fly me to the future

4.


「さあ、そろそろ時間ですわ。 片付けに入りましょう。」
17時を回り、ロザリアは書類のファイリングを始めた。
片付けと言っても掃除だけではなく、今日一日の進み具合の確認から、明日の計画を立てるところまでを含んでいるから、全部で1時間は必要だ。
「え、もうそんな時間。 あっという間だね~。」
アンジェリークも同じように書類をまとめようとしている。
それなのに、アンジェリークがトントンと書類を叩くたびにバサバサと束が崩れるのはなぜなのか。
ロザリアはアンジェリークの手から書類をひったくると、あっという間にキレイにまとめてファイルした。

「あーん、わたしだってできるのに。」
「あんたにやらせてたら日が暮れるじゃないの。 …レイチェルはどこに行きましたの?」
「ココでーす!」
「私もいますー。」
レイチェルとコレットも舞台の大道具の影からひょっこりと顔を出した。

部活交流会まであと一週間。
大道具の保管場所もこの生徒会室で行っているから、今はまさに足の踏み場にも困る状態だ。
準備もいよいよ大詰め。
あとは各部が行うリハーサルの時間調整や、小道具の手配など、こまごまとしたことだが、その分ミスができない。
「頼まれたことはきちんとメモを残しておいてくださいね。
 アンジェ、聞いているんですの? あんたのことよ!」
「ふわーい。」
モグモグとお菓子を頬張りながら、アンジェリークが返事をする。
ロザリアは、ふう、とため息をついて、話を進めた。

「じゃあ、また月の曜日に。」
レイチェルが飛び出していくと、コレットもぺこりと頭を下げて出ていく。
このところ時間通りに帰れるようになったせいか、二人ともこの後、約束をしているらしい。
「あ~あ。 いいな~。」
机に頬杖をついて唇を尖らせたアンジェリークは、はす向かいのロザリアをちらりと見た。
ロザリアはなにやら嬉しそうな様子で荷物を鞄の中に詰めている。
やっぱり何かあるような気がするのだが…。
「それじゃあ、わたくしもお先に失礼しますわ。」
そそくさと出ていってしまったロザリアに、アンジェリークはもう一度ため息をつくと、自分も荷物を片付け始めた。
広げたままのノートを閉じ、あちこちに散らばっていたペンを筆箱に戻していく。

その時。
「あれ?」
カラフルなペンがぱんぱんに詰まったぬいぐるみのような筆箱の中に、一つだけ紛れていたペン。
銀の透かし彫りの入ったロイヤルブルーは、ロザリアのお気に入りのペンだ。
「わ、どうしよ。 宿題やるとき、使うよね…。」
ロザリアはお嬢様だけれど、無駄遣いはしない。
気に入ったものを長く使うタイプで、それもアンジェリークとは正反対なところだ。
文字を書く時に、ロザリアはたいてい、このお気に入りのペンを使っているから、きっと無ければ困るだろう。
しかもこのせいで、ロザリアが宿題をやって来れないことになると・・・・アンジェリークも困る。


アンジェリークはペンと鞄を抱えると、生徒会室に鍵をかけ、走り出した。
ロザリアに見られたら、「生徒会長が廊下を走ってどうするの!」と怒鳴られるだろうが、歩いていては間に合わない。
ロザリアを追って、階段を駆け下り、正門への角を曲がろうとしたアンジェリークは、視界の隅に見慣れた青紫の姿をとらえた。
正門とは逆の方向。
ロザリアはどんどん暗いほうへと早足で歩いていく。
「…どこ行くんだろ?」
アンジェリークは慌てて、Uターンすると、その姿を追いかけた。

迷いなく、特別棟を進むロザリアに、アンジェリークは忍び足でついていく。
薄暗く、人気のない特別棟は、ここになじみのないアンジェリークにとっては、どこか不気味で恐ろしい。
学園の七不思議、夜中に歩くガイコツも勝手になり出すピアノも、全部このあたりにあるのだ。
ドキドキを繰り返す鼓動に、自分は忍者には向いていないと、アンジェリークはつくづく思った。
でも、このままあきらめることもまた、アンジェリークの好奇心が許さない。
階段を上がり、廊下の角を一つ曲がったところで、ロザリアはようやく足を止め、ドアをノックした。
どうやらロザリアはこの部屋に用事があるらしい。

アンジェリークは目を凝らし、ドアの上にぶら下がる部屋の名前が書かれたプレートを見ようとした。
けれど、薄暗いせいで文字は読み取れず、アンジェリークが必死で首を伸ばしていると。
急にドアが中から開き、部屋から明かりがこぼれてくる。
蛍光灯の明かりに照らされて、はっきりと見えたロザリアの表情に、アンジェリークは息を飲んだ。

はにかむような笑顔に、ほんのりと染まった頬。 相手を見上げる、輝くような青い瞳。
ロザリアのすべてから、目の前の相手への想いがあふれだしている。
アレは間違いなく、恋する少女特有のものだ。
一体、誰に向けての笑顔なのか。
アンジェリークはイライラと首を伸ばしたが、ロザリアの影になって、なかなか顔が見えない。

「いらっしゃい。」
「今日もお願いいたします。」
礼儀正しく、ロザリアが会釈をすると、ようやく人影がアンジェリークの目に映る。


「え、嘘!」
出かかった言葉をアンジェリークはごくりと飲み込んだ。
背中からの明かりに照らされて見えた男性の顔。
一瞬、誰なのかわからなかったけれど、同時に明かりに照らされて見えたプレートは『化学準備室』。
そして、男性の着ている白衣と、その声で、ピンときた。

「オリヴィエ先生…。 うわ、信じられない~。」
そういえばコレットが『素顔はすごくカッコいい』 と言っていた気がする。
確かに今見ているオリヴィエの横顔は、ものすごく美形だ。
美形すぎて、混乱するほどに。
でも、アンジェリークにとってはオリヴィエが美形かどうかなんてことは大した問題ではなかった。
美形なんてこの学園の教師ならむしろ普通。
見慣れればどんな顔でも大した違いはない、というのも、アンジェリークの持論の一つだ。
それよりも。
ロザリアを見るオリヴィエの瞳がとても優しいことのほうが、ずっと大問題だ。
二人の関係がどうなのかはわからないが、おそらく、たぶん、きっと。
いや、絶対。
アンジェリークの直感が告げている。

ロザリアが部屋の中に消えた後、アンジェリークはしばらくその場で呆然としていた。
そう言えば、思い当たることはいろいろあった。
急に時間通りに終わるようになった生徒会とか。
おかしなロザリアの様子とか。
レイチェルに理系クラスのことを聴いたり、香水が変わったり。
それらすべてがオリヴィエに繋がれば、パズルのピースのようにぴたりと当てはまる。
「そっか~。 なるほどね~。 ふ~ん。 まあ、悪くないかも~。」
アンジェリークは一人腕を組み、うんうんと頷いた。

ロザリアは生真面目すぎなところがあるし、意地っ張りで、言葉も辛辣だ。
整いすぎた美貌も含めて、言ってみれば近寄りがたい空気があるから、なかなか本心のロザリアまでたどり着ける人間は少ない。
アンジェリークの知る限りでは、自分と生徒会メンバーを含む少数の友人。
それと一部の先生方くらいだろう。
そんなロザリアには少し年上の彼がいいと、前々からアンジェリークは思っていたのだ。
オリヴィエなら悪くないし、応援してあげたい。
ロザリアの親友としても、同じような恋をする自分自身への励ましとしても。

「とりあえず・・・ペンを返すのは今度にしよっと。」
短いはずの二人の時間を邪魔するほど野暮じゃない。
それに、今、乗り込んでいって、ロザリアに睨まれるよりも。
知らん顔でちょいちょいからかうほうが、ずっと楽しい気がするのだ。
顔を真っ赤にして全力で否定するロザリアを想像したら、可愛すぎて…思わず飛び跳ねそうになる。
握りしめていたペンを丁寧にじぶんの筆箱へと戻し、アンジェリークは鼻歌交じりで学校を飛び出したのだった。


そのころ。
ロザリアはいつも通りに白衣に着替え、メガネとマスクをつけて、実験台の前に立っていた。
通い始めて一週間余り。
かなり作業にも慣れたおかげで、少しずつ余裕が出てきた。
それをオリヴィエもわかっているのか、時々話しかけてくれるようになったのだ。

「で、今日の仕事は進んだの?」
ロザリアが器具をセットしたところで、オリヴィエが尋ねてきた。
「はい。 今日は、演劇部のリハーサルがありましたの。
 まだ、演目はお知らせできないのですけれど、素晴らしい舞台でしたわ。
 これから一週間でさらに完成度を高めると部長もおっしゃっていましたから、本番はもっと素晴らしいでしょうね。」

ロザリアはうっとりとドレス姿の演劇部員たちを思いだした。
寄付金が豊富な学園は部活への援助を惜しまないから、衣装や小道具も凝ったものばかりだ。
そのおかげでもないのだろうが、演劇部は毎年全国コンクールで上位を争うレベルだし、高名な女優や舞台監督なども輩出している。
オーケストラ部も然り、合唱部もだ。
もちろん、今度の部活交流会は文化系だけではなく、運動部の対外試合や模範演技もふくまれているが、ロザリアはもっぱら文化部の担当をしていた。

「あんたはお芝居とか好きなの?」
「ええ、見るのは好きですわ。 先生はお好きではありませんの?」
「う~ん、嫌いじゃないけど、見る機会はあんまりないかな。
 男一人じゃなかなか、ね。」
「それもそうですわね。」
「今度、一緒に行ってくれる?」

なにげないオリヴィエの言葉に、ロザリアはぎょっとして廻っていたフラスコから目を離すと、棚の隙間から彼を覗き見た。
実験台の前の彼も相変わらずの眼鏡姿。
今日のオリヴィエはいろんな粉のようなものを並べては、塊を作っている。
溶媒に溶かした色でも眺めているのか、ガラス器具越しに目があうと、オリヴィエはくすっと笑っていた。

「なーんてね。 冗談。
 それよりも、舞台といえば、あんた、楽器とかもやってるの?
 こないだ、オケ部と合奏するって言ってたでしょ?」
「ええ。 バイオリンを少し…。」
「バイオリン! さすがお嬢様だね~。」
「オリヴィエ先生は?」
「ピアノとかギターとか…まあ、全部、それなりってくらいだけどさ。」
「ぜひ聴いてみたいですわ!」
「ふふ。 機会があったらね。」

オリヴィエは本当に多才な人だ。
ピアノだってそれなり、といいつつ、きっとかなりの腕前なのに違いない。
彼のピアノはどんな音なのだろうか。
羽のように軽やかで、でも正確で。
華やかな音が跳ねるようにロザリアのバイオリンに寄り添ってくるのだろうか。
いつか合奏ができたら…。
彼の隣で見つめ合いながら同じ曲を奏でる姿を想像して、勝手に顔が赤くなる。
ロザリアは時間を告げるタイマーの音に急いで器具を外し、新しい花を準備した。


分離した精油をフラスコに保存し、今日の作業は終わりだ。
金の曜日という気安さも手伝って、いつもよりも少し遅くなってしまったが、これくらいなら両親も怒ったりはしないだろう。
優等生を通してきたロザリアは、信頼もされている。
メガネとマスクを外し、着替えを済ませたロザリアは、箒を手に取った。
オリヴィエも片付けを始めていて、ロザリアは彼の周りにも箒をかけていく。
台の上は彼の領分だから手を付けられないが、床のごみや棚の埃は手を触れてもよさそうだったからだ。

「ありがと。 なんかあんたが来るようになってから、部屋がきれいになった気がするよ。」
手を洗い終えたオリヴィエが笑っている。
白衣はいつも着たままだけれど、メガネとマスクをとったオリヴィエは、とても素敵で、真正面から見るのが恥ずかしい。
実験台をはさんでなら、普通に会話ができるのに。
ロザリアは彼に背を向けたまま、箒をかけ続けた。


ふと、いくつかの花びらが床にこぼれているのが目についた。
箒で集めようとすると、花びらはふわりと舞い、わずかな香りをロザリアに運んでくる。
小さな花びらでさえ、ちゃんと薔薇の香りなのだ。
「オリヴィエ先生、薔薇の香りはどんな物質なんですか?」
「主成分はゲラニオールって言われてるね。」
「わかっているんですのね。」
「もちろん。 薔薇だけじゃなくて、いろんな花にも含まれてるよ。
 香りって昔から研究テーマとして重用されてるから、かなり解明も進んでるんだ。」
「では…。」
頭に浮かんだ疑問をそのまま、ロザリアは口にしていた。

「その成分だけを作りだしたら、好きな香りを簡単に手に入れられるのではないのですか?
 たくさんの花から少ししか取れないだなんて、効率がわるいですもの。」
「そう思う?」
ロザリアの言葉に、オリヴィエは唇の端をわずかに上げるような笑みを浮かべた。
皮肉めいた表情。
彼を不機嫌にさせてしまったかもしれない、と、鼓動が早くなる。
ロザリアをじっと見つめるダークブルーの瞳に、上手く言葉を返せない。
これは質疑応答なのだろうか。
オリヴィエに、出来の悪い生徒だと呆れられてしまったのだろうか。
ロザリアが思わずギュッと手にしていた箒を握りしめていると、オリヴィエが、くすり、と先とはまるで違う笑みを浮かべた。

「ちょっと、なに、そんな顔しちゃって。
 別にテストってわけでもないんだから、あんたのホントの意見を言っていいんだよ。
 そういう議論が大事なんだから、ね。」

オリヴィエの気楽な声に力の抜けたロザリアはそのまま呆然とオリヴィエを見つめ返した。
「実際、ゲラニオールだけじゃなくて、いろんな香料が、今は簡単に合成して使われてるよ。
 お菓子とか芳香剤とか、手軽で安くて、ちょっといい香りの方が何となく嬉しいものにはね。
 でも、私は、香水とかはそれとは違うと思ってる。」
不思議そうに首をかしげるだけのロザリアに、オリヴィエが続ける。


「ねえ、ロザリア。
 あんた、今、好きな人はいる?」
ドキッとロザリアの心臓が跳ねる。
ダークブルーの吸い込まれそうな瞳。
思わず、こくんと頷いていた。

「じゃあ、その人のことを思い浮かべてみて。
 あんたはその人のどこが好き?
 顔? 性格? まさかお金ってことはないだろうけど。」

ロザリアはただ首を振った。
わからない。
問われた瞬間、ロザリアの頭に浮かんだのは、今、目の前にいる彼。
どこが好きかどころか、好きなのかどうかさえも。
まだ、わからない。
言い淀んだロザリアにオリヴィエは艶めいた笑みを向けた。

「わからない、か。
 でもそれって、本当なんだと思うよ。
 たとえば、一番好きなとこが顔だとして、その顔で中身が全然別人だったらどう? その人のこと好きになれそう?
 逆に顔が違ってたら?」

少し考えて、やはりロザリアは首を振った。
どちらもその時点で、彼ではない。

「やっぱりさ、その人が、その人だから好きなんだと思うんだよね。
 顔と性格と。
 それから声やしぐさや言葉の一つ一つまで。
 その人を作ってる全部がそろって、初めて、その人のことを好きだって思えるんじゃないかな。
 香りだって、同じだよ。
 その香りの中の一つだけを取り出して、それでイイなんて、私は思わないんだ。
 どれだけ効率が悪くても、その花の持つ全部を、香水の中に閉じ込めたい。
 好き、って、そういう事じゃない?」

ロザリアの全身の熱がカッと高くなった。
自分がどれほど愚かなことを言ったのかを、ようやく理解したからだ。
恥ずかしさで俯いてしまったロザリアに、オリヴィエは目を細めた。
自分の意見を否定されたら、怒り出すかもしれないと思っていたが、彼女は違った。
俯いている細い肩に触れそうになって、オリヴィエはその手を彼女の頭に乗せた。

「好きになるって、不思議だよね。
 だって、その人や物の、いいところだけじゃなくて、悪いところも全部をひっくるめて、そう思うんだもの。
 何かが欠けてても、逆に多すぎても、きっと好きだって思ったりはしないんだろうね。」

あやすように、オリヴィエの手がロザリアの頭を撫でる。


  たた様より


まるっきり子供の扱いに、普段のロザリアなら、その手を振り払っていただろう。
けれど、その手に、オリヴィエにとっての自分が、ただの生徒に過ぎないのだと、思い知らされた。
触れるほどそばにいられることは嬉しい。 でも、簡単に触れられることは寂しい。
どうにもならない心の全部が『好き』ということなら、『好き』はとても苦しい。


「な~んて、ちょっと語っちゃった。
 長話のせいで、ミルクティの時間が無くなったね。 ゴメン。」
あっからかんと言いながら、まだ彼の手はロザリアの髪を撫でていて。
「いいえ。 ありがとうございました。
 わたくし、あの、とても身に沁みましたわ。」
「ふふ。 あんたってば、素直だね。
 見た目は全然そんな風に見えないのにさ。 ツンツンしてるし、目だって、こんなにつり上がってるし。」
「まあ!」
つい声が尖ると。

「でも、そういうとこも、あんたの一部なんだよね。
 意地っ張りなのも、頑張り屋さんなのも、ホントは素直なのも、全部。」
くすっと笑う声と一緒にオリヴィエの手が離れていく。
やはり少し寂しいと思ったことには、気が付かないふりをした。


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