9.
「ちょっと待ってて。」
オリヴィエは奥からいつものミルクティを持ってくると、ロザリアに差し出し、再び奥へと消えていった。
たった一週間足らずなのに、懐かしささえ感じる甘いオレンジの香り。
どれほど真似ようとしても、この味とは似ても似つかないものしか作れなかった。
ふと、カップをくれたオリヴィエの顔を思いだす。
優しく微笑むダークブルーの瞳。
とくん、と高鳴る鼓動に、さらに甘みを増すミルクティ。
気持ちが穏やかになれるのは、このミルクティの味だけではないのかもしれない。
そこに彼がいるから。
彼が作ってくれたから。
ロザリアがこぼしたため息が混ざり、ふわりとカップの湯気が形を変える。
オリヴィエが優しいのは、彼が教師だからだとわかっているつもりだ。
でも、彼にとってのロザリアがただの生徒に過ぎなくても。
他に恋人がいたとしても。
ロザリアがオリヴィエを想う気持ちは、特別なものだ。
会えなかった数日間がそれを教えてくれた。
「お待たせ。」
奥の部屋から出てきたオリヴィエを見たロザリアは、危うくカップを取り落しそうになって、慌てた。
常に慎み深いレディでいることを目指してはきたが、これほど驚いたのは、人生初だ。
多少の不作法は許してもらいたい。
「あの、オリヴィエ先生?!」
「なに?」
ゆっくりとオリヴィエが近づいてくる。
ゆるくウェーブのかかる金の髪。 神秘的なダークブルーの瞳。
ここまではいつものオリヴィエだ。
だが、今、彼の瞳を縁どる長い睫毛は、さらに長くボリュームを増している。
睫毛を強調するためのマスカラと、その周囲を彩っているグラデショーンのついたグリーンのラメのシャドウ。
オレンジのチーク、そして、鮮やかなレッドのリップ。
なによりもその身を包む、パープルのドレスと、羽のショール。
どう見てもその姿は女性そのものだ。
見事な美女に変身したオリヴィエが、ロザリアのすぐ横に立ち止まる。
目を丸くしたロザリアに、オリヴィエはくすりと妖艶とも思えるような笑みを浮かべた。
ポカンとしたままのロザリアに、オリヴィエはふわふわのショールの羽を近づけた。
くすぐったいはずなのに、ロザリアはピクリとも動かない。
さすがにショックが大きすぎたのか。
もう彼女があの笑顔を向けてくれることはないのか。
しんとした室内に、オリヴィエのため息が響いた後。
「すごく、お綺麗ですわ。 本当にキレイ…。」
ロザリアがうっとりと感嘆の息をついて、今度はオリヴィエが目を丸くした。
この姿を見せて、最初から受け入れられた記憶はほとんどない。
今も親しい友人ですら悪趣味だと言うのだから。
「綺麗って、あんた、オカシイとか思わないの?」
「おかしい? いいえ、オカシイところなんて一つもありませんわ。
本当にオリヴィエ先生にぴったり。 わたくし、こんなに素敵な変身を見たのは初めてですわ。
どうしたらこんなふうにできますのかしら? 色も香りも、本当に素敵…。」
うっとりとオリヴィエを見つめる青い瞳に、嘘や誇張は少しも感じられない。
彼女は素直にオリヴィエの美しさに感動しているのだろう。
じっと見つめられて、オリヴィエの方が照れてしまうほどだ。
「あんたもやってみたい?」
オリヴィエに問われて、ロザリアはこくこくと頷いていた。
全くメイクをしないわけではないけれど、今一つ上手くはないというのが本当だ。
軽くファンデーションを塗って、リップをつけるのがせいぜい。
アイシャドウやチークはつけたこともない。
「まあ、最初からそのつもりだったんだけど、あんたが乗り気なら話は早いね。」
オリヴィエは優雅な動作でドレスの裾をさばくと、ロザリアの隣に腰を下ろした。
ふわりと香る香水がめまいがするほどにセクシーで、ロザリアは息を飲んだ。
いつものオリヴィエとは違う、動物的な香り。
誘うような香りが近づいただけでロザリアの鼓動は早くなる。
「目を閉じて。」
言われるまま、目を閉じたとたんに、オリヴィエの指先が頬に触れるのを感じた。
優しくなぞるように触れる指。
緊張でついスカートをぎゅっと握りしめると、頬から指が離れていく。
「ホントにキレイな肌だね。 腕が鳴るよ。」
楽しそうなオリヴィエの声に、ロザリアはそっと薄目を開けてみた。
大きなメイクボックスの中にたくさんの道具が入っている。
まるで絵の具の見本のようなカラーパレットや、筆。
スポンジもいろんな形のモノがある。
それ自体は化粧品売り場に行けば、普通に見られるものばかりだが、ロザリアは一つのパレットに心惹かれた。
そのパレットだけは他のモノと少し違う。
つい凝視していると、それに気が付いたオリヴィエがくすっと笑った。
「興味あるんだ?」
「はい。 それに、あの、これだけ他のモノとは違うようなんですけれど…。」
ロザリアが指差したパレットには、なぜか同じような色がすらりと並んでいる。
淡いものから濃いものまでがそろっているが、ベースの色は全てピンクで、違うのはわずかな色味だけ。
他のパレットが綺麗なカラーグラデーションになっているのに比べれば、ずいぶん寂しい。
「ああ、これね。」
オリヴィエはパレットを手に取った。
「新色のサンプルなんだ。 いろんな色を試して、一番気に入ったのだけを、製品化するんだよ。」
「製品化? オリヴィエ先生がこれを作っているのですか?」
「そう。 だから、ここに残ってるのは…まあ、外れだったり、一般受けしないようなのだったり。
さ、もう一回目を閉じて。」
言われるままロザリアが目を閉じると、パフが顔を撫でる感触がする。
なにかをペタペタを塗って、伸ばしているようだ。
「まずは下地からね。」
柔らかなスポンジが頬を滑り、くすぐったいような気がする。
少し身じろぎしたロザリアにオリヴィエが話しかけた。
「私は昔からメイクに興味があってね。
綺麗になるっていう事が、ものすごく好きだったんだ。
最初は知り合いの女の子にしてあげたりもしてたんだけど、どんどん自分にもするようになってさ。」
「まあ。」
きっと今も昔もオリヴィエは変わらず綺麗だっただろうから、並の女の子よりもメイクが映えただろう。
自分にしたくなるのも無理はない。
「私にとってはこの格好も女装というよりは、よりキレイを追求した結果なんだけどね。
確かにちょっと世間体は良くなくて・・・いろいろ言われたりもするよ。
ま、私は他人がどう言おうとたいして気にならないし、これでも昔よりは大人しくなったもんさ。
で、自分にメイクをし続けるうちに、化粧品そのものにも興味がわいてきたんだ。
化粧品ってさ、いろんな種類があるんだよ。
値段もそうだし、種類もいろいろ。」
念入りに何度もパフが行き来を繰り返し、ロザリアの顔を覆っていく。
話の続きが気になって、ロザリアは黙ったまま、オリヴィエの手の動きに任せていた。
「せっかくだから少しでもいいものを、って思って探してたら、結局は化学に行きついたんだ。
化粧品に含まれてるいろんなものを理解しようとして、勉強してるうちに、なぜか化学教師にもなっちゃったしね。
今、あんたが見たのは、副業みたいなものさ。
知人の植物園で売る、ナチュラルコスメの開発。
植物由来の成分だけを使って作ってる、ローカルブランドの手伝いをしてるんだ。
あんたの香水の花を仕入れてるのも、その植物園なんだよ。」
ふわふわと筆が粉を乗せていくのがわかる。
くすぐったいような不思議な感じ。
「もしかして、時々メイクをしているという噂は…。」
ふと思いついたのは、レイチェルから聞いた話。
「ふふ、やっぱり生徒たちにも気づかれてたんだね。
できたサンプルを試すには、まず自分からでしょ?
イイも悪いも使ってみないとわからないし。
まあ、たんにメイクが好きだから、時々しっかりしたくなるだけだけど。」
「…オネエだって噂が流れていますわ。」
「ヤダ! それで生徒たちが近寄ってこないんだね。
それはそれで面白いからそのままにしておこうかな。」
なぜかロザリアはほっとしていた。
本当のオリヴィエがオネエでも、変人でもない、と、他の生徒たちが知ったら。
どんどん人気が出て、ロザリアが近づけなくなってしまうかもしれない。
それは・・・とても嫌だ。
このままでいいなら…このままのほうがいい。
ベースの次はアイメイク。
眉に触れる筆先は少し硬めで、何度も細かく書き重ねているのを感じる。
「眉の形も綺麗だね。 二重もくっきりしてるし。 …いじってないよね?」
「?」
一瞬、理解が遅れたが、「冗談だって。」 というオリヴィエの言葉でわかった。
「整形なんてしてません!」
「わかってるって。 ほら、ここに皺寄せないの。」
ツンと眉間を小突かれて、ロザリアは黙った。
目を閉じて、オリヴィエの手の動きだけを感じていると、あの土の曜日に見た光景が頭をよぎる。
あの時、女性は目を閉じていて、オリヴィエがその頬に手を伸ばしていて。
まるで、今と同じように。
「あの、この間の土の曜日、ここにどなたかがいらしていませんでしたか?」
思いだしたら、言わずにはいられなかった。
「先週の?
…ああ、来てたよ。 さっきもいった、コスメの担当者がね。
新作を見てもらうために、そのサンプルでメイクもしてあげたよ。
実は、担当者の彼女の恋人が、その植物園のオーナーでさ。
お互いに昔からよく知ってるんだ。 イイことも悪いこともあって、ちょっと面倒なんだけど。
綺麗にして帰してあげたんだから、アイツも喜んだんじゃない?」
あっさりと告げられたあの日の光景の真実に、ロザリアは小さく息を吐いた。
ずっと心の中にのしかかっていた重り。
あの女性はオリヴィエの恋人ではなかったのだ。
目を閉じていたのも、顔が近づいていたのも、メイクをするため。
知ってしまえば、なんでもないことに、あんなにも落ち込んでいた。
「ちょっと口を開けて。」
わずかに唇を開くと、そこに筆の感触がした。
そして。
「さ、できた。 見てごらん。」
渡された手鏡を覗き込んで、ロザリアは絶句した。
ありきたりな表現しか出てこないほど、鏡の中の自分はいつもと雰囲気ががらりと変わっている。
少し大人の、憧れていた女性の顔が鏡の中に映し出されていた。
「やっぱり、あんたにはその色だね。」
メイク道具を片付けながら、オリヴィエが満足そうに頷いた。
不思議そうに首を傾げたロザリアに、オリヴィエがあのパレットを見せ、唇を指さす。
「これだけ試して、やっと見つけた色なんだ。
…あんただけの色だよ。」
ディアに渡したサンプルとは違う、もっと淡く透き通るようなピンクに、光を弾くブルーのパール。
この色は、彼女にしか似合わないと思っていた。
全身にブルーをまとう彼女にしか。
「さ、最後の仕上げ。」
オリヴィエが奥の部屋から持ち出したのは、ブルーのワンピース。
シフォンの柔らかな素材が、ひらひらと揺れている。
「これは?」
「あんたにしてみたら安物だとは思うけどさ。
そこは教師の安月給だから、許してよ。」
そう言いながら、オリヴィエから渡された布地は手触りだけで、それなりのものだとすぐに分かった。
艶やかな光沢は上質なシルクならではだ。
「こんな・・・いただけませんわ。」
誕生日でもなければ、クリスマスでもない日に、プレゼントをもらうわけにはいかない。
ましてや、特別な関係でもないのに。
「・・・ あげるんじゃないよ。 貸すだけ。」
「貸す?」
「そ。 あとで返してもらうってこと。 それならいいでしょ?」
まだ渋っているロザリアに、オリヴィエはウインクを一つ。
「せっかく二人そろってメイクしたことだし、着替えたら、出かけようよ。
ってことで、制服じゃ困るんだ。
大人しくそれを着てくれる?」
飲み終えたカップとメイクボックスを手に、オリヴィエは奥へと去っていった。
今のうちに着替えるように、とのことなのだろう。
ロザリアはワンピースを腕に抱え、しばらく考えた。
きっとオリヴィエのことだから、ロザリアに似合うモノを選んでくれたに違いない。
淡いブルーはロザリアも大好きな色。
広げてみたデザインも、オフショルダーの少し大人っぽい上半身と、膝丈のふんわりしたスカートがほど良く上品で、とても素敵だ。
それに、この後、オリヴィエは出かけると言っていた。
このワンピースを着て、このメイクをして。
オリヴィエと二人で学校以外の場所に行く。
その魅力的な誘いに、逆らうことなどできそうもない。
ロザリアは決意を固めると、制服を解き、ワンピースに着替えていた。
気配を伺っていたのか、ロザリアが着替えを終えて、制服を鞄にしまうと、ちょうどオリヴィエが顔をのぞかせた。
「うん、いいね。
靴がちょっと無粋だけど、しかたないか…。」
ロザリアの足元は何の変哲もない制服用のローファーだ。
たしかにこればかりは仕方がないだろう。
「まあ、ゆるいワンピースとかっちりしてる靴が異種ミックスってイメージになって逆に新鮮かもね。
あ、髪の毛も下ろそうか。」
ハーフアップに結い上げた髪をほどかれて、ブラシで梳かれた。
癖の強い髪は巻き髪をほどいても、くるくると波打っている。
オリヴィエが指で軽く整えると、いつもと違うウェーブヘアが出来上がった。
「変身完了。
こうしてると、姉妹みたいじゃない?」
鏡に二人並んでみると、オリヴィエは本当に女性にしか見えない。
しかも飛び切りの美女。
本当の女性であるロザリアの方が見劣りしている気さえする。
「オリヴィエ先生の方がお綺麗ですわ。 でも、これならだれにも気づかれませんわね。」
少し弾んだ声のロザリアに、オリヴィエの目が細くなった。
メイクをしたオリヴィエを見ても、彼女は何も変わらない。
それどころか手放しで『キレイ』と褒めてくれる。
もちろん彼女を試すつもりはなかった。
これで離れていってしまうなら、それでもいい。
ただの教師と生徒に戻り、彼女の噂話の種の一つになるならそれでもいい、と思っていた。
純粋で素直で、強い。
こんな女の子は今まで一人もいなかった。
「どこに行きたい?」
「どこ・・・・。」
急に言われても、ロザリアにはピンとくる場所がなかった。
オリヴィエと二人でドレスアップして出かける場所。
気の利いた場所が思いつかない自分が恨めしい。
やがて。
『キュウ~。』
小さく鳴ったのは、空腹のしるし。
ふっと笑みをこぼしたオリヴィエの前で、ロザリアは耳まで赤くなってしまった。
よりによって、こんな時に。 ムードも何もぶち壊しだ。
「OK。 そう言えばこんな時間だもんね。
まずはご飯かな。」
オリヴィエは真っ赤な顔のロザリアの手をとった。
繋がれた手にロザリアが顔をあげると、キレイにマスカラでふちどられたダークブルーの瞳と目があい、紅いリップが柔らかく弧を描く。
まるで夢を見ているように、全身が熱い。
今から起こる出来事はきっとすべてが夢だ。
だから。
ロザリアは手を引かれるまま、オリヴィエの後を追いかけていった。