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18.


研究院のスクリーンに二つの大陸が映し出されている。
フェリシアとエリューシオン。
どちらも中央の島まであとわずかだ。
「二人ともよく頑張っている。」
ジュリアスの言葉に、ロザリアとアンジェリークはそれぞれに頭を下げた。
優雅な淑女の礼。ぴょこんと目いっぱい腰を折った礼。
ジュリアスは対照的な二人の礼に目を細めた。
頼りないと思っていた女王候補たちも、今では立派に女王にふさわしい人格を備えてきている。
どちらが女王となっても、問題ない。

ジュリアスに褒められた二人は研究院の外に出た途端に、軽やかな足取りに変わって歩き出した。
「うふ、よく頑張ってる、だって! 最初のころは、怖い顔ばっかりしてたジュリアス様が笑いかけてくださるんだもん~。わたしも成長したよね。」
「わたくしのほうが2個もリードしているのに、ジュリアス様ったら、二人ともだなんて!」
同時に口にして、思わず目を合わせ、また同時に吹き出した。
「やだ、ロザリアったら、相変わらず~。」
「あんたこそ、ちょっと褒められたくらいで、のぼせちゃって。」
ふざけ合いながら聖殿に着くと、アンジェリークは急に足を止め、ため息をついた。

「もうすぐ終わりなんだね…。なんか嘘みたい。」
アンジェリークの見上げた先には、澄んだ空が広がっている。
この飛空都市で、いろいろなことがあった。
ほんの数カ月の間なのに、今までのロザリアの人生全て以上に、喜びも悲しみも苦しみも詰まっていて。
「そうね…。」
自由に過ごせるのもあとわずかの時間。
どんな形であっても聖地に行けば、今までとは変わってしまうだろう。


「ずいぶん元気がないな。 俺のお姫様は。」
「オスカー様!」
軽くロザリアの手をとったオスカーはその手の甲に触れるような口づけを落とした。
蕩けそうなアイスブルーの瞳に、ロザリアの頬が染まる。
ストレートな愛情表現に照れるのは、傍で見ていたアンジェリークも同じだ。
「じゃ、じゃあ、わたし、先に行くね!」
お邪魔虫になる前に、と、いきなり階段を駆け上がっていくアンジェリークの背中をロザリアは恨めしそうに見つめた。
このごろ、アイスブルーの瞳が熱く見つめてくるから。
こんな風に二人きりにされるのには、少し困ってしまうのだ。

あの日から、ロザリアとオスカーは二人で過ごすことが多くなった。
繰り返し告げられる愛の言葉や包み込まれるような優しさ。
彼の差し出す手にすがっていれば、心の奥に残っている暗い淀みから目をそらしていられる。
オスカーに甘えていることは、ロザリアもよくわかっていた。
彼が答えを欲しがっていることも。ロザリアとの関係を一歩深めたいと思っていることも。
受け入れたい。 でも。
ロザリアは自分でも自分が良く分からなくなっていた。

「定期審査も終わったことだし、気分転換はどうだ? お姫さま。
 美味しいチョコレートが届いたんだぜ。君が好きだと言っていた店のモノなんだが。…俺の家に来ないか?」
オスカーの微妙に変化した声音に、ロザリアは気づかない。
「本当ですの? あのお店の?」
生家にいた時によく食べていたチョコレート。
偶然などではなく、わざわざ取り寄せてくれたに違いない。
ホームシックだと思われたくはなかったけれど、ディアのお茶会で出たチョコレートとつい比べてしまったのだ。
デートの時にぽつりと漏らした、自分の些細な言葉を覚えていてくれたのだとロザリアは嬉しかった。

「ああ。君はミルクが好きなんだろう?俺はビターだからちょうどいい。」
駈け出しそうになるのを、オスカーの手が引きとめる。
繋いだままの手。
いつかとは違う、指を絡めた恋人同士の手の繋ぎ方。
「急がなくてもチョコレートは逃げないぜ。」
からかうように耳元でささやかれた言葉に、ロザリアはまた頬を染めた。



チョコレートと美味しい紅茶。
定期審査でジュリアスに褒められた話、昨日聞いたアンジェリークとルヴァの話。
久しぶりに食べた懐かしいチョコレートの味は、ロザリアの気分をいつもよりも高ぶらせているようだ。
オスカーは時々、まぜっかえすような茶々をいれながら、ロザリアの声を聞いていた。
高飛車だったばかりの頃は甲高いばかりに思えた声も、こうして聴いていると魅力的に変わっているから不思議だ。
「オスカー様?」
つい、相槌を打つのも忘れて聞き入っていたら、彼女が小首をかしげてこちらを見ていた。
「ああ、すまない。つい小鳥のような君の声に聴き惚れていたんだ。」
「まあ、お上手ですこと。 うるさい小雀だと思っていらしたのでしょう?」

いたずらっぽく微笑むロザリアに、オスカーは手を伸ばした。
手を伸ばせば届く、隣にいる彼女。
このまま時を重ねていけば、いつかはきっと自分だけを見てくれるはずだ。
でも、もしも、そのいつかが来る前に。
じわりと背中を駆け上がる焦燥感がオスカーを追いたてる。
オスカーはロザリアの頬に手を添えると、そっと唇を近付けた。
今にも触れ合おうとした、その瞬間。
ロザリアがオスカーを避けるようにうつむいた。
「ごめんなさい…。」
重たい沈黙が、鋭く胸をえぐりとる。

「こうして君と過ごせるのも今日と来週くらいだろうな。…今日、君を帰さない、と言ったらどうする?」
熱い瞳の奥に、彼女への想いを余すところなく乗せて、オスカーはロザリアを見つめた。
弾かれたように顔をあげ、青い瞳が見返してくる。
「わたくしは…。」
その先を聞きたくなかった。
オスカーは彼女の両手を掴むと、そのままソファへと押し倒した。
驚いて丸く見開かれた青い瞳の中に、劣情を浮かべた自分の顔が映っている。
見るのが恐ろしくて、オスカーは彼女の首筋へと唇を寄せた。
甘い薔薇の香りが鼻腔をくすぐり、柔らかな白い肌の感触が唇に触れる。
耳朶を優しく食むと、ロザリアが大きく身体をよじった。

「おやめになって!」
首筋を這うオスカーの感触にロザリアの全身が粟立った。
びくともしない強い力に抑え込まれて、息をするのも苦しく、大声を出すこともできない。
オスカーは唇を首筋から沿うように鎖骨へと下ろした。
ワンピースから覗く胸元に柔らかなふくらみが感じられて、思わずそこを強く吸い上げた。
「イヤあ!」
張り付いた喉からほとばしるような声。
恐怖の滲んだその声に、オスカーは顔を上げた。
泣きだしそうに顔をゆがめたロザリア。
オスカーは小さく息を吐くと、彼女を抱き起こし、身体を離した。

「君は俺に、愛して欲しいと言った。 だから俺は、君に全てを捧げているつもりだ。」
ロザリアの肩が小さく震えた。
オスカーの真心は疑いようもない。
相変わらず女性への態度はマメだが、社交辞令にすぎないことは見ていればわかる。
彼は全身で、ロザリアへの想いを伝えてくれている。

「…君は俺を一度でも愛そうとしてくれたのか…?」

ロザリアは即答しなかった。
その沈黙の分だけ、オスカーの心が重く冷えていく。
今もなお、彼女の心がここに無いことに、嫌というほど気がついてしまった。
いや、ずっと気がついていたのかもしれない。
恋人として傍にいる間もずっと。
彼女の瞳はオリヴィエだけを追いかけているのだから。

「すまなかった。今日の俺はどうかしているらしい。誘っておいて悪いが、帰ってくれないか。」
緋色の髪をくしゃっと掻きあげたオスカーは、ロザリアを見ることなく言葉を吐きだした。
指を組んで、うつむいたその横顔には、苦しみと切なさが混在している。
もしここで抱きしめて、彼に口づけることができたなら。彼の愛を受け入れることができたなら。
思いながら、ロザリアは何もできなかった。
「ごめんなさい…。」
遠ざかる彼女の足音にオスカーは組んだ指に力を込めた。
そうしていなければ、腕を伸ばし、彼女を引き寄せてしまいそうだった。


オスカーの屋敷を出たロザリアの頬に冷たい風が触れる。
すでに風は夕暮れの冷たさを含んでいて、葉の落ちた木が寒そうに枝を震わせている。
オスカーを傷つけた。
愛して欲しいと言いながら、愛することができなかった。
女王は慈愛の心で、宇宙の全てを愛する存在だという。
だとすれば、自分は、そもそも、その存在にはなりえない。
たった一つの愛しか望んでいないのだから。



弱弱しくドアを叩く音に、アンジェリークは読んでいた雑誌を放り投げて、ロザリアを出迎えた。
ルヴァのところに行ってみたものの、ちょうど彼は出かけていて、結局会うことができなかったのだ。
お休みの日くらいは、とゴロゴロしていたが、実はヒマを持て余していた。
「おかえりなさい!」
勢いよくドアを開けると、前に立つロザリアは、いつもきちんと巻かれている青紫の巻き毛が乱れ、紙のように白い顔をしている。
青い瞳だけがらんらんと輝く様子に、アンジェリークは息をのんだ。
「どうしたの? オスカー様とデートじゃなかったの?」
ただならない様子にアンジェリークの鼓動が激しくなる。

「ごめんなさい。アンジェリーク。わたくしは…。」
ロザリアの唇から溢れだした言葉に、アンジェリークは耳を疑った。
何度も何度も聞き返し、そのたびにロザリアは首を横に振る。
「ごめんなさい…。」
なん十回目にもなる謝罪の言葉を残して、ロザリアは部屋から出ていった。
いつも自信ありげに床を叩いていたヒールの音が、まるで霧雨のようにしっとりと煙っている。

ロザリアのために、なにをしてあげられるのだろう。
彼女の願いを聞いてあげることが、親友としてできることなのだろうか。
アンジェリークの頬を涙が伝っていく。
しばらくそのまま涙をこぼしていたアンジェリークは、ぐっと拳を握りしめると、部屋を飛び出した。
振り向いて見上げたロザリアの部屋は窓があいていて、ブルーのカーテンがはためいている。
その窓を見つめ、アンジェリークは走り出した。


「オリヴィエ様!」
リビングのソファに横になり、グラスを傾けていたオリヴィエは、飛び込んできたアンジェリークに目を丸くした。
肩で息をしながらも、その緑の瞳は戦場に赴く騎士のように強く輝いている。
オリヴィエはその瞳の縁がほんの少し赤くなっていることに気がついた。
「どうしたの? スゴイ顔しちゃって。 泣き顔を綺麗に直したいって言うんなら、手伝ってあげるよ。」
昼間から飲んでいたという後ろめたさも手伝って、からかうような笑みを見せるオリヴィエを、アンジェリークは睨みつけた。

「ロザリアが候補を下りるって言ってます。 試験を下りて、家に帰るって。
 わたしとの約束も、全部なくしちゃうって。」
おさえきれない雫が一つ、瞳から零れおちた。
けれど、アンジェリークはその涙を飲み込み、オリヴィエを見つめ続けている。

「ロザリアのこと、本当に好きじゃないんですか? オリヴィエ様だって、いつもロザリアのことを見ているじゃないですか!
 昔好きだった人に似ているから? そんなことだけで嫌いになれるんですか? もう、二度と、会えなくなっちゃうのに…。」

アンジェリークの言葉をすぐには理解できなかった。
オリヴィエに届いたのは、ロザリアが候補を下りる、ということだけ。
補佐官にもならず、主星に戻る。
すなわち。
時の流れの両岸に隔てられ、もう会えなくなるということだ。

「なんで…。そんな…。 あの子はあんなに女王になりたがってたじゃないか…。」
「オスカー様を傷つけてしまったから。
 もう女王にはなれないって。
 ロザリアはまっすぐだから、自分を許せないんです。ロザリア一人のせいじゃないのに…!」
みんな幸せになりたいだけなのに。
アンジェリークは床に膝をつけると、そのまま頭を下げた。

「お願いです。ロザリアを説得して下さい。 オリヴィエ様なら、きっとできます。」
「アンジェリーク!」
床に額をこすりつけているアンジェリークに、オリヴィエは呆然と立ち尽くした。
もし、ここで死ねと言われたら、アンジェリークはためらわずに命を投げ出すかもしれない。
それほど、彼女の姿は必死だった。

「わたしじゃ、ダメなんです。 お願いします!」

ロザリアがこのままいなくなってしまったら、この想いは消えてなくなるだろうか。
オリヴィエの胸に、ロザリアの顔がいくつも浮かんで消えていく。
笑顔がキレイだと思った。
なのに、泣かせてばかりだった。
たしかに、いっそ目の前から消えてくれたなら、と思ったこともある。
けれど、やはり、見てしまうのだ。
その笑顔が他の男のためだとしても。
ロザリアを想っているから。

オリヴィエは屈みこむと、アンジェリークの手を取った。
「あの子は部屋にいるの?」
「はい。明日の朝、ディア様にお伝えするって…。」
どこか澄んだオリヴィエの顔を見たアンジェリークは、瞳を輝かせて勢いよく立ち上がると、先に立って、走りだした。
窓の開いていた、ロザリアの部屋。
今頃どんな思いでいるのだろう。
自分ばかりが幸せで、ロザリアの苦しみを理解できていなかった。親友だと思っていたのに。
ずっと走ったり叫んだりしていたせいで、肺の奥が軋んだように痛い。
けれど、今、この痛みで立ち止まれば、今度の痛みはきっと一生消えない。
アンジェリークは呼吸が苦しくて目の前を覆いかけた暗い闇を頭を振って振り払った。


勢いだけで部屋の前まで来たものの、オリヴィエはまだロザリアにかける言葉を探していた。
引き留めたい。 別れたくない。
願いは一つでも、彼女に言えることはなにもないのだ。
「ロザリア。 開けて。 もう一回話をさせてほしいの。」
ノックしながら、アンジェリークは何度も中にいるロザリアに話しかけた。
けれど、返事はなく、中はしんと静まり返っている。
焦れたアンジェリークがドアノブに手をかけると、ドアは抵抗なく開いた。
奥の窓辺で静かに揺れるカーテン。
差し込む西日の眩しさに目を細めた二人の前に現れた景色の中に、ロザリアの姿はなかった。

「ロザリア!」
アンジェリークは部屋の中に入ると、レストルームの中まで、くまなく探しまわった。
ロザリアが見ていたら、確実に怒りだすような勢いで、ベッドのシーツまでまくりあげている。
クローゼットの中まで探ったところで、アンジェリークはへなへなと床に座り込んだ。
「いない…。コートもない…。どうしよう。どこに行っちゃったの?」
驚いたように奥から恐る恐る顔を出したロザリアのばあやに、オリヴィエは声をかけた。
「ロザリアはどこへ行ったの? なんか聞いてない?」
「ちょっと散歩に出かけてくると…。てっきりアンジェリークさんと一緒だとばかり…。」
おろおろとばあやはオリヴィエを見つめている。
本当に知らないらしい様子に、オリヴィエはアンジェリークに向き直った。

「私が絶対探してくるから。あんたはここで待ってて。
 それで、もし、ロザリアが帰ってきたら、話を聞いてあげて。」
「わたしも探しに行きます!」
「ダメ。 待っててあげて欲しいんだ。 あんたたちは親友なんでしょ?」
「…はい。」
納得していなかったが、アンジェリークは頷くしかなかった。
それに、本当にただの散歩だとしたら、その時は自分が迎えてあげたい。
「お願いします。」
走っていったオリヴィエの背中に、アンジェリークは深々と頭を下げた。


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