様のデートがうまくいったら!」
「もう!」
それからもしばらく話をして、気がつけば、同じベッドで眠ることになっていた。
一人じゃないことが、こんなにも励まされるなんて。
ロザリアはすっかり眠ってしまったアンジェリークに、「ありがとう。」と囁いて目を閉じた。
つんと顎を上げて、ロザリアが歩いていく。
オリヴィエは執務室の窓から、図書館へ向かう彼女の姿を眺めていた。
歩くたびに揺れる青紫の巻き毛。凛と前を見る青い瞳。
研究院でフェリシアの様子はチェックしているが、彼女の心の安定にしたがって、フェリシアも落ち着いているようだ。
このところ炎の力が増え、そのおかげか人々には向上心が芽生えているのだろう。
夢のサクリアは需要が減ってきている。
ロザリアの心と、同じように。
さして急ぎの執務もなく、ぼんやりとしていたオリヴィエは控え目なノックの音に我に返った。
「すいませんねえ。」
何もしていないのに、なぜか謝りながら入って来たルヴァにオリヴィエはソファへ座るように勧めた。
緑茶はない、と前置きして、オリヴィエは紅茶を淹れた。
まえまえから紅茶は好きだったが、ロザリアが来ていた時には毎日のように飲んでいたものだ。
こだわりのある彼女に合わせて、淹れる腕前も上達しているのだろう。
ルヴァは、湯気が顔にかかるのも構わずに、ずずっと紅茶をすすりあげると、「美味しいですねぇ~。」と感心したように呟いた。
「紅茶って、もっとなんていうか、味気ないものと思っていましたが、意外に味わい深いですねぇ。」
「これはちょっと緑茶に近いかもね。苦みがあるから。」
「そうですか~。たまにはいいかもしれませんね。」
うんうんと頷きながら、ルヴァはカップを傾けている。
突然訪ねて来たのには理由があるはずだが、ルヴァはなかなか話そうとしない。
最後まで飲み終えたところで、ようやく、切り出した。
「あなたは本当は不器用な人なんですねぇ。」
「は?」
「なんでも上手にこなすし、人づきあいにもそつがないし。ずっと生き方が器用なのだと思っていましたよ。
でも、それは、面倒事を交わして、深く関わっていなかったということなんでしょうね。」
「…まったく、それって、褒めてんの? けなしてんの?」
「けなすだなんて、とんでもない!」
びっくりしたようにグレイの瞳を丸くしたルヴァは、小さくため息をついた。
「でも、あなたならもっと上手なやり方があったんじゃないかと思ったんですよ。
それだけ、あなたがロザリアに深く関わってしまったということなんでしょう。
…ロザリアとあなたにはどんな関係があるんですか?
かつて愛した女性に似ているだけなんて、私は思っていませんよ。」
どうしてそのことを。
そう考えて、アンジェリークとルヴァが恋仲であることを思い出した。
アンジェリークは秘密を守れるタイプではない。
ロザリアがよほど口止めしない限り、何でもルヴァに話してしまうだろう。
それにロザリア自身もルヴァには話していいと思っていたのかもしれない。
「あんたの言う通り。 似てるなんて簡単なことじゃないよ。」
「ロザリアはその方の血縁なのですか?」
「ふふ。さすがだね。 そう、ロザリアは彼女のひ孫なんだ。
驚いたよ。 聖地と下界の時間の流れの違いなんて、いやってほどわかってたのにさ。
現実でこんなことがあると、動揺しちゃうんだから。」
ピンクのメッシュの入った髪をかきあげ、オリヴィエは形良い唇をわずかに歪めた。
皮肉な笑みは彼によく似合う。
ルヴァはカップを持ち上げた後、中身が空だったことに気づいて苦笑した。
「ああ、さっき飲んでしまったんでした~。 いえいえ、もういいですよ。 ちょっと、考えていたものですから。
それで、あなたは?」
「それで・・・って?」
聞きたいのはこちらだと、オリヴィエは眉をひそめた。
「もしかしてロザリアはあなたにとってもひ孫なんですか?」
鈍いようで、やはりルヴァは知恵者だ。
思わぬところから切り込まれた驚きで、オリヴィエは一瞬鎧を解いてしまった。
「なんで…。」
「私が、いえ、私達が何年、一緒にいると思っているんですか~? 聖地という美しい牢獄で、お互いはお互いの鏡のようじゃないですか。
あなたのロザリアに対する態度は、私の理解を超えていました。
アンジェリークから聞いた理由だけではとても…。
なぜ、あそこまで、と、ずっと考えていたんです。 やっと胸のつかえが取れました。」
どこかすっきりした顔のルヴァにオリヴィエは唖然とするしかない。
だが、彼の言葉を考えると、オリヴィエを悪人とは思っていなかった、とも取れるようで、それはそれで嬉しい。
「オリヴィエ。 不思議なものですね。 本来なら、私達は生まれた場所も時間も違う。
出会うはずのない人間です。 あなたとロザリアも、そうでしょう。
けれど、二人は出会ったんです。 そのこと自体が運命だとは思いませんか?」
真摯なグレイの瞳。
ルヴァの優しさはありがたい。けれど。
「運命ね…。」
その言葉に幾度裏切られただろう。
出会いも別れも、自分自身が選んだことなど一度もないのに。
オリヴィエに浮かんだ暗い笑みに、ルヴァは彼の苦しみを思った。