6.
月の曜日の朝。
ご機嫌に教室へやって来たアンジェリークは、いつもと違うロザリアの空気をすぐに感じ取った。
凛と伸ばした背筋も、予習をするまっすぐな瞳も変わらないけれど、どこか違う。
何かを無理に抑え込んでいるような気配を感じるのだ。
昔、まだ生徒会で一緒になる前のロザリアが確か、こんな風だった。
不思議に思ったけれど、アンジェリークは、その理由を深く考えることなく
「このペン! 間違えて持って帰っちゃったの~。 ごめんね。」
ロザリアの背後から抱き付いた。
いつものロザリアなら、
「もう、やっぱりあんただったのね。 おかげで宿題がやりづらかったじゃないの!」と怒りながらも、笑ってくれるはずだった。
が、今朝のロザリアの反応はアンジェリークの予想とは違っていて。
アンジェリークが差し出したペンをロザリアは黙って受け取った。
そして、
「あんたが持ってたのね。」
ため息のように吐き出された言葉。
まるで忌々しいものを受け取るような手にアンジェリークが驚いてしまった。
「ごめんね。 なにか・・・」
『あったの?』と、続けようとしたアンジェリークの前に、すっと差し出されたノートは、たくさんの宿題が出ていた数学のノートだ。
「これでしょう? 今回は結構たくさんでしたもの。」
まるで後光が差しているように輝いて見えるノートに、アンジェリークは目がくらんだ。
金の曜日に帰宅してから、すぐに取り掛かったのに、全く理解できないまま大半が真っ白の宿題…。
こんなノートを提出したら、先生の呼び出しを食らうことは確実だ。
銀縁メガネのエルンスト先生はドSだと理系クラスのレイチェルがたびたび愚痴をこぼしている。
「きゃー! ありがとう! さすがロザリア!」
賞状でも受け取るように、恭しくノートを掲げ持ったアンジェリークは、大急ぎで宿題を写し始めた。
もちろん、適度に間違えることも忘れずに。
そして、ささやかなロザリアの異変は、アンジェリークの中からすっかりと消えてしまった。
放課後。
ロザリアは生徒会室でいつものように仕事をしていた。
その様子はまるで鬼気迫る、といった気配で、アンジェリークですら声をかけづらい空気。
でも、本当のところ、ロザリアの頭の中は別のことでいっぱいだった。
刻々と近づいてくる時間。
17時になれば、当然のように、皆は帰り支度を始める。
ロザリアから言い出した、規則通りの終業なのだから仕方がない。
アンジェリークがスキップしながら出ていき、レイチェルとコレットがエンジュを引っ張るように連れ出すと、ロザリアはポツンと一人取り残された。
気持ちは重いが、断りもなく行かなくなるのは、ロザリアの礼儀に反するから、行かないわけにはいかない。
結局、いつも通りの時刻に、ロザリアは化学準備室に来ていた。
「いらっしゃい。」
眼鏡越しにほほ笑むオリヴィエに、「よろしくお願いいたします。」と、丁寧に頭を下げる。
あの時、オリヴィエはロザリアに気が付いていなかったはずだから、いつも通りなのは当たり前だ。
平常心を意識して、ロザリアは作業を始めた。
実験台の前に立てば、今日やるべきことは、頭が勝手に処理してくれる。
慣れた手つきで水栓をひねり、器具のスイッチを入れた。
ふと、棚の隙間から、オリヴィエの顔を覗き見ると、メガネとマスクに覆われた姿を通して、あの時の光景が蘇ってきた。
オリヴィエのキレイな指が彼女の頬に触れて、顔が重なり合おうとした一瞬。
オリヴィエの肩越しに見えた彼女は、ロザリアよりもずっと大人の女性で。
逆光ではあったけれど、とても美しかった。
ロザリアはじわりとこみ上げてくる痛みにギュッと目を閉じた。
しばらく感じていなかった頭痛が、頭の奥でガンガンと半鐘を打ち鳴らすように激しくなってくる。
この二日間ほど、実はあまり眠れなかったのだ。
目を閉じると、瞼の裏に焼き付いたようにあの光景が浮かんできて、かえって休まらない。
だから勉強したり本を読んだりして、時間をつぶしていた。
たかがキスシーンを見ただけなのに。
もっときわどい映画や漫画だって目にしたことはあるし、それほどの箱入りではないつもりだったのに。
あのシーンがこんなにも忘れられないのは、なぜだろう。
眩暈を感じて、ロザリアは慌てて実験台の縁を掴んだ。
ガタン、と足元にあったスツールが大きな音を立てて倒れ、オリヴィエが顔を上げる。
彼の眼鏡越しの瞳が鋭くロザリアを見つめた。
「どうかした?」
「いえ。 なんでもありませんわ。」
視線を逸らして、ロザリアは俯く。
じっと見られるのが耐えられない気がした。
もしも彼の目を見てしまえば。
『あの人は誰ですか?』
『オリヴィエ先生の恋人ですか?』
そんな言葉が溢れて、止まらなくなりそうだった。
「ホントに? 体調が悪いんじゃないの?」
「大丈夫です。」
きっぱりとロザリアは言い切ったが、オリヴィエにはとてもそうは見えなかった。
メガネとマスクで顔がハッキリは見えないが、どこか青白く、目の下にはうっすらクマができている。
いつもならキラキラとオリヴィエを見つめる青い瞳も、暗い影を帯びているようだ。
そう言えば、今日、ここへ来てから、彼女は一度もオリヴィエと目を合わせない。
話かけようとしても、なぜかするりと交わされてばかり。
かといって、作業に身が入ってるようにも見えなくて、ロザリアの動きはいつになく危なっかしかった。
ビターオレンジの花の香りは心を落ち着かせる作用があるというけれど。
ロザリアは真っ白な花から生み出される黄金の液体をぼんやりと見つめていた。
ガラス器具の中で、混ざり合った液体が自然に2層に分かれる様は、何度見ても不思議だ。
今のロザリアの入り混じった気持ちも、こんなふうにキレイに分かれたら楽になれるのに。
新しく生まれてしまった気持ちを捨てて、今までの自分だけに戻れたら。
そんなことを考えながら、器具の中身を見ていたロザリアは、しばらくたって、いつもと違う様子に気が付いた。
キレイな2層に分かれてこない。
おかしい、と思って手を伸ばしかけたロザリアの目の前で、急にガラスが飛び散った。
「きゃあ!」
声をあげて、ロザリアはその場に立ちすくんだ。
咄嗟に腕で顔をかばったせいか、袖の部分がべったりと濡れ、割れたガラスが実験台に散らばる。
突然の破裂。
何が起こったのか混乱して動けないロザリアの腕を、いきなり、ぐいっと力強い手が後ろへ引いた。
反動でバランスを崩したロザリアの体が後ろに倒れる、と思った瞬間。
背後から抱きしめられるような形で、ロザリアはオリヴィエの胸の中にすっぽりと収まっていた。
「大丈夫?!」
オリヴィエの焦った声に、ロザリアはようやく我に返った。
あわてて振り返ったが、飛んだ液体で汚れたメガネは、オリヴィエの姿をにじませる。
おかげでロザリアの目には、青ざめたオリヴィエの顔が見えなかった。
「はい・・・。」
呆然と頷くロザリア。
ただ一瞬だけ、オリヴィエは腕に力を込めると、半ば、引きずるように、ロザリアを別の実験台まで連れていった。
「けがはない? どこか痛いところは?」
首を振るロザリアから、オリヴィエはメガネをはずした。
不意に明るくなったロザリアの視界に、怒りに満ちたオリヴィエの顔がある。
「ガス抜きをしなかったね?」
オリヴィエに言われて、ロザリアは思いだした。
層を分けるために中の液体を振った後、そのまま、リングにおいてしまった。
あれほど気を付けるように言われていたのに。
「…申し訳ありません。」
ロザリアは唇を噛んで頷いた。
「今日はもう帰りな。」
そう言われても仕方がない。
ロザリアは黙って、マスクを外し、白衣を脱いだ。
今日の分は全て、明日、やり直すしかない。
材料を無駄にして、器具も壊して。
初めての失敗は、ただでさえ落ち込んでいたロザリアの気持ちをますます暗くする。
そして、続いたオリヴィエの言葉にロザリアはさらに打ちのめされた。
「あと、しばらくここへは来ないで。
少なくとも部活交流会が終わるまでは、そっちに集中したほうがいい。
わかるよね?
今日みたいな作業じゃ、今度こそ怪我するから。」
ため息交じりのオリヴィエの声には、やはり怒りの色がある。
破裂した液体は、おそらくオリヴィエの実験台まで飛んでしまっている。
彼の作業を邪魔したのだから、怒られても当然だ。 …嫌われても。
「…はい。 わかりました。」
「ココも片づけておくから。」
オリヴィエは一刻も早く、出ていってほしそうだ。
機械的にノートを鞄にしまい、礼をすると、ロザリアは部屋を出た。
足が重くて、体も思うように動かない。
『ここへは来ないで。』
さっきの言葉が胸に突き刺さり、そこからしくしくと痛みがあふれてくる。
全て自分の責任だ。
でも、ただ、悲しかった。
一方、ロザリアが出ていく姿を見送ったオリヴィエは、飛び散ったガラスの破片を拾い始めた。
そもそも器具はこういった危険性を予想して、粉々にはならないようにできている。
簡単に破片を集め、こぼれた液体をふき取る。
ロザリアは驚いていたが、このくらいの失敗は実験に携わる者にとっては日常茶飯事のこと。
オリヴィエだって、もっとスゴイ爆発を起こした事が何度もあるのだ。
もちろんロザリアに対して怒りなどあるはずがない。
あるとすれば自分に、だ。
部屋中に漂う花の香りにオリヴィエはため息をついた。
この花から精油をとることは難しくはないが、面倒なのは確かだ。
1Kgの花からたったの1g。
ロザリアもこれだけの量を得るために、何日もこの花にかかりきりだった。
イライラとペーパーを丸め、ゴミ箱に放り込む。
こんなことになったのは、何もかも自分のせいだ。
ロザリアが疲れた顔をしていたのも、集中していないのもわかっていた。
だから、本当ならやめさせて、早く帰らせるべきだったのだ。
それをしなかったのは、オリヴィエが、彼女にそばにいてほしかったから。
この時間を失くしてしまうのを惜しいと思ってしまったから。
教師であることよりも、自分の欲求を優先させた結果、ロザリアに無理をさせてしまったのだ。
彼女が弱音を吐くタイプではないことは十分知っていたのに。
「何やってんだろうね…。 私は。」
主のいない実験台にオリヴィエは目を向けた。
いつの間にか彼女がそこにいることが当たり前になっていて。
それ以上に。
彼女にいてほしいと思うようになっていた。
去り際のロザリアの傷ついた顔が脳裏に浮かぶ。
でも少し離れたほうがいいのかもしれない。
壁が壁であるうちに。・・・まだ、飛び越えてはいけないと思えるうちに。
オリヴィエは3度目のため息をつくと、ミルクティを作るために、奥へと入っていった。
いつもなら作業の終わりに彼女と飲むミルクティ。
疲れをとるはずの、その甘さが、やけに喉に絡む気がした。