fly me to the future

10.


オリヴィエが連れていってくれたのは、帰り道にぶらっと寄ることもあるという、立ち食い形式のバール。
暖色の明かりはどこか薄暗く、テーブルも年季の入った艶があるが、狭い店内は人がすれ違うのも困難なほど込み合っていて、陽気に騒ぐ若者やカップルでいっぱいだ。
「ここならバレそうもないでしょ?」
悪戯っぽく笑うオリヴィエに、ロザリアは納得した。
たしかにいくら変装しているとはいえ、店員や他の客にじっと見られるような店では、居心地が悪い。
ざわざわした人々は、周囲のことなど気にも留めないだろう。
ロザリアは青い瞳をキラキラさせて、店内を見回した。
食事といえば、家族でいくリストランテか、アンジェリーク達と行くスイーツショップくらいしかないから、珍しくて仕方がないのだ。

そんなロザリアとは逆に、オリヴィエは慣れた様子で、オーダーを告げている。
間もなく、テーブルに並んだ料理にロザリアはぎょっとした。
いくつかの小皿にはそれぞれ違った料理が盛られている。
「シェアして食べるんだよ。 ホラ、こっちも摘まんでいいから。」

オリヴィエに勧められるまま、ロザリアは全ての小皿から少しづつ料理をとっては口に運んだ。
二人で同じ皿のモノをとって食べるなんて、ロザリアには初めての体験。
アンジェリーク達とケーキを分け合うことはあっても、それはあくまで一口だけの話。
けれど、周りを見ても、その食べ方は当たり前らしい。
はじめこそ抵抗を感じたが、オリヴィエと一緒にいることが嬉しくて。
食べながら話をしているのが楽しくて。
まるで、どこにでもいる普通の関係の二人のようで、だんだん気にならなくなってしまった。


「これ、すごく美味しいですわ。」
楽しそうに頬張るロザリアに、オリヴィエはほほ笑んだ。
およそ彼女には似つかわしくない店に連れてきたが、おかげでまた、ロザリアの新しい顔を見られたような気がする。
人の熱気にあてられたのか、真っ赤に染まっている頬。
薄紅のチークよりも、ずっと艶めいていて綺麗だ。
いつもは一人で飲みながら食べる料理が、二人だとまるで違ったものになる。

時々、男の視線がこちらに向けられるのが忌々しいが、それもオリヴィエの一睨みで今のところは問題ない。
こんなことしていいはずがないと心の奥ではわかっている。
アンジェリークに釘を刺されるまでもなく、彼女に手を出そうと考えたこともない。
彼女は生徒の一人。
いつかは学園を飛び立ち、大人になっていく。
教師なんて、それを見ているだけの存在だ。
でも、今日だけは。 
この店の中にいるたくさんのカップルのように、過ごしてみたかった。

バールを出て、通りをブラブラと歩いていく。
たくさんの店が立ち並ぶ界隈は、この時間でも賑やかで、人波が途切れる気配はない。
キレイなオリヴィエは人目を引くのか、わざわざ振り返って二度見する人もいる。
そのたびにロザリアはオリヴィエのショールを握りしめていた。
自分だけがこの通りで異邦人のような気がして。
颯爽と歩くオリヴィエとの違いが少しだけ胸を刺した。



やがて、オリヴィエは小さな路地を曲がった。
華やかな表通りに比べて、月明かりの方が明るいほどの場所。
青い大きな観音開きの扉はまるで、異世界へ続く道のようだ。
そこが店だとわかるのは、扉に張りついた小さな銅版のプレートに記された『MOONLIGHT』という名前だけ。
オリヴィエは大きな飾りノブに手をかけると、ロザリアを見た。

「ここね、私のお気に入りなんだ。
 もちろん子供はお断りだからさ。 わかるよね?」
ダークブルーの瞳がいたずらっ子のように微笑んでいる。
ロザリアが小さく頷き返すと、オリヴィエがドアを開けた。


一面の青に波のように揺れる明かり。
まるで深い海のような。
店内に足を踏み入れたロザリアは、その雰囲気に目を見張った。
さっきのバールとはまるで違う、静けさ。
決して客は少なくないのに、ざわざわとした感じはまるでなく、皆がこの空気の中に漂っているような印象を受ける。
耳を澄ませば、かすかに聞こえるBGMもゆったりと心を委ねられるようなリズムだ。
ロザリアが普段親しんでいるクラシックとは違うけれど、とても心地よい。
オリヴィエはロザリアを後ろから支え、泳ぐようにテーブルの間をすり抜けると、奥まったテーブルに座った。

「ドライジンジャーエール。
 この子にはシンデレラを。」
近づいてきた馴染みのウェイターに、オリヴィエは目くばせをして伝えた。
今日はアルコールを口にするわけにはいかない。
何かの時には彼女を守らなければならないし、なによりも、自分自身に自信が持てなかった。

オリヴィエに勧められて、ロザリアは彼の向かいに腰を下ろした。
ゆったりとした大き目のソファは体が丸ごと沈み込んで、ふわふわと浮かんでいるような気がする。
昨日までは夢でしかなかったことが、今、現実に起きている事が信じられない。
大人の恋人同士がひと時を過ごすような店で、オリヴィエとふたりきり。
目の前にはカクテルグラス。
鮮やかなオレンジは、口をつけるとふわりと柑橘の香りがして、なんとなくいつものミルクティを思いだした。

「ステキなお店ですのね。」
「でしょ? 居心地がよくてつい長居しちゃうんだよね。」
オリヴィエの前のグラスがアルコールではないことにロザリアも気が付いていた。
もしも本当の恋人同士だったら、彼もお酒を飲んだのかもしれない。
ロザリアが、生徒じゃなかったら。

ソファから身を乗り出し、声を潜めるように、いろんな話をした。
部活交流会のこと。アンジェリークや生徒会の仲間のこと。
オリヴィエの巧みな話術のおかげなのか、普段はそれほど饒舌とは言えないロザリアもおしゃべりが止まらない。
ふと、顔をあげると、少し離れた席にいる男性と目があった。
なぜかにこやかにほほ笑まれ、ロザリアもなんとなく笑みを返してしまう。
するとすぐに、頼んだ覚えのないグラスが二つ、テーブルに届いた。

「何?コレ?」
オリヴィエが問うと、
「あちらのお客様からです。」
ウェイターはしれっとそう答える。
けれど、わずかに目が笑っているのをオリヴィエは見逃さなかった。
よくあるナンパ。
もっともこのウェイターはオリヴィエの正体を知っているから、完全に面白がっているのだろう。
ウェイターが手で示した方を見ると、さっきロザリアと目があった男性客がにっこりと笑って小さく手を振っている。
ロザリアは訳が分からず、再び軽く会釈をしたが、オリヴィエは厳しい目で彼らを睨み返していた。
そして、
「返してきてよ。 こんな強い酒は飲めません、ってね。」
不機嫌なオリヴィエにウェイターは笑みを隠さずに頷くと、グラスを下げた。

「どうしたんですの? あのドリンクは? お知り合いではありませんの?」
イライラとしたオリヴィエの様子にロザリアは困惑した。
こちらを見ているから、オリヴィエの知り合いなのかと思ったが、どうやらそれは勘違いだったらしい。
なにか彼の気に障ることをしてしまったのだろうか。
そんな不安で、ロザリアは俯いた。


「あ~、もう、これくらい予想しとかなきゃダメだったね。」
苦笑を浮かべたオリヴィエはすっと立ち上がると、さながら姫をダンスに誘うように、ロザリアに手を差し出した。
「おいで。」
その流れがあまりにも自然で、ロザリアは考える間もなく自分の手をその手に添え、立ち上がった。
帰るのかとも思ったが、オリヴィエの向かった先は店のさらに奥にしつらえられえた小さなステージ。
「私のピアノ、聴きたいって言ってたよね。」
グランドピアノの横にロザリアを立たせたオリヴィエが、ゆっくりとふたを開けた。

軽く椅子に腰を掛け、ペダルにつま先をかける。
オリヴィエの細い指が鍵盤を滑るように動き、そのまま音になって流れていく。
いつの間にか店内はさらに明かりが落とされ、オリヴィエの周囲をスポットが照らしていた。

『それなり』と彼は言ったけれど。
滑らかなタッチで紡ぎだされる、軽やかな音。
ロザリアの聴きなれないリズムと変音が繰り返される音楽は不思議なほどに心地よく、心の琴線に触れる。
知らないはずなのに、どこか懐かしくて。
華やかにも思えるほど音は多いのに、どこか悲しくて。
ロザリアはオリヴィエのピアノに心を奪われていた。

曲は変わったかと思うと、また元に戻り、何度か同じフレーズを繰り返してはまた別のメロディへと飛ぶ。
即興とは思えないアレンジで、ふいにオリヴィエの指は鍵盤から離れた。
ペダルで響かせた最後の余韻も、やがては吸い込まれて消えていく。
音に翻弄されていたロザリアが意識を取り戻したのは、客席から聞こえ出した拍手のおかげだ。
ハッと見下ろした先には、目を細めたオリヴィエ。
スポットのせいで彼の長い睫毛から影が落ち、赤いリップがさらに艶を増している。
ダークブルーの瞳に映る自分の姿がまるで夢のようで。
賞賛を送ることすら忘れて、ロザリアは呆然とピアノの横に立ち尽くしていた。


「さ、今度はあんたの番。」
腰かけたままのオリヴィエが見上げる。
上目づかいでねだる彼の姿は、女のロザリアでもゾクゾクするほどセクシーだ。
ロザリアは慌てて首を振った。

「わたくしは、とても…。 バイオリンなら多少できますけれど、今は持っておりませんし。」
たとえ持っていたとしても、ここで弾くのはためらわれる。
ロザリアがそらで弾けるのは、オリヴィエのピアノとは似ても似つかない、お堅い退屈な曲ばかりだ。
オリヴィエの指が再び軽く鍵盤をたたき始めた。
曲のようで曲でないリズムだけの音楽。
BGMを消してくれた店への配慮だろう。

「じゃあ、何か歌って。
 邪魔にならないように伴奏するからさ。」
「歌?!」
「そ。 なんでもいいから。
 あんたの知ってる歌。 聴かせてよ。」

ロザリアは必死に頭を回転させた。
流行の歌は全く知らないし、浮かんでくるのは、学校で習ったような唱歌やオペラの曲ばかり。
こんなことならアンジェリークが勧めてきた、アイドルの曲でも聴いておけばよかった、と、唇を噛んでも遅い。
助けを求めるようにオリヴィエ見れば、ロザリアの葛藤など素知らぬ風に、ピアノを弾いている。
楽しそうに、鼻歌交じりで。
その時、ロザリアの脳裏に、かつて楽しそうにピアノを弾きながら、『この曲が一番好きなんだ』 と歌ってくれた人の声が蘇った。
あの曲なら、ここにも似合う。
ロザリアがすうっと息を吸い込むと、オリヴィエのピアノが止まる。
ロザリアは思いだした最初のフレーズを唇に乗せた。


ロザリアが歌いだした曲は、誰もがよく知るスタンダードナンバー。
当然オリヴィエも数えきれないほど演奏したことがある曲だ。
一人でも弾いたし、今のように誰かの歌に合わせたこともあった。
でも、これほどまでに、泣きたくなったことはない。
朗々と歌い上げているわけでもなく、むしろどこか恥ずかしげにさえ聞こえるのに。
ロザリアの声は羽が生えたように、辺りを飛び回り、店中を包み込んでいて。
天使が声を持つのなら、きっとこんな声をしているに違いないと思った。
せめて音であれば、彼女を抱きしめてもいいだろうから。
その歌声に寄り添うように、オリヴィエはピアノを合わせた。


たた様より


――「Fly me to the moon…」
もしも本当に月に行けたなら、そこでは彼女も生徒なんかじゃない、ただの女の子で。

――「In other words, hold my hand…」
普通の恋人同士のように手を繋ぐことだってできるだろう。


ロザリアは青い瞳を、まっすぐにオリヴィエに向け、歌い続けている。


――「You are all I long for all I worship and adore…」
だからかもしれない。
彼女から紡ぎだされる言葉の一つ一つが。

――「In other words…I love you」
ただの歌詞だとわかっていても、胸に迫った。


気が付けば、また拍手の中だった。
歌っている間はここがどこなのか、どれほどの人の前なのかもすっかり忘れて、ただオリヴィエのことだけを考えていた。
まだ夢の中にいるような気がしていたロザリアの背に、いつの間にか立ち上がっていたオリヴィエの掌が触れる。
「オーディエンスに挨拶をしようよ。」
言いながら、優雅にドレスの裾を摘まみ、膝を追ったオリヴィエに合わせて、ロザリアも同じ礼をとった。
とたんにさらに拍手が巻き起こり、困惑したロザリアはオリヴィエを見上げる。
けれど、見つめ返すオリヴィエの瞳が優しくて、恥ずかしくなったロザリアはまた同じ礼を繰り返した。


拍手の中、オリヴィエはロザリアをさらに奥へと連れて行く。
厚いカーテンの向こうはスタッフ専用のスペースなのだろう。
打ちっぱなしのコンクリの中、さっきのウェイターが待ちかねたように、小さなドアを開けてくれた。

「ステキでしたよ。お嬢さん。」
さりげなくかけられた声にロザリアが 「ありがとう。」 と答えると、オリヴィエの眉がわずかに寄る。
ロザリアからは見えないが、その顔は明らかに不満気だ。
気が付いたウェイターが思わずクスリと笑うと。
オリヴィエはすかさず先にロザリアをドアの向こうへ押しやり、
「…あとはよろしく。」
ウェイターにすさまじく意味ありげな笑みを浮かべたのだった。


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