9.
土の曜日の午後。
ロザリアとアンジェリークの声がキッチンから聞こえてくる。
楽しそうな笑い声。ロザリアがアンジェリークを指示している声。なぜか叫び声までも。
オリヴィエはドアを開け放したまま、少女たちの声を楽しみ、雑誌をめくっていた。
そろそろルヴァが来るころだ。
時計を見上げたオリヴィエは彼のためのお茶を淹れようと、キッチンへ顔をのぞかせた。
「ダメです! 男子禁制!」
アンジェリークが仁王立ちになって、オリヴィエがキッチンに入るのを阻止してくる。
「お茶が欲しいだけだって。…それとも淹れてくれる?」
「わかりました。ルヴァ様がいらっしゃったら、持っていきます!」
でも、ちょっとだけ覗きたい。
そう思って背伸びをすると、アンジェリークは両手を伸ばして、オリヴィエの視線を遮る。
丁々発止のやり取りの後、ロザリアの声がした。
「もう、アンジェ。おバカさんね。ドアを閉めたらいいじゃないの。」
同時にぷーんと肉の焼ける香ばしい香り。
「いい匂いだね。食欲出ちゃう。」
言いながら覗きこもうとしても、やっぱりアンジェリークが邪魔をして。
「はい、オリヴィエ様、おしまいです。」
鼻先でドアを閉められてしまった。
本を読んでいて遅れた、というルヴァもやってきて、ようやく二人の手料理の食事会が始まる。
まるで高級レストランのような出来栄えに、オリヴィエは思わずぴゅうっと口笛を鳴らした。
ルヴァも驚いた様子で、料理を口にしては感心してばかりだ。
「これはなんですか?アンジェリーク。 鳥ですか?」」
「えっと…。」
「鴨ですわ。」
さらっと答えるのはロザリアだ。
「オレンジのような香りがしますねぇ。」
「はい!オレンジの皮を入れてるんです。もちろんジュースも! ソースはわたしが作りました! あと、このサラダもです!」
「ええ、ええ。とてもおいしいですよ~。」
得意げなアンジェリークに、にこにこのルヴァ。
初めにロザリアからこの組み合わせを聞いた時は正直違和感があったが、こうしているとなかなかお似合いだ。
醸し出すおおらかなムードが似ている。
まるで縁側で猫が昼寝をしているような、のどかさがほほえましい。
オリヴィエがワイングラスに手を伸ばそうとすると、ロザリアが中身を足してくれた。
ウインクで礼をすれば、柔らかな微笑みが返ってくる。。
こういう小さな気配りを、彼女が自然にできるのが意外だった。
高飛車なロザリアしか知らなければ、想像もつかない。
おそらく今日のメニューのほとんども彼女が作ったのだろう。
手の込んだ野菜のポタージュも、付け合わせのグラッセや前菜代わりのマリネ。
もちろんメインの鴨のローストも。
やたらと褒めまくっているルヴァの前で、わざわざそんなことを暴露する気もなく、オリヴィエはゆっくりと料理を味わっていた。
「お口に合いませんか?」
黙っているオリヴィエが不安だったのかもしれない。
隣に座っていたロザリアが手を止めて見つめている。
オリヴィエは彼女の耳元に唇を寄せると、盛り上がる向かいの二人に聞こえないように囁いた。
「ご苦労様。ほとんどあんたが作ったんでしょ? ホントに最高。 いいお嫁さんになれるよ。もらってあげようか?」
カッとロザリアの顔が赤くなる。
付き合いだしてしばらく経つのに、まだ初心な彼女が可愛くて仕方がなくて、つい虐めたくなってしまうのだ。
くっと笑みをこぼして目をそらせば、ルヴァがワイングラスを握りしめている。
一体何杯飲んだのか。テーブルにすでに空になったボトルが置いてある。
かなり真赤な顔をしているところからして、ほろ酔いは通り越しているらしい。
「ちょっと、ルヴァ、大丈夫?」
酔っているのか、ルヴァはアンジェリークにやたらと密着している。
イチャつくのもかまわないが、目のやり場に困るのも事実だ。
案の定、ロザリアは眉を寄せて、目をそらしている。
これ以上飲ませられない、とオリヴィエは無理矢理ルヴァのグラスを取り上げた。
食事会が終わり、オリヴィエが手洗いから戻ると、ダイニングもリビングもしんと静まり返っていた。
「あれ?」
きょろきょろしていると、キッチンから水の音が聞こえてくる。
なにかあったのか、と、オリヴィエがあわててキッチンへと向かうと、流しでロザリアが洗い物をしていた。
すでに大きなものは片付けたようで、小さな食器類が残っているだけだ。
一人では大変だっただろう。
オリヴィエは彼女に近づくと、洗い終えた食器を拭き始めた。
「ありがとうございます。」
白いエプロンをしたロザリアが恥ずかしそうに微笑んだ。
青い瞳に白いエプロンはとてもよく似合う。
エプロンのフリルが花びらのように見えて、オリヴィエは昔のことを思い出した。
『白薔薇が好き』
そう言ったリアーヌのために作った薔薇のドレス。
もしロザリアに作るなら、すらりとした長身が引き立つように腕は出した方がいい。
スカートの丈ももう少し短く、広がりを抑えたほうが足のきれいさが目立つだろう。
そこまで考えて、苦笑した。
リアーヌを思い出すことに以前のような痛みはないけれど、ロザリアといると時々思い出してしまう。
初めて恋したリアーヌ以上に、たぶん自分は今、恋をしているのだ。
最後の一枚の皿を洗い終えたロザリアがエプロンを外した。
今日の彼女は料理をすることを考えたのか、ゆったりとしたAラインのシンプルなワンピースを着ている。
綺麗な鎖骨が露わになって、胸が高鳴った。
「ね、ルヴァ達はどうしたの? リビングにいなかったんだけど、酔いざましにでも出た?」
いつもよりピッチの速かったルヴァは、ずいぶん赤い顔をしていた。
庭に出れば、夜風が涼しい。
風に当たっているなら、それはそれでいいのだが、もうかなり遅い時間だ。
早く帰さなければ、人の目もうるさい。
「帰りましたわ。」
「は? 誰が?」
「ルヴァ様とアンジェリークです。」
「二人で?」
「はい。」
まったく、いくら酔っているとはいえ、ロザリアの存在を忘れてしまったのだろうか。
アンジェリークだけを送っていくなんて、ずいぶんな仕打ちだ。
「じゃあ、あんたは私が送ってくね。」
「いいえ。結構です。」
「ダメ! いくら飛空都市が安全だっていっても、夜道は暗いし危ないから。
怪我でもしたらどうすんの? 助けを呼ぶのも困るでしょ? どうせあんたが着くまで気が気じゃないんだから、ついてくよ。」
「困るんですの。」
「どうして?」
強情なロザリアに少しいらだった。
心配だという気持ちがわからない彼女ではないのに。
オリヴィエが夜道に好きな女の子を送り出して、知らんぷりできるような男だと思っているのだろうか。
「今日は帰れませんの。…アンジェリークとルヴァ様のところにお泊りすることになっているんですもの。」
「は?」
「候補寮を出るのに、そう言わなければ許してもらえませんわ。ばあやもいますし。」
「え?」
「帰れないんですの。アンジェリークはルヴァ様のお宅に行ってしまいましたわ。」
理解するのに数秒かかったのは、ロザリアが真赤になってうつむいてしまったからだ。
初めから泊まるつもりだったから、あんなにも大荷物だったのか。
料理道具だと思って気に留めていなかった、大きなスーツケース。
オリヴィエの中に期待と不安が同時に湧いてきた。
どちらかといえば期待の方が大きいが、彼女の気持ちをきちんと確かめたい。
「帰れない、か。…アンジェリークのため?」
オリヴィエはロザリアの頬に手を添えた。
緊張のせいか少し熱っぽさを感じる。
ロザリアはうつむいたまま、小さく首を横に振った。
「いいえ…。わたくしが、オリヴィエ様と過ごしたいと思いましたの。女王になる前に、どうしても…。今しかないんですもの。」
消え入りそうで、でもはっきりとした、ロザリアの言葉。
オリヴィエはたまらず、彼女を強く胸に抱きしめた。
それからゆっくりと唇を重ね、深く深く口づける。
初めての大人のキス。
ロザリアの口から洩れた甘い吐息にオリヴィエの身体にも熱が灯った。
貪るように唇を合わせ続ける。
けれど、抱きしめているロザリアの身体が緊張でこわばっているのを感じたオリヴィエは、腕を緩め、彼女の瞳を覗きこんだ。
青い瞳は不安げに揺れている。
今のキスも、これからのことも、彼女にとっては初めてのことだ。
「とりあえず私はシャワーを浴びてくるよ。よく考えて、もし、帰りたいなら送っていくから。
言い訳なら、私がどうにでもしてあげる。…自分の気持ちを確かめて、ね。」
「わたくしの心は決まっていますわ。」
きっぱりと言い切ったロザリアの肩にぽんと手を置いて、オリヴィエはシャワールームに向かった。
自分にとっても、一度頭を冷やした方がいい。
キッチンを出る前にちらりとロザリアを振り返ると、彼女は胸に手を当てて、祈るように佇んでいた。
いつものようにシャワールームでメイクを落としたオリヴィエは、鏡の中の自分の顔をじっと見つめた。
どうしたら、冷静になれるだろう。
まだロザリアは少女といってもいい年齢だ。自分の手で手折ってしまうには早すぎるのではないか。
そう思いながらも、心の中では彼女を求めている。
「17か…。」
決意に満ちた青い瞳が、また重なる。
あの時の自分たちも今のロザリアと同じ、17だった。
17で、永遠と思える恋に出会えることがあると、自分が一番よく知っている。
あの時、運命は二人を引き離した。
けれどその別れも、ロザリアに会うためだったのだと思えば、一つの過去でしかない。
オリヴィエは時間をかけて、シャワーを浴び、着替えに普段着のシャツとスラックスを選んだ。
彼女が帰りたいといえば、すぐに送っていけるように、わざと夜着ではない服にしたのだ。
すでにキッチンの明かりは消え、わずかな隙間からリビングの光が漏れている。
思い切ってドアを開けると、ロザリアはピンと背筋を伸ばしてソファに座っていた。
「ロザリア。」
声をかける自分の方も緊張してしまうほど、ロザリアは身体全体から緊張のオーラを出している。
オリヴィエの声に身体をびくっと震わせ、じっとうつむいたままだ。
「送っていこうか。…それともシャワー浴びる?」
我ながら、イヤらしい聞き方だと内心苦笑した。
けれどロザリアはそんなことには気づかず、小さなバッグを持って、シャワールームへ向かおうとしている。
オリヴィエは彼女を案内しながら、もう一度尋ねた。
「もう聞かないけど。…本当にいいの?」
こくん、と頷く青紫の長い髪。
うつむいているせいで表情は見えないが、耳の先まで赤く染まっている。
オリヴィエの身体中の血が、一気に熱を上げた。
もう迷わない。
「リビングで待ってるから。ゆっくり入ってきて。」
頷くように小さく頭が揺れる。
結局、一度も目を合わせないまま、ロザリアはシャワールームに消えてしまった。