7.
翌日から、ロザリアはがむしゃらに生徒会活動に励んだ。
なんといっても部活交流会はこの週末だ。
こまごまとした打ち合わせや各部のすり合わせ、会場の設営と、やろうと思えばやることはいくらでもある。
忙しいほうがいい。 特に落ち込んだ時には。
それは幼いころからのロザリアの鉄則のようなものだ。
忙しさに身を委ねているうちに、いろんなことが流れていく。
お稽古のために友達と遊べなかった時も、勉強のために大好きだった教会での讃美歌の練習をやめた時も。
忙しさが胸の痛みを忘れさせてくれた。
けれど、今回は逆に時間が過ぎればすぎるほど、痛みが強くなっていく。
ロザリアはその分だけ、忙しく働いていた。
18時を回り、ロザリアは一度ペンを置いた。
ぐるりと生徒会室を見回せば、疲れた顔をした面々がいる。
いよいよ明日が部活交流会当日だというのに、その前に疲れてしまってはどうにもならない。
「各自でキリが付いたら終わりにしましょう。」
ロザリアがそう告げるとすぐに、
「ハーイ! ちょうど終了!」
レイチェルが勢いよく立ちあがる。
続けて、エンジュが
「じゃあ、ここで。」
と、レジュメのページに付箋を貼った。
「明日はいよいよ本番! 朝一で全体の流れの確認と、打ち合わせよ。
ゆっくり休んで体力をつけておくことが大事だから、今日は早く寝てね。 じゃあ、解散!」
アンジェリークの号令で、最後まで書類を書きこんでいたコレットも立ち上がった。
「あんたも帰りなさいよ。」
ロザリアは机に座ったまま、目の前で頬杖をついて、じろじろと視線を送ってくるアンジェリークに言い放った。
いつもならウキウキと一番に部屋を飛び出すアンジェリークなのに、今日はまるで帰る気配がない。
「ロザリアはぁ? もう18時回ってるよ?」
のんきに言うアンジェリークに苛立った。
「だからなんですの? まだ、18時ですわ。」
…もう急ぐ必要なんてないのだから。
「ね~、なんで終わらなくなったの~。」
「だから、あんたは帰っていいって言ってるでしょう?」
「ロザリアはぁ?」
「うるさいわね! 静かにしないと追い出しますわよ!」
それからはきっぱりと無視を決め込んで、もくもくと仕事を続けるロザリアを、アンジェリークは飽きもせず眺めている。
さすがに居心地が悪くなって、
「…なんですの? 言いたいことがあるなら、早くおっしゃいなさいな。」
手を止めて、アンジェリークの緑の瞳を見つめ返した。
「ホントに帰らないの?」
『化学準備室には行かないの?』とはさすがのアンジェリークでも聞けない。
ロザリアはほんの少し考えるように目を伏せた後、ぽつりとつぶやいた。
「そうですわね。 …帰る必要が無くなったのですわ。
自分勝手にあなたたちを振り回して、申し訳ないのですけれど。」
ごめんなさい、と、うつむいてしまったロザリア。
アンジェリークは予想外のロザリアの様子に驚きを飲み込んだ。
先日、偶然見てしまったオリヴィエとロザリアの待ち合わせ。
ロザリアが帰らなくなったのは、もしかして二人の仲がさらに発展したせいなのかと、邪な妄想をしていたのだ。
それなのに。
「えっと、喧嘩した、とか?」
つい口を滑らせてしまったアンジェリークだったが、ロザリアは気に留める様子もなく、
「…いいえ。 喧嘩なんて…。
ただ、わたくしが…。 きっと嫌われてしまったのですわ…。」
言いにくそうに言葉を選ぶロザリアは、アンジェリークでさえも一度も見たことがないような、苦しそうな顔をしている。
あんなに幸せそうに見えたのに。
オリヴィエだって、絶対、ロザリアを特別に見ている顔をしていたのに。
でも、と、アンジェリークは思いなおした。
気になってそれとなく聞き込みをして調べたオリヴィエは、思ったよりもずっといい教師だった。
変装めいた格好をしていても、生徒たちの質問には親身に答えるし、他の先生たちとの仲も悪くない。
けれど、『いい教師』ということは、それだけ壁も高い。
好きだから、なんてことだけで、何もかも飛び越えてしまえるほど、子供でもないだろう。
きっと、ロザリアが特別になってしまいそうだから。
だからこそ、突き放すのだ。
なんとなくアンジェリークにも思い当たることがあるからわかる。
でも、ロザリアを悲しませるようなことをしたなら許せない。
「ロザリアを嫌いになるはずないわ!
そんなやつがいたら、わたしが毎日、夢枕に立って、ロザリアの良さを力説してやるんだから!」
鼻息高く言い切るアンジェリークに、ロザリアは苦笑するしかなかった。
「あんたってば…夢枕に立つ、の意味、ちゃんと理解していますの?」
「え? 夢に出るってことでしょ?」
「・・・たいていは亡くなった方が出てくることを差しますのよ。」
「え! ってことは死なないとダメってこと?! 幽霊?!
ヤダ! まだ死にたくない~~!!」
大げさに両腕で体を抱きしめたアンジェリークに、ロザリアは今度こそ眉を開き、くすくすと笑った。
「ロザリア…?」
「ありがとう。アンジェ。
でも、本当に大丈夫ですわ。
部活交流会が終わるまではこちらの仕事に集中しようと、決めましたの。
どちらも中途半端にはしたくありませんし。
だから、先にお帰りなさい。
ハッキリ言って、あんたがいると、仕事にならないわ。」
「もう!」
アンジェリークはぷうっと頬を膨らませて、抗議して見せたが、ロザリアは知らん顔だ。
これ以上、ロザリアから何かを聞き出すのは難しいだろう。
ロザリアには、こうと決めたら梃子でも動かない頑固さがある。
「じゃあ、今日は帰る!
交流会が終わったら、お泊り会しようね!」
「ええ。」
ロザリアにも話したいことがある。
泣いてしまうかもしれないが、アンジェリークなら一緒に泣いてくれるはずだ。
それがとても嬉しいと思った。
アンジェリークが出ていって、ようやくロザリアは仕事に集中しはじめた。
全部活のタイムスケジュールを組んで、頭の中で流れを確認する。
なんといっても他校の生徒がたくさんやってくるから、その手配が一番大変だ。
時間で試合を区切る種目はスケジュールも組みやすいが、ソフトボールやテニスは試合の流れ次第で、予定通りはいかないかもしれない。
幸い、天気予報は晴天だから、その点は恵まれている。
展示だけの文化部はすでに準備を終えているし、あとは講堂の舞台設定。
明日の自分はきっと一日中走り回っているに違いない。
ロザリアは大きく息を吐いた。
ほんの少し疲れた気がする。
ここのところ、あまり眠れないし、時々来る頭痛は薬を飲めば治まるけれど、だんだん間隔が短くなっている。
頑張り続けていた時には、気が付かなかったのに。
一度、『休んでいい』と言われたことで。 休める場所を知ってしまったことで。
前よりも辛い。
ロザリアは休憩しようと、ミニキッチンで紅茶を淹れた。
一人分だから、と、気軽にティーバッグを使い、冷蔵庫のミルクをたっぷりと合わせた。
即席のミルクティは、あのミルクティとはまるで違う。
けれど、
『疲れているときに飲むと美味しく感じるんだよ』
思い出す、オレンジの香りと、彼の顔。
けれど、その香りは、あの失敗の時をも同時に思いだしてしまう。
つい、こぼれたため息が、ミルクティに吸い込まれた。
「まだいたのか。」
物思いに沈んでいたロザリアは突然開いたドアに顔を上げた。
驚いた顔でロザリアを見ているのは、オスカーだ。
「まだ明かりが点いていたから、まさかと思ったが…。
明日の交流会が気になるのはわかるが、そろそろ帰ったほうがいい。
それともなにかトラブルでもあったのか?」
オスカーは机の上に広げられたままの書類に目を止めた。
会場ごとに分かれたタイムスケジュールにびっしり書き込まれたロザリアの文字。
学園をあげての行事に、ロザリアがどれほど奔走してきたか、副顧問のオスカーは良く知っている。
本番を前に緊張するのも無理はないが、さすがに時間が時間だ。
教師として、このままにはしておけない。
言われて初めて、ロザリアは時計を見上げた。
針がさす時刻はすでに22時に近い。
まさかそんな時間だったとは、と、ロザリア自身も驚いた。
「申し訳ありません。 つい、確認ばかり繰り返してしまいましたわ。」
「その気持ちはわかるがな。
結局はなるようにしかならないもんさ。 他のメンバーを信じて、君は君の仕事をすればいい。」
「はい。 わかっております。」
アンジェリークもコレットもレイチェルもエンジュも、みんな、ロザリアを信じてついてきてくれた。
ただ自分が心配性なのと、どうせ帰ってもあまり休む気にならないから、ここで仕事をしていただけだ。
「鍵を閉めるぞ。 帰り支度をしてくれ。」
オスカーに促されて、ロザリアは手にしていたカップを片付け、書類をまとめた。
明日、来てすぐに動けるように、持ち運ぶ物と待機しておく物を選ぶ。
片づけるロザリアをオスカーは無意識に見つめていた。
整った容姿だけではなく、指先まで美しい所作。
背中を流れる青紫の巻き髪も、宝石のような青い瞳も。
国語教師の自分が、『綺麗』だなんて、陳腐な表現しか思いつかない。
たくさんの女性に捧げてきた愛の言葉さえ、彼女を前にすると、空々しく思えてしまうのだ。
とても簡単には、言えない。
「お待たせいたしました。」
支度を整えたロザリアに声をかけられて、オスカーはぱちりとウインクをした。
「俺を待たせる女性は君くらいだな。」
からかうつもりで言ったのに、ロザリアは明らかに眉を顰めている。
いつもの彼女なら、怒り出すセリフ。
けれど、今のロザリアは、青い瞳を翳らせ、少し寂しそうにも見えた。
「教師だから、待ってくださっているのでしょう? 女性、だなんて…。」
教師だから、生徒に優しいのは当たり前。
その優しさを勘違いさせるようなことを言わないでほしい。
あの日から、ロザリアはオリヴィエの姿を一度も見ていない。
もともと理系の教師であるオリヴィエとは、あの日まで話をしたこともなければ、正直に言えば、顔すらもよく知らなかったのだから、当たり前といえば当たり前だ。
彼にとって、ロザリアとの時間はあくまで仕事の一つ。
質問に来た生徒に答えているだけだ。
オリヴィエにはもっと大人の恋人がいて、ロザリアを女性としてなど見てはくれない。
オスカーだって同じ、教師と生徒。
それ以上でもそれ以下でもないはず。
オスカーのからかいなどいつものことなのだから、笑い飛ばしてしまばいいのに。
なぜか今日のロザリアはそうできなかった。
「そうだな。 確かに、俺は教師として、君に声をかけた。
今、学校にいる生徒はおそらく君だけだ。
こんな時間まで残っているのは、さすがに君が生徒会副会長であってもルール違反だからな。」
「でしたら、からかうのはおやめになってください。
教師として、適正な言葉で注意してくださったらよろしいのですわ。」
オスカーはふっとほほ笑んだ。
「だが、ここにいるのが、君でなければ声をかけただけかもしれないぜ。
わざわざ、帰るところを見届けようとは思わないかもしれないな。」
「それはどういう…?」
「わからないのか?
…君は自分のことになると本当に鈍感なんだな。 生徒会の仕事ではあんなにそつがないのに。」
呆れたようなオスカーをじろりと睨み付けると、彼は少し真面目な表情になった。
「君をこんな時間に一人にしておくのは、俺が心配なんだ。
教師だとか生徒だとかは関係なく、な。」
ふと訪れる沈黙。
真摯なアイスブルーの瞳がロザリアを映した。
「君が何を気にしているのか知らんが、俺は俺のしたいようにしかしない。
この広い宇宙で出会える人間は限られている。
教師と生徒なんて出会い方も、その限られた機会の中の一つのパターンでしかないだろう?
しかも5年後、10年後はわからないんだぜ。
君が俺の教師になってる、なんてこともあるかもしれないしな。」
ロザリアは思わず顔を上げ、オスカーを見つめた。
5年後、10年後、なんて考えたことがなかった。
今、目の前のことを頑張るのに夢中で、ロザリアとして恥じないように生きることに精一杯で。
でも、本当にオスカーの言う通りなのかもしれない。
未来のことは誰にも分らないのだから。
顔を上げたロザリアの瞳にいつもの光が宿っている。
憂いを帯びた花は美しいが、やはり彼女にはこうでいてほしい。
「まあ、そうはいっても、君が頑張り過ぎて倒れたら、俺も困るからな。
あの4人とだけで明日の交流会を上手く回せる自信がない。」
「まあ!」
キッと眉を吊り上げたロザリアは、
「倒れるなら、明日が終わってからにしますので、ご安心くださいませ!」
と、鞄を手に、ドアの脇に立つオスカーを押しのけたかと思うと、すたすたと廊下を歩いて行ってしまった。
真っ直ぐに背筋を伸ばして、さっそうと歩くロザリアは、凛と咲く薔薇のようだ。
オスカーは彼女の背中に 「頑張れよ。」 と、声をかけた。
すると、ロザリアがくるりと振り向き、「当然ですわ。」と返してきた。
「完璧な部活交流会を開催してみせます。」
言い切って、完璧な淑女の礼をしたロザリアは、まっすぐに歩いていく。
オスカーは、その後姿がきちんと迎えの車に収まるのを確認して、生徒会室の明かりを落とした。
その明りが消えてもまだ、特別棟の一角が明るいことに、もちろんロザリアは気が付かなかった。