fly me to the future

5.


家に戻り、ロザリアは今日の作業をノートにまとめようとした。
ところがお気に入りのペンが筆箱に入っていない。
慌てて鞄の隅々まで探してみてたが、やはり見つけることができなかった。
「困りましたわ…。」
代わりのペンがないわけではないけれど、一番しっくりと手に馴染むあのペンがないと、少し集中がそがれてしまうのは事実だ。
なんとか作業のノートをまとめたところで、ロザリアは考えた。
鞄に無ければ、あとは学校しか考えられない。
授業中は間違いなくあったから、生徒会室か、その後か。
明日、時間があったら、探しに行ってみてもいい。

「休みの日はどうしてるの?」
数日前、作業の途中でオリヴィエに尋ねられた。
「たいていはお茶会やサロンに招待されておりますので、そちらへ出向きますわ。
 あとはお稽古事やその発表会などにも時間をとられますし。」
「へえ。 ずいぶん忙しいんだね。 ちゃんと休めてる? 」
気づかわしげな視線を向けてきたオリヴィエに、ロザリアはわずかに首をかしげた。
「休みを家で過ごすなんて、ほとんどありませんもの。
 いつものことですわ。」
疲れた、なんて思う暇もない。
実際、前の日の曜日もその前の日の曜日も、サロンでバイオリンを弾いていた。
それが貴族の子女としての役目だと思っていたけれど。

「前も言ったと思うけど、休む時は休むんだよ。
 あんたは頑張りすぎなんだから。」
眼鏡越しのオリヴィエの瞳にまた訳もなく胸がざわめく。
『頑張って』と言われることには慣れているけれど、『休んでいい』と言われることは…少し気恥ずかしい。

「オリヴィエ先生は、お休みの日は何をなさっているんですか?」
話を逸らすように、ロザリアは聞き返した。
「私?
 うーん、あんまり人には言えないかも。 特にあんたみたいなお嬢様には。」
「そうですの…。」
ロザリアは自分の声に驚いた。
感情を顔に出さない事には慣れているはずなのに、明らかにがっかりしてしまっていたからだ。
オリヴィエに『あんたはここまで』と、きっぱり線引きされたようで。
それがなぜか悲しかった。

「なんてね。
 わりとここに来て、作業してるよ。
 思いついたらすぐにやりたいし。 あとはショッピングかな。  意外とやることないのかも。」
別に仕事熱心ってわけじゃないんだよ?と、からかうように言ったオリヴィエ。

もしかしたら、明日もいるかもしれない。
ベッドの中で、ロザリアはそう考えて、慌てて首を振った。
さっきまで一緒にいたのに、もう彼に会いたいと思う自分がいる。
感じたことのない、不思議な気持ちには、ただ戸惑うばかりだ。
それでも体は疲れていたのか、目を閉じたロザリアはあっという間に眠りに落ちていたのだった。



予定通り、英会話のレッスンを終えたロザリアは、迎えの車に乗り込んだ。
見事な夕焼けに染まった空に、街路樹の枯れ葉がくるくると光を受けて舞い落ちていく。
車の中からぼんやりと景色を眺めているロザリアの前を、たくさんの恋人たちが通り過ぎていった。
どの恋人たちもとても楽しそうに、手を繋いだり、腕を組んだり、笑い合っている。
今まではそんな光景を見ても、何も気にならなかった。
でも今は、彼らがとてもうらやましい。

「少し寄り道をしてもらってもよろしいかしら? 実は学校に忘れ物をしてしまって。」
運転席に声をかけると、
「はい。 学校ですね。」
老運転士は心得たように、次の交差点を曲がった。


休日の学校はまるでゴーストタウンだ。
いつものこの時間なら、部活が始まったばかりで、放課後の生徒たちでごった返しているのに。
今日はまるで人影がなく、時々クラブハウスから下校する運動部の生徒の姿が見えるだけだ。
ロザリアは足音を忍ばせて、特別棟の階段を上っていった。

しんと静まりかえった廊下は、足音を忍ばせているぶんだけ、自分の鼓動が響く気がする。
耳の音でずっと鳴りやまない音。
もしも、オリヴィエがいたら、なんて言おうか。
・・・彼はなんて言うだろうか。

走る気にはなれなくて、ゆっくりと化学準備室の前まで来たロザリアは、わずかに部屋のカーテンが開いていることに気が付いた。
普段は暗幕のように閉じられている黒いカーテンが、今日はドアの隙間と同じだけ開いている。
珍しいと思いながら、ロザリアの胸は期待でいっぱいになった。
部屋の鍵が開いているという事は、オリヴィエがいるという事。
ロザリアはそっと開いたカーテンから、中を覗き見た。

窓から差し込む西日。
あの日と同じような光の中で、こちらに背を向けて、座っているのはオリヴィエだ。
金色の髪が背中にキラキラと輝いて、夕日よりもずっと眩しい。
けれど、ロザリアは同じソファに並ぶように、もう一人の人影があることにすぐに気が付いた。
逆光に照らされてはっきりと顔は見えないが、髪を結いあげたシルエットは間違いなく女性。
落ち着いた大人の雰囲気がその佇まいからもわかる。
ロザリアの背中がすっと寒くなった。
こんな風に二人きりで会う女性がオリヴィエにいたなんて、思ってもみなかった。

ロザリアの方を向いている彼女が、ロザリアに気が付かないのには理由がある。
オリヴィエに半分隠れるようにして、彼女は目を閉じている。
ほんの少し唇を突き出して。
それが何を意味するのか、気づかないほど、ロザリアは子供ではないつもりだ。
ただ、信じたくなかっただけ。
けれど、オリヴィエの掌が女性の頬にそっと添えられたかと思うと、顔までがゆっくりと近づいていく。
重なり合ったかは、わからない。
その先を、ロザリアはとても見ていられなかったから。


たた様より


人の気配。
走り去る足音に気が付いて、オリヴィエは振り返った。
当然そこにはもう誰の姿もなく、重いカーテンが揺れているだけだ。
「ごめん、ディア。 ちょっと見てくるから。」
それでも、オリヴィエは立ち上がり、気配の正体を確かめようと、廊下に首を出した。
きょろきょろとあたりを見回しはしたけれど、すぐそこの角を曲がられてしまえば、もうここからはなにも見えなくなってしまう。

ふわりと流れた風に、一瞬感じた淡い薔薇の香り。
ロザリアの香りに似ている、と思ったけれど、あまりにも一瞬で、確信は持てない。
それに、忙しい彼女が、休みの日に学校へ来るとも思えなかった。
「気のせいか…。」
独り言ちて、部屋に戻ると、ディアが面白いものを見るような目をオリヴィエに向けていた。

「オリヴィエったら。 誰か、待っている人でもいるのかしら?」
「そんなんじゃないけどさ。」
オリヴィエは再び彼女と並ぶようにソファに腰を下ろし、立ち上がった拍子にずれたパフを手にはめなおした。
パフをすることで、掌が彼女の顔に直接触れることはない。
さっきと同じように、パフ越しにディアの頬を持ち上げると、慣れたように彼女が目を閉じる。
右手にリップブラシを持ち、オリヴィエはテーブルの上のパレットから色をとった。

「どう?」
「ええ。 素敵な色だわ。」
ディアは自分の唇につけられたリップをなじませるために、数回上下の唇を合わせた。
馴染むほどに、淡いピンクのリップは不思議な青みを帯びて、艶めいている。
「パール? ラメ? どっちにしても不思議な色味ね。」
「3色のパールを細かく混ぜてるんだ。 ブルーはリップには珍しいでしょ?
 配合にはかなり気を使ったよ。」
見る角度によって、違うきらめきを持つように。
毎日違う表情を見せる、彼女のように。
話しながら、オリヴィエは筆を拭き、次のパレットをボックスから取り出した。
リップの次はアイシャドウをつけるつもりだ。
メイクの手順としてはバラバラだが、一番見てほしかったリップを先につけてしまいたかった。


「オリヴィエ、気になる人がいるでしょう?」
「は?」
ディアは驚いて目を丸くしているオリヴィエに自信ありげにほほ笑んだ。
「わかるわ。 だって、この色、今までのあなたには無かった色だもの。
 きっとその子に似合うように考えたんでしょう?
 そうね、ブルーが好きなんじゃなくて?」

絶句しているオリヴィエに、ディアはますます面白そうに、声を立てて笑った。
「これでも、あなたよりほんの少しは年上なのよ。
 それくらいわかります。」
「あ~、もう、やんなっちゃう。 私ってそんなにわかりやすい?」
オリヴィエが肩をすくめる。
「色や香りは感性が出ますもの。
 オリヴィエが今、一番、何を考えているか、すぐにわかってしまうのよ。」

訳知り顔のディアとは、言われるほど年は離れていないはずだ。
まあ、彼女にはオリヴィエもよく知っている年上の恋人がいて、そのせいか年よりもずいぶん落ち着きがあるのは本当だが。

新たに取り出したアイシャドウのパレットには、どれも淡いパールが入っていて、穏やかな色味ばかりが並んでいる。
覗き込んだディアが淡いブルー風味のホワイトを指で掬いとった。
「清楚で、大人しいタイプなのかしら?
 ちょっと意外だわ。」
「意外って…。 でも、大人しいっていうのとはちょっと違うかな。
 すごく気が強くてわがままに見えるのに、ホントはすごく優しくて気遣いのできる子なんだ。」
「だからホワイト?」
からかうように言うディアに、オリヴィエは開き直った。

「そう。 純粋で真っ白なんだ。
 でも、誤解されやすいところがさ、なんか・・・。」
「ほっとけないってことかしら?」
「まあね。」
「とんだお惚気ですわ。」
オリヴィエとディアは向かい合ったまま、笑ってしまった。


「このサンプルはいただいていくわ。 次はもう夏向けになるのかしら。
 まだ秋が来たところなのに、年をとるごとに月日が経つのが早くなるわね。」
「ホントだね。」
次にディアが来るころは、卒業式間近だろう。
別れの季節は、きっとあっという間にやってくる。

「あ、あんたの彼によろしく。
 近々また花をもらいに行くからさ。」
「ええ、伝えおきますわ。 そうね、ついでにブルーのウェディングブーケでも作ってもらっておきましょうか?」
「・・やめてよ。」

オリヴィエが手渡したパレットを、ディアは全て持ち帰っていった。
今までのオリヴィエにはなかった色味だと言ったが、それは褒め言葉だったらしい。
仕事に関して妥協のないディアがすべて持ち帰ったことは嬉しいし、これでオリヴィエもようやく一息つける。
明確な納期があるわけではないけれど、ディアが来る時期はだいたいわかるから、ここのところ、かなり根を詰めて作業していたのだ。


ディアにだした紅茶のカップを片付けながら、オリヴィエはクスリと笑った。
『気になる存在』。
言い当てられたからではなく、オリヴィエ自身も自覚していた。
新たな色を作ろうとすると、ふと浮かぶ、ロザリアの顔。
キレイにカールする青紫の髪。 宝石のような青い瞳。
どうすれば、彼女のイメージを出せるのか。
彼女に似合う色を知らない間に探していて。
気が付けばパレットの中には、今までなかったような色ばかりが集まっていたのだ。

今、まだ彼女はメイクをしていない。
でもいつかは、誰かのために装う日が来るのだろう。
オリヴィエの知らない、誰かのために。
もしも彼女が生徒でなければ、誰よりも綺麗にする自信がある。
もしもただの男と女として出会っていたのなら、きっと。
ちくりと、胸を刺す痛みにオリヴィエは顔をしかめた。


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