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聖地の日常は、少し退屈なほど平凡だ。
けれど、新女王就任からしばらく経ったせいか、なにやら少し浮き足立っているような雰囲気がある。
そわそわしているというか、皆、執務に身が入っていないようなのだ。
ジュリアスは片づいた書類の束をとんとんと机で揃えると、席を立った。
時計の時刻は16時を少し回ったところ。
今日のうちに陛下に2,3の決定事項を仰がなければならない。
少し書類を整理するのに時間をとられたが、今なら間に合うだろう。
早足で廊下を進むと、廊下の片隅で3,4人の女官達がなにやらひそひそ話している。
ジュリアスの姿を見ると、女官達は慌てたように背中に何かを隠し、壁に整列して頭を下げた。
気まずい空気はあるが、あえて隠した物を問い詰めたり説教をするほどでもない。
ジュリアスは彼女たちをじろりと一瞥すると、女王の間へと急いだ。
女王の間までもうすぐ、という角を曲がったところで、ジュリアスはぴたりと足を止めた。
廊下の反対側から歩いてくるのは、なんとアンジェリークとオスカーだ。
ジュリアスはさっと角の彫刻の影に引っ込むと、遠目から二人の姿を覗き見た。
なぜ隠れてしまったのか。
それは単なる補佐官と守護聖にしては、今にも体が触れそうなくらいの近い距離感だ。
オスカーが彼女の耳元に顔を近づけて何かを囁くと、楽しそうに金の髪が揺れる。
オスカーの唇が頬に触れそうで、ジュリアスの頭にかっと血が上った。
「なにをしている!」
そう怒鳴りそうになる気持ちを引き留めたのは、アンジェリークの様子。
オスカーのからかいに少しうつむき加減に頬を染め、恥じらいながらも彼の袖をきゅっと掴んでいる。
幸せな恋人同士。
そうとしか見えなくて。
二人はそのまま女王の間に入っていき、ジュリアスは角の影に隠れたまま、壁にもたれて大きく息を吐いた。
自分の中の認めたくはなかった黒い感情。
またぽとりと落ちる闇の一滴に、水が濁る気がした。
しばらくして、女王の間から人が出て行く気配がする。
ジュリアスはぐっと拳をにぎり、息を整えた後、女王の間をノックした。
「どうぞ」
涼やかで凜とした女王の声に促され、ジュリアスは部屋へ足を踏み入れた。
オスカーとアンジェリークの気配はなく、女王は一人で執務をこなしている。
ジュリアスはなぜかほっとした心地で、手にしていた書類を女王に差し出した。
「できれば、今、決済をお願いいたします」
「わかりましたわ」
女王の細く白い指が書類を手にすると、青い瞳が文字を追っていく。
短い間にすっかり女王は執務をマスターしたようで、その所作には自信が満ちている。
ジュリアスに質問を繰り返していた頃とは違い、次々と書類をめくってはサインを書き加えていった。
ふと、ジュリアスは女王の姿に違和感を覚えた。
いつもの凜とした美貌がほんの少し和らいでいるというか、印象が微妙に違うのだ。
不思議に思い、ひそかに観察すると、口紅の色の違いに気がついた。
いつもの赤みの強いローズではなく、淡いピンクが塗られている。
なるほど化粧一つでずいぶん印象が変わるものなのだな、とジュリアスが納得していると、女王は書類の末尾に最後のサインをした。
「これでよろしくて?」
優雅な笑みに、ジュリアスは書類を受け取り礼を返した。
女王候補の頃から美しい少女だったが、女王となり自分に自信がついたのか、その美しさにはますます磨きがかかっているようだ。
オスカーに愛されていることも理由の一つかもしれない。
けれど、もしも女王がさっきのシーンを見たら、どう思うだろう。
ジュリアスと同じような想いに捕らわれるだろうか。
暗い気持ちに蓋をして、ジュリアスは女王の間を後にした。
光の執務室に戻ると、アンジェリークが待っていた。
「ジュリアス、明日は土の曜日でお休みだし、今日の夕ご飯を一緒にどうかな?」
ニコニコと屈託のない笑みを浮かべて、ジュリアスを見上げる緑の瞳は無垢だ。
けれど、ジュリアスの脳裏には、さっき見かけたオスカーとの様子が焼き付いていて、アンジェリークから目をそらしてしまった。
「いや、明日までにやっておきたいことがあるのだ。夕食はかなり遅くなるだろう」
「えー、残業なの?」
「そのつもりだ」
「どうしてもだめ?」
「ムリだな」
ジュリアスの意思が硬いとわかったのか、アンジェリークは少し頬を膨らませて上目遣いで見つめてくる。
思わず心が揺らいだが、ふと目に入った物にどきりとした。
アンジェリークが手にしているクリアファイルの中。
紙が一枚挟まれてはいるが、うっすらと透けて見えるのは、間違いない。
あのVTRのワンシーンだ。
下界で人気がある、というのは先日アンジェリークから聞いていたが、なぜ、彼女まで持ち歩いているのだろうか。
そんなことをしなくても、女王もオスカーもすぐそばでいつでも見られるのに。
もっともただ流行にのっただけ、というのもアンジェリークらしいと言えばアンジェリークらしい。
それでもやはり、アンジェリークがオスカーの写真を持ち歩くのは軽い抵抗を感じてしまう。
無意識に眉間のしわが深くなったジュリアスに、アンジェリークが目を丸くした。
女王候補の頃にはよくあった、怒られそうな予感。
アンジェリークにとっても、思い当たることが多すぎて、とりあえず逃げだそうと決める。
「ごめんなさい。また、日の曜日にジュリアスのお家に行くわね」
小首をかしげながらそそくさと去ろうとしたアンジェリークをジュリアスが呼び止めた。
「そなた、今日はオスカーと会ったか?」
「え?オスカー・・・」
なにげない質問にアンジェリークは少し動揺している。
一瞬の瞳の動きをジュリアスは見逃さなかった。
「そうね、今日は特に話していないわ。さっき、女王の間で会ったくらいかしら」
ジュリアスの中に闇が一滴こぼれ落ちる。
仲良く話ながら歩いていたことをジュリアスはよく知っている。
肩が触れ合うほどの距離で、あのオスカーが信じられないほど優しい瞳でアンジェリークを見ていたことを。
「・・・そうか」
「オスカーがどうかしたの?なにか急ぎの執務ができたとか?」
そのせいでジュリアスの機嫌が良くないのだろうか、とアンジェリークは思った。
まだまだ見習い補佐官の身で、全ての執務を把握し切れていない。
緊急の用件ならジュリアスに第一報が入ることもおかしくないからだ。
「いや、なんでもない」
ジュリアスはトーガの裾を翻すと、執務机に向かった。
こうなると、ジュリアスの仕事モードを崩すのは難しい。
アンジェリークは少し残念そうに唇をとがらせたものの、ぴょこんと頭を下げて、部屋を出て行った。
なぜ、アンジェリークは嘘をついたのだろう。
水の濁りが強くなり、さざ波が立ってくる。
信じたい気持ちと信じられない気持ち。
宇宙の平和だけを考えていれば良かった頃はなんと楽だったか。
ジュリアスはペンを持ち直すと、目の前の書類に無理やり没頭していったのだった。